紅蓮の剣

 目の前で倒れていく身体。
 鎖骨を砕く斬撃が肋骨を削りながら斜めに落ち、腰の骨に弾かれて肉から飛び出した。
 倒れ掛かる身体を受け止めながら──吼える。
 凡そ知性を持つ生物の発するものとは思えない咆哮を上げながら、彼女は右手の剣を突き入れた。
 敵の心臓を貫く。自分を護った少女を斬った敵の。血を吐いて、後ろに倒れていく。
 それと同じように倒れ行く友の身体を、剣を投げ捨ててしっかり受け止めた。
 何度も何度もその名を呼んだ。視界の隅で、斃した敵がマナへと還っていく。
 そしてまた、自分の腕の中で、少女も死に至ろうとしている。
 なのに彼女は笑った。笑って自分を支える者を見上げて、言った。
 ──良かった。
 そして少女は死に。後には、重さのないマナだけが残り。それもまた空へと還っていった。
 
 ────────跳ね起きる。
 それと同時に肺が反射的に息を吸い込み、むせた。
 咳き込む口に手を当てる。シャツが、汗を吸って重く濡れていた。
 気分が悪い。思い出したくない記憶を、夢として連続で見せた自分の脳髄を憎悪した。趣味が悪い。
 窓の外には月が浮かんでいる。その下には砂漠。それを睨みつけながら、ヒミカは舌打ちした。

 ぼんやりと、視界が戻ってくる。
 まず見えたのは見慣れない天井。良く知った、第一詰所の自室のものではない。
 時間経過と共にものの輪郭がはっきりとしてくる。
 天井の梁の木目が見えてきた辺りで、悠人はその方向へ手を伸ばし、強く握った。
 自分の手の感触を感じる。自分がまだ生きている証明。吐息して、力なく手を下ろした。
 上半身を起こそうとして──力が入らずに失敗する。全身が鉛のように重かった。
 起きるのを諦め、代わりに悠人は記憶の糸を辿っていった。自分はどうしてここにいるのだろう。
 しばらく脳髄を掘り返しているうちに、ランサの砦での防衛戦が思い出された。
 あの時は、敵が退いてくれたのは覚えている。ちゃんと皆を護れたのも──
「って、そうだ。今はどうなってるんだ?」
 思わず一人声に出し、飛び起きようとしてまた失敗する。
 思い出す。ここはランサの臨時詰所の部屋だ。ここで、自分はどれくらい眠っていたのだろう。
 自分が眠っている間に、マロリガンの襲撃はなかっただろうか。皆は無事なのか。
 気持ちが逸る。全身に力を込めて、何とか上半身だけ起き上がらせた。それだけのことなのに、息が切れた。
「──ユート様?」
 丁度そこに、聞き慣れた声が飛び込んできた。

 開いたドアの向こうに立っているのは──セリアだ。手に、洗面器とタオルを持っていた。
 一瞬呆然としていたセリアだったが、すぐに我に返り、悠人に駆け寄ってきた。
「ユート様! 起きられたのですか!?」
 テーブルに水の入った洗面器を放り出し、悠人の手を取った。喜びと安堵からか、少し泣きそうな顔をしていた。
 そんなセリアを珍しいと思いつつも、悠人は言葉を発した。
「ついさっきな。セリア、他の皆はどうしてる?」
 言葉を受け、指先で涙を拭い、いつもの毅然とした表情になって答える。
「皆元気です。三日前の襲撃以来、斥候どころか偵察部隊すら見受けられなくなっています。
 あちらも相当手酷くやられてましたから……見張りは置いていますが、それ以外は休息しています」
「そっか、良かった。……それにしても、俺は三日も寝てたのか」
「はい。最後に受けた傷が深かったようです。エスペリア達のお陰でなんとかなりましたけど……」
 またセリアは泣きそうな顔になるが、それはすぐに怒った表情に変わった。
「何で、最後あんな無茶をしたんですか。あと少し深ければ死ぬところだったんですよ?」
「すまない。でもああしないと間に合わなかったんだ」
 苦笑しながらにそう言われて、セリアは詰まる。だが何とか厳しい顔を保ち、言った。
「ヒミカを護ってユート様が死んでしまったのでは何にもならないでしょう。そんなの誰も喜ばない。
 誰かを護って死ぬ、なんて美談でもなんでもありません。残る数が変わらないというだけです」

「そりゃそうだけどさ……でも、誰かに死なれるのはもう嫌なんだ。
 それにほら、結果として俺は生きてるんだし──」
「結果論でものを言わないでください!」
「……はい」
 厳しい声で叱咤されて、悠人は縮こまった。確かに、言い訳以外の何物でもない。
 だが──それでも仲間が死のうとしているのを見逃すことは出来ない。自分の身を挺してでも護りたかった。
 ふぅ、とセリアが溜息をついた。
「まったく……ユート様といいヒミカといい、無茶が過ぎます。そんなだからいつも怪我ばかりする」
「……そうだ、ヒミカはどうしてる?」
 気になって、セリアに訊いた。セリアは何故か表情を硬くして、答える。
「背中や手足に傷を負ってはいましたが、ユート様よりは軽傷です。
 もう傷を治して、昨日から職務に復帰しています。今日は砦で見張りをしているはずですが」
「それならさ、ヒミカが帰ってきたらこっちに来るよう言ってくれないかな。
 多分、この前のこと気にしてると思うし、元気かどうか確認しておきたいから」
 ヒミカのことだから自分のせいで俺が怪我したと思ってるだろうしな。悠人は内心苦笑しながらそう思った。
 ずっと一緒に前線に立ち続けてきたから、そのくらいのことは分かるようになった。
 しかし、セリアは表情を消して告げた。

「今は、会わないほうがいいです」
「──え、何でだ?」
 セリアは視線を俯かせた。
「私からは何とも。少なくとも、彼女のほうから尋ねてくるのを大人しく待つべきだと思います。
 ……ユート様、もうしばらくお休みになっていてください。後でエスペリアかハリオンに診てもらいます」
 抗う間もなく悠人はベッドに倒された。一度倒れると、中々起き上がることができない。
 その隙に素早く絞った濡れタオルが額に乗せられた。冷たい感触が心地良い。
 やはりまだ身体は疲れているのか、すぐに眠気が襲ってきた。悠人はそのまま意識を薄れさせた。
 おやすみなさい、というセリアの声が遠くに聞こえた。
 
 次に悠人が目覚めたのは、それから三時間後だ。ハリオンと、何故かニムントールが部屋を訪れた。
「エスペリアがいないからって何で私が……」
 不満そうにぶつぶつ言いつつも、ニムントールは手際良く悠人の額のタオルを交換する。
 その間にハリオンは、治癒の魔法を悠人にかけていた。身体がマナに包まれる感覚が心地良い。
「ん~、傷はもう治ってますね~。でも怪我した時に結構流れちゃったから、血が足りてないのかも~。
 前線のほうは私達で何とかしますから、ユート様はゆっくり休んでてくださいね~」
 後で栄養のあるもの作ってきます~、とハリオンは微笑んだ。

「ハリオン、ヒミカはどうしてる?」
 先程セリアにしたのと同じ質問をしてみる。するとハリオンは笑っているのかいないのか微妙な表情になった。
「う~ん……秘密です~」
 そして人差し指を唇に当ててそう言った。ニムントールは……初めから答える気がないようで、そっぽを向いている。
 秘密、と言われた以上ハリオンから聞き出すことはできないだろう。悠人は素直に諦めた。
 
 更に一時間後。
 ハリオンの言ったとおり、確かに栄養のありそうな、具のたくさん入ったお粥が運ばれてきたのだが……
 来たのは何故かアセリアだった。
「あ~……アセリア」
「ん。何だ、ユート」
 匙でお粥を掬って、それを無造作に突き出してきたアセリアに、悠人は念の為聞いておいた。
「そのお粥、誰が作ってくれたんだ?」
 アセリアの料理では前に一度手酷い目にあっている。アセリアには悪いがもうアレは遠慮したい。
 最近は料理修行に明け暮れ、少しは上達してきたようだが、それは外見だけということもありえるのだ。
 目の前のお粥は確かに美味しそうで香りも食欲をそそるものだったが、味までは分からない。

「大丈夫だ。オルファとエスペリアが作った」
 そんな悠人の心中を見抜いてか、アセリアは言った。それなら安心だ。悠人は遠慮なく匙に喰らいついた。
「うん、美味い。何て言うか、胃に優しい味だな」
 口に広がる穀物と野菜の甘さを噛み締めながら、悠人は言った。
 そうか、とアセリアも嬉しそうに二口目を差し出した。悠人はそれも口に含み、咀嚼した。
 三口目を差し出そうとしたところで、何故かアセリアがぴたりと動きを止め、そして言った。
「……………………さっき、ユートに物凄く失礼なこと言われた気がする」
 悠人は内心ぎくりとしたが、無理に笑顔を作ってできるだけ自然に言った。
「気のせいだアセリア。あー、でも本当にこのお粥は美味いな、うん」
 不自然極まりなかった。
 しかしアセリアは気付いた様子もなく、美味しそうだな、と相槌を打って匙を差し出した。
 椀一杯に盛られていたお粥を、悠人はぺろりと平らげた。
 食器を持って部屋を出ようとするアセリアを呼びとめ、やはりヒミカはどうしているか訊いてみたが、
「言えない」
「え?」
「ハリオンに口止めされてるから言えない。皆にもそう言ってた。ユートに訊かれても言っちゃ駄目って」
 首を傾げながら、アセリアは言った。彼女自身、口止めされている理由は分からないのだろう。

