雨の音が五月蝿かった。
ざぁざぁ。ざぁざぁ。ざぁざぁ。ざぁざぁ。
止まらない音が耳朶を叩く。他の音は何一つとして聞こえない。聞こえない。
ざぁざぁ。ざぁざぁ。
それとも、これは、自分の中を流れる血液の音なのだろうか。
外に流れれば消え行く命の水。
人間の血は水より濃くても、妖精の血は水より儚い。
だから、今も。
足元では、命が儚く消え去ろうとしている。
おかしな方向に折れ曲がった右脚。
肘から骨の飛び出した左腕。
ばっさりと切り開かれた横腹。
百合の花のように折れた首。
それを。
ひどく──酷く、五月蝿い雨の中、ただ見下ろし、
そしてようやく自分の口が、ああ、と、耳に聞こえる音を発した。
無感情に。
曇天の下、一様に同じ格好をした兵士達が規則正しく整列し立っていた。
彼らの視線の先には、同じように規則正しく並ぶ石柱が並んでいる。
元は雑草の茂っていたであろう地面は掘り返されたばかりで、土の茶色をあらわにしている。
そこは墓地だった。
ラキオス城からやや離れた敷地。殉職した兵士達の共同墓地である。
昨日、先日の帝国の襲撃により死した王と王妃、その葬儀と、レスティーナ新女王の即位式が終わった。
他にも雑事は多くあったが、その前にレスティーナの希望で、兵士達の葬儀が行われることとなった。
死んだ人間は決して少なくはなかった。その日城内の警備に当たっていた者の約半数が命を落とした。
ここに集っているのは、その日非番だった者と、無事だった者の中でも比較的軽傷の者達である。
「王のため、祖国のために死した英雄達の魂に、マナの祝福のあらんことを──」
先頭に立つレスティーナが、厳かに告げた。
その後ろで、兵士達がその剣を、槍を、天に向かって真っ直ぐに掲げる。
皆が黙祷を捧げる後ろで、啜り泣く声が聞こえた。死んだ兵士達の家族だ。
親しい誰かが死ぬというのは、誰にとっても哀しいことだ。それは、人間もスピリットも変わらない。
──自分はどうだったろうか、とレスティーナは思った。
彼女もまた、一度に両親を喪った。
葬儀の場での自分は毅然とした態度を取っていた。
新女王という立場もあったし、正直、哀しいという感情は湧いてこなかった。
今は──少しだけ、胸が苦しかった。
野心に満ちた考えも顔も嫌悪の対象でしかなかったし、憎悪すらしたこともあったが──
(それでも、私にとっては父なのですね)
ルーグウ・ダイ・ラキオス。
どんな人間であっても、彼はレスティーナにとってはただ一人の父だったのだ。
ふと思う。父は私を愛してくれたのだろうか。
他の家庭の赤子と同じように、その手に取り、一度でも抱き締めてくれたことがあっただろうか。
……二人ともいない今では、確認のしようもないのだけれど。
「──剣を下ろせ」
静かな声に応え、兵士達の剣が下ろされる。
この墓のどこかに、自分が死ねと告げた兵士達も眠っている。彼らは、満足の行く生を歩めただろうか。
前を見る。灰色の石が並ぶ様は、どうにも寂しそうだった。
自分らしくない。レスティーナは今の自分を断じた。いつもの、毅然とした私はどこにいった?
こんな感傷的な気分になったのは、今にも泣き出しそうなこの空のせいだと思うことにした。
その数日後に齎された、マロリガン共和国からの宣戦布告──
それが通達されてからラキオス国内はにわかに緊迫した。
現在、ラキオス、マロリガン、サーギオスの戦力は拮抗している。不利でも有利でもない状況だ。
だが、マロリガンはあの厳しい砂漠地帯の中で長きに渡り歴史を刻んできた強大な国家である。
間違いなく一筋縄でいく相手ではない。
そういう思いから、ラキオススピリット隊もいつにも増して訓練を積んでいた。
「──打ち込みが甘い!」
ガン、とセリアの剣がヘリオンの剣を弾いた。ひぅ、と小動物じみた反応でヘリオンは身を竦める。
「目を閉じない! ちゃんと前見る! この程度で腰が引けてたらこの先やっていけないわよ!」
「せ、セリアさん顔が怖いですよぅ~」
ひー、と今にも泣きそうな顔で、危なっかしいながらも何とかセリアの激しい打ち込みを凌いでいく。
今この国のスピリット隊には、隊長の悠人と副隊長のエスペリアが不在だ。
女王からの密命を受け、一ヶ月前にラキオスを出た。
主戦力である悠人がいない今、この前のように奇襲されたら冗談にもならない。
皆を纏めるリーダー的存在であるセリアが、必要以上に気合を入れるのも当然と言えた。
「ていうか入れ過ぎー!」
情けない叫びを上げながら、ずざー、とヘリオンの身体が地面を滑っていく。
今のセリアは、そこらのレッドスピリットよりも周囲の温度を上げている状態だった。
「次! ──って、シアーだけ?」
視線を向けた先には、ちょっとおどおどとしている幼いブルースピリットの片割れがいなかった。
「あ……ネリーちゃんは、オルファと……」
「サボリね」
途端にセリアが渋い顔になる。ふぅ、と髪をかき上げ、
「まったく……ちょっと探してくるわ。アセリア、シアーの相手してあげて」
「ん」
アセリアが頷く動きで応じた。
「ファーレーン、次はヘリオンをお願いね」
「分かりました。──っと」
ひゅん、と顔の真横を掠めていった槍の穂先を目で追いながら、ファーレーンは答える。
相手は彼女の妹分、ニムントールである。セリアはそれを見ながら、屋外訓練所を出る。
その途中、入れ替わりに入ってきたヒミカとハリオンを見つけた。
「ああヒミカ。ネリーとオルファ見かけなかった?」
「私は見てないけど……ハリオンは?」
「うーん、分かりませんね~。ああ~、でも、ナナルゥが外にいるから知ってるかもしれないですよ~」
「そう。じゃ行ってくるわ」
言い残してセリアは立ち去る。二人は中に入っていった。
中では丁度、ファーレーンとニムントールの戦いに決着が着こうとしているところだった。
「ふっ!」
鋭い呼気と共にニムントールが〈曙光〉を突き出す。
ファーレーンは剣を逆手に持ち、もう片方の手をその峰に添えるようにして前に突き出す。
穂先が剣の鍔元近くに触れるその瞬間。ファーレーンは刀の向きをそっと傾けた。
傾けられたその方向に、刃の反りに沿って槍の軌道が変えられる。
受け止めるのではなく逸らす。激しさのない、優しい動き。それは優雅ささえ感じさせるものだった。
ニムントールが体制を崩す。そこに、順手に握り直し峰を返したファーレーンの〈月光〉が打ち込まれる。
だがニムントールもそう簡単には終わらない。傾く身体に逆らわず、〈曙光〉を地面に突き立てた。
地を蹴り身体を浮かせ、横一閃に流れる〈月光〉を飛び越える。
槍の長さに対し小柄な彼女ならではの動きだ。そのまま足の裏で姉の顔に蹴りを放つ。
が、ファーレーンはそれを首の動きだけで難なくかわし、既に〈月光〉を離した手でその脚を絡め取った。
そのまま捻るように引き落とす。ニムントールの手から槍がすっぽ抜け、地面に叩き伏せられる。
結果は、ファーレーンの勝利に終わった。
「ニムの動きは、ちょっと直線的過ぎるわ」
声色に微笑を乗せて、神剣を拾ったファーレーンは手を差し伸べる。ニムントールはそれを握った。
「それと次の戦場は砂漠だから、今みたいな避け方はできない。槍が刺さらないもの。分かった?」
うん、と素直に頷いてから、
「……お姉ちゃん、もう一回」
「でも私はヘリオンの相手しなきゃいけないし……困ったわね」
そう言ってファーレーンは周囲を見回す。ヘリオンにあてがう相手を探しているのだろう。
ニムントールにあてがう相手を、ではない辺り、妹離れできていないとヒミカは思う。
アセリアとシアーは現在訓練中なので、ファーレーンの視線は自分達に向くことになるのだが──
「あ~、それならわたしがやります~」
と、それを感じてかハリオンが名乗りを上げた。
「じゃあ、お願いしていいかしら」
「はい~」
ぱたぱたとハリオンがヘリオンの前に立つ。よろしくお願いします~、とハリオンが頭を下げる。
(ハリオンさんならセリアさんみたいに怖くないから、大丈夫だよね……?)
