紅蓮の剣

 ──思い出すのは、いつも戦場。
 雨の降る草原。足は、濡れた草を踏んでいる。
 頭を垂れるように、名も知らない花が足元に咲いていた。
 周りには、黄金の霧に帰っていく無数の屍。
 それを見送ることもなく、彼女はくず折れそうな身体を、己の剣で支えていた。
 荒い息は、雨音に消されて聞こえない。
 やがて霧は全て雨に溶け、後には一人、彼女だけが残された。
 よろよろと、剣で身体を支えながら立ち上がる。
 生まれたての仔牛が、自らの力で立ち上がるように頼りなく。
 それでも、しっかりと地面を踏み締めて。
 支えにしていた剣を放し、彼女は顔を上に向けた。
 曇天。何も見通せない空。
 それを見上げながら、彼女は知らず、吼えていた──

 ヒミカは、正直彼のことを頼りなく思っていた。
 エトランジェの実力は幾度も目の当たりにしてきた。
 次々と敵を薙ぎ払うその姿は、背負う永遠神剣の位に恥じないものではあった。
 だが、弱い。太刀筋には迷いが見て取れる。
 彼も自分も仲間達も、立つ場所は戦場なのだ。
 んな迷いを抱いていては、やがて足元を掬われてしまうだろうに。
 進んで前線に立っていたヒミカは強くそう思う。
 迷いは己を殺す。
 それに、戦場で何を迷う理由があるのか。
 戦う理由はないかもしれない。自分達は結局人間の代わりに戦わされているのだし、それは敵も同じはずだ。
 国家間の諍いために使役されているだけである。例えば盤上遊戯の駒のように。
 それに悠人は、国王に妹を人質に取られていると聞いた。
 それなら彼には、戦わなくてはならない強い理由がある。ならば尚更、迷っていてはいけないはずなのに。
 戦場では誰もが生き残るために戦っている。誰も彼も精一杯で、敵にまで構っている余裕などない。
 常に首筋に刃を当てたような場所でふらふらとしていては、あっさり首が落ちてしまう。
 そんな場所において、悠人はひどく頼りなく見える。
 そして同時に、そこが殺し殺される場所である以上──いつかは自分も死んでしまうかもしれない。
 漠然と、ヒミカはそう思う。──それが、戦場というモノだ。

 ──だというのに。
 あのエトランジェは、こともあろうに自分達に対して「死んで欲しくない」などと言ってきた。
 人もスピリットも変わらない。命を捨てるような戦い方はするな、と。
 彼が来て最初の、第一、第二詰め所合同での作戦会議の際である。
 こういう時一番に反発しそうなエスペリアが何も言わなかったのは覚えている。
 皆は呆れたり、戸惑ったりしていた。何しろそういう風に言われたこと、一度もなかったのだ。
 ヒミカもその一人である。だが──その感情を理解できないわけでは、ない。
 ヒミカにも、死んで欲しくない誰かはいる。
 それはスピリット隊の仲間達全員に対してそう思うが、強くそう思うのは、ナナルゥに対してだった。
 同じレッドスピリットで、神剣魔法を得意とし──そのために、意識を神剣に飲まれかけている。
 同じレッドスピリットだから、という理由からか、ヒミカはよく彼女の面倒を見てきた。
 今ではすっかり妹分だ。彼女自身が、どう思ってくれているかは分からないが。
 そして──ハリオン。いまいち調子が掴めず、天然ボケ的なところもある。
 だがヒミカにとってはこれ以上なく頼れる相棒で、何物にも代え難い友だった。
 恐らくは、ファーレーンとニムントールも互いに同じような感情を抱いているだろう。
 あの二人は傍目に見ても仲が良い。本当の姉妹のようだ。