 どうやら先回りされたらしい。だが、悠人はどうしても、そして何故かヒミカのことが気になった。
 ここまで固執するのもらしくないとは思ったが、気になるものは気になるのだ。
 悠人は頭を捻って──別の方向から切り込んでみることにした。
「じゃあさ、アセリアから見て、ヒミカはどんな様子だった?」
「私から見て?」
「ああ。それともそれも口止めされてるか?」
 ん、とアセリアは首を横に振り、そしてぽつぽつと喋り始めた。
「……ヒミカ、怖かった」
「怖かった?」
 ん、と今度は首を縦に振る。
「周りが、凄くぴりぴりしてた。食事の時以外、皆の前にも出てこないし。
 今日は砦にいるけど、他の誰かと交代した後はずっと訓練所にいて帰ってこない。
 ……うん、多分、物凄く怒ってる」
「怒ってるかぁ……」
 悠人は吐息した。理由は想像できる。やっぱり謝らないといけないだろう。
 セリアには会わないほうがいいと言われ、アセリアからの説明では相当怒っているらしい。
 だが、会わないわけにもいかない。悠人は、動けるようになったら会いに行くことにした。

 それから他のスピリット達や、レスティーナ、ヨーティアとイオも各々見舞いに来た。
 オルファ、ネリー、シアーは案の定騒ぎを起こし、エスペリアに部屋から引きずり出されたりした。
 日頃の疲れもあり、結局悠人はラキオスに戻され、丸二日休むことになった。事実上の休暇である。
 この前の戦闘の傷が癒えないのか、マロリガンからの襲撃もなく、久し振りに悠人はゆっくり休むことが出来た。
 スピリット達も暇を見てはラキオスに帰り、悠人の部屋を訪れた。
 だが結局──その間ヒミカだけは、一度も悠人の部屋に来ることはなかった。
 
 三日目。疲れも取れ、悠人はランサに戻ることになった。
 途中遭ったナナルゥにヒミカの居場所を聞いてみると、彼女は一度もラキオスに戻らず、ずっとランサで
見張りを続けているという。
 場所を聞き、悠人はすぐにそこに向かった。
 
 砂漠を望む砦の物見にヒミカはいた。隣にはハリオンも立ち、一緒に見張りをしているようだった。
 一瞬躊躇って、それでも悠人は、ヒミカ、とその名を呼んだ。
「──何ですか」
 振り向いて答えた声は、ひどく冷たい。
 いつもの闊達な彼女からは想像もできない、氷の棘を持った声だった。

 悠人の身体が強張る。三メートルの距離を置いて、悠人はヒミカの方に歩み寄ることができなくなった。
 ヒミカは尚も冷たい瞳で悠人を見る。
 声をかけあぐねていると、あ~、とハリオンが割り込むように声を発した。
「すいません~、ちょっと用事を思い出したんで~、ユートさまとヒミカで見張りお願いしますね~」
「ハリオン」
 静かに咎めるようなヒミカの声も無視し、ハリオンはそそくさとその場を離れてしまった。
 砂漠の風の中に、悠人とヒミカの二人だけが残された。気まずい雰囲気ながらも、悠人はヒミカを見た。
 しかしヒミカは無感情に悠人を一瞥し、視線を砂漠へと背けた。
 背中からは何者をも拒むような意思が伝わってくる。
 悠人はしばらくその場に突っ立っていることしかできなかったが、やがて重い足取りでヒミカの隣まで歩いた。
「あー、その、なんだ。ヒミカ」
 歯切れ悪く切り出す。返事がないことに薄ら寒さを覚えつつも、悠人は続ける。
「……すまん。この前は迷惑かけた」
「そんなことはありません」
 抑揚のない声は、血の通った言葉ではなく意味を為さない文字の羅列だ。
「ユート様はいつも通り、誰も死なせたくなかっただけなのでしょう。なら気に病むことはありません。
 寧ろこの場合、助けてもらった私が感謝すべきなのですから。ありがとうございます。」
 礼を言われても全然嬉しくなかった。

「……ヒミカ、怒ってるか」
 薮蛇とは知りつつもそう訊かずにはいられなかった。
「いいえ。逆に訊きますが、何故ユート様は私が怒っていると思っているのですが」
「いや、だって、……こないだ無茶したことを怒ってるのかなって」
「そんなことはありません」
 同じ発音、同じ抑揚でヒミカは言う。そこで初めて、ヒミカは悠人を見た。
「結果として誰一人死なずに済んだのですから、それは喜ばしいことです。私が怒る理由など欠片もない」
「────」
 悠人は沈黙し、そして少しばつが悪そうな顔を作って、言った。
「セリアに言われたよ。結果論でものを言うな、ってさ」
 表情を消し、続けた。
「前に言ってたろ、ヒミカ。戦場で迷うなって。……けど今でも、敵を殺すことを迷わない時はないよ。
 それでも殺してきた。たくさん殺して、今まで戦い抜いて、護りたいものを護ってこれた。
 罪悪感は消えないけど、今ここに俺が生きていられるのも、きっとその時のヒミカの言葉があったからだ。
 ……こうも言ってたよな。ヒミカ。俺が死ぬと皆が哀しむって。今でも自分がそれ程の人間とは思えないけどな」
 そして悠人は真っ直ぐにヒミカを見た。冷徹な表情を崩さないヒミカを。
「俺はまた、皆を哀しませるような戦い方をしていたんだろうな」

 だが悠人はそこで止めず、けれど、と言う。
「それでも俺は、皆を護りたいんだ。誰かに死んで欲しくない。
 ……すまない。分かって欲しいなんて言わないけど、俺は多分、これからも皆に心配をかけると思う」
「──だけで」
 気付けば、いつの間にかヒミカが俯いていた。小声で、搾り出すように声を出していた。
 バッと顔を上げ、そして叫んだ。
「心配だけで済むと思っているんですか!」
 怒声。
 空気を振動させる音が力を持ったように、その声は激しく悠人を叩いた。
「ユート様の戦い方は死ぬかもしれない戦い方じゃない、確実にいつか死ぬ戦い方です!
 自分を死地に追い込んで──それで護るなんてできるわけないじゃないですか!」
 それは悠人が初めて見る、ヒミカの激昂だった。
 悠人は何も言えなかった。ヒミカは肩で息をし、再び顔を俯かせた。
 そして一度大きく息を吸い、吐いて──俯いたまま、悠人の横を通り過ぎた。
「──ハリオンに、」
 すれ違い様に、またさっきの冷淡な声で言う。
「体調が優れないので早退すると伝えてください。私はラキオスに戻ります」

 それと、と背後から声がした。
「──今夜日付の変わる頃、詰所裏の森に来てください」
 
 深夜。
 ラキオスに戻り仮眠を取っていた悠人は、時間通りに目を覚ました。
 寝巻きを脱いでいつもの戦闘服に着替え、〈求め〉を携える。
『……行くのか? あの妖精、相当気が立っていたようだが』
「心配してくれてるのか?」
〈求め〉がそんな風に声をかけてきたのが以外で、苦笑ながらに訊いてみた。
『ふん。怪我でもされたら困るからな。マナも足りず、我も本調子ではない』
 不機嫌そうに言う声にまた苦笑しつつも、悠人は表情を改め、行くさと答えた。
「すっぽかすわけにはいかないだろ、呼ばれた以上は。それに、ヒミカの様子も気になるしな」
 その原因が自分にあるとなれば、尚更に。
 気を引き締めつつ、悠人は自室を出た。
「別に喧嘩したいわけじゃないんだ。ちゃんと話を聞いてあげられれば……」
 そう口には出すものの、そうはならないことを、悠人はどこかで予感していた。

 詰所裏の森に足を踏み入れると、押し殺された神剣の気配が伝わってきた。
 その気配は微弱ながらも、研ぎ澄まされた切っ先の鋭さを以て悠人の背筋を貫いている。
「──ヒミカ」
 足を止め、木の陰に居る気配の名を呼んだ。
 すっ、と滑り出るようにヒミカが姿を現す。枝葉の隙間から差し込む月光が、無表情なその顔を照らした。
 手には、抜き身の神剣を持って。その鋭さと同じ瞳で、悠人を見ていた。
「──剣を、お取りになってください」
 静かにヒミカは告げ、腰を低く落とした。
「いやちょっと待てってヒミカ。俺は別に──」
 戦いたいわけじゃ、と続ける前に。
 右の眼球の二センチ手前に、殺気を纏った銀の棘が迫っていた。
「、あ」
 理解するより早く本能が危機を感知し、全身を左に投げ出していた。
 受身も取らず二転三転と転がり、身体を起こすのと同時に斬り上げる。
 ギィン。剣を弾く。月を背に、赤い瞳が爛と輝いていた。
 上方に跳ねた剣が風切り音より速く落ちる。片手を地に着き、悠人は後方に跳びずさった。
 一瞬遅れて湿った落ち葉を〈赤光〉が貫いた。

