紅蓮の剣

 からん、と二つのグラスの中でアカスクが揺れた。
 並々と注がれたそれは、この前悠人と飲んだ時の飲み残しだ。新しいものは手元にないので仕方がない。
 まぁ実際に飲むのは自分だけなのだから構いやしない──ヨーティアは思った。
 口に煙草を咥え、火をつける。
「アンタにも吸わせてやりたいとこだけど、無理か。もういないもんな」
 テーブルにはグラスが二つと椅子が二つ。片方はヨーティアが座り、もう片方には〈禍根〉が立てかけられている。
 研究資料の名目で、エーテル変換施設から回収されたものを譲り受けてきたのだ。
 そしてこの剣は、クェドギンが最期に握った剣でもある。
 くつくつと、意志のない神剣を眺めながらヨーティアは笑う。
「結局アンタは凡才のまま逝っちまったんだねぇ。
 自分の限界知ってたアンタが、唯一見出した術がアレじゃあ、どうしたって救われないな」
 煙を吐いてアカスクをあおった。一気に飲み干し、なぁ、と〈禍根〉へ声をかけた。
「なぁ知ってるかい。知らんだろうなぁ。私はさ、この大天才ヨーティア様はさ。
 この世でただの一人っきり──アンタだけは、怖かったんだ」
 自分の限界を知っているということは、自分にできることとできないことが分かっているということだ。
 できる範囲で、最大限のできることを知り、更に上の階梯へと行くことができるということだ。

 だからヨーティアは怖かった。己の分を知る者は、どんどん高みに昇っていく。
 最初から高い位置に定められた天才と違って、自ら望む高みへと、常に。
 ──そしてその先で、クェドギンは絶望したのだろう。
 この世界の真実を知り、それに自分では抗えぬことを知って。
 彼が世界に抗うためにやった最大限のことも、結局は止められた。
 ただ一人で世界に立ち向かおうとして、そして負けた。最期に、自らを破った者にその先を託して。
 だが、とヨーティアは、その時の悠人と同じことを思った。
「それならもっと他にやりようもあったろうに。……それとも、それもできないくらい、アンタは孤独だったのか」
 帝国を離れた後、自分にはイオがいた。けれどクェドギンは一人だった。
 たった一人で、帝国から流れてきた彼が一国の大統領にまで登り詰めるまでに、如何ほどの孤独と苦労があったのか。
 そんなもの、ヨーティアには想像すること以外できはしない。
「本当に……あのボンクラとそっくりだな。愚直で、一途で、意地っ張りで……」
 くつくつと笑いながら、ヨーティアは泣き笑いの顔で瞼を閉じた。
 
 イオがその部屋を訪れた時、主人はテーブルに突っ伏して眠っていた。
 主人をベッドまで運び、毛布を被せ部屋に戻ると、椅子の上の切っ先のない神剣が目に入った。
 それをイオは手にしたことなどなかったけれど──何故か、少し懐かしい感じがした。

 エーテル変換施設の暴走を食い止めた後、マロリガンは和議を申し入れてきた。
 とはいえ事実上の降伏である。議会の老人達も、レスティーナの意向に従うつもりのようだ。
 とりあえずレスティーナは暴走寸前だったエーテル変換施設の解体を命じ、新たに建設。
 次いで旧マロリガン領にも、ラキオスと同等の生活水準が保てる程度のエーテル供給を命じた。
 混乱状態にあった旧首都の復興には技術者を幾人か回し、警備には稲妻部隊を初めとする、以前からマロ
リガンに属していたスピリット達を起用した。
 政治自体は、クェドギンがそれまで行ってきた政策などを引き続き行うことになった。
 その最期こそああであれ、彼の為政者としての手腕は優れていたということだ。
 実際に旧マロリガン領の市民を治めていくのは議会だ。名目上、和解であるので、ラキオスが領内の政治
に過度に口出しをしないほうが良いという判断である。
 また、クェドギンのあの暴挙にも関わらず、市民の中にはまだクェドギンを支持するものも多い。
 変換施設の暴走は彼なりの考えがあってのことだと、好意的に受け止められてさえいる人間もいる。
 逆に彼と反目していた議員達が非難されることもあるようだ。それらは今、信頼回復に躍起になっている。
 ともあれ戦後の混乱もさほどなく──マロリガンの国政諸々の引き継ぎは、速やかに行われていった。
 これで残る敵は帝国のみである。
 ラキオスは正式に帝国に宣戦布告、最後の戦いの火蓋が、切って落とされた。

