──斬られた傷が、熱い。
腕から流れる血は、霧になるのが追いつかない量が流れ、地面に染みを作っていく。
傷は深く、既に多くの血が零れて落ちた。
痛い。
熱い。
苦しい。
哀しい──
どうしてか、ひどく、泣きたくなった。
間違えようのない死の予感が、身体を蝕んでいる。
バルガ・ロアーの死神が背中に張り付いているようだ。
死ぬのは、怖い。死にたくない。
だから、生きたいから彼女は歩いていた。自由の利かない脚を引きずって、前へ。
生きたい。ただ、生きたい。それだけを望んでいる。他には何も要らない。何一つとして要らない。
生きたい、と願いながら。
彼女は、その場に倒れた。
ヒミカは城内を一人で歩いていた。ある人物を迎えに行くためだ。
負傷しながらも一人も欠けることなく、ラキオススピリット隊はサルドバルトを制圧した。
そこにエトランジェ・悠人の功績が認められ、彼に褒賞が与えられたのだ。
人質に取られていた肉親、佳織の解放。
ヒミカはその場にはいなかったが、口添えしたのはレスティーナ王女だという。
殿下らしい、とヒミカは思う。
彼女はスピリットに対して理解を示してくれている。立場上、それを表に出すことは決してないが……
佳織の解放ということを、悠人はとても喜んでいた。彼の喜ぶ姿を見るのは、ヒミカも嬉しい。
心の中で、ヒミカはレスティーナに感謝した。
そして今ヒミカが迎えに行っている人物こそ、佳織本人である。
当初オルファが行くと言って聞かなかったのだが、ここはきちんと礼儀を弁えた者としてヒミカが選ばれた。
第一詰所の近くまで来たら、人間の兵士に引き渡すことになっている。
本来、迎えも送り届けるのも兵士の役目だったが、カオリとてエトランジェ。
何か力を持っているのではないか、と兵士達は不安に思っている。
城から出たところで脱走した場合に備え、直前まではスピリットたる自分が見張ることになっているのだ。
けどそれは杞憂だ。
もし本当に逃げるだけの力があるのなら、とっくに逃げ出しているだろうに。
直前で送り届ける役が人間に代わるのも、あちら側の体面を保つためなのだろう。
佳織の部屋はレスティーナ王女の部屋に近い。
オルファから聞いたことだが、これも王女自身が望んだことだそうだ。
いるはずの警護の兵士は、もう見張る必要がなくなったからか、いなくなっていた。
喉の調子を確かめてから、コンコン、とドアをノックした。
「失礼します。カオリ様はご在室でしょうか」
『あ、はい、今開けます』
中から少女の声が聞こえた。本人だろう。
カチャリと音を立てて、分厚い木の扉が開いた。
頭一つ下に、奇ッ怪な生物(?)の被り物が見えた。それが上に反り、下から少女の顔が姿を現す。
「どなた、ですか?」
大きな眼鏡をかけた幼い顔が首を傾げた。ヒミカは微笑を浮かべて答える。
「初めまして。ラキオススピリット隊、〈赤光〉のヒミカです。カオリ様をお迎えに上がりました」
言って一礼。佳織も、はいこちらこそ、と頭を下げた。
「何か持って行くものはありますか? お持ちします」
部屋に足を踏み入れながら、ヒミカは問う。
部屋は、思ったより小奇麗だった。それほど酷い生活というわけでもないらしい。
「いえ、そんな迷惑をかけるわけにはいかないですから……」
「とんでもない。多少の荷物なら軽いものですよ」
「そうですか? ……でも、持って行くような荷物もあまりないし……」
少し寂しげな苦笑を、佳織は浮かべた。
「ああ──」
それは、そうだろう。佳織は期せずしてこの世界に呼び込まれたのだ。私物などないに等しい。
「考えが至らず、申し訳ありませんでした。カオリ様」
己を恥じ、ヒミカは頭を下げた。今度は慌てたような声が聞こえた。
「そっ、そんなことないです。こっちこそ、なんか気遣わせちゃって……」
「カオリ、まだいますか?」
とそこに第三者の声が割り込んできた。
ヒミカが振り向くと、丁度部屋に入ろうとしてきたレスティーナ王女と目が合った。
「こっ、これはレスティーナ殿下。カオリ様に御用事がありましたか。お邪魔なようなら、私は──」
反射的にヒミカは膝を付き、頭を垂れた。
頭上から降ってきたのは、思いの他穏やかな声だった。
「そう気を遣うことはありません、ヒミカ。私はカオリを見送りに来ただけです。
顔を上げなさい。ここは玉座ではないのだから」
「はっ──」
ヒミカは立ち上がり、直立不動の姿勢でレスティーナのほうを向いた。
レスティーナが浮かべる表情は、玉座で見せる冷たい無表情とは違う、温かみに満ち溢れた微笑だった。
「それで、カオリはもう発つのですか?」
「はい。早くお兄ちゃんに会いたいですし……多分、待ちきれなくてそわそわしてると思います」
「そうですか。──では、できればその前にお茶でも一杯飲んでいきませんか?
次は、いつになるか分からないので……」
「はい、喜んで」
お互いにこやかな表情で、二人は言葉を交し合う。
それは間違っても一国の王女と人質のする顔ではない。親しい友人のようだとヒミカは感じた。
レスティーナは侍女を呼び、言付ける。すぐに温かいお茶が運ばれてきた。──三人分。
「あなたも座りなさい」
ティーカップを差し出しながら、レスティーナはヒミカに向かって言った。
「は? しかし──」
「こうして顔を合わせたのも何かの縁です。お茶を冷ましてしまうのも忍びないでしょう?」
「はぁ、では──」
おずおずと、ヒミカも二人が囲むテーブルの椅子に腰を下ろした。
「カオリ、何か入り用のものはありますか? 出来る限り用意させますが」
「いえ、特にないです。……あ、良かったら、この部屋の本を幾つか持っていってもいいですか?