「ちょっと待てって……!」
 制止しようと声を上げつつ、四方八方から乱打される剣撃を凌いでいく。
 風を殴りつけるような一撃に〈求め〉が跳ね上がり、がら空きの胴に膝蹴りが跳んだ。
「がっ……!」
 衝撃が臓腑を貫き背中へと抜ける。悠人の身体がくの字に折れ、宙に浮いた。
 打った膝を勢い良く地面に落として支点とし、そのままヒミカは全身を回転させて回し蹴りを放つ。
 完全に無防備になっていた悠人は、それでも辛うじて〈求め〉を立て、それを受けた。
 容赦のない一撃。身体が真横にすっ飛んでいく。無様に地面を転がり、木の根元にぶつかってようやく止まった。
「はっ、あ……」
 酸素を欲しがる肺を押さえながら、悠人は立ち上がる。
 視線の先には尚も零下の眼を向けるヒミカ。薄ら寒さを覚えつつ、悠人はなんで、と問うた。
「何で、こんなことやってるんだ、俺達は」
 答えなど返ってこない。独り言に近い言葉を悠人は発した。
 だが──ヒミカは答えた。
「……ユート様には、しばらく動かないでいて欲しいのです」

「な……、何だよ、それ」
 呆然と悠人は言葉を発した。ヒミカは平坦な声で答える。
「この前の戦闘に限らず、ユート様の行動は軽率で、無謀すぎます。命を顧みていない。
 昼間言った通り、それが私達を心配してくれている故の行動であることは理解していますが、度が過ぎます。
 ユート様がなさるべきことは、まずご自分の命を第一に考えることです。
 隊長が死んでしまったのでは元も子もないのだから」
「でも、俺は」
 悠人の言葉を遮り、ヒミカは分かっています、と言った。
「それでも尚ユート様は皆を護ろうとする人だということは、分かっています。
 でもユート様は、この国にとって必要な人間なんです。代用は利かない。それを分かっていますか?」
 悠人は答えられない。相変わらず、自分がそんな大層な人間だとは思えなかった。
「事実です。そして──そんな人間を死なせるわけにはいかないんです。
 でもユート様は放っておけばすぐに前線に行ってしまう。だから──」
 迷いなく真っ直ぐに、ヒミカは悠人へと剣を向けた。
「少しの間──少なくともマナ障壁を解除し、マロリガンへ攻め入るくらいまでは、怪我をしていてもらいます。
 その間に、ご自分の価値というものをよく顧みてください」

「なん──」
 最早悠人は絶句するしかなかった。
 ヒミカの言うことは理解できる。だが、やり方がいくらなんでも乱暴過ぎやしないか。
「無論これは私の独断です。私は処罰を受けるでしょうが、それでもあなたを喪うよりはいい。
 処罰と言っても、戦力の足りてない現状です。実際は訓告程度のものになるでしょうね」
 悠人に構わず、淡々と告げていくヒミカ。当たり前のことのように。
 だが当然、悠人は彼女の言うことを受け入れられるはずもない。
「ちょ、ちょっと待てヒミカ! でも俺がいなかったら、皆が──」
「死ぬかもしれませんね」
 あっさりとヒミカは答え、そして続けた。
「無論、死なせるつもりはありません。皆は、私が護りますから。──例えこの身がマナへ還っても」
 無感情な覚悟を瞳に宿らせて、ヒミカは言う。間違いなく本気だった。
 悠人は思わず声を張り上げた。
「そんなの駄目だ! 皆を護っても、ヒミカが死んだら意味がないだろ!」
「あなたが言えたことですか!」
 厳しい声。ヒミカは悠人を睨みつけた。

「あなたを見ていると苛々する。そうやっていつも自分から死地に飛び込んで、周りには死ぬなと言って!
 ユート様が大切にする命の中には、ユート様が自身が入っていない!」
 でも、それなら、
「そんなのヒミカだって同じじゃないか! 皆を護るためなら死んでもいい、だなんて。
 ヒミカのやろうとしてることは、今ヒミカが俺に対して怒ってることと同じじゃないか!」
 けれど、ヒミカは静かに答えた。
「私はいいんです。私はただのスピリットなんですから。死んだって、国には何の影響もない。
 感情論で言えばユート様は私達を死なせたくないと思うでしょう。私もユート様を死なせたくない。
 でも政治的、国家的には、私とユート様のどちらが大切で、必要か。それは考えるまでもないことです。
 何度でも繰り返します。ユート様には、この国のために、生き残ってもらわなくてはならないし──」
 少しだけ間を置いて、ヒミカは言った。
「……ユート様がいなくなったら、誰がカオリ様を護るというのですか」
 その言葉が、悠人の胸に棘となって突き刺さる。『佳織のため』。それは、悠人の行動原理だ。
 ヒミカの言うことは、正しい。国から見れば、ただのスピリットとエトランジェでは、その重みは違う。
 勇者と呼ばれ始めたエトランジェと、その部下。あまりにも明白な価値の差。
 そして、自分は佳織を助けるという目的がある。それは間違いなく、自分の中で一番強く求めることだ。
 ──けれど。悠人は、胸に刺さった棘を引き抜く。

「だからって──それはヒミカが死んでいいってことにはならないだろ!」
 悠人は叫んだ。
 確かに国にとっては自分のほうが大切かもしれない。佳織も助け出さなくてはならない。。
 けれど、それは仲間を死なせていい理由にはならない。
 欲張りかもしれないけど──今の自分は何もかもを護りたいのだ。手の届く範囲の、全てを。
「──認めない。怪我なんかしてやるもんか。俺は皆を護る」
「……仕方ありませんね」
 ざわ、と木々の枝葉が揺れた。〈赤光〉に、獰猛な気配が集束し、研ぎ澄まされていく。
「では──力ずくで止めてみてください!」
 轟、と大気が震えた。赤い軌跡が落ち葉を撒き散らす。
 到達まで僅か半秒。展開された加護のオーラを上段からの一撃が滑り落ち、地面に衝突し跳ね上がる。
 削られている加護を解き悠人は下がりながら横に剣を薙いだ。
 ヒミカの身体が沈む。剣の軌跡を潜り抜け足払いをかけてきた。悠人は僅かに跳んでそれを回避する。
 足を振り切ったヒミカが、剣を握っていない左手で地面を叩き──足から宙に浮き上がる。
 悠人の顔面にヒミカの足裏が迫る。仰け反りつつ〈求め〉を立て防御、その衝撃で更に後退。
 着地し無防備になったヒミカに、〈求め〉を振り下ろした。

 ヒミカが横に跳ぶ。剣先が地面にめり込み、しかし力任せに土中で太刀筋を曲げた。
 土を撒き散らしながら追い縋る〈求め〉を見ながら、悠人は既視感を覚えた。
 ──この流れ。
 自分とヒミカの剣の流れは、過去に、この森で交わしたものの焼き直しだ。
 なら、次は──
 ヒミカが後方に飛ぶ。背後には木がある。剣が追う。ヒミカの足が幹を蹴る。
 ヒミカが跳ぶ。切っ先が木にめり込む。頭上を飛び越える影が背後に降り立つ。
 ここだ。悠人は思う。前は、ここで終わった。お互い相手の首に剣を突きつけたところで。
 だが今は手加減などしていない。ヒミカの動きは前回に比べ数段早い。
 このまま剣が喰い込んだら、抜く暇などなく自分は負ける。
「ぅ、」
 だから、剣を握る手に力を込めて、
「ぉぉぉぉぉああっ!」
 振り抜いた。
 カッ、と竹を割るようないい音がした。勢いを全く殺さず振り抜かれた悠人の剣は木の幹を両断し──
 その背後、悠人に剣を突き立てようとしていたヒミカへ、殺さぬよう峰を返した〈求め〉を振るった。

 勢い良くヒミカの身体が吹っ飛んでいった。
 辛うじて〈赤光〉で身を護ったのか、一撃を加えた悠人の手にも痺れが残った。
「ヒミカ!」
 堪らず、悠人は叫んだ。ずしん、と背後で切断された木が地面に落ちる。
 遙か遠くで、よろよろとヒミカが起き上がった。
「もうやめろヒミカ! こんなことしたって──」
「うぁぁぁぁああ──────────────ッ!!」
 その言葉を掻き消すように、ヒミカは叫んだ。
 ドン、と地面が破裂する。一瞬で距離を詰め、全体重を乗せた剣撃を悠人に振り下ろした。
 何の技巧もないがむしゃらな一撃が、しかしこれまで戦ってきたどのも剣より重かった。
 鉄塊同士をぶつけたような、おおよそ剣戟と言うには相応しくない重い音が響いた。
「──昔!」
 その凄まじい音の中で、ヒミカは張り裂けそうな声で叫ぶ。
「ユート様が来る前、私はハリオンと共にラースで防衛任務に当たっていました!」
 叩きつけるような斬撃。びりびりと、〈求め〉を握る手が震えた。
「そしてもう一人、仲間がいました」
 ぞぅ、と空気を貫く音が悠人の耳元をすり抜けた。風に煽られてヒミカの前髪が翻る。
 その下に見えたのは、まるでひどい痛みに耐えるように、苦しそうな顔。