 そして悠人は、それを口先だけでなく実践してきた。
 自ら率先して切り込んで行き、他の誰かを護って、その身に傷を刻んできた。
 その在り方と強さには、ヒミカは心から敬服していた。
 皆を護ろうと必死になっていること、それを為すだけの力があること。
 けどだからこそ──そんな在り方を不安に思う。
 斬る度に迷い、護る度に傷つく。そんな戦い方ではいつか斃れてしまう。
 苛立ちさえする。彼は、自分がどんなに危ない在り方で戦場に立っているのか、きっと分かっていない。
 自分がどれほど皆に慕われ、皆の中で大切な存在になっているか、分かっていない。
 オルファリルや、ネリーやシアー、ヘリオンは眼に見えて彼を慕っている。
 セリアやニムントールは表にこそ出さないが、態度も最初の頃に比べたら軟化していた。
 エスペリアやファーレーンも、さりげなく彼を支えるように立ち回っている。
 アセリアとナナルゥとハリオンは……良く分からないが、悪いということはないだろう。

 そしてヒミカも、彼には好意を抱いている。
 但し恋愛感情のそれではなく、仲間として、戦士としてだ。……多分。
 第一今まで戦うばかりで、恋などしたこともする相手もいなかったのだ。そういう感情は良く分からない。
 ……まぁ、それは兎も角。
 彼は戦う度に迷っている。
 だが、仮にも彼は隊長なのだ。皆を率いるべき者が、誰よりも迷っているなど──
 補佐に回るエスペリアや、彼と一緒に率先して前に立つアセリアは、その迷いを見ているだろう。
 だが前者は士気を考慮して悟らせないようにするだろうし、後者に至っては興味がないかもしれない。
 だから彼の迷いを知っている者は、第二詰所の中には少ないだろう。或いは自分一人かもしれない。
 彼はいつも前に立ち、戦う背中を見せるばかりで、決して顔を振り向かせようとはしないから。
 ヒミカがその顔を知っているのは、彼女もまた最前線に立つ身だからだ。
 レッドスピリットでありながら神剣魔法があまり得意でない彼女は、代わりに直接攻撃に特化していた。

 だから今日もヒミカは、一人で詰所裏の森までやってきている。
 昼間の訓練士による訓練に加え、彼女は毎夜、一人で鍛錬に励んでいた。
 アキラィスを制圧し、サルドバルト開戦を間近に控え、気が抜けない状況が続いている。
 今夜の鍛錬は鍛えるためと言うよりも、気を引き締める意味合いのほうが強かった。
 手に提げた神剣の重みを感じながら、森の奥へと足を踏み入れ──
 そこで、剣を振るう悠人の姿を見つけた。
「……ッ」
 思わず足を止め、木の陰に隠れてしまった。
 そっと木の幹から顔を出し、悠人のいる方向を確かめる。
 彼はこちらに背を向け、一心に神剣を振るっていた。気づいている様子はない。
 その様子を、ヒミカはつぶさに観察する。
 荒削りだが力強い動き。それは訓練の時にも見る、いつもの彼の動きと同じだった。
 一定の型を守るということに関してはいまいち冴えない。
 しかし剣の重量にエトランジェの力を上乗せした一撃は、重い。
 例えば今ヒミカが隠れている木の幹程度なら簡単にへし折ることのできる威力を持っていた。

 だが──遠目に見ても、今夜はそれにキレがない。
 ただでさえ型などない動きなのだが、今は更にそれが無秩序だ。
 それは仮想の敵を打ち払う動きと言うよりも、別の何かを振り払う動きに見える。
 ──例えば、自身の心を。
「…………」
 ヒミカは木陰から出て、悠人のいる方向へと歩いていった。
 
 轟、と風が唸る。
 真横に振り切られた〈求め〉の巻き起こす風が、悠人の頬を撫で、通り過ぎていく。
 背中に流れていった風をもう一度引き寄せるように、剣を落とし、続けて振り上げた。
 引きずられた大気が悲鳴を上げ、今度は上に放り出された。
「ふぅ……」
 息を吐く。後には、心地良い風だけが残った。
 だが、心の奥に残るしこりはまだ取れない。
 イースペリアで起きたマナ消失──それが、長く悠人の中で後を引いていた。
 その精神的な疲労が、これまでスピリットを殺してきた罪悪感を更に煽る。
〈求め〉の干渉も毎日のように起こるし、気の抜ける時がなかった。