内心ほっとしつつ、こちらこそ、とヘリオンは返した。
が、
「じゃあ行きますよ~」
ずん、という音がして地面が僅かにへこんだ。
あ、と間抜けな声で反応するヘリオンの眼前には、いつも見ている笑顔がある。
本能が警告する。ヘリオンは素直にそれに従い、受身も考えないで後ろに跳んだ。
後退するヘリオンの腹を追うように、片手で握る〈大樹〉の石突が迫ってきた。だが長さには限界がある。
途中で止まったそれを見てほっとしたのも束の間。
「それ~」
くるん、とバトンを回すように〈大樹〉が回転。穂先が、油断していたヘリオンの頭上から降ってきた。
必死に後退しながら剣を振るうヘリオン。だが狐が兎を追うように降りた穂先がヘリオンを狙う。
完全に、機先を制したハリオンが主導権を握っていた。
右に左に、ヘリオンが必死に剣を振るって、繰り出されるハリオンの槍の悉くを凌いでいる。
だが──ヒミカは見抜いている。ハリオンは本気ではない。
ヘリオンがぎりぎり付いて来れる速度で攻め立てているのだ。そうしながら、少しずつ速度を上げていく。
そうすることでヘリオンも気付かぬうちにその速さについていくようになる。
元々、ヘリオンの潜在能力は高い。気弱な性格はやや不安だが、磨けば光る玉なのだ。
右耳を狙う鋭刃を首の動きだけでかわし、左肩に迫る切っ先を立てた神剣で凌いでみせる。
既に、槍は当初の三割以上速度を増している。
右膝、左脇腹、鳩尾、左脛、右胸、右肩、眉間、左腿、右脇、左鎖骨、下腹部、頚動脈──
各部位を正確無比に狙う穂先の群れを、ヘリオンはそれぞれ回避し、打ち払い、受け流していく。
やや余裕の出てきたヘリオンの動きに、ふふ、とハリオンは笑った。
(いい感じです~……)
後輩が成長していく姿を見るのは、純粋に嬉しい。
傍からそれを見ているヒミカも、ヘリオンの動きには感嘆せざるを得ない。将来、彼女は強くなるだろう。
──もっとも、そうなる前に、この戦が終わってくれることを望むのだけれど。
思わず、溜息をついた。
「──どうかした?」
とそこで、唐突に声がかけられた。横を振り向くと、いつの間にかセリアが立っていた。
視線を下にずらすと──そこには、首根っこを掴まれてぐったりしているネリーの姿。
「そっちこそ、それ、どうしたの?」
セリアは疲れ切った溜息を吐きながら答えた。ふと見ると、鮮やかな青い髪には、所々木の葉がくっついている。
「林の中で追いかけっこ、よ。まったく、お陰で全身青臭くなっちゃったわ」
「……気絶するまでやってたの?」
「垂れ下がってた木の枝に頭ぶつけたのよ。もう訓練が必要ないくらい走り回る羽目になったわ」
「良かったじゃない」
「良くないわよ」
セリアは不機嫌そうな顔をする。思わず、ヒミカは苦笑した。
「そう言えばオルファは?」
「逃げ切られた。……というより、途中でエスペリアに会ってね。そっちについて行っちゃったわ」
「エスペリア? 帰ってきたんだ。じゃあ、ユート様も」
「帰ってきてるみたいね。今は、お客様を連れてレスティーナ陛下のところに行ってるみたい」
ふうん、とヒミカは頷いた。そうか、帰ってきたんだ。
「……嬉しそうね?」
頬が緩んでるわよ、とセリアが指摘した。
ヒミカは思わず言葉に詰まる。そんなに、私は嬉しそうに見えるのだろうか。
「……それは……嬉しいけど。一ヶ月ぶりに帰ってきたんだし。
やっぱりユート様がいないと、戦力的に不安が残ったままだったから」
ふぅん、と今度はセリアが気がなさそうに答えた。何故か、ヒミカはいたたまれない気持ちになる。
「ハリオン、そろそろ代わってくれない?」
それを誤魔化すように、ヒミカは呼びかけた。
「はいはい~。それじゃ、そろそろ決着つけちゃいますね~」
その言葉を皮切りに──槍が一気に疾くなる。迫る猛威に、思わずヘリオンがひっと息を呑んだ。
突き出された穂先が戻り切らぬうちに次が迫る──そんな錯覚さえ抱かせるほどの速度。
一撃、二撃、三撃目までヘリオンは受け、しかし掬い上げるような四撃目で、〈失望〉を弾き飛ばされた。
ヘリオンが得物を喪う。完全に無防備になった、その姿に、
「──動かないでくださいね~」
ハリオンが笑みを深める。穏やかで優しい、いつも通りの彼女の笑みが──今は、恐怖でしかない。
ボッ、と空気が破裂した。ヘリオンの両ツインテールと顔の隙間を、左右ほぼ同時に何かが突き抜ける。
遅れてやってきた風が、ヘリオンのツインテールをばたばたと激しく棚引かせた。
残像すら認識できない、迅雷の如く繰り出された槍は、既にハリオンの手元に引かれている。
トスッ、と少し離れた場所でヘリオンの〈失望〉が地面に刺さった。
ヘリオンは、剣を弾き飛ばされた時の格好のまま動かない。
「あらあらあら~……」
まじまじとハリオンがヘリオンをためつすがめつ眺め回すが……完全に凍り付いている。
「ちょっとやりすぎちゃいましたかね~?」
首を傾げて、ハリオンは困ったように笑った。
「もう少し手加減してあげなさいよ、ハリオン。完全に凍ってるわ」
溜息に混じりに言いながら、〈赤光〉を携えたヒミカは二人の方向へ歩いていく。
「まぁいいわ。次は私ね。ヘリオンとやろうと思ったけど、しばらくは無理か」
「はいはい~、受けて立ちますよ~」
二人は軽い遣り取りをしながら、もう少し開けた場所へと歩いていく。
セリアは、ヒミカのその背中を見送っていた。
(『戦力的に不安が』、ねぇ)
それだけではあるまい、という確信が、セリアの中にはあった。
その言葉もまた本心ではあるのだろうが──ヒミカは悠人に惹かれている。それは間違いないだろう。
セリアにそれが分かるのは──セリアもまた、悠人に惹かれつつあるからだ。
恋と呼べるほど強い感情ではないにせよ、漠然とした好意が自分の胸には確かにある。
最初は、そんなもの欠片もなかったのだが……不思議と、彼には人を引き付ける力がある。
多分、ヒミカもまたそうなのだと思う。
(もっとも、本人は認めないかもしれないけれど)
そういう確信もまたあった。自分が悠人を好いていることを、きっとヒミカは認めない。
気恥ずかしさとか、そういったものとは別の部分で──彼女が、戦士であろうとすればするほどに。
それにしても、とセリアは思う。悠人とヒミカは良く似ている。
無論外見ではない。その在り方──他人の為に、自分の命を顧みないという点で、だ。
前に、ヒミカがぼやいていた。ユート様は今にも傷つき倒れてしまいそうで見ていられない、と。
だがそれを聞いた時、それはヒミカも同じことだとセリアは思った。
ヒミカは率先して敵の中に切り込んでいく。それだって、己の命を危険に晒していることに違いはない。
悠人は、仲間を死なせたくないがために。ヒミカは、後続の仲間が有利に戦えるように。
けれどヒミカのそれは、突き詰めれば仲間が傷つかないような戦場を作り出すということだ。
それはとりもなおさず、自分の命の危険を代償として支払うことで成り立つ。
それなのに彼女は悠人にばかり言うのだ。命を粗末にするな、と。
自分自身の在り方に気付かないほど、彼女は馬鹿ではない。ヒミカはそれを知った上で言っている。
──自分以外は死なせない。けど仲間のためなら、自分は死んでもいい。
ヒミカは、きっとそう思っている。
けれど、
(私だって、死なせたくないわよ)
セリアは思う。悠人もヒミカも、どちらも大切な仲間なのだ。死んで欲しくない。
だが──あの二人はどちらも自分の在り方を変えはすまい。その確信も、あった。
そしてそれは、ひどく、二人の昏い結末を予感させた。
賢者ヨーティア・リカリオンが第二詰所を訪れたのはそれから二日後のことだ。
勿論、ボサボサ頭に眼鏡、だらけたシャツといういつも通りの出で立ちである。
稀代の天才ということで少なからず期待していたヒミカは思わずぽかんとしてしまった。
セリアなどは見た瞬間思い切り眉を顰めていた。
「やー皆よろしくな。私はヨーティア・リカリオン、大天才だっ!」
だっ、の部分に思い切り力を込めてヨーティアは言う。セリアの眉根が更に皺の本数を増やした。
「おー、大天才! かっこい~」「いい~」
一部には人気だった。
「ふふふ見たかボンクラユート。お前も少しはこの子達を見習え。そして敬え」
「喜んでるのネリーとシアーだけだろ。第一詰所でも同じことやってウケたのオルファだけだし」
付き添いとしてイオと共に駆り出された悠人はすげなく答えた。
「そんなことはないぞ。なぁ、お嬢ちゃん?」
ヨーティアはニムントールへと視線を向けた。しかし当のニムントールはファーレーンの後ろに隠れ、
「胡散臭い」
セリアに負けないくらい眉根に皺を寄せてそう言い放ち、
「こらニム! そんなこと言っちゃ駄目でしょう! 人を見た目で判断しちゃいけません!」
ファーレーンが止めを刺した。ナイスコンビネーション、と悠人は心の中で親指を立てた。
「……まーそうだけどな。こんな格好してればそりゃ天才っぽくはないよな」
珍しくヨーティアがいじけている。大天才も、子供の率直な感想には勝てないらしい。
「そんなわけだからボンクラ、お前から私がどんなに素晴らしいかフォローしろ」
気のせいだったようだ。
「あー……ニム、こんなんでも一応多分ちゃんと天才だからさ。あんまりそういうこと言っちゃ駄目だ」
「フォローになってないっ! それに『一応』とか『多分』とか不確定要素に満ちた言葉を使うな!」
「いだだだだだだ」
ぎりぎりとヨーティアの指が悠人の耳を捻り上げる。分かった分かったと悠人は必死に振りほどいた。
「言い直せばいいんだろ言い直せば。まったく……」
喉の調子を確かめるように、あー、と発音し、
「ニム、見たまんまだから気にしなくていいぞ」
ガゴッ
今度は無言で脛に踵が食い込んだ。
「まぁ賢者だ何だって呼ばれてるけどな、ボンクラの言う通りナリもこんなだし。
私のことを呼ぶときは名前で呼んでくれればいいから。よろしく頼むよ」
無言の叫びを上げながらそこらじゅうをのた打ち回る悠人を無視し、笑顔でヨーティアはそう言った。
第二詰所の面々の自己紹介が終わったところで、よし、とヨーティアは頷いた。
「それじゃあ、そうだな。セリアとハリオンと、それとヒミカとファーレーン、ちょっといいか」
「何でしょう」
ファーレーンが問う。
「なぁに、そんな大した用じゃないよ。ちょっと調べたいことがあるだけさ」
口元に笑みを浮かべて言う。
「信用ならないなぁ」
ようやく脛の痛みから復活した悠人が、目尻に涙を浮かべたまま言った。
「別に妙なことしようってわけじゃないさ。それとも何か、私がこの子らを裸にひん剥くとでも思ったか?」
「そんっ──」
脳裏に、四人の裸身が一瞬滑り込んだ。
「──なことはないぞ。〈再生〉に誓ってありえない」
「今の微妙な間は何ですか」
眼を細め、じろりと悠人を睨みながら、セリアが詰る。
「まぁ、ユートさまも男の子ですからね~」
うふふふふと笑うのはハリオン。ヒミカとファーレーンは、顔を赤らめてそっぽを向いていた。
助けを求めるように他の面々を見るが、
「「ユートさまのえっち~」」
ネリーとシアーは愉しそうにユニゾンし、ニムからは睨まれ、ヘリオンも赤い顔をして顔を背けていた。
ナナルゥは相変わらずの無表情だったが……それが今は逆に怖い。
「弁解の余地はないようですね」
心なしか愉しそうに見える笑みを浮かべながら、最後の頼り、イオも悠人を遠ざけた。
(俺か!? 俺が一方的に悪いのか!?)