 剣が引かれ、そしてまた斬音が繰り返される。
「私とハリオンとその子は親友でした。でもある任務の時に、その子は死んでしまった。──私を護って!」
 ガァン。振るわれるごとに剣が重量を増していく。
 ──ラースに国籍不明のスピリットが侵入した時のことだ。それを殲滅するためにヒミカ達は出向いた。
 森の中に入っていった敵を追ったものの、途中で待ち伏せされ、ハリオンとはぐれた。
 その場は何とか切り抜けたものの互いに傷を負い、逃げる敵を深追いすることはなく二人は退却した。
 その途中だった。先の敵とは別の一群と遭遇し、交戦。
 満身創痍の二人に対し、相手は五人いた。それでも何とか、四人までは斃した。
 だが五人目が、隙のできたヒミカに襲い掛かった。反応できず、そのまま斬られるだけだったヒミカを、
 ……その友が庇って、斃れた。
「──わたしがころしたんだ!」
 自分を罵倒するようにヒミカが叫ぶ。
「私はその子を助けられなかった。目の前で死んでいくのを見ていることしかできなかった!
 私はもう、あんな思いをしたくないから……!」
 だから自分の身に代えてでも皆を護るのだと、ヒミカは言う。
 でも、その言葉を聞く度に──悠人は、自分の中で違和感が募っていくのを感じていた。

「だから私は、あなたを見ていると不安になる。いつか死んでしまいそうで怖くなる!
 私はもう誰も死なせたくないんです! ハリオンも、ナナルゥも──ユート様も!」
 腹の底から湧き上がる感情を、ヒミカはそのまま声帯に通した。
 それは国や政治的な理由からではなく、自分自身の感情であると気付かぬままに。
「そのためなら私は自分の命すら要らないのに、どんなことをしてでも『あなたを』死なせたくないだけなのに──
 それだけのことを、どうして分かってくれないんですか!」
「分かるもんかァッ!!」
 両者の剣は、叫ぶ声そのものだった。
 ヒミカの剣を、ヒミカの叫びを、『違う』と悠人の剣は否定していた。
 だってそんなの間違ってる。誰かを助けるのはいい、でもそのために自分が死ぬのは違う。
 積極的に死を求めなくても、死ぬことを良しとするヒミカは間違っていると。
 何度も何度も、叫びの度に重くなる剣を受けるその中で。
 悠人は少しだけ自分のことを省みることが出来た気がした。
 ──初めに自分が剣を振るったのは、何のためだったか。
 佳織のため? そうだ。それもあるだろう。けど実際に剣を持って戦場に立った時、一番強く思ったのは。
『死』というものを目前にして、一番強く求めたのは。
 何よりも、自分が『生きたい』ということではなかったか。

 誰だって死にたくない。それが当然。折角、今此処に居ることができているのだから。
 けど──同時に悠人は思うのだ。仲間を死なせたくないと。
 死ぬのは嫌だし、怖い。両親達の死を見、スピリット達に死を与えてきた今、余計そう思う。
 自分が死ぬ苦しみも、取り遺される哀しみも、護りたい人達に味あわせたくない。
 佳織だけを護りたかった昔とは違って、今は護りたいものがたくさんあった。
 誰も死なせたくない。自分も仲間も、一切合財。それが悠人の想いだった。
 そんなこととっくに分かっていたけれど──それを今、ちゃんと直視し、強く願えた。
 そして直視できたからこそ、その中にヒミカを見出した。
 ヒミカもまた、仲間を護るために戦っている。
 かつて、自分を護って死んでしまった友の二の舞を出したくなくて。
 けど、それは。自分が仲間の代わりに傷つき、そのための死をも厭わぬということ。
 そして更にヒミカは言うのだ。自分は死んで良くても、悠人は生きなければならないと。
 そんなのは間違ってる、と悠人は思う。生き物は、本来誰だって生きたいはずなのだから。
 価値の差などなく、がむしゃらに生を求めるもののはずなのだから。
「そんな、仲間を助けるためなら自分の命なんて要らないなんてのは、絶対違う!」
 だから叫んだ。

「俺はヒミカの言う通り、自分の命を危険に晒すような戦いをしてた。皆を死なせたくなかったから!
 でも俺自身を死んでいいだなんて、一度も思ったことはなかった!」
 だからヒミカは間違ってる、と。そう悠人は言う。
 けれど、ヒミカは叫んだ。
「そんなの分かってます! 私だって、自分から死を望むわけじゃない。
 けどね、ユート様。私はあなたみたいに強くない。エトランジェなんかじゃない、ただのスピリット。
 そんな私が皆を護りたかったら、命を賭けるしかないんです!」
 ずん、と超重の一撃が〈求め〉を揺らす。
 命の乗算。足りない力を補いたいなら、彼女の言う通り、自分の命をかけるしかない。
 それは真実だろう。でも──
 剣から伝わってきた想いは、ヒミカの言葉を嘘だと知っていた。
 ──そうじゃないだろ、ヒミカ。
 言うことは正しくても、それが言った本人の真実だとは限らない。
 ヒミカの言葉は言い訳だと、悠人は感じていた。
 確かに彼女は、そう思っている。その思いのもとに、剣を振るっている。

 でも、彼女にそうさせている根幹──命を賭けることすら厭わせない、一番強い想いは、
「私の友は、命を賭けて私を護ってくれた! だから──今度は私が命を賭ける番なんです!」
 ──それだ。
 友を、自分のせいで喪ったという罪の意識が、彼女を駆り立てる。
 親友が死んで、自分だけが生き残っているということを、きっと彼女は許せない。
 だから。
「だからって、自分が死んでいいなんて思うんじゃねぇ!!」
 悠人はそれを、許さない。
 剣を通して感じた彼女の心。省みた自分自身。それらがもう一度心の中を駆け巡って、
 
「他人の中に──死に場所を求めるな!!」

 ざくん、と。
 その言葉は神剣より深く鋭く、ヒミカの心を貫いた。
 それと同時、振り上げられた悠人の剣が、カィン、と軽い音を奏でヒミカの剣を上空へと打ち払った。
 丸腰になったヒミカに悠人は剣を突きつける。ヒミカの背後で、〈赤光〉が地面に突き立った。
 あれほど荒れ狂っていた空間が、今は、ひどく、静かだった。

「……遺された奴の哀しみは、ヒミカだって知ってるだろ」
 その静謐の中で悠人は告げる。
 悠人だって、遺された人間だ。だからその哀しみや、また喪ってしまうかもしれないという不安は良く分かる。
 それを──同じヒミカが分からないはずがないのに。
「ヒミカが死んだら俺は哀しいし、皆も哀しむ。俺が死んだら皆が哀しむってヒミカが言ったみたいに。
 ヒミカはその哀しさを知ってるだろ? それを知っているなら──死んでもいい、だなんて、言うな」
 それに、と悠人は剣を下ろし、続けた。
「そのヒミカの友達はさ、ヒミカに死んで欲しくなかったから、ヒミカを護ったんだろ。
 その子は、ヒミカがよりたくさんの仲間を助けて、その果てに死ねだなんて思って、ヒミカを護ったわけじゃないだろ。
 ただヒミカに生きていて欲しかったからヒミカを護ったんだ。
 それなら。その子の想いに応えてあげるのなら。尚更ヒミカは死んじゃいけない」
 子供を諭すように言いながら、悠人はヒミカの頭に手を載せた。そしてそのまま自分の胸に引き寄せる。
 あ、といヒミカは声を上げた。
 額から、悠人の温かさが伝わってくる。
「俺だって──ヒミカに生きていて欲しいんだ」
 悠人の言葉が、身体に直接染み込んでくるようだった。

 その心地良い温もりをずっと感じていたいと思いながらも──ヒミカはそっと、悠人の胸を押した。
 そして言う。そんなこと、と。
「……そんなこと、ずっと前から分かってました」
 自嘲気味に笑いながら、ヒミカは言った。
「あの子はただ、私に生きていて欲しいって思っていたことも、何もかも」
 思い出したくなかった記憶を思い出す。
 ヒミカを護って死んでいったスピリットは、その命が喪われる寸前に、振り返って笑って、言ったのだ。

 ────「良かった」。
 
 そう言い残して、彼女は死んでしまった。護れた。生きていてくれて良かった、と。
 その笑顔がどうしようもないくらい、ヒミカを縛っていた。
 分かっていたのだ。ちゃんと。自分が戦う理由も、死地に突き進む理由も、自分自身に言い訳していることさえも。
 今夜、悠人と戦ったのだって、数日前の彼の言葉と笑顔に、彼女を重ねて見てしまったから。
 そんなこと、全部分かっていたのだけれど。
「それでもです、ユート様」
 目を伏せ、言う。

「それでも私は皆を護りたいんです。皆を、死なせたくないんです」
 自分が死ぬための言い訳のように使っていても──誰にも死んで欲しくないという想いは、本当だから。
「だからその果てに自分が死んでしまっても、私が死にたいと想うのとは別に、きっと仕方のないことです。
 私は、ユート様のような力を持たないから」
 そう言って、ヒミカは力なく笑った。そうか、と悠人も頷いた。
 そして、悠人は強い意志を秘めた瞳で、言った。
「それなら──俺が皆を死なせない」
 この上なく力強く、悠人は言う。
「ヒミカに力が足りないのなら俺が補う。皆は死なせないし、俺も死なない」
 悠人はそう決めた。ヒミカの想いを目の当たりにして、そう強く誓った。
 最初は、佳織と自分のためだけに戦っていた。周りの皆を利用することしか考えていなかった。
 今は違う。今は佳織と同じように、仲間や国を護りたいと思っている。
 目の前の強くて脆い、ガラスのナイフのような少女を、護りたいと思っている。
 ──でも、
「でも、そんなの!」
 ヒミカが叫んだ。悲痛な声で。
「そんなのは、ユート様が辛いだけじゃないですかっ!!」