まだ読み切れてないのもありますから」
「好きなだけ持って行くと良いでしょう。足りないようだったら、今後も届けさせます」
「はい、ありがとうございます」
和やかな雰囲気だった。
近くで見るレスティーナの表情は豊かで、王の側に控えている時とは似ても似つかない。まるで別人だった。
「──殿下、今回のことは、ありがとうございました」
会話が途切れた隙を見計らって、ヒミカはそう言った。
「カオリ様が解放されることを、ユート様はとても喜んでおられました。
最近色々と心労が重なって、疲れていたようですから……本当にありがたいことです」
そう言うと、何故かレスティーナは少し哀しそうな表情をした。
「ユートは本当によくやってくれています。本来ならば、彼はもっと称えられるべきなのに。
……私は、恨まれているのでしょうね」
「そんなことはありません。ユート様は、殿下にはとても感謝しているようでしたから」
「それならば良いのですが……」
カップの水面に視線を落としながら、レスティーナはか細く言う。
その言葉ごと飲み込むように、彼女はカップの中のお茶を飲み干した。
それに倣うように、ヒミカと佳織もお茶を飲み干した。ティータイムは終わりだ。
「では私はこれで。カオリ、たまには城のほうにも顔を見せてください」
「はいっ」
勢い良く佳織は頷く。
「ヒミカ」
「はい」
「ユートを護ってあげてください。彼は、おそらくこの国にとって代え難い存在となるでしょう」
「──はい」
力強く、頷いた。
レスティーナが去った後、ヒミカは数冊の本を持ち、佳織を伴って部屋を出た。
「あの、重くないですか?」
ヒミカに荷物を持たせている負い目からか、佳織がそう尋ねてくる。
「大丈夫ですよ。この程度苦にもなりません」
ヒミカは笑って答えた。
他愛もない会話をしながら城内を歩いていく。途中、何度か警備の兵士とすれ違ったが、誰も挨拶はしない。
そのことに気づいてはいたが、いつものことなので気にもならない。
「──ヒミカさん、お兄ちゃん、無理してませんか?」
そんな折、ふと佳織はそんな問いを発した。
ヒミカは、言葉を選びながらそれに答える。できるだけ笑顔を崩さぬようにしながら。
「ユート様は頑張っていますよ。隊長として、皆を引っ張っていってくれています。
今回のサルドバルトとの戦での勝利も、ユート様の存在なしには成し得ないものでした」
「私の為に、お兄ちゃんは人を殺しているんですか?」
「────────」
言葉を失う。
気づけば二人とも足を止め、見詰め合うように立っていた。
二人は既に城内を抜け、丁度中庭の庭園を望める回廊にいた。
常春のラキオスの花々が、見事に咲き誇っている。
佳織の瞳は、ただ真摯だった。強い意志を秘めた、瞳。
ただ捕えられているだけの少女でもなかったのだな、とヒミカは感じた。
ヒミカは佳織から視線を逸らし、美しい庭園を見ながら、答えた。
「────はい」
息の呑む気配はしなかった。おそらくは、レスティーナ王女からある程度の近況は聞かされていたのだろう。
「……そうですか」
搾り出すように、佳織はそれだけ言った。
無理をしているのか、という問いに正確に答えるならば、それは是だ。
太刀筋には、もう前のような迷いは見られなくなっていた。
敵を斃した後の罪悪感に満ちた表情もなくなったが、それは外に出さないだけだ。
サルドバルトとの戦いで犠牲が出なかったのだって、彼が身を挺して皆を護ったからだ。
それを無理と呼ばずして何と呼ぼう。
命を捨てるような戦いをするな、と言った彼が、一番命を危険に晒している。
否、それは命を『捨てる』ことにはならないだろう。
十人を助けるため己一人を犠牲とする。一人が死ぬことで他が助かるなら、それは決して無駄ではない。
無駄ではないが──喜ぶ人間も、またいない。
数が問題ではないのだ。遺された者の哀しみを考えるなら。
そして、まだ成すべきことがあるのなら。
「……ユート様は死なせません」
だから、ヒミカは己の誓いを口にした。
「私が護ります」
レスティーナの言う通り、彼はこの国にとって大切な存在になるだろう。
人とスピリットに分け隔てない彼の態度は、いつか今の二者の関係を変えていくかもしれない。
北方五国統一の立役者として、民衆の注目も集まってきている。……まだ、ほんの少しだけれど。
そんな彼を死なせるわけにはいかない。前にも増して、ヒミカはそう思うようになっていた。
──彼が皆を護るなら、私は彼を護ろう。
例えその結果自分が死ぬことになっても。
ありがとうございます、と佳織は言った。
「でも、無理はしないでくださいね。
ヒミカさんが、お兄ちゃんを護って死んでしまったら……きっと、哀しむと思うから」
「そう、でしょうね」
きっとスピリット隊の誰が死んでも、彼は哀しんでしまうだろう。
だがどちらが生きることに価値があるなら、と問うなら、それは悠人だ。
勇者の再来とすら呼ばれる彼と、一介のスピリットでは、その重みはまるで違う。
だからもし彼が哀しむようなことがあっても、この身は彼の生を望む。
「それでも私は彼と、仲間を護ります」
意志を込めてヒミカは言う。
「無理は……しないでください」
祈るように佳織は言った。それに頷くことは、ヒミカにはできなかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
一陣の風が吹いて庭園の草花が揺れる。ざぁ、と潮騒のような音が聞こえた。
とはいえ本物の潮騒がどんな音なのか、ヒミカは知らない。海を見たことなどなかった。
知識として知っているだけの場所。
──もし最後まで生き残れたら、その時は海を見に行こう。
さして理由もなく、漠然とヒミカは思った。
ラキオスからもそう遠くはない、龍が渡ったといわれるバートバルト海に思いを馳せる。
海を渡った龍は、どれほどの潮騒を聞いたのだろう。その龍は、まだどこかにいるのだろうか。
ざぁ…………
風が吹き抜ける。ヒミカの短い髪がわずかにさらりと揺れた。
とそこで、佳織がヒミカの前に進み出た。
「ヒミカさん、早く行きましょう。お兄ちゃん、ほんとに待ちくたびれちゃいますから!」
殊更明るく言う姿に、ヒミカは悠人の姿を幻視した。