ううう、と悠人は頭を抱えてうなだれた。
ヨーティアに通されたのは、彼女専用の研究室だった。
「あーその辺に適当にかけといてくれ」
「その辺って……」
どの辺だと言うのか。本と書類とその他諸々でごちゃごちゃになった部屋には、座れる場所などありはしない。
唯一ハリオンが椅子を見つけて、本と書類の絶妙な隙間に置き、ちゃっかり座ってはいたが。
その他の三人は立ったままである。ヨーティアは奥の部屋に引っ込んでしまった。
「よーしこんなもんでいいだろ。おーい、一人ずつ来てくれー」
奥からヨーティアの声がかかる。四人は一度だけ顔を見合わせ、すぐさまセリアが立ち上がった。
他の三人は手持ち無沙汰になる。ファーレーンは瞑想を始め、ハリオンは手近な本を手に取って読み始めた。
もっとも、内容が分かっているのかいないのかは分からないが。
ヒミカもすることがないので、辛うじて内容が理解できそうな本を手に取った。この国の歴史書である。
五分くらいして、セリアが出てきた。次は私が、と入れ替わりにファーレーンが入っていく。
「何してたの?」
ヒミカの問いに、セリアは答えた。
「そんな大層なことでもないわよ。神剣の調子とかマナ放出量とかそういうの測られただけ。
ラキオスのスピリットが、どれくらいのものなのか調べたかったみたいね。あと神剣のことも」
「神剣?」
「そう。大天才の頭脳を以てしても、永遠神剣のことは完全には解明できてない、って言ってたわね」
それはそうだろう、とヒミカは思った。人間には、永遠神剣は扱えない。
もっともスピリットにしても、先天的に『理解』しているだけで、『解明』しているとは言い難いのだが。
立ち去るセリアを見送って、何気なく、ヒミカは自分の剣を見た。
ヒミカの神剣〈赤光〉は、ヒミカにとっては頼れるパートナーだった。
戦いを強制しないわけではない。しかしこの神剣の意志は人というよりは動物的なものだった。
語りかけて、言葉が返ってくるわけではないが、漠然とその意志は分かる。
戦いに身を置くヒミカにとって、戦闘においていつも応えてくれる〈赤光〉は頼もしかった。
それが一体『何』であるのか──生まれた時から側にありながら、誰もそれを知らない。
永遠神剣が何であるのかも、自分達がどこから来たのかも。
それを不安に思ったことは、ないけれど。自分の立ち位置くらいちゃんと把握しているつもりだ。
「ヒミカ~?」
はっと顔を上げた。間近にハリオンが立っている。
「ヒミカの番ですよ~。わたしももう終わっちゃいましたし~」
「ああ……分かったわ」
考え事をしているうちに時間が経ってしまったらしい。ファーレーンの姿も既にない。
ハリオンを送り出して、ヒミカはヨーティアの待つ部屋へと入った。
「失礼します」
「おー、ちょっと待ってくれ。今纏めてるから」
イオの操作する無骨な計器類とにらめっこしながら、ヨーティアはせわしなく紙に何か書き込んでいた。
十秒ほどで手を止め、ガシガシと頭をかいた。
「ん~、これでよし。ああそれじゃ、あんた、ヒミカだっけ? 神剣持ってそこに立ってくれ」
とヨーティアが指差すのは、表面に複雑な幾何学模様の描かれた台座だった。
言われるままに、ヒミカはそこに立つ。
「よし、それじゃあ神剣に力を通して。いつも訓練でやってるみたいに、マナを安定させてみてくれ」
「はい」
頷き、眼を閉じて神剣に意識を集中させていく。
神剣を通して投影されるイメージは、闇の中に浮かぶ炎だ。ゆらゆらと揺れる、強く、しかし不規則な力。
それを常に同じ程度の炎に安定させていく。風のない夜の中で灯る炎。留まる赤。
揺らぐべき炎を、揺らがぬ意志の統制下に据えるということ。
ピン、と張り詰める糸のように自分の意識を制御する。その状態をしばらく保ち──
「はい良ーし。もう楽にしていいぞー」
ふっ、とその炎を吹き消した。
眼を開けると、やはり紙に何か書き込んでいるヨーティアの姿があった。
イオは既に計器類を片付け始めている。もう終わりということだろう。
「はーん、やっぱりラキオスのスピリット隊は優秀だな。安定してるし出力デカいし。
それに何と言っても、神剣の意志に引っ張られてないのが素晴らしい」
ヨーティアはにやりと笑いながら言った。
「そうでもありません。幼いスピリット達は、安定しているとは言い難いです」
ヒミカはそう言ったが、ヨーティアは軽く答えた。
「そこはそれ年齢的なもんだろう。ガキはいつだって奔放で自由で不安定なもんさ。それで普通だよ。
寧ろ注目すべきは神剣に飲まれてないってとこだな。……ユートのお陰か?」
どきりとした。会って間もないのに、そこまで見抜いたのだろうか。
「その反応じゃ正解ってところだな」
にやりと笑う。
「天才を甘く見ないでくれよ、嬢ちゃん。……まぁそうでなくとも見てりゃ分かるんだけどな。
あんただって気付いてるだろう。あのボンクラ、この上ないお人好しだってさ」
「……はい」
最早周知の事実と言ってもいい。誰かを護ろうとすることに一生懸命で、そして、
「そして、何でもかんでも自分で背負おうとする人間だ。甘えることが苦手なんだなぁ、要は」
こりゃあ年上の魅力で癒してやらないとなぁイオ。ヨーティアの言葉を、しかしイオは意図的に無視した。
しばし反応を伺っていたヨーティアだったが、それがないことを知ると、今度はヒミカに矛先を向けた。
「あんたらから見て、ボンクラ……いや、隊長はどんな人間だ?」
そう問うてきた。
「……大体は、今仰っていたことと同じです」
何となく神剣に視線を落としながら、ヒミカは答えた。
「ですが、更に言わせて貰うなら──いつも見ていて不安な戦い方ばかりしています。
私達に怪我をさせまいといつも先頭に立って戦っています。……敵を殺すのは、今だって辛いはずなのに。
なのに前に立って戦って、傷ついて、斃れそうで……そんなのは、見ていて、辛い」
だから自分が護りたいのだ、と心の中だけで呟いた。
「はーん……」
ヨーティアはそれを聞いて、何故か愉しげに笑んでいた。
「何か?」
「いやな、ボンクラ愛されてるなぁって思ってさ、あんたに」
「…………ッ」
愛されて、って、そんなことは。
「違うのか?」
一目で意地悪と分かる笑顔でヨーティアが問う。
「違──」うのだろうか。
ヒミカは、一度深く息を吸い、吐いた。そして、答える。
「……違わないかもしれませんが、恋愛感情のそれでは、ありません」
「ほう。あくまで親愛なる隊長殿、である、と?」
「──そうです」
そう口にした時、どすりと重りが自分の中に落ちてきた気がした。
でも実際にそう思うのだ。
恋愛感情などというものはヒミカには分からなかったし──これから分かるつもりもない。
恋など、戦う上では余計なものだから。護るために戦う自分がそんなものを持つことは許されない。
悠人のことは隊長として、仲間として尊敬しているし、それが好意じみたものに変わるのも理解できる。
だがそれは悠人に恋愛感情を抱くこととイコールにはならないのだ。
敬愛と愛情は違う。そしてヒミカは自分の抱くそれが敬愛だと判じている。──そうでなくてはならない。
──そうでなくては、私は私の目指した私で在り得ない。戦士であることを望んだのなら。
戦士として生きると決めた時点で、個人の幸せも、何もかも捨てたのだから。
「……頑なだねぇ、どうも」
ガリガリと後ろ頭を描きながらヨーティアが渋い顔をした。
「あんたもあのボンクラも、もちっと楽に生きてもいいんじゃないかと思うがね」
言って、はぁ、と息を吐く。
「まぁそこは自分の問題だからどうも言えないんだけどな、結局は。……もう帰っていいよ」
俯いて黙ってしまったヒミカを気遣ってだろう。ヨーティアは敢えて突き放すように言った。
ヒミカは立ち上がり、失礼します、と告げて部屋を出た。
ヒミカの去った部屋で、イオはよろしいのですか、と問うた。
「何がだい?」
「ヒミカ様が、です。やや不安定なように見えますが。──色々と」
イオは、その全てを見晴るかすような赤い瞳で、ヨーティアを見た。
「いーんだよアレで。あんな風にしちゃあいるがな、結局のところ悠人を好きなことに変わりはないさ。
それが本物になるか誤魔化したままで終わるかは、二人次第ってところだけどねぇ。