〈因果〉の光陰、〈空虚〉の今日子を戦列に加えたことでラキオス軍は戦力を増し、帝国との戦いへの意気を高めた。
 旧マロリガンに属していた二人のエトランジェを警戒する声もあったが、今や勇者と持て囃される悠人の
旧友という立場と、レスティーナの進言、そして依然厳しいラキオスの台所事情がそれを抑える形となった。
 マロリガン首都の復興の目処が立ってからは、稲妻部隊率いる旧マロリガン領スピリット部隊も参戦。
 彼女らは主に都市の防衛と後方支援に当たることになった。
 元よりマロリガンの保有するスピリットは多く、悠人達が領内を中央突破し短期決戦に持ち込んだことで、
戦争の規模の割に死者の数は極めて少なかった。
 ラキオスは国境付近の守りを固めた後、旧ダーツィ領ケムセラウトより、法皇の壁に向けて進軍を開始した。
 
 ケムセラウトから法皇の壁までは、それほど距離はない。
 しかし、法皇の壁の門は帝国とダーツィを結ぶ唯一の道であったため、当然、守りも尋常ではなかった。
「法皇の壁っつーのは、要するに万里の長城みたいなもんか」
 全道程の三分の二ほどで夜営することになった中、焚き火を囲んでいた光陰がぽつりと漏らした。
「光陰殿、バンリノチョウジョウとは何でありましょうか」
 ウルカが問う。光陰は答えた。
「俺達の世界にあった、大昔に建てられた、外敵の侵入を防ぐための物凄く長い砦のことさ。
 規模的には、法皇の壁と同じか、それ以上だな」

「ハイペリアにも、戦争はあるのか?」
 ふとアセリアが首を傾げた。そうね、と今日子が頷く。
「アタシ達がいた国はそれなりに平和だったけど、別の国じゃまだ戦争してるよ。理由は色々だけどね。
 ま、昔に比べりゃマシと思うけど。アタシらが生まれる前には、世界中巻き込んだ大きな戦争があったりしたから」
 それらを実際に今日子達は経験したわけではないが、その悲惨さは語り継がれている。
「それでも、コウイン様達の国は平和になったのですね」
 膝の上で眠るオルファの髪を優しく撫でながら、エスペリアが言う。
「争いのない状態を平和と言うのなら──だな。色んな場所でやっぱり紛争があってるし、恒久平和には程遠い。
 そうさな。こんな戦争になる前のこの世界と同じようなもんだった。揺らせば倒れる砂上の楼閣、さ」
 絶妙なバランスで成り立っている国々の状態。小国の紛争と、大国の牽制が繰り返される関係。
 この世界では、楼閣を揺らしたのは前ラキオス王である。……いや、本当の意味で原因となったのは、
 ──俺達がこの世界に落ちてきたからだな。
 遠巻きに彼らを眺めていた悠人はそう思い、そして考えた。何故、自分達がこの世界に呼び込まれたのか。
『この世界は神剣に支配されている』。クェドギンの言葉が蘇る。自分達がこの世界に来たのも、神剣の意志なのか?
 無論、考えたところで分かるものではない。確かなのは今ここで戦争が起こり、自分達が戦場にいるという事実。
「──ならば、造り直さなければなりますまい。
 今のこの世界が壊れた楼閣であるというのなら、今一度、もう倒れぬものを」
 静かに呟かれたウルカの言葉に、皆は深く頷いた。