──やはり、兄妹なのですね。
ヒミカは頷き、その背を追った。
第一詰所に近づいたところで、佇む兵士の姿が見えた。
その若い兵士は、目深に被った帽子の下の視線をちらりと一度だけこちらに向けた。
だがそれだけ。後は近寄って来るでもなく、興味なさげに視線を戻した。
ヒミカもそのまま佳織と並んで歩き、兵士の傍で立ち止まった。
「カオリ様、私はここまでです」
「え? でも──」
そこで佳織は言葉を止める。息を詰めたような表情。聡明な方だ、そう思う。
「分かりました。じゃあ、ヒミカさん、また今度」
「ええ。では」
にこやかに頷きあう。
「カオリ様をよろしくお願いします」
兵士に荷物を手渡しながら言う。兵士は頷きさえしなかった。
カオリから若干距離を置きつつ遠ざかるその背中を、ヒミカは見送った。
「──あらあら、寂しそうですね~」
突然聞こえた声に、びくんと背筋が伸びる。
声の主を探して視線を巡らせると、近くの木の陰から気の抜けたような笑顔を半分だけ覗かせている少女がいた。
しかもその下には、こちらは表情というものが全くない顔が、しかし同じように半分だけ覗いている。
笑っている少女の髪と瞳は緑、笑っていないほうは赤だった。
ハリオン・グリーンスピリットとナナルゥ・レッドスピリットである。
それぞれ永遠神剣〈大樹〉と〈消沈〉を持つ、ヒミカの親友と妹分である。
「……何をしてるの」
やや憮然とした口調で、ヒミカは問うた。
「あらあら、ヒミカこそ何してるのかしら~?」
「何って、カオリ様を送り届けに」
「だから~、それだけでいいのかって言ってるんですよ~」
少し口を尖らせながらハリオンは言う。
「いいか、って……」
そりゃまぁ不満はあるが。できるならちゃんと最後まで送ってやりたかった気もする。
僅かに逡巡したヒミカの隙をついて、ハリオンはがしっとその腕を掴んだ。
「ちょっ、ハリオン何を……」
「何って、カオリさまと感動のご対面を果たしてむせび泣くユートさまを鑑賞しに行くんですよ~」
「鑑賞って」
何か違わないかソレ、と突っ込んでやろうとしたが、更にがしっともう片方の腕をナナルゥに掴まれた。
「……ナナルゥ?」
「不謹慎と理解していますが、興味を禁じえません」
相変わらず何を思っているか分からない無表情だったが、しかし意志の強い口調だった。
悠人が来てから徐々に自我に目覚めつつあるのは嬉しいが、今は何か違う気がする。色々と。
「だからって何で私まで、」
「ユートさまとカオリさまの感動の再会シーン、見たくないんですか~?」
う、と詰まる。まぁ確かに、そういう姿の悠人を見たいような気もしないでもないが……
でも興味本位で見てしまうのは不謹慎ではなかろうか。
「それに~、送り届けた本人が感動の再会シーンに立ち会えないのは、ちょっと不公平だと思うんですよ~」
自分には権利がある、と。ハリオンはそう言っている。
それで、とうとう折れた。
(そうよね、別に兵士に引き渡すことにはなってたけど、ついて行っちゃいけないってわけでもないし……)
そうやってヒミカが自分を納得させる理由を構築している間に、ハリオンとナナルゥはずりずりと
その身体を引きずり始めた。
「──────────────ってあんたらはただの出歯亀じゃないっ!!」
やっとそう気付いて叫んだのは、既に第一詰所の裏手に差し掛かってからだった。
ひょこひょこひょこっ、と立て続けに、第一詰所の窓から少女の頭が三つ、出てきた。
合計六つの瞳の先には、お茶を片手にそわそわと落ち着かない悠人の姿がある。
もうすぐ、佳織と兵士が到着するはずだ。
三人はスピリットの脚力で以て、ここに先回りして隠れていた。
「わくわくしますね~」
愉しげに言うのは、真ん中のハリオンである。
「愉しむものなの……?」
「…………」
首を傾げるのは一番上のヒミカ、反応を示さないのは一番下のナナルゥだ。
このまま戦場に出しても十二分に戦える完璧な布陣である。
とそこで、玄関のドアを叩く音と、兵士の呼ぶ声が聞こえた。
思わず立ち上がりかけた悠人をエスペリアが制し、出迎えに行く。
すぐに、駆けてくる軽い足音が聞こえた。今度こそ悠人が立ち上がり、その主を迎え入れる。
部屋に駆け込んできた佳織が、勢い良く悠人に抱きついた。
悠人もそれを抱き締め返し、そのまま、二人は言葉少なに抱き締めあっていた。
佳織の身体は小さく、悠人の身体に隠れてしまっている。
「うぅ、感動のシーンですねぇ」
ヒミカの下では、どこから取り出したのかハンカチで目元をそそと拭っているハリオン。
最早突っ込むまい、とヒミカは決めた。
しかし──ああして、最愛の妹を抱き締めている悠人の姿は、戦士ではなく確かに普通の人間だった。
こうして彼が大切なものを取り戻せただけでも、自分達が戦ってきた意味は確かにあった。そう思えた。
と、そこで何気なく視線を動かすと、
──エスペリアと目が合った。
「…………」
「…………」
「…………」
エスペリアは笑顔だ。だが、その笑顔がやけに怖く見えるのは何故だろう。
これはあれだ、とヒミカは思った。敵にアイスバニッシャーを喰らった時の感覚。
集束していたマナが動きを止められ、拡散していく時の独特の寒々しさ。
──さっさと去りなさい。
口にせずとも、そう言おうとしていることはよく分かった。
「……逃げるわよ」
「はい~」
「戦術的撤退です」
頭が三つ、並んで仲良く引っ込んだ。
それから数日後の夕方。
佳織と一緒にお茶を愉しんでいると、不意に悠人の結婚相手の話になった。
(結婚、ねぇ……)
そういうことを考えたことはない。
腕を組んで考え込んでみるが、特定の人物が浮かんでくるということはなかった。
「ちょっと分からないかなぁ……」
「そうなの?」
うん、と頷いた。そしてぴんと閃いて、あ、でもと続ける。
「相棒として考えられる奴ならいるな」
誰々?と佳織にしては珍しく、興味深そうに聞いてくる。
「ヒミカだよ。レッドスピリットの。こないだ第二詰所の皆紹介した時にもいたろ?」
「ヒミカさん? どうして?」
「うーん、なんていうかな。安心して背中を任せられるって感じだな。
戦ってる時もよく皆をフォローしてるし、第二詰所でも皆を引っ張る役目みたいだし」