まぁ、どちらにせよ悪い結果にはなるまいよ」
言って、ヨーティアは書き付けていた書類を放り投げた。それを上手くイオがキャッチする。
「しかしこの国のスピリットは大したもんだな。ちゃんとそれぞれ自分ってものを持ってる。
そうさせたのがあのボンクラだってんなら……成程、慕われるのも当然、か」
ぎぃ、と椅子を軋ませて、ヨーティアは天井を見上げた。
「レスティーナ殿も言ってたな。ユートはなくてはならない人材だ、と。
確かに、国を引っ張っていく勇者が人とスピリットを区別しないとなればその影響は大きいか。だが──」
もう一度椅子を軋ませて、ヨーティアはイオを見た。
「あいつは自分で色々背負っちまおうとする性格みたいだけどさ。
私らも、あいつに色々と背負わせすぎじゃないかね?」
イオは答えなかった。
──そして、マロリガン共和国との戦争が開始された。
ラキオススピリット隊は順調に進軍、スレギトまで到達したものの、マナ障壁の前には撤退するしかなかった。
その後、悠人達はヨーティアと共にマナ障壁発生施設まで潜入することに成功したが、
しかし止めれば爆発、という厄介な仕掛けを施されたそれは、如何に賢者と言えど易々とは解除できず──
結果として現在、悠人達はランサを防衛ラインとしての防戦が余儀なくされている。
急ピッチで解除方法の模索が行われているが、十日が経った現在でもまだその報告はない。
途中、砂漠で倒れていたウルカを見つけ捕虜としたが、実際の扱いは客分そのものだった。
常に前線で戦ってきたウルカからは、帝国に関する有益な情報を聞き出すことはできなかったが、
佳織の無事を確認できただけでも悠人にとっては僥倖と言えた。
無論、重鎮達からの反発はあったが、そこはそれレスティーナの手腕が物を言った。
現在彼女はラキオスのスピリットの館に居候する身である。
そして悠人は──兎に角疲弊していた。
作戦会議と前線の防衛で毎日ラキオスとランサを往復する日々が続いている。
エスペリアなどは少しくらいなら代わると言っているが、しかし悠人はそれを頑なに受け入れなかった。
その理由は、察するに余りある。
マロリガンの擁する二人のエトランジェ──
〈因果〉の光陰と〈空虚〉の今日子は、悠人のもといた世界では彼の親友だったからだ。
ヒミカには、悠人がそうして多忙に身を置くのは、それを忘れたいからではないのか──そう思えた。
親友が敵に回る、というのはヒミカには想像もつかない。
だから今の悠人の心境を察することも理解することも出来ない。
出来ないけれど──放っておけばそのうち倒れてしまいそうなのは確かだった。
(やっぱり、休むよう言うべきかしら)
聞き入れるかどうかは別として、とヒミカはミトンを両手に嵌めながら思った。
火傷しないように気をつけながら、そっと丸く背の低い金属の筒を取り出した。
その仲には、見事なキツネ色のスポンジが膨らんでいる。少し冷ましてから、スポンジを取り出した。
指で軽く押すと適度な弾力を伝えてくれる。上出来、とヒミカは笑みを深めた。
通常はランサの街から少し離れた、砂漠方面へと構えられた砦での防衛任務があるのだが、今は非番だった。
ランサの砦の内側に立てられた臨時詰所は、ラキオスのものと遜色ない設備が置かれている。
なのでヒミカは、暇な時間を利用してケーキを作ることにしたのだ。
ヒミカはハリオンを始め皆が一目置くほど、ケーキ作りが得意だった。
あまりその腕を振るうことはないが、たまには、任務で疲れて帰ってきた仲間に振舞うのも悪くない。
……本当なら、こんなことせずに自主訓練しているのが常だったが、どうもそんな気になれなかった。
原因は何だろう、と考えると、何故か浮かんでくるのは悠人の顔だった。
頭を振るって浮かんだ顔を払う。どうしてそこで彼が出てくる。
必要以上に疲れていく悠人が気になるのは確かだったが、それは強い理由にはならないはずだ。
意識しているのだろうか、と思うが、それを自ら否定する。そんなことはない。
だがそう否定する時点で意識しているのだということに、ヒミカはついぞ気付かない。
それよりも、とヒミカは思考を切り替える。今はケーキ作りと、そして現在の戦況のことを考えるべきだ。
今、ラキオスが置かれている状況は良いとは言えなかった。
こちらはマナ障壁のせいで進撃できないが、それを制御できる相手は攻め放題だ。
しかしだからと言ってこれ以上後ろに下がってしまえば、このランサは落とされる。
障壁はマナの少ない砂漠地帯でしか使えないとはいえ、これ以上進まれては更に攻める余地がなくなる。
そしてまた、ランサはマロリガンとラキオスを繋ぐ境界だ。
ここがマロリガンのものとなった場合、相手側に侵攻の足がかりを与えることになる。
進めもしない、退けもしない。今ヒミカ達が置かれているのは、そんな狭苦しい状況だった。
そして退けない防衛戦というのは、否が応にも兵力を疲弊させる。精神的・物理的に余裕がないからだ。
対し、マロリガン側は気が楽だろう。攻められる恐れはなく、攻めて負けそうになれば退けばいい。
その余裕と、そしてまた更にこちらを疲弊させるためか、マロリガンは連日、攻撃を仕掛けてくる。
しかも相手は、マロリガン共和国の精鋭である稲妻部隊である。
神剣に呑まれた者は一人もおらず、そして一人ひとりがまた強い。
そして自分の意識をちゃんと保っているということは──自分の命を惜しむということでもある。
故に攻め込む立場にありながらも、無理はしない。
負傷者は速やかに退いて回復し、動けるものが入れ替わって前に立つ。
そして戦闘時間が長引くと撤退する。ここ最近はずっとそんな戦いばかりだ。
だから、ヒミカ達はただの一人でさえ、稲妻部隊のスピリットを殺せていない。
当たり前にスピリットが死ぬ戦場においては、ある意味それは異常な事態とも言えた。
もっとも、悠人が参入してからそれはここに至るまで一人も欠けていない自分達も同じではあるが……
隊長の有能さ、皆をまとめ引っ張っていく力が兵の生存率に繋がると言うのなら、
(──あちらの指揮官も相当のもの、か)
そしておそらくその指揮官が、前に砂漠で姿を見せたエトランジェ・〈因果〉のコウイン。
神剣に呑まれているらしい今日子の方もそれはそれで脅威だが、ヒミカは本能的に光陰を『強い』と感じた。
態度こそ飄々としているようだが、その実、瞳の奥で鈍く光るものがある。
そして何より──迷っていなかった。かつての親友を前にして、殺すとさえ宣言した。
或いはそれは感情を殺しているだけかもしれないが、殺している時点で、その意志の強固さが伺える。
そんな人間に率いられた部隊が、強くならないはずがない。
そんな戦士達と、自分達は何とか拮抗している。否、善戦と言っていいだろう。
数量的に劣っており、そして余裕のない戦いでありながらも、今まで耐えてきたのだから。
だが──それは耐えているだけであって、決して勝てているわけではない。
自分達は波濤に削られる岩のようなものだ。ヒミカは思う。
最初は高くても、繰り返し波が打ちつける度に削られていき、最後には波間に消えてしまうような。
事実、最初の頃に比べ、一回の戦闘で出る負傷者の数が増えてきている。
エスペリア達グリーンスピリットのお陰で、次の戦闘にまで傷を残すことはない。
だが傷は回復しても、肉体的な疲れは完全に癒されるわけではないのだ。自然、疲労は蓄積する。
精神的にもそろそろ限界が近いだろう。自分などは兎も角、精神の幼いオルファ達のことは不安だった。
長くは持つまい。ヒミカは現状をそう認識していた。
早いところヨーティアに改善策を見出して欲しいものだが、こればかりは焦っても仕方ない。
踏ん張るしかないか、と溜息混じりに思った。
とそうこうしている内に、ケーキが完成した。
無意識のうちに作ってしまったが、ちゃんと出来ている。上に載った切ったネネの実が美味しそうだ。
上出来、と自賛しながら一人頷いたところで──悠人がリビングに入ってきた。
ふぅ、と無意識の溜息をつきながら、悠人はリビングに足を踏み入れた。
使い慣れたはずの、腰に下げた〈求め〉すら重く感じる。鏡を見れば、ひどく疲れた顔が映ることだろう。