 翌日、悠人達は一気に法皇の壁へと侵攻した。
 道中待ち伏せしていたスピリットの悉くを殲滅し、日が沈む前には法皇の壁目前まで到達した。
「で、これからどうする? 光陰」
 敵の哨戒部隊をやり過ごし、木々の間に法皇の壁の門を望みながら、悠人は訊いた。
 守りは堅い。ただ攻め込んでも落とせないと判断した悠人は、光陰の知恵を拝借することにした。
「ふむ。まぁ一筋縄じゃ行かんだろうな。敵も本気だ。
 さっきちょっと〈因果〉使って偵察に行ってきたんだが、あそこにゃ人間は全くいねぇよ。全部スピリットだ。
 ……しかも意志を失した、な。機械的な、そして堅固な警備システムだよ、あそこは」
 顎に伸びた無精髭を撫でながら、光陰は言う。
「左右に伸びる壁にも相当いる。強引に門を突破しようもんなら、戦ってる間に集結しちまうな」
「じゃあどうすんのよ」
 問う今日子に、光陰は肩を竦めて答えた。
「焦るなよ今日子。確かに相手はでけぇ壁だ。俺達の流れを阻む堤だ。
 だがな今日子、昔から言うだろう。堤ってのは、蟻の穴から崩れていくもんだってな」
 にやり、と光陰は笑った。
「それにだ、俺の剣の力を忘れちゃいねぇだろうな」
 それを聞いて、ああ、と悠人達は納得した。
「そういうこった。……じゃ、今から具体的な作戦案を話すぞ。駄目出しよろしくな」

 法皇の壁──
 帝国とその他の国々とを分かつ、巨大な石造りの城壁である。
 城壁、と言ってもただの壁ではなく、中には居住スペースすらあり、一種の拠点と言っていい。
 中は空洞であり、壁内部での人員と物資の行き来を容易にしている。
 壁は高く、乗り越えることでの進入は不可能だ。スピリットなら可能かもしれないが、人間による制圧は出来ない。
 帝国領内に侵攻するのであれば、当然門を押さえる必要がある。
 故に、ここの守りはどこよりも堅牢だった。
 門の内側と、壁の上の物見、門の外を哨戒する者。ここを守るスピリットの総数は百を下らない。
 そしてその全員が、神剣の意志と同化した戦闘機械であり、敵を殺すことにも己が死すことにも躊躇はない。
 日が落ち、周囲が闇に包まれた今も、光のない瞳がケムセラウトの方角を見つめている。
 ──と、壁の上の物見にいたスピリットが、夜闇の奥にぽつんと小さな赤を見つけた。
 近くの猟師か、とそのスピリットは推測する。
 スピリットにしては神剣の気配を感じないし、そうでなくとも敵前で居場所を知らせるような真似はすまい。
 だが──それは誤りだった。気付けば、その赤が僅かだが大きさを増している。
 近づいている、と気付き、逃げようとした時にはもう遅い。
 音速を超えて飛来する赤い飛礫は、城壁に開いた窓にすぽっと入り、
 ────────爆発した。

「……命中確認。移動後、作戦行動を再開します」
 ぼそりと呟くような声が樹上から聞こえた。
 遠くでは、法皇の壁の向かって左の一部が崩落し燃え上がっている。半鐘の音が夜に響く。
 ザッ、と赤い影が枝葉の間から飛び出し、枝葉をしならせながら、次々と木々を跳梁していく。
 赤い影はナナルゥだ。月光を浴びながら、さっきまでいた木から遠く離れていく。
 適当に背の高い木を見つけると、そこで足を止め、太い枝をしっかりと踏み締めた。
「ナナルゥ、次は二分後よ」
 下から聞こえる声はセリアのものだ。了解、とナナルゥが頷く。
 ナナルゥの役目は、狙撃だ。敵の神剣の知覚範囲外からの、神剣魔法による遠距離攻撃。
 セリアはそのサポートである。手には懐中時計。秒針が、小さく音を奏でながら時を刻んでいく。
 最初の爆発で、第一陣が突入している。次の爆発を合図にして、残りも襲撃に向かうはずだ。
 今回の作戦ではそれぞれに決まった役割がある。いつものように戦陣に突っ込んでいく単純な戦いではない。
 皆も、それに従い行動しているのだ。ならば、とナナルゥは思う。己は己の為すべきを為す。
 剣先にマナを集めていく。手の届く範囲全てを引き寄せていく。
 際限なく絶え間なく隙間なく、爆炎の意を与えられたマナを圧縮していく。
 剣先に炎が灯る。子供の頭ほどしかないそれは、しかし唸りながら渦巻く灼熱の業火だ。
 もう無理だと叫ぶ空間を捻じ伏せて、それでも尚炎をつぎ込んだ。
 張り詰めた炎をつがえ、ナナルゥは静かにその時を待った。
 そして、