「あー、それ、分かるかもしれない」
言って、くすくすと佳織は笑った。
「お兄ちゃん、結構一人で突っ走っちゃうところがあるから、ヒミカさんみたいな人がいると丁度いいかも」
「何だよそれ。俺、そんなに突っ走ってるかな?」
「うーん、ちょっとね」
苦笑して佳織は言うが、それが明らかに遠慮してのことであるのは明らかだ。
そうなのか、と悠人はちょっと落ち込んだ。心当たりがないわけでもないので、余計に。
「……お兄ちゃん、ヒミカさんのこと、好き?」
ふと、そんなことを訊かれた。
「好き……っていうのとは違うな」
というか誰か異性を好きになったことがあっただろうか、と悠人は振り返った。
「じゃあ、ヒミカさんのいいところとか、聞いていいかな」
「いいところねぇ……うーん。やっぱり強いし頼りになるし、なんていうのかな」
いい言葉が思いつかない。そもそも過ごしている場所が離れている以上、お互いの日常があまり交差しない。
自然、戦いの中で見た彼女の姿ばかりを思い浮かべることになるのだが、そういうのは何か違うだろう。
「誰に対しても礼儀正しいし、気を遣ってくれるし──」
言葉を並べながら、悠人はこれまでの戦場に思いを馳せた。
そういえば、戦闘中ヒミカと声を掛け合うことはあまりなかったように思う。一緒に前線に立っているのに。
それはきっと──必要がなかったからだと悠人は思った。
明確に指示をしなくても、ヒミカなら分かってくれるという妙な確信があったのだ。
そして真実、ヒミカはそれに応えてくれていた。
「──信頼し合ってるんだよな、多分」
きっとそうなのだろう。
それに、何となくだが、自分とヒミカは似ている気がするのだ。無論外見ではない。
それは本当に何となくで、何の確証もないことだったけれども。
「最後のは、いいところじゃなくてお兄ちゃんがヒミカさんをどう思ってるかだね」
笑いながら佳織は言う。あ、そうか、と悠人も今更ながらに気付いた。
「……頼りにしてるんだ、ヒミカさんのこと」
「そうだな。凄く、頼りになるよ」
そこまで言って悠人は、あ、と素っ頓狂な声を上げた。
「佳織だって頼りにしてるぞ。料理とか家事とかで」
「フォローしてくれなくても分かってるよぉ」
くすくすと笑う。つられて、悠人も笑った。
その笑い声に混じって、
「──私も剣を持って戦えていれば、お兄ちゃんも頼りにしてくれる──?」
か細く、佳織は呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
「ううん、何にも」
そうか、と悠人は頷いて、もう一口お茶を飲んだ。
何故か、二人とも沈黙してしまう。そよそよと、窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らした。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
鈍感な悠人でも、佳織の声のトーンが微妙に下がったことは分かった。
「私ね──」
その時────けたたましい半鐘の音が鳴り響いた。
その意味するところは、
「侵入者……!?」
立ち上がり、不安そうにしていた佳織を安心させる意味で抱き締める。
(おいバカ剣、どうなってる!?)
『敵だな。……城のほうだ。数が多い上に寸前まで気配を感じなかった。相当な手練だろう』
そう応えた〈求め〉を担ぎ上げ、その気配を悠人も感じ取った。
圧倒的な破壊衝動──それが、肌を粟立てるほどに伝わってくる。
「お兄ちゃん……」
佳織が縋り付いて来る。大丈夫だ、ともう一度強く抱き締めた。
「絶対、帰ってきてね。約束だよ」
「当たり前だ。佳織も、ちゃんと隠れてろよ」
言い残して走り出す。不安げに振られる手を、肩越しに一度だけ振り返った。
脚力を強化し、城への最短距離を駆け抜けた。
時を同じくして、第二詰所のスピリット達も城へと駆けつけていた。
「ヒミカ、どうする?」
併走していたセリアが問う。ヒミカは僅かに思案し、応えた。
「城内には結構な数のスピリットが入り込んでるみたいね。しかも──」
倒れて動かない兵士の姿をまた見つけた。──死んでいる。
「──人を殺せる」
セリアが頷く。
ヒミカは即決した。
「三班に別れましょう。全員で動き回っても仕方がない」
「そうね。──ナナルゥ、ネリーは私についてきて! 変換施設に行くわ」
呼びかけ、ヒミカもまた号令を飛ばす。
「ファーレーン、ニム、ヘリオンは謁見の間に! シアーとハリオンは私と一緒に来て!」
それぞれが応じる。ヒミカとセリア、ファーレーンは頷きあい、三つに別れた。
更に同時刻。
王族の寝所にも敵スピリットが進入しつつあった。既に何人もの兵士が、その命を喪っている。
「殿下! 早くお逃げください!」
護衛の兵士に周囲を固められながら、レスティーナは長い廊下を走った。
考えるべきことはいくらでもある。ちらりと見た限り、スピリットは神聖サーギオス帝国の者のようだった。
今はラキオス、サーギオスの間にマロリガンを挟み、小康状態になっている時期だ。
そこを突く今回の奇襲は、理に適っていると言えた。
そして、今攻め込んでいるスピリットは、人を殺す──
──遠くで、断末魔の叫びが聞こえた。
レスティーナは思わず立ち止まってしまう。だがそれは、彼女を護る兵士達も同じだった。
廊下の奥から、駆けてくる複数の足音が反響してくる。
まだ遠いが、すぐにここまで辿り着いてしまうだろう。
「──殿下、お行きください」
すっ、と。
誰が促すでもなく、レスティーナの護衛をしていた五人のうち、三人が廊下に広がるように立った。
「お前達……!」
その意を察してレスティーナは止めようとして──できなかった。できるはずがなかった。
彼らは、己の役目を果たそうとしているのだから。
城を守ること、戦うこと。それが彼らの役目であり、彼らの家族を養う手段なのだ。
前に立った三人と、レスティーナの隣の二人が、言葉もなくただ頷き合った。
年配の兵士が、髭だらけの口で笑う。
「我々は大丈夫です。ですから殿下はお急ぎください。やり過ごしたら、すぐに後を追いますので」
外に出れば我が国の妖精どももおりましょう、と彼は言った。