つい今も、ラキオスでの作戦会議に立会い、エーテルジャンプで戻ってきたところだった。
エーテルジャンプするたびに身体がだるくなる気がする。
エーテルジャンプは使用者のマナを別の場所で再構成する技術だが、マナが不足している土地ではそれも不
完全なものになるんじゃないだろうか、と益体もないことを言ってみた。
無論ヨーティアの(性格は兎も角)技術力を信用していないわけではないので、冗談なのだが。
そんなことを考えたくなるくらい疲れていたユートは、エスペリアにお茶でも入れてもらおうと思ったのだが、
「……そっか、エスペリアはまだラキオスだっけ」
雑事があって少し遅れると言っていた。その程度も覚えていない自分が、いい加減不安になってきた。
さて、ではどうしよう。肝心のエスペリアがいないとなると、自分でお茶を入れるしかないが。
まぁそれもいい。前に淹れた自分のオリジナルブレンドは、佳織に好評を博した。
再会した時の為に、もっと美味しいお茶を淹れられるようになっておくのもいいだろう。
そう思いつつ台所へ足を向けると、
「──ユート様?」
丁度出てきたヒミカと遭遇した。
「ヒミカ? 何やってるんだそんなとこで」
きょとんとして問うと、途端にヒミカは素早い動きで台所への入り口を塞いだ。──何故か赤い顔で。
そして何やら誤魔化すようなぎこちない笑みを浮かべて、言った。
「いやその、なんでもありません、よ?」
「……いや、何やってるんだ?」
微妙に異なるニュアンスを込めて悠人はもう一度問うた。あからさまに様子がおかしい。
首を伸ばして見ようとするとそっちの方向をブロックされた。
何か隠しているのは分かるがそれが何なのかは分からない。
台所で見られてまずいものというと……失敗した料理とかぐらいしか思い当たらないのだが。
(それはそれで興味があるなぁ)
そう思った。それに、隠されると余計見たくなるのが男のサガである。所謂チラリズムという奴だ。
それは違うか、と脳内で自己完結しつつ、悠人は左右に動いて。ヒミカもその動きについてくる。
どうあってもここから先には通さないつもりらしい。
いつしか二人とも、互いの間合いを計りながらじりじりと足の裏だけで左右に動き始めた。
悠人は元の世界でのバスケットの授業を思い出した。何となく、状況が似ている。
となれば、と悠人は右半身に力を込めそちらに抜ける素振りを見せた。ヒミカもそちらに注意を向ける。
予想通りの動き。悠人は右に込めた力を抜き、一瞬で左足を踏み出した。
「…………ッ!」
フェイントを喰らったヒミカはたたらを踏む。隙を突いて、悠人は台所の入り口の縁に手をかけた。
そのまま身体を引き寄せるようにして、期待と共に中を見る。
そこには、見事にデコレーションされたケーキが鎮座していた。
「おぉ、美味そうだな」
率直な感想を口にした。ケーキは、そのまま店に出しても良さそうなくらいに見える。
「これ、ヒミカが作ったのか?」
訊くと、手を前で組んだヒミカは、赤い顔ではいと答えた。
「へぇ、ヒミカケーキ作るの上手なんだな。意外だ」
感心して悠人は言う。当のヒミカは更に顔を赤くして俯いてしまった。
「……やっぱり、似合いません、よね」
普段の威勢は何処へやら、すっかりしおらしくなってヒミカは言う。悠人は慌ててフォローした。
「ああいやそんなことはないぞうん。やっぱり女の子だもんな、お菓子作りとか得意なのはいいと思う」
女の子、という言葉にヒミカの心は少しだけ重くなる。
「得意、というわけでもありません。戦いの合間に、手慰みに覚えたことですから……」
「そうか? 自慢していいくらいだとだと思うけど。にしても、美味しそうだなぁ」
そう思っていると、不意に悠人の腹がぐぅ、となった。
思わず二人して顔を見合わせ、そして笑い合った。
「お食べになられますか?」
「ああ、頼む。できればお茶もつけてくれ」
承りました、とヒミカは頷いて、台所に入った。
ケーキを見られたのは恥ずかしいし、女の子扱いされたことに対してしこりは残るが──
それでも、自分の作ったものを食べてくれる人間がいるというのは嬉しいものだ。
悠人は椅子に座り、ケーキを切り分けるヒミカの後姿をぼんやりと眺めた。
ここにいる間、ずっとヒミカも悠人も戦闘服だ。襲撃の際その都度着替えている余裕などない。
ケーキサーバーが見つからないのか、ヒミカが身を屈める。
戦闘服の生地は薄いわけではないが、身体にフィットするように出来ているので、自然ラインが浮き彫りになる。
思わず悠人はそれに眼を奪われかけるが────その瞬間に、奇妙な予感があった。
これは来るな、と。
──ぎぃぃぃぃぃぃぃぃ……!!
石の壁を割れた爪で掻き毟るかのような不協和音が、音ではなく痛みとして脳髄を滅多刺しにする。
マナを奪え、と言うことすらなく、〈求め〉は強制を課してくる。無論、目の前のスピリットに対してだ。
何度も味わっているとは言え、慣れることのない痛みがこの身を苛む。
「が、ぁ」
背中を曲げ声を殺して、背筋を駆け上ってくる悪寒と飢餓感を必死に押さえ込む。
テーブルに突っ伏すようにしながら、ガリガリとその表面を引っ掻いた。
いつにも増して酷い痛みが、身体中を駆け巡る。それに耐えながら、収まるまでヒミカが来ないよう祈った。
「──ユート様っ!?」
だが間に合わなかったようだ。或いは気付かれたのか。
ヒミカが、驚愕と不安を綯い交ぜにした表情を浮かべてこちらに駆け寄ろうとする。
「近づくなッ!」
精一杯それだけを叫んだ。びくりとヒミカがその場に立ち竦む。伸ばしかけた手が所在無げに下ろされた。
手の届く場所にくれば、何をしてしまうか分からない。来るな、と思う一度言って、身体に力を入れた。
腹、減ってるのは分かるけどな、と思いつつ、悠人は〈求め〉を握り、振り上げ、
「頼むからもう少し黙ってろバカ剣ッ!」
振り下ろす。がごん、と音を立てて、〈求め〉の切っ先が床に食い込んだ。
干渉がやむ。それに何とか安堵しつつ、悠人は〈求め〉を引き抜いた。
「ユート様、大丈夫ですか!?」
悠人が顔を上げたのを確認して、今度こそヒミカが駆け寄ってくる。大丈夫だ、と悠人は答えた。
「今のは──神剣の干渉ですか」
「ああ……ここ砂漠だし、まともに戦いらしい戦いもしてないから、こいつも腹減ってるんだろうな……」
『…………』
そのことに関しては、悠人は少し〈求め〉に対して申し訳なく思った。腹が減れば誰だって辛いものだ。
「お身体のほうは──」
「大丈夫だよ。一度収まれば後は楽なんだ。だから、」
大丈夫、と安心させるために立ち上がろうとして──失敗した。
膝が折れ、がくんと視界が一気に下がった。ユート様、とヒミカが呼びかけながらその身体を抱き留める。
「ああ、すまない」
抱き締められるような形でヒミカに身を預けたまま、はぁ、一息ついた。自嘲気味にはは、と笑って、
「あんまり気付いてなかったけど、何だか俺相当疲れてるみたいだ……」
「毎日あんなに頑張っていては当然です。少しお休みになったらいかがですか?」
そう言うと、何故か悠人は無言になった。否定を意味する沈黙だ。
だからヒミカは、別のことを訊いた。
「……ご友人のことが、お気にかかりますか」
「……ああ」
僅かな沈黙の後悠人は答えた。悠人の頭はヒミカの肩に乗っていて、その表情は窺い知れない。
ただ、身体が強張るのは分かった。
「……どうしてこんなことになっちゃったんだろうなぁ」
吐息のように悠人は言った。ヒミカは答えない。どうしてだろうな、と悠人はもう一度呟いた。
しばしの沈黙の後、悠人の身体を押すように離しながらヒミカは言う。
「神剣のほうは大丈夫ですか?」
「あ、ああ。もう干渉はないと思う」
話題の転換に戸惑いながらも、悠人は答えた。〈求め〉は沈黙している。
干渉は厄介だが、腹が減ってるのは分かる。悪いな、ととりあえず心の中で謝っておいた。
「ユート様、もしかしてとは思いますが、これまでにも──」
「ああ、何度もあったよ。その割には慣れないし、正直言うと結構辛い」
そんな弱音を吐いてしまったのは、ひどく疲れてしまっていたからだろうか。悠人は思った。
だから次に出た言葉も、悠人が気付き、喉に制止を書ける前に滑り出してしまった。