 今は休んでおく時だと分かってはいるのだが、悠人はどうにも眠ることができなかった。
 少しは気も紛れるかと思って、森に出て剣を振ってみたが、変わらない。
 舌打ちをする代わりに、悠人は苛立たしげに〈求め〉を一度振り下ろした。
 とその時、背後でガサリと草を踏む音がした。
「誰だ!」
 声を荒げて振り返ると、そこに立っていたのは、髪の短いレッドスピリットだった。
 突然怒鳴られて、驚いた表情でこちらを見ている。
「あ……ヒミカか。すまん」
 ほう、と息をつく。
 思わず怒鳴ってしまった。どうやら、思っている以上に気が立ってしまっているようだ。
「訓練ですか?」
 怒鳴られたヒミカのほうは怒った様子もなく、そう訊いてきた。
「あー、まぁ、そんなところだ」
 曖昧に苦笑して茶を濁す。実際にはそんな気などなかったのだが。

「どうも寝付けなくてな。ちょっと身体動かしてたんだ」
〈求め〉を肩に担ぎ、今度は悠人が問うた。
「そういうヒミカは何でここに?」
「ユート様と同じ理由です。但し、寝付けないわけではありませんが」
 日課として行っていることだと、彼女は言う。
「そうなんだ。……あ、じゃあさ、ちょっと付き合ってくれないか? 手合わせしたい」
「私とですか?」
 悠人は頷く。
「一人でやってると、剣振り回すだけだからどうにも物足りなくてな。
 ヒミカなら相手として不足はない。寧ろ、俺が教えられることのほうが多いだろうな」
 普段の彼女の戦いぶりを見ていると、本当にそう思う。
「……分かりました。お相手致しましょう」
 少し挑戦的な笑顔で、ヒミカは承諾した。

「戦うのはいいのですが」
 それなりに距離を取って向かい合い、ヒミカは言う。
「私もそれなりに本気でいきますので、そのつもりで。
 ユート様、くれぐれも気を抜かないでください」
 悠人は、はは、と頼りなく苦笑する。
「ヒミカの本気はちょっと怖いな。できれば手加減して欲しいけど……」
 冗談じみた口調でいいながらも、悠人も〈求め〉を構えた。
 ヒミカも茂る草を払うように〈赤光〉を一振りし、悠人に向き直る。
 お互い、小さくマナを展開する。
「では、」
 すぅ、とヒミカが腰を落とす。
「──行きます」

 ザァッ、と木の枝葉が揺れたのは風が吹いたからではない。
 低く飛ぶように疾駆するヒミカの身体が、大気のうねりとなって草木を揺らす。
 突撃する動きに合わせて悠人もオーラフォトンを前方に展開し、攻撃に備えた。
 一秒足らずでヒミカが肉薄し、殴りつけるように神剣を振り下ろす。
 立てた〈求め〉の腹を甲高い音を奏で切っ先が滑落し──次の瞬間には捻り上げる動きで上昇する。
 旋風の如く迫る刃を、悠人は一歩後ろに後退し回避しながら横薙ぎの一撃を加えた。
 ヒミカはしかし、軽い跳躍でそれを飛び越え、それが足下を通り過ぎる瞬間踏みつける。
 思わぬ重みに悠人がバランスを崩す。──その隙を逃さない。
〈求め〉を足場に更に滞空したヒミカが、剣ではなく鋭い蹴りを浴びせてきた。
「…………ッ!」
 首を曲げる。耳元を貫く足が起こした風が、耳朶を叩いた。
 闇雲に振り上げた〈求め〉に、ヒミカは不自然な体勢のまま〈赤光〉を打ち下ろす。
 ガッ、と刃同士がぶつかり合う鈍い音。受けた衝撃に逆らわず、ヒミカはより高く跳んだ。