 誰も彼も、一切合財まとめて助けるということは。
 悠人がこれまで以上に傷を負い、死地に向かっていくということだ。
 ──誰かを死なせるのを厭う彼が、これまで以上に誰かを殺すということだ。
 そんなのは、ただ悠人の心が悲鳴を上げるだけなのに。
「それでもだよ」
 悠人はヒミカに背を向け、歩き出した。ユート様、と呼び止める声にも足を止めない。
「俺は絶対、仲間を死なせない」
 そのために、見知らぬ誰かを殺してしまったとしても。悠人は覚悟を決めた。
 その覚悟は誰か殺す覚悟ではない。殺した罪を背負う覚悟だ。
 その罪を認め、背負い、それでも絶対に生きようとする意志だ。
「皆を護ることを、そのために敵を殺すことを、俺はもう『迷わない』よ」
 それはあの日。同じように二人で戦った夜に、彼女が言った言葉への、答えだった。
「ユート様っ!」
 なのにヒミカは不安になる。彼が迷わないこと。それは自分が望み、言ったことなのに。
 遠ざかるその背に、ヒミカが叫ぶ。何故か彼が、遠くに行ってしまいそうな気がして。
「ユート様ぁ…………ッ!」
 搾り出すように名を呼ぶ声が、夜の闇へと溶けて消えた。


 ──それから間もなく、ヨーティアから抗マナ変換装置完成の報告が入った。
 すぐに悠人達は部隊を編成、スレギトの攻略に向かったが──その中で変化が一つ、あった。
 悠人とヒミカの会話が眼に見えて少なくなったことだ。
 とはいえ戦場では常に声を掛け合っているし、戦術的な相談も積極的にしている。
 だが日常会話をすることが、全くと言っていいほどなくなっていた。
 というよりはヒミカが悠人を避けている節がある。会っても挨拶を交わす程度だ。
 悠人もそれに対しては何も言わないので、自然、両者の会話は更に少なくなる。
 このことに気付いていたのはセリアやファーレーンなど一部の者だけだったが、本人達がそんな態度であ
り、不満などを見せない以上、こちらから訊くわけにもいかず──結果、傍から見守るだけだった。
 それでも戦闘に支障はなく、悠人達は無事スレギトを制圧し、マナ障壁を解除した。
 ここからマロリガンに続く道は三つ。悠人達はしばらくはスレギトで敵軍の攻撃を防衛し、然る後、中央
の道からマロリガンへの最短距離を突破することを決定した。
 スレギト攻略では稲妻部隊は姿を見せなかった。おそらく、首都に着く前に戦うことになるだろう。。
 そしてその時には、光陰と今日子も──
 目の前には、かつてとはあまりに違う自分と彼らの距離を象徴するように、広大な砂漠が広がっていた。

 進撃は順調だった。
 ラキオススピリット隊は勢い良く進軍し、ミエーユまでの道程の半分を攻略した。
 スレギトには、翼を持ち移動力に長けるアセリアやウルカ達数名を防衛として残した。
『青き牙』と『漆黒の翼』を含む防衛陣には、敵も簡単には手出しできない。
 事実、イオを通して伝えられる情報では、マロリガンや帝国からの斥候部隊を悉く退けている。
 人間の兵士達も多くスレギトに移っており、現在の主要拠点はランサからスレギトへ移っている。
 だが主戦力を二人欠いている今、攻めに不安がありそうだが──そこは悠人がカバーしていた。
 目に見えて、悠人の戦い方はそれまでとは違っていた。
 常に前線に立ち、一切の容赦なく敵を薙ぎ倒していく。皆を率いる戦士としての姿がそこにあった。
 かつてのような敵を斬る迷いも、苦痛の表情もなく。彼はその後ろに屍の山を築いていく。
 その隣には常にヒミカがおり、彼女自身も戦いつつ、彼をサポートし続けた。
 
「……そうか。ご苦労さん、クォーリン」
 椅子に座り、偵察部隊からの報告を聞いた光陰はふ、と口元に笑みを浮かべた。
「コウイン様?」
 その表情を怪訝に思って、クォーリンは問う。

「いや何、俺のダチも頑張ってるなって思ってさ」
 光陰は悠人の顔を思い浮かべた。元いた世界では妹にべったりだったが、中々どうして良くやっている。
「……友人。コウイン様は、ご友人が敵に回ってしまった今でも、友だと思えるのですか」
 自分が複雑な表情をしていると自覚しながら、クォーリンは訊いた。
「ん、ああ友達だな、今でも」
 事も無げに光陰は言い、だが、と続けた。
「そこはそれ優先順位の差だな。俺は悠人よりも今日子が大事なんだ。……まぁ、残酷な話だよなぁ。
 所詮この世は苦界さ、クォーリン。もっとも、マナに還って浄土に行けるとは限らないんだが」
 自嘲気味に笑いながら光陰は言う。時折光陰は独特の言い回しをする。
 何でも、元いた世界での習慣なんだとか。ブッキョーとか何とか言う……
 だが言っていることは良く分からなくても、その内容が明るいものでないことくらいは分かる。
 まだ友人と思っているなら、それが辛くないはずがないだろうに。いくら割り切っているように見えても、だ。
 いつも見せている飄々とした態度とは裏腹に、その裡には深い思慮を湛えている。
 それを気の毒とは思うけれど──戦争は止められないし、その決定権もない。
 決定権があったとしても、個人の意思で止められる戦いを戦争とは呼ばない。
 そして残念なことに、今自分達がしているのは戦争なのだ。
「──クォーリン? 報告の続きをしてくれ」
 はっと意識が引き戻される。失礼しました、と舌を噛みそうになりながら謝罪し、続きを報告した。

「──先の報告の通り、スレギトに部隊を残し、ラキオス軍はミエーユへ進軍しています。
 スレギトに残った部隊には『青き牙』と……『漆黒の翼』両名が確認されました」
「ほう──」
 光陰は思わず感嘆した。『漆黒の翼』は帝国に属していたはずだったが……それが何故ラキオスにいるのか。
 理由は分からないが──何となく、それは悠人の影響ではないかと思えた。
「……クォーリン、一つ訊くが。お前から見て、ラキオスのエトランジェはどんな人間に見えた?」
 訊かれ、クォーリンは先日の戦闘の時に見た悠人の姿を思い浮かべた。
「……戦闘力以外で、という意味なら、仲間の命を考えられる人間かと」
「ほう、そうかそうか」
 愉しそうに──心底愉しそうに光陰は笑う。その真意を問えぬうちに光陰は表情を改め、続きを促した。
「半日を待たずして、ラキオス軍はミエーユへ到達するでしょう。
 現在ミエーユの前線基地では篭城戦の準備を進めております」
「上等だ。なるべく正面切って相手するな。赤を動員して、遠距離からの神剣魔法で焼き払え」
「伝えておきます。それと、ガルガリン方面のほうは」
「帝国が砂漠越えしてくるかもな。デオドガン辺りで見かけたという報告は受けている。
 そっちもミエーユと同様の警備をしとけ。砂漠と荒地が壁になるとはいえ、帝国軍は侮れないからな」
「了解しました」

 指示を終え、光陰は一度ふぅ、と息を吐いた。
 ……自分達のやっていることは防戦だ。後に退けぬ戦いである。
 少し前までの稲妻部隊とランサの関係が、規模を拡大して自分達と置き換わっている。
 では自分達は耐え凌げるか? ──否、と光陰の冷静な部分は結論を出していた。
『運命に愛された者』。出撃前、クェドギンが自分にだけ語ってくれたことを思い出し、そんな単語を思い浮かべた。
 勿論、それは悠人のことだ。いや、ラキオスそのもの、というべきか。
 何故なら彼らは、傍から見れば物語の『主人公』なのだ。
 ライバルがいて、肉親を攫われ、今はこうしてかつての友と相対している。
 そして自分に降りかかる苦悩と試練を一つ一つ乗り越え、その度に成長していく。
 まるで彼を主役にした脚本があって、その通りにことが進んでいるように見える。
 ──そして、脇役は絶対に主役に勝てない。
 だが、と光陰は思う。こちらにも負けられない理由というものはある。
 クェドギンは、その脚本に──運命に逆らうと言ったが、光陰はそれに強く共感していた。
 だからこそ、彼がエーテル変換施設を暴走させようとしていることを止めようとはしなかった。
 岬今日子。自分の愛する人。彼女を救いたいと光陰は願っている。──例え彼女の心が自分に向かなくても。
 悠人を殺せば今日子は自分を恨むかもしれない。
 恨まれるくらいなら、今、自分を必要としている彼女のままでいてくれたほうがいい──
 そう思ったことも何度かあった。けどそれでも、元の今日子に戻って欲しいから。

 今日子が、二度と自分に笑いかけてくれなくても──あの元気な姿を見たかった。
 そのためなら他の全てを切り捨ててもいい。それが光陰が、自らに課した誓いだ。
 ──悠人はどうだろうか。光陰は思う。お前は自らに課した誓いがあるか?
 他の何を投げ打ってでも護りたい、強い求めがあるか?
 そうでないなら、お前は俺に勝てない。勝たせない。
「……クォーリン、もう一つ伝達だ。
 もしミエーユがラキオスに落とされるようなことがあったら、無理をせず退くように伝えておけ」
「しかし、それは──」
「無論、もしもの話さ。が、落とされたんならそこに固執し続けても仕方がない。
 少なくとも無駄に命を散らさせるな。ミエーユが陥落したら、次はそこを拠点に攻めてくるはずだ。
 なら俺らは、マロリガンの手前でそれを食い止めなきゃならん。
 あいつらを斃せば、大将も神剣を暴走させる意味がなくなるしな」
 光陰は椅子から立ち上がる。
「あとな、これはただの勘だが。突破されるなら多分ミエーユのほうが先だ。
 帝国のほうが先にガルガリン落としてこっちに攻めてくるってのは、多分ないな」
「何故ですか? 拠点としての規模も防衛力も、ガルガリンのほうが小さいのに……」
「言ったろ。勘だよ、ただのな」