「毎回毎回五月蝿くてな。──ヒミカを奪え、って」
「私を……ですか?」
あ、と間抜けな声を出すが、もう遅い。
奪う、というその言葉の意味を既に、しかも正確に咀嚼し終えたヒミカが、赤い顔でこちらを見ていた。
「いや、別に俺自身がそうじゃなくってだな。前に一回あってそれからずっとコイツが」
『始めに劣情を抱いたのは汝であろう』
ぼそりと呟くような〈求め〉の言葉が悠人を硬直させる。何でこんな時に限って喋りやがるかコノヤロウ。
念のために言っておくが〈求め〉が欲したのはヒミカだけではない。アセリアやエスペリア達もだ。
だがそれでも、一番欲した回数が多いのは確かにヒミカだったりするのだが──
それを言ったところでどうにもならないし、逆にマズいことになりそうなので悠人は沈黙するしかない。
ヒミカも赤い顔のまま黙っているので、当然二人の間に会話はなくなる。
そして──悠人は今更気付く。
ヒミカと自分の距離が、近い。
さっきまで抱き締められるような格好だったのだから当然と言えば当然だが、それにしても近すぎた。
吐息が触れ合う程の至近距離で、二人は見詰め合うような格好になっていた。
音のない声で、あ、と喉が動く。
間近で見るヒミカの顔は、ひどく綺麗な気がした。
砂に塗れた赤い髪と、少年のような凛とした顔。鮮やかな紅の瞳が微かに潤んで見えるのは、気のせいだろうか。
開いた窓から吹き抜けてくる乾いた風が、赤い髪を揺らした。
お互いの息の音がはっきりと聞こえた。
そしてどうしてか──それをもっと近くで聞きたいと思った。
これだけ近いのにもっと近くで。耳朶を通してではなく──肌を通して。
どちらからともなく、距離が短くなっていく。ヒミカが瞼を半分だけ閉じた。
悠人の頭の中は真っ白だったが、それでも勝手に身体が動いてく。
心臓の音が五月蝿かった。下ろされていたヒミカの手が、悠人の服の裾を握り締めている。
距離がなくなる。近づいていく。あと3センチ、2センチ、1セン
「ユート様ッ!!」
がたたん!と悠人とヒミカは瞬時に立ち上がった。リビングの入り口に息を切らしたセリアが立っている。
「ななななななななな何だセリア何もしてない何もしてないぞ何もしてないからななぁヒミカ」
「ええそうです何でもないです私とユート様は何もしてませんしてないです」
ガクガクと明らかに挙動不審な素振りで二人は捲し立てる。つまりそれほど混乱していた。
「別にいちゃつこうが乳繰り合おうが喧嘩しようが知ったこっちゃないですから少しは落ち着きなさい!」
セリアが一喝し、仕切りなおすように大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「──敵襲ですユート様! 先刻、マロリガン共和国稲妻部隊の存在が確認されました!」
途端、悠人とヒミカの顔が引き締まる。
各々神剣を握り締めリビングを出て、すぐに駆け出した。
先導するようにセリアが前を走る。広くない臨時詰所を駆け抜け、乾いた風の吹き付ける外に出る。
「セリア、数は!?」
「確認された限りでは三十以上です!」
多いな、と悠人は呟いた。これまでの襲撃では多くとも二十を超えたことはなかった。
「総力戦、ということでしょうか」
「ああ……いい加減、向こうも痺れを切らしたのかもな」
ヒミカの言葉に頷きつつ、悠人は次の問いを発する。
「他の皆は」
「全員既に砦に集結しています。ナナルゥ、オルファは砦の上に配置しました。
エスペリアも先程戻ってきてすぐ向かいました。あとは私達だけです」
「分かった。急ごう」
はい、とセリアが頷き、三人は速度を速める。ヒミカは悠人の後ろを走っていた。
その大きな背中を眺めつつ──先程の距離を思い出す。
足を緩めることはしないながらも、ヒミカは指を口元に持って行き──指先で一度だけ、唇をなぞった。
ヘリヤの道の途中、砂漠の入り口、ランサを防衛する砦の前に、ラキオススピリット隊は集結していた。
ここがランサを護る第一防衛ラインであり、そして最終防衛ラインである。退くことはできない。
皆、沈黙して砂漠の彼方を見つめていた。既に神剣は敵スピリットの気配を感じ取っている。
空は晴れていた。青空の下、百メートル先の砂丘の向こうから、
「──来ました!」
エスペリアが叫ぶ。
砂丘の向こうからスピリット達が姿を現す。青と黒の影が空を舞い、緑と赤が砂丘に並んだ。
「……多い、ですね」
静かに、それらを眺めるファーレーンが言う。立ち並ぶ影は、四十を下らない。
「途中で伏兵と合流したのでしょうか」
「だろうな。他にもいるかもしれないから、気をつけとかないと」
ヒミカと言葉を交わし合いながらも、視線は砂丘から離さない。
スピリットの軍隊の先頭に──グリーンスピリットが一人、進み出た。
明らかに他とは一段以上上の力が伝わってくる。間違いなく、彼女がその軍を率いているのだろう。
そのグリーンスピリットは己の槍を天へと掲げ、
──その切っ先を、悠人達へと振り下ろした。
それが開戦の合図となる。
四十のスピリット達は鬨の声を張り上げながら百メートルの距離を疾走してくる。
「撃てぇっ!!」
悠人も負けじと声を張り上げ、それに砦の物見に立つオルファとナナルゥが応じた。
「「フレイムシャワー!!」」
二人の声が重なり、同心円を描く二重の魔法陣が伸ばした手の先に展開する。
轟、と唸りを上げながら、限界まで引き絞った弓弦のように、二つの炎の塊が天空に躍り出た。
双子の炎は高く高く蒼穹へと上昇し──
風船が割れるように弾け、数秒の間を以て砂の大地へ、そこにいる妖精達へと降り注ぐ。
その名に違わず夕立のように落ちてくる灼熱の群れに、敵の赤い妖精が腕を振り上げる動きで応じた。
「──アークフレア!」
大気が破裂する音。
降り注ぐ驟雨の中心で炸裂した神剣魔法が、雨粒を次から次へと飲み込み誘爆させていく。
震えるような、十重二十重に重奏する爆音が砂漠を揺るがす。
巻き上がる砂塵に呑まれ、妖精達の姿が見えなくなった。──だが、それも短い間だ。
砂塵を長く伸びた羽衣のように纏いながら、スピリット達が宙へと躍り出た。
風が吹き、砂が風下へと吹き飛ばされていく。その下を潜るように残りのスピリット達も駆けてくる。
神剣魔法の攻撃を受けてか、隊列は千々に乱れていたが、それでもその闘気は衰えない。
「来るぞ! オルファ、ナナルゥ、降りて来い!」
了解、と落ち着いた声と元気な声が重なり、二人が飛び降りてくる。
セリアが皆を奮い立たせるように叫んだ。
「アセリア、ネリー、シアーは私についてきて! 空飛んでる奴ら叩き落すわよ!」
「ん!」「了解ッ!」「りょ、了解~」
三者三様に応える声。ばさりと、四つの青が同じ色の空へと飛翔した。
「オルファ、ナナルゥは引き続き神剣魔法による援護を! ハリオンとニムは二人を護って! 私は前に出ます!」
エスペリアが告げ一歩前へ。呼ばれた四人も応え、後ろに下がって陣を敷いた。
最後に、悠人が叫ぶ。
「俺達も正面から迎撃するぞ! ついてきてくれ!」
『はい!』
エスペリア、ファーレーン、ヘリオン、そしてヒミカが答え、敵陣へと突っ込んでいった。
十三対四十。数字の上では三倍の開きのある二部隊の激突。
エトランジェたるユートの力を以てしても埋めがたい差の中で、戦闘は開始された。
正面を突っ切る悠人達は、悠人を中心に広く扇形の陣形を取って進撃する。
目の前にいるのは主に俊敏性と連続攻撃に長けたブラックスピリット達。
およそ十人ほどが、鞘に収めた神剣の柄を握ったまま、低く滑るように向かってくる。
「うぉおおぁっ!」
激突する目前で、裂帛の声と共に悠人が〈求め〉を真横に薙ぎ払った。
マナを乗せた剣圧が黒い妖精達にぶつかり、その足を止めさせる。
そこにヒミカ達が突っ込んだ。数で勝る敵の妖精達を勢いで吹き飛ばしていく。
ファーレーンの居合が敵スピリットの胸を十字に切り裂いた。ぐらりとよろけ、斃れようとする身体。
だが──突如として、死に絶えようとしていたその身体が淡い緑の光に包まれ、傷が癒されていく。
他も同様だ。勢いに押され傷を負ったスピリット達の傷が一度に癒される。
(ハーベスト……!)