「殿下を護り通せるのが、結局、我々人間には役不足というのは癪ですが……」
心底残念そうに──そしてスピリットを羨むように兵士は言う。
顔を背け、兵士は廊下の奥に目を向けた。もう足音はすぐそこの角まで近づいている。
「お行きください、殿下。あなたは死んではならない人だ」
ずきん──
心臓が軋んだ。
数日前、彼と見た高台からの景色が思い出された。
彼が、好きになってきたかもしれないと言ったこの国。
彼が、仲良くなれるかもしれないと言ったこの国の民。
──目の前の彼らとも、これからは手を取り合えるかもしれないのに。
今は無理でも、いつか、そう遠くない未来に。
スピリットと対峙して人間が生き残れる確率は限り無く低い。
それを覚悟で、彼らは自分を逃がそうとしてくれているのだ。
戦う術を持たないレスティーナが、この場にいる意味は全くない。足手まといでしかない。
ならば、
「──分かりました。……あなた方の武運を祈ります」
私の為に死んでくれ、と。
レスティーナはそれに等しい言葉を搾り出す。
──ならば私は、絶対に生き残らなければならない。生きて、為すべきことを為さねばならない。
彼らの想いに、報いるためにも。
背を向けて走り出す。振り返らずに。
本当ならば、このまま何も言わず、走ることに全力を傾けるべきなのだろう。
だがそんなこと──自分を生かす為に己を捨てようとしている者達を背にしてどうしてできよう。
「──皆の者!」
振り返らないまま、叫んだ。
「死ぬなどとは思うな! 己が生きる運命を、自ら引き寄せて見せよ!」
──自分が望むなら、どうにかして運命を引き寄せることだってできる……俺はそう思いたいよ──
──運命が絶対だなんて思わないからな──
あの高台で、彼が、悠人が言った言葉を思い出しながら、涙の代わりに叫んだ。
「運命を引き寄せる、か……」
震える手で剣を握りながら、しかし、へへ、とその若い兵士は笑った。
どうしてだろう。怖いはずなのに、不思議とそんなただの言葉が頼もしかった。
「殿下もいいこと言うよな……でも畜生、怖ぇよ、クソが」
「俺もだ」
同年代の一人と、年配の一人とが震える声で軽口を叩きあった。
ぎゅ、と強く強く剣を握り締める。兵士は、そんな言葉を言ってくれたレスティーナに感謝し──
そしてまた、そんな言葉を言わせた切欠となる誰かがいるとしたら、その人物にも感謝した。
廊下の奥から、三体のスピリットが駆けてくる。光のない眼球が六つ、こちらをしっかりと見据えている。
「畜生……」
罵倒しながら、けれど彼は笑っている自分を自覚していた。
「畜生、畜生、畜生、畜生、畜生ォ……!」
同僚は何度も何度も、そう繰り返していた。
その繰り返される罵倒は、その度に湧き上がる感情は。求め、渇望するものは──
「死にたくねぇ、死にたくねぇよ畜生ぉぉぉぉっ!!」
叫んで、兵士達は迎え撃った。
エーテル変換施設への道を悠人は辿っていた。イースペリアでのマナ消失が頭をよぎる。
だがその途中、向かう方向からエスペリア達三人に出会った。
「ユートさま! ご無事でしたか!?」
「俺は大丈夫だ。そっちは」
「ん」
「だいじょぶだよ、パパ!」
それぞれいつも通り答えた。怪我をしている様子もない。
「エーテル変換施設のほうは?」
「途中、敵が数名いたので殲滅しました。変換施設は無事です。これから謁見の間のほうに」
ほっと息をつく。が、そんな場合でもないことを思い出した。
「しかし……どういうことなんだ。スピリットは人を殺せるのか?」
「……育て方次第では、不可能ではないかもしれません」
言い辛そうに、エスペリアは答えた。
「それに、神剣に呑まれてるものが大半のようです。どの敵の瞳にも……光は宿っていませんでした」
ぎり、と悠人は歯を食いしばった。誰が、そんな風なスピリットにした?
「ユート様!」
そこに、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「ヒミカ!」
ヒミカと、シアー、ハリオンが駆けてくる。無事だったことに安堵しつつ、悠人は現状を尋ねた。
「皆は三手に別れて行動してます。私達はこれから、上に」
「上──というと、王の寝所か!」
頷きが返ってきた。そっちはどうだったのですか、と今度はヒミカは問う。
「変換施設は無事だった。謁見の間はまだ見てない」
「ではそちらに向かってください。ファーレーン達が行ってます」
「そうだな……」
悠人は僅かに思案し、答えた。
「俺たちも別れよう。エスペリアとオルファは謁見の間に行ってくれ。
アセリアはセリア達と合流して、まだ見てないところを頼む。俺は、ヒミカ達と一緒に上に行く」
〈求め〉を通して感じる気配は、どれも強いものなのに、位置が特定しづらかった。
力が強すぎてムラが出来ている感じだ。
その中でも一番不鮮明に感じるのは、王族の寝所のほうだった。
王は正直好きになれないが見殺しにはできない。レスティーナのことも心配だった。
「分かりました。お気をつけて」
頷きあい、エスペリア達はそれぞれの方向に走った。
「俺達も行くぞ!」
はい、と三人のスピリットは力強い頷きを返してくれた。
全速力で廊下を駆け抜け、寝所へ続く階段を上る。
上りきり、角を一つ曲がったところで──突き当たりに、青スピリットと戦っている人間の姿を認めた。
いや、戦っている、と呼べるほど上等ではない。ただ必死に抵抗し、まだ生きているだけのことだ。
と、その兵士が足を取られ、後ろに倒れこむ。
「ハリオン!」
「はいは~い」
ヒミカの声に応え、やや着抜けた声で答えながら、ハリオンは悠人の前に進み出た。
その瞬間、ハリオンの気配が変わる。
右手に握る〈大樹〉に大気中のマナが集束し、左足を絨毯に強く、穿つように打ち付けた。
そのままそこを支点に、身体をバネのようにしならせ、全身を前に。
「そーぉれっ!」
掛け声と共に、右手で〈大樹〉を投擲した。
きゅん、と大気との擦過音を後に残し、マナを纏った神剣は宙を駆け抜けた。
刹那後、ゴガッ、と凄まじい音がする。
視線の先で、兵士を殺そうとしていたスピリットが、心臓に〈大樹〉を埋めて壁に磔になっていた。