「──撃て!」
 セリアの声が響いた。
 ばん、と超々高密度の火炎弾が撃ち出された。反動でナナルゥの身体が大きく仰け反る。
 風を切り裂きながら突き進む赤。それは狙いを違えず壁に開いた窓に入り──そして爆発。
 轟々と、門の両翼から炎が上がる。
「作戦第一段階、完了。……皆様、幸運を」
 後半は口の中で転がすように呟いて、ナナルゥは木から飛び降りた。敵がこっちの位置に気付いた。
 周囲を警戒していたセリアと頷き合い、自分達も門へ向けて駆け出した。
 
 壁の中では、スピリット達が迅速に行動を開始していた。
 感情を喪った彼女達に、混乱という余計なものはない。それぞれが的確に己の持ち場へと駆けていく。
 そして今、ナナルゥの砲撃により破壊された砦の左翼には、多くのスピリットが集結していた。
 仲間を助ける、などという意識はないが、しかし火災を放置しておくわけにはいかない。
 石造りの壁とは言え、内部には木造の部分もある。放っておけば延焼する可能性もあった。
 鎮火作業を行うため、約二十名ほどのスピリットが壁の上に集結していた。
 ──と、そのうち一人が、ふと違和感を感じ取った。ごくごく弱いが、壁の下に神剣の反応を感じたのだ。
 仲間がまだ生き残っているのかもしれない──
 まだ情緒というものがほんの僅か残っていたそのスピリットは、誰かいるのか確認しようと壁から身を乗り出した。

 だが感情があるが故のその不用意さが、彼女の命運を分けた。
 弱かった神剣反応が急激に膨張し、そしてそれが壁を駆け上がって──彼女の首を刎ねた。
 最早隠していない神剣の反応に、その場にいた全員がその方向を振り返った。
 首を喪った身体が噴水のように血を噴出しながら、よろよろと二、三歩後退し、そして倒れた。
 壁を駆け上がって姿を現したのは、燃え盛る火より尚赤い炎の妖精──
 即座に、帝国兵の一人がその妖精に肉薄する。妖精も石を蹴り、三度剣を交わして斬り捨てた。
 その右から更にブルースピリットが飛び込んでくる。だがその切っ先は届かず、片刃の剣に阻まれる。
 銀の髪を持つブラックスピリット。『漆黒の翼』と謳われる剣士がそこにいた。
 ブルースピリットの剣を弾き、返す刃でその身を斬り伏せる。血が飛沫となって銀の髪を汚した。
 その隣からグリーンスピリットが姿を現し、迫りつつあった敵二体を槍の一閃で薙ぎ払った。
 どけっ、と後方のレッドスピリットが叫んだ。素早く呪文を唱え、神剣魔法を完成させようとする。
 だが、それを、
「──サイレントフィールドッ!」
 全てを凍結させる声が、荒ぶるマナの動きを止めた。
 ばさりとウイングハイロウを羽ばたかせ、ブルースピリットが舞い降りる。
 ヒミカ、ウルカ、クォーリン、そしてアセリア。
 かつては敵対し、今はラキオスの誇る屈指の剣士達が、ここに集っていた。