グリーンスピリットの使う、治癒の神剣魔法の名を思い浮かべながら、ファーレーンは回復し再び斬りかか
って来た目前の敵を蹴り飛ばした。
右から差し出される刃を打ち払い、これもまた蹴り飛ばした。
斬ってもまた回復される、ということを想定して、相手の殺傷よりも自分の離脱を考えてだ。
同じく敵から離れたヒミカは、敵を前にして硬直してしまっていたヘリオンの助けに入る。
場慣れしていない彼女は、斃したと思った敵に復活されて、一瞬混乱状態に陥ってしまったのだ。
「何やってんのっ!」
叱責と共に飛び膝蹴りを敵スピリットのこめかみに見舞った。一瞬にして、その敵の意識が刈り取られる。
ふらりと倒れそうになったそれを、仲間の黒スピリットが素早く掬い上げて、遠ざかった。
ナナルゥのファイアボルトによる援護射撃が行われるが、それも上手くかわしながら自陣へと退いていく。
いつもと同じか、とヒミカは歯噛みした。決して無理はしない戦い方。
「た、助かりました~。けど、なんで回復しちゃうんだろう……」
感謝と疑問を、ヘリオンは同時に投げかける。あいつらよ、とヒミカは奥の砂丘を視線で示した。
そこには、一番最初に見た、稲妻部隊を率いるグリーンスピリットが立っている。
その周りにも数名のグリーン。直接戦いに参加せず、戦局を見極めながら傷を負った仲間を癒していく。
中でも特筆すべきはリーダーのグリーンだ。回復の量と範囲が並ではない。
これまでにも幾度となく、彼女は襲撃の際参加していた。
敵スピリットが一人も喪われていないのは、あのグリーンによるフォローが大きいとも言えるだろう。
(厳しいわね……)
心中で一人呟く。が、だからといって攻撃の手を緩めるわけにも行かない。
「行くわよ、また次が来る」
「は、はいっ」
ガギン!と鈍い音が空に響く。
セリアは神剣ごと敵のブルースピリットを叩き落した。
斃せなかったことに舌打ちする。空中では立体的な攻撃ができるが、立体的な回避もまた可能だからである。
例え重い一撃を加えても、受け止められてその勢いに乗って逃げられては、次を加えることもできない。
よって現在セリアがやっているのは、向かってくる敵を片っ端から跳ね返すように叩き落とすことだけだ。
まぁ、敵は皆自分達に向かってきてくれるので、いちいち追いかける必要がないのは楽と言えば楽だが……
ところでウイングハイロウを持っているなら、数人がセリアの足止めをしてその隙に砦を越えてしまえば
制圧し放題なのだが、そうしないのには無論訳がある。
そうやって町だけを制圧したところで、近くにまだ戦えるスピリットがいれば、すぐさま奪い返される可能
性があるからだ。
それにスピリットだけが入っても制圧したことにはならない。
スピリットが押さえた拠点に、人間の兵士が入って初めて『制圧』と見なされるのだ。
あくまで主体は人間なのだ。スピリットだけではどうにもならない。
だが──逆を言えば。
拠点を護るスピリット達を殲滅することさえできれば、後は本当に制圧し放題なのである。
なればこそ、スピリット達は正面から激突し、戦いを繰り広げるのだ。
なのでセリアは、向かってくる敵を次から次へと叩き落す羽目になる。
ダメージを与えても、後方に待機したグリーンのせいで敵は常時回復状態なのだ。
はっきり言って消耗戦である。回復魔法を使える回数にも限度があるだろうが、その前に確実に負ける。
微かな苛立ちを募らせつつあったセリアが、ふとネリーとシアーを見た。
二人は互いの背中を護るようにしながら戦っている。その戦い振りもようやく頼もしく思えてきた頃だが──
「危ない!」
セリアが叫んだ。
ネリーとシアーがそれぞれ一人ずつ相手をしていたところに、横合いからもう一人割り込んできたのだ。
不意の出来事に二人が身を硬直させる。間に合わないとは知りつつもセリアは翼を羽ばたかせようとして、
「──フレイムレーザー!」
鋭い声がそのまま光条となったかのように、赤い光がそのスピリットの肩を貫いた。
バッと視線を地表に落とすと、神剣とスフィアハイロゥ──通称『ぴぃたん』を構えたオルファが見えた。
「ありがとー!」「今度、ヨフアル奢ってあげるねー!」
敵を弾き飛ばし、ネリーとシアーが笑ってオルファに叫んだ。オルファも同じ顔で、約束だよー、と返す。
思わずセリアは笑みを浮かべた。子供子供と思っていても、ちゃんとお互いを気にかけられている。
手を焼いていた三人の成長を喜びつつ──セリアは手を地表へと向けた。
マナを集束させ、神剣魔法を放とうとしているレッドスピリットへと。
「アイスバニッシャー!」
凍結の意を乗せたマナが、展開されつつあった魔法陣を凍結させる。──だが。
「ッ、もう一人っ!?」
魔法を封じられた敵の奥で、他のレッドスピリットが魔法を構築し始めていた。
しかも──集まるマナの量が半端ではない。あれなら、悠人達を丸ごと飲み込んでまだおつりが来る。
間に合わない、と思った瞬間。
「──アイスバニッシャー!」
真横から声が響いた。
視線を振り向かせると、〈存在〉を片手に握り、もう片方を地上に向けたアセリアがいた。
セリアの視線に気付いてか、彼女のほうを向き、ん、と一度小さく頷いて見せた。
セリアは少しぽかんとして──そして口元だけで笑った。
……まったく、本当に皆、頼りになる。そう思いながら、向かってくる敵をまた打ち落とす。
一人突っ込んでいくだけだったアセリアが、ちゃんと周囲を見てくれるようになったのが素直に嬉しかった。
誰も彼も、ちゃんと成長しているということだろう。ユート様のお陰ね、と地上で戦う少年に眼を向けた。
それを眺めながら、セリアは一つのことに気付いた。
──敵が、その攻勢を弱めていた。
ざっ、と背中を合わせるように、悠人、エスペリア、ファーレーンの三人は集った。
大概の敵を吹き飛ばして、ようやく攻勢が弱まってきた気がする。それでも周囲への警戒を怠りはしない。
神剣魔法は傷は癒しても、身体と精神の疲労までは癒せない。
途中から殺傷を目的ではなく、頭部、つまりは意識そのものに衝撃を与えるような攻撃を繰り返してきたが、
それが功を奏したのだろうか。悠人は安堵の息を吐く。
「──おかしいです」
だがそれを、エスペリアの声が掻き消した。
「いくらなんでも、攻撃の手が弱まり過ぎてます。今日より数が少ない時でさえ、こんなものじゃないのに」
「そうですね。あまりにも、あっさりしすぎている」
ファーレーンが同意する。そう言えば、と悠人も思った。確かに、やけに呆気ない。
と、三人目掛けて同数のスピリットが向かってきた。
剣の応酬を繰り返しつつ、エスペリアは思考する。どうして、敵の手が弱まった?
体力が尽きたか、ただの牽制だったのか。──前者は兎も角、四十人を投入しておいて後者はありえない。
ならば、何故。疑念を抱いたまま、それでも鋭く繰り出された穂先が、正面の敵の脾腹を裂いた。
そのスピリットは苦痛に顔を歪ませ、傷を押さえながら後退した。
(──傷が癒されない?)
回復担当のグリーンがダウンしたのだろうか。まさかそんなことはないと思うが。
そこまで考えて──ぞくり、と脊髄に氷柱が刺さったかのような悪寒を覚えた。
砂丘の上の、あのグリーンを見る。既に、そこには恐ろしい量のマナが集まっていた。
そういうことか。エスペリアは理解する。そこにマナが集まることに、誰も疑問を抱かなかった。
そこに集まったマナは、全て加護と治癒に回されるものだと思っていたから。
だから今も誰も気に留めていない。
だが──さっき斬った敵の傷は、治癒しなかった。
つまり、それは。
集まったマナが、治癒に使われていないということ。
ならば──その、集束した膨大すぎる量のマナは、一体『何』に使われる?