しかしそれも数秒、生命活動を停止したスピリットは、やがてマナの霧となっていく。
「大丈夫か!」
倒れていた兵士に駆け寄ると、それは悠人も見知った顔だった。
「……貴様か、エトランジェ」
いつも悠人を殴っている、あの兵士だった。
脚を斬られたのか、押さえた手の下からどくどくと赤い血が流れている。
「まさか貴様に助けられるとは、な……」
苦々しげに、しかし戸惑いを交えて兵士は言った。助けてくれるとは思ってなかったのだろう。
だが助ける時にこの兵士であると分かっていたわけではないし──
仮に分かっていたとしても、見捨てることなどできなかっただろう。
悠人はあまりこの兵士に良い感情は抱いていなかったが、それでも答えた。
「殺されそうな奴を放っておくほど薄情でもないんでな。……他に生きてる奴は?」
「殿下は逃がした。俺の仲間はやられちまったよ。他にもまだ、何人か──」
その言葉を掻き消すように、バン、と扉が開いた。
兵士が二人、転がるように出てきたその部屋は──
こちらに逃げてくる兵士の後ろから、レッドスピリットが躍り出た。
既に神剣魔法を完成させ、今にも放たんとしている。
「──あ、アイスバニッシャー!」
そこにシアーのアイスバニッシャーが割り込む。集束していたマナが消失し、敵が体勢を崩す。
──その時には既にヒミカがするりと背後に回り込んでいた。
敵の赤が振り向こうとする。だが、それは叶わない。
半瞬早く、〈赤光〉がその細い喉から生えていた。
かっ、という声にならない呻き。
そのまま横に掻っ捌く。
勢い良く血が噴き出し、ヒミカに降り注いだ。
一度剣を振るって血を払う。短い髪をしとどに濡らす血も、やがてマナに還っていった。
ぱちゃん、と血の池を踏んで、ヒミカの横に悠人が並ぶ。
視線を交わし合い、斃したレッドスピリットが出てきた扉へと足を踏み入れた。
そこは、王の私室だ。……灯りはついていない。
バルコニーの窓は粉砕され、寒々しい風が吹き込んでいた。おそらくそこから侵入したのだろう。
不気味な静寂。だが、握る〈求め〉は嫌というほど神剣の気配をこちらに伝えてくる。
と、
がたり、と音がして、隣の王の寝床がある部屋に繋がる扉に、人影が覗いた。
見慣れた鎧は、この国の兵士のもの。思わず、悠人はそれに駆け寄る。
「おい、無事──」
『戯け!』
〈求め〉の叱咤と視界が後ろ側にすっ飛んでいくのを知覚したのは同時だった。
ズッ、と手を差し出すような滑らかさで兵士の胸から切っ先が飛び出した。
それは悠人の心臓を追いかけ、すぐに止まる。
乱暴に後ろに引っ張られた悠人は、部屋の入り口近くまで引き戻された。
「大丈夫ですか?」
引っ張った当人であるヒミカがそう問うてきた。
ともすれば己の心臓を貫かれていたという事実に背筋を寒くしながら、ああ、と頷いた。
ずるり、と身体から神剣を生やした兵士が壁に寄りかかるように倒れ、そのまま動かない。
兵士の後ろから姿を現したのは、闇に融ける色彩の、ブラックスピリット。
僅かに差し込む月光が、マナに還らない血に鈍く光っている。
その隣に、部屋の奥にいたのであろうレッドスピリットが並んだ。頬を赤く汚すそれは、一体誰の──。
ざわり、と血液が蠢いた。この先の部屋にいるべき人間は、無論、一人しかいない。
月光に影が差した。降り立つ足音すらもなく、バルコニーに二体のスピリットが舞い降りる。
影の色は青と緑。四者とも同じ色彩ではなかったが──光のないその昏い瞳だけは、皆一様に同じ。
「……ユートさま~?」
こんな時でさえ、この声は穏やかだった。背後、部屋の外から聞こえてきたハリオンの声に、悠人は答える。
「ここは俺達二人だけでいい。ハリオンは、シアーと一緒にあいつらを頼む」
「はい~。丁度他の敵さんも一人来たみたいですし、迎え撃ってきますね~」
気配が引っ込んだ。
自分を見つめてくる八つの無機質な瞳。油断なくそれを知覚しながら、ヒミカに視線を向けた。
同じように、ヒミカも悠人を見つめていた。視線を合わせ、頷き合った。
ひゅっ、と短く息を吸い込み、
悠人は低く〈求め〉を振るった。剣先が豪奢な椅子を引っ掛け、凄まじい速度でバルコニーの敵へと投げ飛ばす。
椅子に追い縋る様に二人は前へ跳んだ。悠人はバルコニーへ、ヒミカは寝所へ。
ブルーの剣が椅子を打ち払い、その陰から現れた悠人に、返す刀で袈裟懸けに斬りつけた。
悠人は立てた剣でそれを受け、力任せに横に払った。ブルーが刹那体勢を崩す。
そこに第二撃を叩き込もうとして──真横からグリーンの槍が差し出された。
踵に力を込め後方へ。腋下を音速の穂先がすり抜け、浅く服が切り裂かれた。
体勢を立て直したブルーが突っ込んでくる。
悠人は二歩三歩と後退しつつ、駄賃とばかりに〈求め〉の切っ先を分厚い絨毯に引っ掛け、引いた。
絨毯が波打ち、ブルーがそれに足を取られたたらを踏む。
致命的な隙。大上段に構えた悠人の〈求め〉が、重力に膂力を上乗せして振り下ろされた。
避けられる速度ではない。ブルースピリットは、咄嗟に頭上で神剣を構える。
だが悠人の剣は真ん中からそれを叩き折り、そのまま頭頂から股間まで両断し、
「──ユート様!」
声が聞こえた。背後に、別の神剣の気配。
「う、」
振り下ろした剣を、止めることなく。
「お、おぉぁぁあっ!」
柄から左手を放し、片手だけで〈求め〉を握る。
身体を右に捻る。がりがりと絨毯の下の床を削りながら、全身の動きで背後へと振り上げる。
上弦の月を描く剣閃は、背後に迫るレッドスピリットの身体を神剣ごと吹き飛ばす。
その背後には──たまたま人の着る全身鎧が、構えを取って立てられていた。
ドスッ──
嫌な音がして、スピリットの腹を深く鉄の剣が抉っていた。
奇しくも、その剣で人間を殺したスピリットが、人間の剣に貫かれていた。
だが──まだ終わらない。金色のマナへと還りながらも、そのスピリットはマナを織り上げる。
赤い閃光が大気を貫く。だがそれは悠人へではなくその頭上、豪華なシャンデリアを吊り下げる鎖を灼いた。
巨大な金と硝子の塊が垂直落下する。舌打ちしながら悠人は後ろへ引いた。
二つに別れ、左右に倒れつつあったブルースピリットの屍が、ぐしゃりと押し潰された。
飛び散る硝子の欠片に、蒸発するマナの光が反射し──