 遠ざかるヒミカに追い縋る形で、悠人は駆ける。
 着地し膝を曲げたヒミカの上には、振り下ろされる肉厚の刃。足に全体重がかかる直前に真横に跳ぶ。
 ずん、と大地に刃がめり込む。が、その速度を緩めないまま、悠人は力任せに刃の向きを曲げた。
 湿った土を撒き散らして、〈求め〉の刀身が姿を現した。
 ヒミカは低い姿勢のまま後ろに強く跳躍した。真後ろには丁度、良く育った太い木がある。
 尚も迫る青い刀身。それがヒミカに届く寸前、足の裏が木の幹に吸い付き、それを蹴った。
 ゴッ、と斬撃というよりは殴打の音として〈求め〉が木の幹にめり込み、
 高く、悠人の真上をヒミカが飛び越え──その真後ろに着地する。
〈赤光〉を逆手に握り直し、ひゅっ、と短く息を吸って、無防備な背中に向けて刺し穿つ。
 だが悠人もまた幹から剣を引き抜き、勢いに任せてヒミカへと振り下ろし──

 お互いの神剣は、それぞれの首筋の寸前で静止していた。
 その状態のまま、しばらくお互い見つめ合っていた。
 剣風に揺らされ続けた葉が、ひらひらと、二人の間を通り過ぎていく。
「……これくらいにしておきましょう」
 す、とまずヒミカのほうが剣を引いた。悠人も〈求め〉を下げ、息を吐いた。
「はぁ……強いな、ヒミカは」
 感心した面持ちで悠人は呟き、その場に腰を下ろした。
「勿体無いお言葉ですが、そんなことはありません。……隣、よろしいですか?」
 ああ、と何気なく答えると、では失礼します、と一礼して隣に座る。相変わらず礼儀正しい。
 ふと悠人がその様子を見ると、意外なことにヒミカは正座を崩した、所謂女の子座りをしていた。

「? どうかしましたか?」
 悠人の視線に気づいて、ヒミカが首を傾げる。
「ああいや……ヒミカがそんな座り方してるの、ちょっと意外だと思った」
 勝手な思い込みだったが、普段礼儀正しく勝気な彼女は、正座するものだと思っていたりもした。
「っ! し、失礼しましたっ!」
 瞬間的に顔を赤くして、ヒミカは居住まいを正して正座した。
 膝の上に手を置き、背筋を伸ばした、そのままお手本になりそうな見事な正座である。
「いや、別に座り方を咎めたつもりはないんだけど……」
 訳が分からなくて悠人は困惑する。自分は何かマズいことでも言っただろうか。
「えーと……良く分からんけどすまん。普段通り、楽にしてくれていい」
 とりあえず謝ってみた。
「あ……ユート様が、そう仰るなら……で、では改めて失礼します」
 妙に歯切れ悪く言いながら、ヒミカは元の通り脚を崩した。

「…………」
 そんなヒミカの挙動を、悠人は何気なく見つめていた。
 脚を崩して、普通に女の子らしく座るヒミカには……何故か妙な色気がある。
 短く刈り込んだ髪と常に凛然とした表情は、少女と言うより少年のそれである。
 戦場でも、常に皆の先陣を切って戦う戦士としての姿しか見たことがない。
 だからこそなのか、こうやって女性らしい一面を見ると、ギャップのせいかやけに可愛く見えてしまった。
 まだ赤い顔とか、鍛えられ引き締まった手足とか、先程の攻防のせいで汗ばんだ額とか。
(って何考えてるんだ俺はっ)
 この馬鹿、と心の中で自分の頭を殴っておいた。
「…………」
「…………」
 ヒミカは喋ろうとしない。何故かこちらと視線を合わせず、妙にもじもじしている。
 ヒミカがそんななので、悠人もまた話しかけることが出来ないでいた。