「一人当たり五人、ってとこですね」
 警戒すべき敵を前にして動きを止めた帝国のスピリット達を一瞥して、クォーリンが呟いた。
 そこに、神剣の気配を感じてだろう、壁の内部に通じる階段から、また数名のスピリットが姿を現した。
「……追加注文、でしょうか」
 珍しく、ウルカが軽口を叩いた。そうね、とヒミカも口元に笑みを浮かべて応じる。
 二十人以上の敵に対し、こちらは四人。だが、これっぽっちも負ける気はしなかった。
 一度敵として剣を交えたからこそ、その強さは分かっている。そしてだからこそ、その力を信じられる。
 ヒミカは一呼吸置いて、そして告げる。
「さて……私達の仕事は門左翼の制圧と掃討。少しでも悠人様達の仕事を減らすこと。全員──」
 ぼぅ、とその双剣が紅の光を宿す。炎のマナを込められた剣が、灼けた銅のように赤熱する。
「────突撃!」
 四色の影が弾けるように飛び出した。
 先頭に立つのはウルカだ。膝より低く駆け抜ける影は疾風の如く。
 炎に照らされた影を取り残し、それより尚疾い剣閃が幾十と乱れ飛んだ。
 黒い風の通り抜けた後で、スピリット達が脚から、腕から、そして首から血飛沫を吹き上げる。
 手足を斬られ体制を崩したスピリット達を、遅れてやってきた青い旋風が一薙ぎで両断した。
 剣を振り切り足の止まったアセリアに、左右二方向から剣がブラックスピリットの剣が落ちてくる。

 その剣がアセリアに届く前に、ヒミカがその背を掴んで引っ張った。
 身体が後ろに引かれ、目の前を二本の断頭の剣が落ちて石畳に火花を散らす。
 慣性に従い入れ替わってヒミカが前に出る。踊るように円を描いて動きながらヒミカは剣を振るった。
 一人の首を飛ばし、一人の頭蓋を貫いた。
 一回転したヒミカの影から、腰だめに槍を構え弾丸と化したクォーリンが飛び出す。
 正面にいた一人が反応できず心臓を貫かれる。勢いは衰えず、その後ろにいたもう一人をも串刺しにする。
 背後に気配。マナに還りつつある二体から槍を引き抜き、石突をかち上げて顎の下を突き破った。
 のみならず石突は上顎を突き破り脳髄を磨り潰した。びくんびくんと痙攣しながら緩やかに死に向かうスピ
リットを左の一団に放り投げ、柄を片手で長く持ち遠心力で右に振り抜いた。
 刃が、迫りつつあったスピリットの頭部に、ごすん、と横からめり込んだ。
 顔の中心辺りまで分割した穂先を引き抜き、クォーリンは一度後退する。
「ウルカさん」
 呼びかける。同じく後退し、背中を合わせたウルカが気配だけで応じた。
「私は右。あなたは左」
「承知」
 言葉は短く。それだけで事足りる。
 跳び、ウルカが抜刀する。神速の閃光はしかし敵の剣に弾かれた。だがその程度ではウルカの隙にはならない。
 弾力を力で抑え込み、斬るのではなく刺突。剣の間を潜り抜け、横に寝かせた刃が左眼を突き刺した。

 後頭部まで貫通した刃は鮮やかにこめかみを切り裂いて空気に触れ、赤い血がマナへと還っていく。
 横に流れる切っ先を、くん、と斜めに落とした。
 背後に迫っていたスピリットの脾腹を切り裂き、返す刀で胸に深く十字を刻む。
 倒れ行く身体に目もくれず跳躍。周囲のスピリットを飛び越え、うち一人の背後に降り立ち脊髄ごと心臓を貫く。
 剣を引き抜いて後退。とん、と背中が良く知っている気配に触れた。
 ヒミカ達四人が、それぞれ背中を合わせて集った。周囲には帝国のスピリットがまだ十数人。
 四人ともそれぞれ六人以上斃したはずだが、また増援が来ていたらしい。
 火は鎮火しつつある。闇を取り戻しつつある空間の中で、クォーリンが不思議なものですねと呟いた。
「私達は、ついこの間まで互いに剣を向け合っていたはずなのに、今はこうして背中を預け合っているなんて」
「それも縁というものでありましょう、クォーリン殿」
 チキ、と〈冥加〉の鍔を鳴らし、ウルカが答えた。アセリアが、ん、と頷き、そうね、とヒミカも答え、
「けど、悪くないでしょう?」
「──ええ、それはもう」
 クォーリンが愉しげに答えた。
 やや出来すぎている感はある。昨日の敵は今日の友とは言うが、都合が良すぎる気がする。
 だがそれでも、とヒミカは思う。今ここに、心強い仲間と共に在れることは嬉しいことだと。
 四人は再び地を蹴った。