その向こうに、槍を腰に構えた大地のスピリットの姿があった。
マナが螺旋に渦を巻く。冷たい瞳は刃より鋭く悠人を捉える。
直線的な動きを〈求め〉で叩き落す。地面に落ちた切っ先が、そのまま弾力を利用して跳ね返ってきた。
顎先を掠める鋭刃。仰け反るようにそれを回避する。前髪が数本刈り取られた。
上まで振り上げられた切っ先が、槍の中心を支点にそのままくるんと半回転し、
入れ替わりに持ち上がった槍の石突を、捻るように前へと突き出した。
「……ッ!」
剣が間に合わない。石突は悠人の腹に深く突き刺さった。腹部を圧迫される苦しみに顔を歪める。
と──すぐにそれからは解放された。音もなく横から滑り出た赤い影を、グリーンスピリットは受け止める。
ヒミカの両剣がグリーンスピリットを攻め立てる。
二方向から交互に繰り出される剣撃を穂先と石突で同じように受け止めていく。
互いに押し、押されながら、しかしどちらからも肉を裂く音は聞こえない。
だが、その交差もまた永遠ではない。
一瞬、ヒミカが剣を握る手を緩めた。
カンッ、と軽い音を奏で、ヒミカの神剣が空中で回転する。
予想だにしない動きと手応えのなさに、敵に一瞬戸惑いが生じた。──それを、見逃さない。
弾指にも満たぬ時間、重力から解放された剣を、ヒミカは逆手に握り直し、そのまま全力で突き入れる。
ほぼ水平に構えていた槍では、点の動きである突きには対応できなかった。
剣先が、スピリットの頭蓋を貫いた。
スピリットが膝を折って、そのままうつ伏せに倒れた。
「……ご無事ですか、ユート様」
肩で息をしながら、ヒミカが問うた。
「ああ。腹に一撃貰ったけど、怪我してるわけじゃない」
「そうですか……良かった」
ほう、と眼に見えてヒミカは安堵の表情を見せた。
その頬には、最初に見たブラックスピリットとの戦いでついたのだろう、浅い切り傷があった。
ヒミカはぐい、と頬に流れた血を拭い、王がいるはずのもう一つの部屋を見た。
悠人は黙って、その部屋へと足を踏み入れる。
……中は、酷く、静かだ。
豪奢なベッドへと目を向けるが、その上には誰もいなかった。
視線を横にずらしていくと──豪華な装飾を施された壷によりかかるようにして、それがあった。
横に太い、寝巻き姿の屍体。王冠なく、服も違うが、それは間違いなく、王の亡骸だった。
装飾を施された剣を握り締めたまま、頚動脈を切り取られ、夥しい量の血で絨毯を赤黒く染めて。
「…………」
何故か、悠人の心は凪のように静かだった。
憎い相手だった。殺したいほど憎い相手だったはずだ。
この世界に呼ばれた自分を、佳織を人質に無理矢理戦わせた張本人だったはずなのだ。
それがこうして目の前で死んでいるのを見ても──悠人の心は動かない。
麻痺しているわけではなく、或いはそれは、斃れた王が哀れに見えたからかもしれない。
「……ユート様」
ヒミカの声が静謐な空気に染みた。悠人は頷きながら振り返り、部屋を出る。まだすべきことがある。
部屋の入り口には、シアーとハリオン、そしてさっきの兵士が三人、待っていた。
「……不本意だが、礼を言っておく。エトランジェ」
脚の傷のせいか。青い顔で、しかし尚も悠人をしっかりと見据えながら、仲間に肩を貸された兵士は言った。
悠人は黙って頷く。そうするのが一番適当に思えた。
「レスティーナ殿下を頼む。中庭の地下に、お前らの館に通じる抜け道がある。
殿下はそこに向かったはずだ。──お前らが、護れ」
「中庭というと……」
悠人は窓へと視線を向けた。バルコニー、ここからは、中庭を一望できる。
──と、
僅かに、月光が陰る。
雲、ではない。それ以外の何かが、地上に降り注ぐ月光の中に影を落としていた。
「……分かった。ハリオン、シアー、そいつらを頼む。
安全な場所まで避難させたら、皆と合流して館に向かってくれ」
「はい~」
「ユートさまは、どうするんですか……?」
不安げにシアーが問う。
「俺は──」
窓の外を見る。
「──まだ迎えなきゃいけない相手がいるみたいだ」
そしてヒミカと頷き合い、バルコニーへと出た。途端、鋭い神剣の気配が、二人を突き刺す。
バルコニーの手すりに足をかけながら、悠人は振り向いて、もう一度頼むと言った。
「お気をつけて~」
ハリオンの見送りを背に、二人は中庭に飛び降りた。
折りしも、四つの影も花咲き誇る庭園へと降り立ったところだった。
「──再びまみえることになるのも、また縁」
降り立った影、その先頭に立つのは他でもない。帝国最強の剣士。漆黒の翼。
銀の髪に月光を弾き、ウルカは静かに呟いた。
ざぁ、と一度強く、風が吹いた。花びらが一斉に散り、空へと巻き上げられた、その中で。
──銀の直線が疾る。
斬空の居合い、音もなく虚空を切断する剣に、一瞬、大気が停止した。
はらり、と、その直線上にあった白い花びらが空中に静止し、そして二枚に分かたれ風に巻かれた。
月光を背に、その黒と銀のスピリットはその手の剣の如き眼光を悠人達へと向ける。
「何故こんなことをした。ウルカ。お前も神剣に操られているのか」
その花と月の中では、彼に声を荒げることすら忘れさせるのか。静かな声で、悠人は問うていた。
「手前に剣の声は聞こえぬ。それ故戦う意味を探している。この剣を振るう意味を」
「……人を殺して、か?」
ざぁ。潮騒の音の向きが変わる。悠人からヒミカへと。その押し殺した怒りに応じるように。
「…………」
その言葉に一瞬眉を顰めるが、すぐに元の無表情に戻る。
「……手前はウルカ、漆黒の翼ウルカ。ラキオスのユート殿、そして──」
「〈赤光〉のヒミカ」
応じるようにヒミカが答え、揃って前傾姿勢を取った。
「ヒミカ殿、か。……相当の腕前とお見受けする。お相手願おう」
ゆら、とウルカの周りで、花びらが行方を見失ったかのようにばらばらの方向に散っていった。
肌が粟立つ殺気、生存本能が眼前の敵を脅威と認識する。
逆に〈求め〉は、強敵と戦えることに歓喜していた。その身を青白い光に包みながら。
「お前達は手を出さぬようにな」
静かに告げる。ウルカの背後に控えていた三人のスピリットが、音もなく後ろに下がった。
一対二。有利であるはずの状況なのに、一分の余裕も心には生まれない。