「……えーと、」
 とはいえいい加減間が持たない。悠人は、何とか自分から切り出してみた。
「それにしても、ヒミカは本当に強いよな。さっきも負けたし」
 素直に思うことを口にする。
「そっ、そんなことはありません! 私はまだまだです。アセリアや、ユート様には及びませんし……。
 それにさっきのだって、あれが実戦なら相討ちでした。ユート様が負けたわけではありません」
「そうでもないさ」
 先程の自分の立ち振る舞いを振り返りつつ、悠人は言う。
〈求め〉は重心が前にあるので、一撃の重みはある。だが、その分扱いづらいとも言えた。
 最近ようやくそれにも慣れてきたところだが──最後、〈求め〉は木の幹にめり込んでしまった。
 勢いをつけすぎると、それを瞬間的に殺すことができないのだ。
 実戦だったらもっと強く振るっていただろう。そうなれば、簡単に剣を引き抜くことはできない。
 さっきの戦いから自分が感じたことを、そのまま悠人はヒミカに話した。

 それを聞いて、ヒミカは、ふむ、と考え込むように顎に手を当てた。
「確かに、ユート様の剣だとそうなってしまうでしょう。昼間も訓練士から型がなってないと……」
「あー、うん」
 何度も言われていることである。
 そもそも、元の世界にいた頃は剣道やその類をやったことはない。
 型を取ろうにも、一朝一夕には行かないのである。
「その点ヒミカは凄いよな。何ていうか、動きが綺麗だった」
「そんなことは、ありません」
 と言いつつも褒められて照れているのか、ヒミカは頬を薄く染めて視線を泳がせる。
「言っとくけどお世辞なんかじゃないぞ。いつも一緒に戦ってるから、ヒミカが強いのは良く分かってる」
「私は……神剣魔法があまり得意じゃないですから」
 緩みそうな頬を押し隠すように、ヒミカは苦笑の表情を作ってみせる。
「その分、剣の腕を磨いただけのことです。こうでもしないと、皆を護ることはできなかったから」
〈赤光〉を引き寄せ、腕の中に抱き締める。

「護る、か……」
 その言葉は、悠人の中ではひどく重いものだ。
 最初は佳織だけを護ろうとして戦ってきた。
 今は、佳織だけでなく仲間を護るために戦っている。
 ──でもそれは戦うということだ。敵のスピリットを殺すということだ。
 もう結構長い間剣を振るってきた気がする。
 実際にはこの世界に来てそんなに長いわけではないが、戦争と言う密度の高い時間を過ごしているせいか、そう思う。
 だが幾ら時間を積み重ねてもそれは消えないし──消しちゃいけないものだと思う。
 誰かを殺す罪悪感が消えることは、自分が自分でなくなってしまいそうで嫌だった。
 手は、肉を切り骨を断つ感触を覚えている。
 耳は、傷つき死に逝く者の声がこびりついて離れない。
 目は、黄金のマナに還っていくスピリットの姿が焼きついている。

「……迷っているのですか、戦うことを」
 ふと、ヒミカがそう声をかけてきた。
 顔を上げて見た彼女の表情は、真剣そのものだった。
「そんなことないさ。戦わなきゃ、もっと大切なものがなくなるんだ。迷ってなんか、いられない」
「嘘をつかないでください」
 見破られた。
 ヒミカは眉尻を下げ、少し哀しそうな表情をした。
「ユート様は、お優しい方です。いきなりこの世界に呼び出された戸惑いもあると思います。
 でも、私達は戦争をしているんです。それが望んだものでないとしても……戦わないと、生き残れない。
 せめて戦場で迷うことはしないでください。あなたが死ぬと、皆が哀しみます」
「俺は……そんな大層な人間じゃないよ」
 ヒミカは小さく、首を横に振った。
「私達は、戦って死ぬ、それだけの存在です。なのにユート様は『死ぬな』と言って下さいました。
 ユート様は、皆を変えつつあるんです」