 同時刻、門の右翼側。こちらは更に損壊が酷かった。
 ナナルゥの炎弾は倉庫に仕舞われていた可燃性の物資に引火し、更に燃え広がった。
 爆発自体の衝撃も酷く、門からこちらは殆ど完全に崩壊している。中にいたスピリットも助からないだろう。
 門から離れた位置にいたため生き残った十数名は、事態を把握するため壁を降り、門へと向かっていた。
 だがその途中、固まった複数の神剣の気配を感じ、足を止めた。
 視線の先には五つの影が。やや背の高い一人と、低いのが四人。
「ここから先は、通さないよ!」
 一番手前の影が威勢良く言い放つ。熱で脆くなった壁がまたどこかで崩れ、更に高く炎が上がる。
 その炎が、彼女達の横顔を照らした。
 先頭に立つのは、剣を構えたオルファ。その後ろには、ネリー、シアー、ニムントールが控え、
「そういうわけなので、ごめんなさいね~」
 やはりいつもの間延びした声で言うハリオンがいた。
 傍から見れば、それは小学生と引率の先生のようにも見えただろう。
 だが彼女達は、幼いながらも皆それぞれが戦士なのだ。瞳に宿る意志は強く、しっかりと敵を見据えている。
 両者はしばし無言で対峙し、──また壁が崩れた。
「──ふぁいあぼるとっ!」
 それが戦端となる。燃え盛る炎に負けじと、強く色を宿した火群が、帝国のスピリット達を襲う。
 帝国兵は散開、それに応じ、オルファ達も個別にそれらを迎え撃った。

 また同時刻。
 左翼側の内部、丁度ヒミカ達がいる場所の階下では、崩落に巻き込まれるのを免れたスピリット達が走っていた。
 事態が把握できない。だが真上に強い神剣反応があるのは分かる。
 とりあえずはそれの掃討に向かわねばなるまい。そう判断した。
 法皇の壁内部は三つの階層に分かれている。今彼女達がいるのは一番下の階層だった。
 二階への階段を駆け上るため、先頭を走っていた三人がまず曲がり角を曲がり、
 ──直後、その気配がふっつりと消えた。
 後続の三人が急停止する。曲がり角の向こう、仲間の気配は消えたが──そこに、別の何かがいる。
 剣を構え警戒を強めた。気配はあるがそれは押し殺されていて──そして冷たい。
 かつん、と音がして、一歩、影がゆらりと足を踏み出す。
 闇に溶ける気配、その頭部と思しき部分に小さく光る、猫のような眼光が、三人を射抜いた。
「──三人。少々、面倒ですね」
 片刃の神剣を逆手に握る影が、その零下の気配に似合わぬたおやかな声で喋った。
「六人同時に駆け込んで来てくれれば良かったのに。そうすれば──楽に殺してあげられたのに」
 心底哀れむような声。細まる眼は猫から猛禽へ変わる。隠者から狩人へ。
「上には誰もいませんよ。三階は逃がしてしまいましたけど、そっちももうあの四人が片してるはずですね。
 ──ええ、だから、後は、あなた達だけ」
 かちりと神剣の鍔を鳴らし、ファーレーンは立ち竦む三人へと跳んだ。

 そしてまた同時刻──門の内側。
 法皇の壁はその巨大さと厚さ故、門は二枚ある。ダーツィ側のものと帝国側のものだ。
 その二つの門扉の内側を、帝国のスピリット達は駆け回っていた。
 門の左翼に敵兵が侵入し多くはそれの迎撃に向かった。
 右翼の壁は先の砲撃で殆ど崩壊。しかもそこにも敵スピリットが目撃され、そこにも人員が回された。
 よって通常最も硬い守りである門そのものは、常よりやや人員の少ない状態となっていた。
 問題はない、と帝国兵達は判断していた。門の外に気配は感じない。敵は両翼の二つの軍だけだ。
 もう少し左翼側に回すべきか、とリーダー格のレッドスピリットは思考した。
 左翼に侵入した敵は四人。しかし、既に斃された兵は三十を数えた。
 これ以上減らされる前に畳み掛けるべきか──撤退という概念はそもそも存在しない。
 己の死に頓着せず、そも死というものを理解しない。あるのは冷徹な思考と戦闘回路のみである。
 その冷たい計算によって、レッドスピリットは左翼側に人員を回すことに決めた。
 いくら強くとも所詮はスピリット。過程で何人死のうと、数で押せば殺し切れるだろう。
 そう結論を出し、部下に指示を飛ばそうとしたところで──
 