 しかし、光陰はその勘に確信を抱いていた。
 そう、真実悠人が『運命に愛され』ているとしたら、ここで彼が先に来ないと物語としてはおかしい。
 ラキオスより先に帝国に占領される、というのも意外性があっていいが……生憎とこのストーリーは、主
人公の設定からして王道的な展開のようだ。
 ならば、先に来るのは間違いなくラキオス──悠人だと、光陰は思う。
 ──来てみろ、悠人。
 窓の外を眺めて、笑いながら光陰は心の中で呟く。
 ──お前の力を見せてみろ。もしお前の力が、誓いが俺に及ばない程度のものだったなら、
「お前の運命、俺が潰すぞ」
 
 その十三時間後──ミエーユ、陥落。
 ラキオス軍はミエーユを即席の拠点とし、マロリガンの目と鼻の先で休息した。
 技術者総出でエーテルジャンプクライアントを建設・設置し、ラキオス、スレギト間の移動を容易にして、
万一の際の襲撃にも備えている。
 帝国の侵攻も伝わってきているが、今のところそれは上手く行っていないようだ。
 ガルガリンを相手に小規模戦闘を繰り返しているようだが、中々切り崩せないでいるらしい。
 悠人達はミエーユで体力を回復し、翌日の朝、マロリガンへ進軍する運びとなった。

「アセリア達が到着しました」
 出撃準備を整えていた悠人に、ヒミカが報告した。
 マロリガンでの戦いは総力戦になる。そのためスレギトに残していた人員もミエーユに呼んでいたのだが、
念の為、アセリア、ウルカ、ハリオンの三人には出陣ギリギリまで残っていてもらったのだ。
 こんな無理が利くのもエーテルジャンプ技術の賜物である。
 抗マナ装置といい、悠人は改めてヨーティアの技術力(だけ)を尊敬した。
「分かった。準備して、すぐこっちに来るように言ってくれ」
 はい、とヒミカが頷く。悠人は必要最低限の携帯食料と水をまとめ、ふう、と息を吐いた。
 と、側にはまだヒミカが立っていた。
「ん? どうしたヒミカ。まだ何かあったっけ?」
 問うが、ヒミカは顔を俯かせて答えない。悠人もその理由は何となく察してはいたが、追求はしなかった。
 ──あの日から、ずっとこんな調子だった。
 報告が済んでもすぐには去らない。しばらくこうして立ったまま、けれど何も言わずにやがて去る。
 いくらボンクラ呼ばわりされていても、この程度のことに気付かないほど悠人も鈍感ではなかった。
『辛くないのですか』、と。多分、ヒミカはそう言いたいのだと思う。
 それに答えるならば──辛くないはずなどなかった。

 誰かを殺す罪悪感は常に胸に。
 それでもそれを背負い行くと決めたのなら、間違っても弱音を口にしてはいけない。
 言葉にすればそれはどうしようもなく自分を縛るから。
 迷わぬ自分を貫き通すなら、強くあろうとするならば。決して口にしてはならない。
 ……それをヒミカの方も理解していたからこそ──彼の側に立つだけで、結局何も言えなかった。
 自分の言葉は彼の在り方を壊してしまうから。
 今の彼は強い。迷わぬこと。それは間違いなく自分がかつて彼に求めたことだったけれど──
 今、自分が望んだことが果たされたというのに、ヒミカはただ辛いだけだった。
 彼の強さは仲間を救うだろう。けど、それでは彼自身が救われない。
 ──いつからだろう。自分の中で、この人の存在がこんなにも大きくなってしまったのは。
 喪いたくないと思うようになったのは。
 そして喪いたくないと思うからこそ、ヒミカは、その言葉を口にしなければならない。
 その問いが、今彼を苦しめるかもしれなくても、これ以上磨耗させたくないのなら。
「ユート様は、かつての親友と、戦えますか」
 悠人の心臓に棘が刺さる。その痛みに耐えながら、それでも、悠人は答えた。
「戦う」
 迷うことはできないから。
 その言葉があまりに迷いなかったから、ヒミカはそれ以上何も言えなかった。

 悠人は無理矢理笑顔を作って、言った。
「さ、行くぞヒミカ。さっさとこんな戦争、終わらせないとな」
「……はい」
 小さく、ヒミカは答えた。
 
 ラキオススピリット隊は全速力でミエーユ、マロリガン間を疾走した。
 元々馬車で一日程度しかかからない道程だ。人ならぬ脚力なら日没までには着く道の、その途中。
「──よぅ悠人、遅かったな」
 片手を挙げて、気さくそうに光陰が言った。その背後には稲妻部隊が約二十。
〈因果〉と接近したことで〈求め〉が強く身を打ち震わせるが、それを力で押さえつける。
「……どうしても止められないのか、光陰。俺達が戦う理由がどこにある?」
「……神剣に飲まれた今日子を救う為には、眷属の神剣を壊さなくちゃならん。秋月、お前、そして俺だ。
 それにお前を倒せば大将も神剣を暴走させる必要はなくなる。最初は秋月の予定だったんだがな──」
 尚も笑いながら光陰が言い、腰を低く落とす。背後に控える稲妻部隊、そして悠人達も剣を構えた。
「お前にとって佳織ちゃんがそうであるように、俺にとっては今日子が何より大切なんだ。
 それにな──一度でいいから、俺はお前と全力でやりあってみたかったんだよ!」
 数十の影が、一斉に己の敵へと斬りかかっていった。

 巨大な双剣が大気を押し潰す。全体重を乗せた〈因果〉の一撃が、悠人の〈求め〉を震わせた。
 手の中で〈求め〉が五月蝿い。〈因果〉を殺せ斃せと執拗に責め立てる。
「っは、やっぱりこいつら、仲が悪いみたいだな!」
 光陰もその声を聞いているのだろう。顔を僅かに顰めながら剣を繰り出す。
 真横に薙ぎ払う閃光を飛び越え、空中で剣の切っ先を光陰の首へ伸ばす。
 首を捻ってそれが回避される。着地した悠人に剣が振り下ろされる。
「おぉおおっ!」
 吼える。喉から迸る咆哮の任せるまま、悠人も剣を振り上げた。
 ──ガァン!
 鉄塊の音。──押し負けたのは、〈因果〉のほうだ。巨大な剣が浮き上がり、胴ががら空きになる。

「コウイン様!」
 それにいち早く気付いたのはクォーリンだ。
 光陰を巻き込む可能性を考えながらも、その方向へ速攻で織り上げたエレメンタルブラストを放とうとし──
「──邪魔は、」
 仰け反らせた頭のその眼前を、鋭い切っ先が通り過ぎていく。
「させない!」
 強く〈赤光〉を握り締めるヒミカが、クォーリンと相対した。

「ン舐めんなぁっ!」
 無理矢理振り上げた爪先が悠人の鳩尾を貫いた。景気良く悠人の身体が吹っ飛ぶ。
 不恰好に諸手を着いて着地し、口から粘性の高い胃液を撒き散らした。
 出てくる前に飯食わなくて良かった、と場違いなことを考えながら、悠人はバネのように飛び出した。
「んだらぁぁああぁっ!」
 まだ光陰はよろけたままだ。このまま突っ込めば、確実に斃せる。
 一直線に突っ込んでくる悠人に、光陰は辛うじて〈因果〉を突き出した。正面から来れば無論刺さる。
 だが悠人は避けない。そのまま真っ直ぐに突っ込み、切っ先が左目の下に浅く刺さった。
 その瞬間──光陰は恐怖した。『友を殺す』という現実に。
 腕が勝手に動き、切っ先が横にずれた。頬の肉を裂かれながらも悠人は懐に飛び込んでくる。
 その刹那の時間の中で、らしくない、と光陰は自嘲した。まったく今更になって、どうして。
 だが、それでもいい。自分は死に、悠人は生き、そして悠人はきっと今日子を助けるだろう。
 そしてその上、クェドギンのやろうとしていることまで止めて、この世界を救うかもしれない。
 そうなればハッピーエンドだ。惜しむらくは、自分がそれを見届けられないことだが──
 眼下では、剣を強く握り締めた悠人の姿があった。この間合いでは、〈因果〉は振れない。
 光陰は己の死を予感し、
 
 横っ面を、思いっ切り殴られた。

 ──悠人は光陰の懐に潜り込んだ。
 必殺の間合い。このまま剣を振り上げれば、確実に光陰の首を刎ねられる。
 手の中で〈求め〉が殺せ斃せと叫んでくる。その声に応じるように強く柄を握り締め、
 