 そう……なのだろうか。悠人にはあまり実感がない。
 ただ、自分のせいで誰かが死んでいくのが耐えられないだけだ。
 ──それが、例え敵であったとしても。
 だがここはファンタズマゴリア。代償無しには何も得られない世界。
 護ろうとするものの数だけ、他の命を奪わねばならない。
(それでも、俺は──)
 割り切ることなど、できない。
 悠人が何も言えないでいると、ヒミカは尚も続ける。
「ユート様には、護るべきものがあるのでしょう?
 なら、迷わないでください。でないと、いつかは取り返しのつかないことになります」
 そう言って、ヒミカは立ち上がる。
「今夜はこれで失礼します。……どうか、私の言葉を忘れないでください」
 踵を返し、ヒミカが遠ざかっていく中で、
「誰だって……誰かを殺したくてここにいるわけじゃないんだから──」
 風に乗って、そんな呟きが聞こえた気がした。

 遠ざかる気配を、悠人は背中で見送る。
(迷うな、か)
 難しい話だ、と自嘲する。
 戦う覚悟はいつもできている。しかし敵を殺した瞬間の、あの肉を断つ感触だけは……消えない。
 多分、自分はこれからも、敵を殺しながら迷い続けることだろう。
 だがいつまでもそうしているわけにもいかない。戦いは、そんなに甘くないから。
 悠人は深く、ヒミカの言葉を胸に刻んだ。
 と、
 
 キィィィイイィィイィィイィィイィィィ……!!
 
「────、ッ……!」
 頭の中で金属の擦れ合う音がした。
『契約者よ……マナを、マナを寄越せ……!』
 精神に強制するような低い声が頭蓋骨に激しく響いた。

(この野郎、珍しく静かだと思ったら……!)
 こちらの気が緩んだ瞬間に、強い干渉をかけてきた。
『奪え……先の赤き妖精の、甘美なるマナを……!』
(ヒミカのこと、か……!?)
 ぎしぎしと軋む全身を押さえる。脳裏に、自分のものではない、ヒミカの裸身が投影されていく。
 細く引き締まった身体を押さえつけ、泣き叫ぶ声も無視して、犯し続ける自分。
『抱いただろう、卑しい劣情を。あの妖精の身体を見ながら……!』
 語りかけてくる声に、そりゃ健全な青少年だからな、とどこか冷静に考えていた。
『ならば、犯せばいい。自分のものにしてしまえばいい。そうして、我にマナを……』
「それと、これとは……」
 頭の割れそうな痛みに耐えながら、悠人は〈求め〉の柄を握り、立ち上がる。
「話が別だろうがっ!」

 ──ごすっ。
 少し離れた闇の中で、何かが突き刺さる音がした。
 手の中に〈求め〉はない。つい今、思いっきり投げてやったからだ。
「っはぁ、はぁ……」
 肩で息をしながら、先の音がした方向へふらふらと歩いていく。
 途中から切り落とされた枝をくぐると、見事に木の幹に突き立った〈求め〉を見つけた。
「ふん……少しは反省したか、バカ剣」
『────』
 返事はない。間違いなく反省していないが、今夜はもう干渉するつもりはないようだ。
 やれやれ、と肩を竦めつつ、悠人は〈求め〉を引き抜きにかかる。
 連日連夜干渉を繰り返されて、どこか慣れてしまった感もある。
 もう今夜は干渉がない、と思えるのもそのせいだ。何となく分かる。
 認めたくはないが……ある意味これも一種の信頼関係なのだろうか。

「いい加減にしろっつーのに、まったく……っと、抜けた」
 薪に刺さった斧を引き抜く要領で、〈求め〉を上下に動かして木の幹から引き抜いた。
 とそこで、干渉ではない声が頭の中に響いた。
『……マナがないと、我は充分に力を振るえぬぞ』
 それは脅しなのかどうか良く分からなかったが、悠人は答えた。
「なら何とかやりくりしやがれ。今までだって、敵を倒した時のマナだけでもってきたんだ。なら、これからもそうしろ」
『ほう、敵を殺すことさえ迷う汝が、これからはより敵を殺すと?』
 嗤うような気配。ぐっ、と悠人は詰まるが、言葉を選んで続けた。
「……ああ、そうなるかもな。でも仲間を犠牲にするよりはよっぽどいい」
『……ふん……』
 と鼻を鳴らすような声を残して、〈求め〉は沈黙した。悠人はそれを担ぎなおし、息を吐く。
「まったく……お前のお陰で疲れちまった。こりゃ、よく眠れそうだ」
 勿論返事はなかった。