そのことに、上空から状況の趨勢を逐次見守っていたセリアも気付いていた。その目的に。
掲げられた槍の穂先、そこを起点に集束したマナが、座標を定め、名に課せられた役目を果たさんとする。
無意識のうちにセリアは、喉が張り裂けそうな声で叫んでいた。
「みんな逃げてぇぇぇぇッ!!」
だが、もう、遅い。
「エレメンタルブラスト────────────ッ!!!」
暴風が──
吹き荒れた。
聞こえるはずの爆音すら掻き消す衝撃が、砂漠を一粒たりとも残さず余さず蹂躙する。
本能的に張ったオーラフォトンバリアの向こうで、世界が歪曲していた。
荒れ狂う大地の怒り。癒しをその真逆へと転化した破壊の嵐。
咄嗟にエスペリアとファーレーンを抱え込むように護りながらも、悠人達は大きく吹き飛ばされていった。
背中を、怒れる大地の顎が掠めていくのを感じながら、流れに逆らわずごろごろと転がっていく。
口の中に砂が入る。その感触をやけに鮮明に感じた。ざりざりした。嫌な感触だ。
転がる速度が緩んできたところで、悠人は抱えていた二人を、嵐から遠ざかる方向へ放り投げた。
そして自分は素早く立ち上がる。視界は爆発による砂嵐で殆ど奪われていた。
「パパッ!」
「エスペリア! お姉ちゃん!」
後方支援だったはずの二人の声が聞こえた。そんなところまで、飛ばされてきたのか。
「ニム、二人を回復してやってくれ!」
駆け寄ってきたニムントールに、転がったまま起き上がらない二人を見ながら叫んだ。
だが、ニムントールは怒りと不安の混じった表情で悠人を罵倒した。
「ばかっ! ユートも傷だらけなのに!」
言われて気付く。服は所々が破け、大小様々な傷口から血が溢れ出していた。
ぼう、と温かい緑光が悠人達を包み込んだ。見る間に血が止まり、傷が塞がっていく。
「さんきゅな、ニム」
笑って感謝の言葉を告げたが、ニムントールはもう一度ばかと叫んで、悠人の腹を力なく叩いた。
悠人は泣きそうな顔になったニムントールの頭に手を置き、力なく起き上がった二人へと声をかける。
「大丈夫か」
何とか、とエスペリアが答え、髪についた砂を払った。
「ユートッ!」
「皆大丈夫ッ!?」
丁度そこにアセリア達四人が降り立ってくる。空にいたせいか、それほど深刻な被害はなかったようだ。
悠人はそのことに安堵しつつも、すぐにやるべきことを思い出した。
「アセリア、エスペリア達を頼む! 俺はヒミカ達のところに行く!」
「ん、分かった!」
自分達と同じように、ヒミカやヘリオンも相当吹っ飛ばされているはずだ。様子が気になる。
「お供します!」
セリアが悠人の隣を走る。二人は、視界の利かない砂の中へと駆け出した。
「んっ……」
一瞬意識を喪っていたヘリオンは、覚醒した時、自分が誰かに抱き締められているのを知った。
次の瞬間、はっとしてヘリオンは自分を戒める腕を振り解いて起き上がり、腕の主の名を呼んだ。
「ヒミカさん!」
呼ばれた声に応じるように、ヒミカは歯を食い縛りながら、〈赤光〉を支えにして起き上がった。
「ヒミカさん! 大丈夫ですか!?」
聞くまでもないことだが、聞かずにはいられなかった。
ヘリオンを庇ったせいで、ヒミカの背中はずたずたに引き裂かれていた。
生々しい傷跡から、マナの霧が立ち上る。動くたびに激痛が走るが、それでもヒミカはしっかりと立った。
「……どのくらい吹き飛ばされた?」
まずヒミカはヘリオンに聞いた。ヘリオンが周囲を見回すと、丁度そこにハリオンとナナルゥが駆けてくる。
「ヒミカ、大丈夫ですか~!?」
相変わらず間延びしながらも、緊迫を含んだ声に、ヒミカはただ頷きだけで答えた。
「待っててください、今、回復を……」
「それどころじゃないみたいよ……!」
敵は、待ってくれないということだ。砂煙の向こうから、気配が二つ、こちらに向かってくる。
「ハリオンとナナルゥは下がりなさい! ヘリオン、まだ戦えるわね?」
頷く少女に、上等、と答え剣を構えた。その身を淡く緑が包む。背中の痛みが、幾分和らいだ。
「全部治してる時間はないです~。ごめんなさいね、ヒミカ」
申し訳なさそうに眉を八の字にしたハリオンに、充分よ、と笑って答えた。
キン、と頭に針を刺したような鋭い感覚。ヒミカは砂漠に向き直った。
「──来る!」
その声とほぼ同時。未だ巻き上がる砂を貫くように、青と黒のスピリットが姿を現した。
黒がヒミカへ、青がヘリオンへと肉薄する。
剣戟の音が響く。痛みに軋む全身を、それでも動かしながら、ヒミカは敵の剣を捌いてく。
(……重いっ!)
舌打ちする。乱打の勢いを持って繰り出される剣は、その一撃一撃がどれも重い。
でも、通さない。その誓いを力に変えるように、十三合目を迎えた剣の衝突をヒミカは凌ぎ切った。
続く十四合をも打ち払い、敵が体勢を崩し──その陰から、別のスピリットが姿を現す。
仲間の陰に隠れるようにして槍を突き出すグリーンスピリット。その穂先が、ヒミカの首を狙う。
首を捻る。ぶつんと筋肉の断裂する音。切っ先が、首の皮一枚を切り裂いて通り過ぎた。
今度はヒミカが僅かに体勢を崩す。その隙をついて、先のブラックはヒミカに攻撃を加えるのではなく──
その横をすり抜け、彼女の後ろへと回った。
背後にいる、ハリオンとナナルゥへと。
意識がそちらへ向いた。──まずい。
防御力に長けていても瞬発力に劣るグリーンは、ブラックの猛攻に対処しきれない。
意識の逸れたヒミカへ槍が突き入れられる。意識を戻すが、遅い。穂先が、剣を握る右腕を切り裂いた。
失策、と己を呪い、ヒミカは瞬間的にスフィアハイロウにマナを通し──爆発させた。
何の技巧もない、方向を定めないマナの爆発は、ヒミカとグリーン両方を吹き飛ばした。
ヒミカは吹き飛ばされる勢いそのままにブラックを追う。
背中の傷に加え、爆発によって負った手足の傷の痛みに耐えながら、それでも。
裂かれた右腕は動かない。剣を振れない。けど身体が動くなら充分だ。まだ間に合う。まだ──護れる。
足裏が砂を噛む。後ろに蹴っていく。既に敵はハリオンに到達している。
太刀が繰り出される。一撃、二撃。足を踏み出す。一歩、二歩。
三撃目でハリオンが顔を歪めた。その間にもヒミカは更に進む。
間に合う。私が護る。護ってみせる。
そう、護ると誓ったのだ。かつてそう誓ったのだ。もう誰も死なせないと。
──例えこの身が、マナへと還ろうと。
四度目の撃音。ハリオンの槍が跳ね上がる。胴ががら空きになる。次はない。
第五撃が繰り出される、その直前。
ヒミカが、ハリオンとブラックスピリットの間に割って入り────
ヒミカの、眼に。
大きな背中が、映し出された。
「────────────────────え?」
呟く声が自分のものだと分からなかった。
袈裟懸けに剣が落ちる。
ヒミカの前に立ちはだかった悠人の身体が、右肩から左脇腹へとばっさりと切り裂かれた。
「が、」
耐えるような、獣じみた声。──それでも悠人は倒れない。
近すぎて振れない剣の代わりに振り上げた拳は、ブラックスピリットの腹へ吸い込まれ、その身体を大きくすっ飛ばした。
倒れかかる身体を、〈求め〉を地面に突き立てて支え、叫ぶ。
「撃てぇ、ナナルゥッ!」
搾り出す声に、これまで聞いたことのない、悲痛ささえ滲ませたナナルゥの声が重なった。
「──アポカリプス!」
悠人の前で赤い魔法陣が展開し──空を焦がす爆炎が、戒めの鎖を引き千切った。
砂漠に満ちる砂を吹き飛ばし、砂嵐が晴れていく。蒼天から降り注ぐ陽光が、再び地上を照らした。
晴れた砂漠の所々に、スピリットが倒れていた。だがどれもマナへ還ろうとはしない。
おそらくあの一瞬に、今も砂丘からこっちを睨みつけているグリーンが、全力で皆に加護を与えたのだろう。
「──総員、退却!」
力を使い果たしたのか、肩で息をしながらそのグリーンが叫んだ。
「動ける者は動けない者を運んで! もう一度繰り返す! 総員退却、急いで!」
ああして声を張り上げる姿は初めて見た、と悠人は場違いなことを考えた。
こちらの反撃を警戒してか、傷ついた身を引きずりながらも、それぞれ素早く退いていく。
だが悠人達の側にも、もう攻撃するだけの余力は残っていない。この場は痛み分け、ということだ。
それに悠人には、傷ついた者を更に責め立てる気も、またなかった。
最初とは逆に、スピリット達が砂丘の向こうへ消えていき、あのグリーンが最後に残った。
その彼女が、一度だけこちらを向いて頷いて見せた。
それが仲間を追い立てなかった自分への礼なのかどうかは分からなかったが、悠人はとりあえず曖昧に笑っておいた。
彼女が消えるのを見送って、悠人は振り返った。
ヒミカが立っている。傷だらけで酷い姿で、呆然とした表情をしていたが、それでも無事だった。
その後ろにはハリオンとナナルゥが。他の皆も、置いてきたセリアを先頭に、こちらに走ってきていた。
「──良かった」
護れた、と。そう呟いて、安堵と共に、遠のく意識を手放した。