 ──ユート様は、かつての親友と、戦えますか──
 
 その柄を放し〈求め〉を投げ捨て、剣の代わりに己の拳を振り抜いた。
 
 ゴッ、といい音がして光陰の身体が横に吹っ飛んだ。その手から〈因果〉が落ちる。
 戦場の空気が止まった。稲妻部隊もヒミカ達も、例外なく剣を止め、悠人と光陰を見た。
「本気で戦いたいって言ったな、光陰」
 起き上がる光陰に、悠人は言う。〈求め〉は拾わない。
「なら本気で戦ってやる。──但し、武器ナシだ」
「上等……!」
 獰猛に、しかしどこか楽しそうに光陰が笑って、拳を振り上げた。

 それはもう子供の喧嘩と変わらない。
 技巧とかそんなものはなく、ただ二人は殴り合った。
 こめかみを殴る一撃が意識を揺らす。顎から頭に衝撃が突き抜ける。それに耐えて、何度も何度も。
 お互い一度も倒れることなく、拳だけで相手を打ち据える。
 だがそれも長くは続かなかった。ぐらりと、光陰の身体が一瞬よろける。
 その顔に、悠人の拳が真っ直ぐにめり込んだ。
 光陰の身体が後ろに倒れた。肩で息をしながら、悠人は言う。
「……俺の勝ちだな、光陰」
「ああ、俺の負けだ」
 決着がついたことを察したハリオンが、二人に回復魔法をかけてくれた。
 光陰は起き上がらないまま、問う。
「何で俺を殺さなかった?」
「殺す覚悟はしてた。……けど、どうなってもやっぱり、俺にとってお前は、友達だったんだ」
 なんだ俺と同じか、と光陰は空を仰いで笑った。そしてむくりと起き上がり、息を吐いた。
「行ってこい主人公。お前の役目だ。さっさと今日子助けて来い」
「ああ、行ってくる」
 頷き、〈求め〉を拾った悠人は駆け出した。

 遠ざかる足音を聞きながら、光陰は空を仰いで言った。
「……剣を下ろせ稲妻部隊。この戦、俺達の負けだ」
 
 荒野に──
 ぽつんと、人影が一つ立っていた。間違えようもないその細いシルエットは、今日子のものだ。
「今日子……ッ!」
 思わず悠人はその名を呼んでいた。
〈求め〉が、〈空虚〉を殺せと叫び続ける。〈空虚〉からも同様に強い気配が立ち上っていた。
 それはさっきの〈因果〉との干渉よりも強い。どうやら、かなり仲が悪いようだ。
〈求め〉は〈空虚〉への憎悪を、悠人が今日子を憎むことにすり替え、悠人の心に植えつけようとする。
 じわじわと張られる憎悪の根を力ずくで振り払い、悠人はしっかりと今日子に向き直った。
「……〈求め〉は、殺す……」
 いっそ透明なほどの憎悪と敵意を宿らせた今日子が、虚ろな言葉を紡いだ。
 今日子、ともう一度呼ぼうとした瞬間──その気配が異質なものに切り替わる。
「何度呼びかけても無駄だぞ、〈求め〉の主。今や、この娘の心は全て我が物となった」
 今日子の身体を完全に支配した〈空虚〉が、今日子の声で冷たく言い放った。

「まぁ、呼びかけてみるのも面白い試みだな。最後に残った部分を、少し出してやろう」
 キン、と幻聴がして、また今日子の気配が切り替わる。──今日子本人のものへと。
「悠、……ころ、して」
 苦痛に顔を歪めさせて、今日子が言う。
「あたし、一杯ころしちゃった……スピリットも、人も……!」
 馬鹿野郎、と悠人は叫んだ。
「俺だってスピリットたくさん殺してきた! でもだからって、殺してなんて言うんじゃねぇ!」
 自分の生き方を他人に強要することも、他人に強さを求めることも間違っていると思う。
 それでも、悠人は今日子が「殺して」というのが許せない。
 だが更に今日子は叫んだ。
「アタシは! 悠みたいに佳織ちゃんを助けたいとかなかったんだよ!?
 ただ帰りたくて、それだけで殺してた! ただの我儘で!」
「俺が佳織を助けたいって思うのも我儘だ。俺だっておんなじ人殺しなんだよ!
 それに、お前が死んでお前に殺された奴らが戻ってくるか!? 違うだろ!
 死んで終わるな! 本当に悪いと思うんなら、生きて、何か償う方法探してみろよ……!」
 だが今日子は、弱々しく笑うだけで。
「……ごめんね。アタシ、もう駄目みたい。ね、悠人、……ちゃんと殺してね?」

 それを最後に──凄まじい量のマナが今日子へと流れ込む。
 意識が切り替わる。〈空虚〉のものへと。〈空虚〉はつまらなそうにふん、と鼻を鳴らし、
「時間切れだな。元より脆いこの者の心では、我に抗えんようだったな」
 剣を構える。切っ先に集まるマナの圧力に、悠人も〈求め〉を構えた。
「おいバカ剣。〈空虚〉だけを殺すぞ。力を貸せ」
『無理を言うな。我々の戦いとはそんな生易しいものではないぞ』
「五月蝿い黙れ。やるっていったらやるんだよ!」
 悠人が駆け出した。同じく地を蹴った〈空虚〉と接触するまでの刹那、〈求め〉は心中で吐息した。
(やれやれ、先刻も〈因果〉を砕く機会を失しさせた上、娘の生存まで望むか。
『戦う』と言いつつ戦わぬ。赤き妖精の一押しがあったとはいえ、優柔不断この上ない)
 光陰と交錯する一瞬、悠人の脳裏に浮かんだ言葉を、また〈求め〉も知覚していた。
 だが、と珍しく、〈求め〉は自嘲した。神剣という、本来感情の薄い存在としてはあるまじきことに。
(──力を欲するくせに、我が要求には応じない。そんな輩に力を貸し続けた我もまた酔狂か!)
〈求め〉は自らに眠る力を、刀身と悠人の全身へと漲らせていった。
 両者が衝突し、〈求め〉が〈空虚〉を弾く。
〈空虚〉はレイピア型の永遠神剣だ。故にその剣撃は重さより鋭さと疾さを持っている。
 渇いた大気を神速の切っ先が穿つ。掠めた切っ先が悠人の身体から血をしぶかせていく。
 それらに耐えながら、悠人は更に一歩、懐へと足を進めた。

「くっ、離れろっ!」
〈空虚〉が罵声を上げるが悠人は今日子の身体に身を寄せ続ける。
 刃を持たず、引いて突くという動作が必要なレイピアは、距離が近すぎると〈因果〉以上に身動きできない。
 息が触れ合いそうな至近距離で、悠人は〈求め〉の刃の根元で〈空虚〉の鍔を押さえつける。
「聞こえるか、今日子!」
 そして叫ぶ。精神の奥底に沈んだ、今日子の意識を引き上げるように。
「戻って来い! 帰りたいんだろ!? 佳織や光陰と……皆一緒に、元の世界に!」
 剣を押す。鍔迫り合いだった今日子の身体が弾き飛ばされ、安定を喪う。
「だったら戻って来い! そしてそんな奴──さっさと振り払え!」
〈求め〉を振り下ろした。今日子の身体へではなく、胸元に掲げていた剣へと。
 カッ、と何かを割るような気配が刃から伝わってきた。
「やったか!」
『その娘が、最後の最後に自ら〈空虚〉を切り離したようだな。〈空虚〉の気配は、もうない。
 ……ふ、人というのは面白い。一時ならば我々をも凌駕するか』
〈求め〉の言葉に頷きつつ、悠人は今日子に駆け寄り、抱き起こした。
 意識を喪っているようだったが、命に別状はなさそうだった。

 後方からヒミカ達と、数名の稲妻部隊が駆けてきた。おそらくは今日子を助けにきたのだろう。
「こいつを頼む。俺の、大切な友達なんだ」
 稲妻部隊に今日子を抱かせ、悠人は仲間達を一度見回した。
「行くぞ! ──もう、前みたいなことはさせない!」
 全員が頷く。悠人も頷き返し、マロリガンへと向けて走り出した。
 既に天にはマナの流れが光の柱となって目視できる。確実に臨界が近づいていた。
 
 夕暮れのマロリガンは激しい混乱状態にあった。
 逃げようとする者、諦めた者が入り乱れ、人のいない店から物品を略奪する者までいる。
 そんな状態の国民が、今更侵入者に気をやるはずもなく、悠人達はすぐにエーテル変換施設まで辿り着いた。
 金色に染まる空は美しくすらある。
 だがそれは、スピリットが還るマナの色。滅びの光だ。
 丁度そこで神剣を通してヨーティアからの連絡が入った。
 内容は、もう時間的にギリギリだということ。マナ消失範囲が大陸全土に及ぶということ。
 いきなり大陸全土か、と悠人は思う。桁が違う。
「ユート。今、この世界の命運はあんたが握ってる。……頼んだよ」

 変換施設内部は、遺跡のような形状をしていた。
 ヨーティアによるとこれも帝国から喪われた技術の一つだという。
 この中では、特定の振動数を持つ真剣の能力が異常なまでに高まるというのだ。
 それは途中で遭遇したスピリットが嫌というほど証明してくれてみせた。
 理性のない獣のような顔と動き。暴走寸前の変換施設のように異常に昂ぶったマナ。
 神剣を通してヨーティアは言う。マナ結晶を用い、スピリットの能力を飛躍的に高める技術。
 だがそれは、神剣もスピリットも使い捨てにするという、爆弾のようなものだ。
(──そこまでして、)
 脳裏に、マロリガン城内で見たあの力強く冷徹な体躯と気配が蘇る。
「何がしたかったんだ、クェドギン!」
 叫び、目の前のスピリットの胴を薙ぎ払った。
 