 ベッドに入ったヒミカは、さっきの悠人との会話を思い出していた。
 ──迷わないでください。
(残酷な言葉だ、な)
 彼にとって、その言葉はどれほどの重みとなるだろう。
 彼は優しい人間だった。
 肉親のことになると目が見えなくなるようだが、それはそれだけ大切に思っているということだ。
 そして今は、その思いを自分達にも向けてくれている。
 ならば。護るならば、迷うべきではないのに。
 そんなことぐらい、きっと彼だって分かっているだろう。
 それでも彼は迷うのだ。誰かを護る為に傷を負うくらい、優しいから。
 だが、戦場で優しさは意味を成さない。
 ただ生きようとする意志がぶつかり合い、横たわるのは厳然たる死しかない。

 なればこそヒミカは、彼にとって残酷な言葉を投げかけた。
 ユート様には強くなってもらわなくてはならない。
 そして彼自身と、皆を護れるようになって欲しい。
 ヒミカは、いつか自分がマナに還った時のことを考えている。
 いつも率先して敵陣に切り込んでいくという役目は、後続の有利と己の死を同時に背負っている。
 ヒミカが先頭に立つのは、皆を護りたいからだ。例えその果てに死が待っていても。
 死ぬのは怖い。けど、それは誰だって同じはずだ。
 ならばヒミカは、まだ若く無垢なスピリット達にそれを味あわせたくない。
 誰かを殺す罪を、背負わせたいとも思わない。
 この戦争が終われば少しは平和になるだろう。
 そうなった時、彼女達には戦うこと以外の何かを知って欲しかった。
 戦いしか知らない自分と違って。

 戦いが終わった時、もし自分がそこにいなかったら。
 その時は悠人に彼女達を導いて欲しいと思う。
(今は、少々頼りないけれど──)
 彼は強くなるだろう。
 身勝手な願いだとは分かっている。
 でもこれは、彼にしか任せられないことだ。
 バーンライトで、彼がアセリアに言った言葉を、ヒミカは知っている。
 ──アセリアの手だって、剣を握るためだけにあるんじゃないと俺は思う──
 その言葉を、ヒミカもまた聞いていた。
 誰にも死んで欲しくない、という言葉も。
 彼は、自分と同じことを思ってくれている。
 しかし、そう遠くない未来、自分は死ぬかもしれない。
 スピリットに若い者しかいないのは、過去に起きたとある事件によってラキオススピリット隊が
 壊滅的な打撃を受けたこともあるが、そうでなくとも皆、多く歳を重ねる前に戦場で散っていくからだ。
 自分もいつかはそうなるだろう。
 無論進んで死んでやる気はないが、もしそうなった時──彼が、皆を引っ張っていってくれると思う。
 だからこそ、彼に死なれては困る。それが、彼にとって苦痛を伴う生き方であっても。

 そしてヒミカ個人の感情としても──彼には死んで欲しくない。
 理由は良く分からないけれど、それはとても嫌だった。
 ……胸が苦しくなる。
 自分が死ぬ未来より、彼が死ぬ未来を想像すると、呼吸ができない。
 ベッドの上で身体を丸め、毛布を握り締めた。
 そういうことを考えるのは、やめよう。精神衛生上良くない。
 それにそんな未来は在り得ない。彼は強いから。
 もしそうなりそうだったら、その時は。
 ──その時は、私が彼を護ろう。
 密かに、しかし強くヒミカは誓う。
 
 サルドバルトとの開戦は、近い。