一度、ウルカは瞼を閉じ、
「感謝しよう。これほどの使い手達に出会えたことに。このマナの導きに」
そして、瞼を開いた。
「────参る!!」
世界が加速した。
最初に激突するのは黒と赤の妖精。
音速の抜刀を流れるように〈赤光〉で受け流す。ウルカの剣は上方へ逸れ、胴ががら空きになる。
反動を利用してそこに滑り込ませたヒミカの剣を、しかしウルカはパン、と掌で弾いた。
鋭刃はウルカの脇の下を抜ける。互いに軌道を逸らされた切っ先が虚空を貫く。
剣と一緒にヒミカは身を引いた。入れ替わるようにして横薙ぎの一撃を悠人が見舞う。
その時には既にウルカは納刀を終え──そしてまた、銀髪に煌く光の如く剣を閃かせる。
キ、と分厚い〈求め〉の刃に〈拘束〉の刃が触れる。
──押し負ける。
ウルカは手応えのみでそう判断する。
元より、この剣は重きに耐える剣ではない。受けず、流し、掠め斬る剣である。
腕の筋肉を固定しそれ以上振らず、脚を浮かせた。
「…………ッ!」
その意図に悠人は気付く。それは前に、ヒミカと手合わせした時の動作と同じだ。
散る花の如きその手応えの無さ。咄嗟に、悠人は剣を引こうとした。
だが一度速度の乗った剣の勢いはそう簡単には止められない。ウルカの身体は容易く空中へ舞い上がった。
それでもウルカは悠人への尊敬の念を禁じえなかった。あの一瞬、あの刹那で判断できるとは。
それは過去の経験からのものであったが、それをウルカが知る由もなし。知っても評価は変えないだろう。
(遠ざかって神剣魔法で牽制するつもりだったが……潰されたか。さて、次手は──)
予定より低く舞い上がったウルカの身体は、しかし既に悠人の剣の届かない位置にあった。
その肩に──とん、と軽い重みが触れた。
顔の横を通り過ぎる紅の影。空のウルカを追ってヒミカが跳んだ。
繰り出される斬撃を、ウルカは僅かにウイングハイロウを羽ばたかせ横に回避する。
だが無理矢理腕を捻り、切っ先はウルカに追い縋った。思わず〈赤光〉を受け、バランスを崩す。
ウイングハイロウでバランスを取りつつ反撃する。空中にあって翼を持たぬヒミカは無防備だ。
だが剣の辿る道筋の先にヒミカの姿は無く──ウルカを照らす月光が遮られた。
影の主は上に。今、月光を背に飛ぶのは、漆黒ではなく紅の妖精。
その傍らに浮かぶ、淡い光を放つ真円の球体──
ゴッ、とヒミカの剣が打撃音じみた風圧を伴って振り下ろされる。
まだバランスは取れていない。避けきれない。ウルカは堪らず、それを剣で受けた。
(スフィアハイロウを、足場に……!)
ビリビリと掌を震わす衝撃を感じながら、ようやくそのことに気付いた。
背中に地面が迫る。翼を強く羽ばたかせ勢いを殺し、四肢を使って獣のように着地した。
ざりざりと庭園の花を引っ掻きながらも、ウルカは着地する。
「はぁぁっ!」
その目前には悠人の姿。即座、ウルカは立ち上がり、剣の柄に手をかけた。
「おぉぁああ──ッ!!」
抜刀三連。
神速の剣は、不可視の域に到達する。
銀光の軌跡としてしか捉えられぬ剣閃が三筋、悠人の剣を真正面から迎え撃った。
切っ先、中腹、鍔元。三点を正確に穿つ連撃が、全力で振るわれた〈求め〉を押し返す。
悠人の剣が浮き、振り切られたウルカの剣が戻され──背後には、剣を構えたヒミカが。
だが、
「ヒミカ!」
悠人は叫んだ。ウルカの背中は無防備である。なのに。
その叫びに込められた意を、ヒミカは背筋を走る悪寒と共に正確に理解した。
戻され、鞘に納められる動きを取るウルカの剣は、しかし鞘には『戻らない』。
ヒュッ、という音。
〈拘束〉の切っ先は、鞘の上、左脇の下をすり抜け、背後のヒミカを狙う──!
────ガッ、
〈赤光〉の柄が、その切っ先を受け止める。しかし、ウルカの殺気は未だ衰えない。
切っ先の点に重みがかかる。ウルカが地を蹴り、〈拘束〉を軸に、独楽のように中空へ身を躍らせた。
鎌の動きで跳ね上がったウルカの足がヒミカの側頭部を強打した。ヒミカの身体が弛緩する。
ウルカはそのまま一回転、足がつくなり今度はそれを軸に背後へと振り返り、突きの一撃を見舞う。
刈り取られそうになる意識を必死に繋ぎとめながら、ヒミカはそれを防ごうと剣を構える。
心の臓を狙った突きは、咄嗟に構えられた〈赤光〉に阻まれ、その軌道を逸らされ──
ヒミカの脇腹を切り裂いた。
「つぁっ……!」
激痛。ヒミカ、と悠人が叫び、ウルカに斬りつける。だがそれを容易くかわし、ウルカは遠ざかった。
膝を折ったヒミカに、悠人は駆け寄った。傷の具合を確かめながら、悠人はウルカへ向き直る。
しかし当のウルカは既に剣を納め、戦う気配を見せない。
「今日はこれまで。手前は、別の使命がある故」
そう言い残し、ウルカは仲間と共に翼を広げ飛び立った。悠人の静止の声に、何故か哀しい瞳を向けて。
その向かう方向は──
「佳織ッ!」
向かう先は自分達の住む館だ。あそこには佳織がいる。だが──
悠人は、荒い息をしながら傷口を押さえるヒミカを見る。置いていくことはできない。
それを察してか、ヒミカは悠人に言った。
「言ってあげてください……私は、大丈夫です。致命傷では、ないです、から……」
「けど、」
絶え絶えに言うヒミカの声は、とてもそうは思えない。
「大丈夫です。……それに、都合良く、助けが来たみたいですから」
ヒミカが城のほうを見た。
悠人もそちらを見ると、ハリオンと、途中で合流したのだろう、ナナルゥが走ってくるところだった。
「ハリオン! ヒミカが──」
「はいはい。分かってます~」
すぐさま、ハリオンはヒミカの治療に取り掛かる。
その横顔には幾つもの切り傷があった。服もそこかしこ破れ、戦いの激しさを物語っていた。
「ユート様はナナルゥと先に行ってください。私達は後から追います」
幾分しっかりとしてきた口調で、ヒミカは言う。その様子を見て安堵しつつ、悠人は立ち上がる。
「こちらです」
ナナルゥが案内するように前に立った。悠人は座り込んだままのヒミカを一度見た。
「──すまない。行ってくる!」
ナナルゥと共に駆け出す背中を、ヒミカは見送る。
──ひどく、まとわりつくような嫌な予感が、背中を離れてくれなかった。
そしてそれは、そのすぐ後、的中することになる。