「やはり来たか。……いや、来させられたというべきか」
 神剣の突き刺さった巨大なマナ結晶。その前に立つクェドギンは、前に会った時と変わらぬ声で言う。
「また会ったなエトランジェ、〈求め〉のユートよ。……む、一人か。仲間はどうした?」
 悠人の周りには誰もいない。傷だらけの身体で、一人ここまで来ていた。
「皆は、あんたが暴走させたスピリットと戦ってるよ。俺を先にここに行かせるために。
 あんたは……何のためにこんなことしてるんだ! 全部壊した先に何があるっていうんだよ!」

「お前こそ、妹を助けた先に何があるのか、分かっているのか?」
 クェドギンが問うた。
「教えてやろうエトランジェ。この世界は、神剣に支配されているのだよ。
 お前達は所詮神剣に操られて行動しているに過ぎない。神剣の求める世界を築くために、な」
 悠人は敵の前だということも忘れて思案した。神剣が世界を支配している? 何の為に。
 いや──そもそも神剣とは何なのだ。何の為に存在している。『何故』、『此処に』『居る』。
「分かるまい、エトランジェ。私にも何故あるのかは分からない。
 だがただ一つ、これまで生きてきて理解したのが、神剣が人のためにあるのではないということだけだ」
 そして、己の想いの全てを吐き出すように言う。
「──ここは、人の大地だ……!」
 静かに、しかし確かに大気を揺らすその声を聞いて、悠人は言った。
「だからあんたは、この世界を壊そうとしてるのか」
「そうだ。私は、我々に強いられた運命が──我々に運命を強いる『何か』が許せんのだよ。
 私の運命は私のものだ。支配されるくらいなら、支配する世界を壊してでもそれに抗う!」
「だったらもっと別の方法を取りやがれ!」
 悠人は叫ぶ。クェドギンの言葉を、全て理解できるわけではない。だがこの行為は間違ってると思った。
 クェドギンは笑う。
「そうだ、それでいいエトランジェ。そうしてお前は私を否定する」

 す、とクェドギンは何かを掲げた。
 右手には、切っ先のない平たい神剣を。左手には、一抱えもあるマナ結晶を。
「……この永遠神剣〈禍根〉は、お前達の剣とは違って意志を持たない。
 どこで欠落したのかは分からぬが、人の扱える唯一の永遠神剣だ。
 人の意志と、剣の意志。どちらが未来を握るのか──」
 掲げた〈禍根〉とマナ結晶が、強く共鳴を始める。
 鉄琴を鳴らしたような高い音が空間に満ち、背後の動力結晶もまた輝きを増していく。
 マナが、クェドギンの手の結晶へ満ちていく。あまりのマナの昂ぶりに部屋全体が震え出した。
 マナの色が、青から赤へ、そして白へと輝きを増していった。
 その中に、一人の人影を浮かび上がらせて。
「遠くない未来、この世界は滅びを迎えるだろう。だがそれは永遠神剣の思惑によってなのだ。
 そんなものが運命だというのなら、俺はそれに抗おう。この世界を消し去ることでな!」
 光の中からクェドギンの声が響いた。
「神剣に生かされて、神剣の思惑通りに生きるなどあってはならない。
 ──俺達は生かされているのではない。生きているのだ!」
 光の中に、クェドギンは笑みを浮かべて消えていく。
 全てを白に飲ませながら、最後に言葉を伝えてきた。
『お前達が勝ったなら、俺の遺志を継いでくれ』

 神剣に抗え、と。
 クェドギンは、悠人達にそう遺した。
(だけど、ならどうして戦いを選んだ。取るべき道は、それだけじゃないだろう)
 或いはクェドギンは、辿り着いてしまったのだろう。自分達には分からないような絶望に。
 この世界の、残酷な真実に。それでも、彼のやり方は納得はできないのだけれど。
 徐々に光が収まり──その中心には、一人の少女が立っていた。
 白い髪、白い肌。手に〈禍根〉を握る雪のような純白のスピリット。
(……イオ?)
 その名が脳裏に浮かぶ。この世界に一人しか存在しないはずのホワイトスピリット。
 だが目の前の少女はイオとは全く似ても似つかない。
 白の少女が〈禍根〉を真っ直ぐにこちらに向けた。長い前髪の間から、破壊の意を宿す真紅の瞳が覗く。
「勝てたら、ってのは、こいつにか」
 呟き、その後ろにある動力結晶に目をやる。臨界は近い。
 悠人は息を吸い、自らを奮い立たせるために声を張り上げた。
「行くぞ!」

 悠人が地を蹴り、距離を詰める。だがそれは、白い手が剣を振り上げる動きによって阻まれた。
 冷たく、〈禍根〉が空間を縦に斬る。その動きに応じて、空間に無数の魔法陣が展開された。
 極彩色の魔法陣にそれぞれマナが宿り──業風となって吹き荒れる。
 幾つものマナの嵐が渦を巻き、一本の太い竜巻となって周囲を蹂躙する。
 オーラフォトンを展開し、その嵐に耐える。一瞬でも気を緩めれば五体がバラバラになりそうだった。
 だがスピリットはそんなことお構いなしに責め立てる。視界の奥で、またたくさんの陣が光を放った。
(ッ、まずっ……!)
 第二波が来る。耐え切れない。
 ──いや、耐える。
 皆を護り自分も生きる。そう誓ったのだから。
「ぬぅぅぅうううあぁぁぁぁぁっ!!」
 剣に力を込める。身体中の力を護りへと転化し、マナの壁を何重にも重ね展開する。
 どん、と工事機械の鉄球で殴られたような衝撃。浮きかかる爪先を、身体を前に倒すことで留めた。
 ──その風の中。
 竜巻の中心、無風の空間を、白いスピリットが剣を構えて飛翔する。
 キリ、と糸が軋むような音が聞こえた気がした。
 絶対零度の赤い瞳が、悠人を見た。

 肉薄した白が剣を振り下ろす。自らの風を斬り裂きながらその中を滑落する。
「こ、のぉっ!」
 マナを通す余裕はない。力任せに振るう〈求め〉で弾き飛ばす。
 勢いに逆らわず、ホワイトスピリットは翼を羽ばたかせて後退した。──その途中、剣を振り下ろして。
 バラバラに展開していた魔方陣が、悠人から見て一列に展開する。
 後ろから順に魔方陣が光を放ち、次から次へと光の風を喰らって大きくなっていく。
 蹂躙する暴風ではなく、穿ち貫く嵐の龍。
 顎を広げ、その牙を悠人へと突き立てようとする。
 耐え切れるか。耐え切れるか。耐え切れるか。本能が詰問する。
 耐え切れない、と悠人の冷静な部分は判断を下した。だが、

 ──皆は死なせないし、俺も死なない。
 
「皆で生きるって、そう決めたァッ!!」
 周囲に満ち満ちるマナを、〈求め〉を通して無理矢理吸い上げる。
 龍の牙に、剣を振り下ろす。

「が、ぁ……ッ!」
 牙が〈求め〉を押し退ける。耐え切れない。ここで負ければ皆も護れないのに。
 力を込める。だが、それを上回る力で剣が持ち上げられ──
「──すまん、遅くなった」
 横合いから、分厚い剣が差し出された。展開される黄緑色の加護のオーラ。これは──
「光陰!」
「よう。助けが必要か?」
 いつも通り、飄々とした笑顔を浮かべた光陰が立っていた。
 龍が叩き潰され拡散する。風が二人の周りを吹き抜けていった。
「今日子は無事だ。お前には色々言いたいことはあるし、白黒つけなきゃならんこともあるが──」
 光陰は、動力水晶の前まで後退したホワイトスピリットを見やる。
「今はあれだな。まだ行けるか?」
 当たり前だろ、と悠人は答える。自然と笑みが浮かんだ。隣に友が居るというだけで、力が湧いてくる。
「そうか、じゃあ、さっさと決着つけようぜ……!」
「ああ!」
 頷き合い、二人は白い光へと駆けた。

 ──そして、マロリガンとの戦争は終結を迎えた。
 エーテル変換施設の暴走を食い止め、悠人は光陰、今日子と再会を果たした。
 光陰と今日子に城下町を案内した日の夕暮れ、悠人はヒミカと一緒に、城の中庭にいた。
「……ありがとうな。ヒミカ」
 オレンジに染まる、咲き誇る花々を眺めながら、悠人は言った。
「出撃前のヒミカの言葉がなかったら、俺はきっと光陰を殺してた」
「違います。ユート様がコウイン様を殺さなかったのは、ユート様自身が殺したくないと思ったからでしょう?」
「それでも、後押しをしてくれたのはヒミカだったよ」
 そうですか、とヒミカはただ頷いた。それからしばらく、沈黙が訪れる。
「……後は帝国だけですね。帝国のエトランジェを斃し、カオリ様を助ける」
「ああ。そうだな。そしてどうにかして、元の世界に帰りたいもんだ」
「──そう、帰ってしまわれるんですよね」
 聞こえたヒミカの声は、少し寂しそうだった。
 そうだ。元の世界に帰るということは、ヒミカ達と別れるということでもある。
 帰りたいとは思う。だが、別れの時を思うと、少し寂しかった。
 二人はそれ以上言葉を交わず──ただ、庭園の花を眺めていた。