 ──門が吹っ飛んだ。

 ズゥゥゥン……と重い音と砂埃を上げて、巨大な門が内側に倒れた。
「おうおう、こりゃまた盛大な出迎えが期待できそうだな」
 光陰が門の内側を見て気楽に言う。
 倒れる門扉に巻き込まれた者はいなかったようで、皆健在に──敵意を剥き出しにしている。
 門の内側の空間はあまり広くない。交通の便が悪そうに見えるが、防衛上それは当然だ。
 そこにスピリット達が約三十。出てきていない者も含めればまだいるだろう。
「ヒミカやハリオン達が折角敵をひきつけてくれてるんだ。頑張らないとな」
 今しがた光陰の〈因果〉と共に門を叩き壊した〈求め〉を握り直し、悠人は呟いた。
 ──光陰の立てた作戦は、このようなものだった。
 まずナナルゥが神剣の知覚範囲外から砲撃し、壁の左右を断絶させ敵をそちらに集める。
 光陰の言う『蟻の穴』とは、つまり壁に開いた窓のことだ。
 外から衝撃を受けるのと、内側から破裂するのでは無論後者のほうが威力は大きい。
 ナナルゥの能力なら外からでも充分な効果は得られるだろうが、より効果的な手段を取ったのだ。
 砲撃後はヒミカ達とハリオン達がその方向へ向かい、更に敵を分散させる。
 ヒミカ達とハリオン達では戦力に差があり過ぎるが、その割り振りにも勿論理由はある。
 二つの集団が平均的な能力を持っていた場合、相手は両方に均等な兵力を送るだろう。
 だが平均的には同じでも、個々の能力は違う。そして戦闘の中では仲間を護り切れる保証はない。
 つまりそれは、敵と戦う中で、力の弱い年少のスピリット達が命を落とす可能性があるということだ。

 だが逆に二つの集団に差があれば、より強いほうに兵が送られる。
 そして強いほうは、スピリットの中でも最高峰の実力を持つ者ばかり。おいそれと死ぬはずがない。
 また弱いほうには兵が追加されず、相対している分だけを斃せばそれで済む。
 ハリオンがそちらに回されたのも、オルファ達が傷ついた時の加護と治癒を任せるためだ。
 ナナルゥ、セリアの二人にも、自分の仕事が終わった後はハリオン達の加勢に向かうように言ってある。
 そして最後に──悠人、光陰、今日子のエトランジェ三人の出番である。
 ぎりぎりまで〈因果〉の能力で気配を隠し、敵の数が適度に減ったところで門に突貫する。
 通常なら三人だけでは流石に辛い兵力も、今はやや少なくなっていた。それでもやはり多いが。
 念の為、門の外にはヘリオンとエスペリアがいる。背後からの奇襲を避けるためだ。
 ……全員一丸となって門に突撃するだけでは、力の弱い者から死んでいく。
 今回の作戦と人員の割り振りは、誰一人として死なせないためのものだった。
「──さて、と。それじゃ、そろそろ行きましょーか!」
 今日子が〈空虚〉に稲妻を宿らせる。おうよ、と悠人と光陰が剣を構えた。
 三人の戦意に答え、向けられる敵意が殺意へと変わる。
 悠人は、目を閉じた。対峙する敵は、けれどヒミカ達と同じスピリットだ。
 罪悪感は常に胸に。だが戦いをやめることは出来ない。より多くを護るのならば。
 目を開く。ただそれだけの迷いを切り捨てる儀式を経て、剣を握り締め、そして吼えた。

 ぎゅん、と景色が後ろに置いて行かれる。獣の様に低く跳躍し、敵陣の真っ只中に突っ込んだ。
 面を上げる。周りは何処を見ても敵。沈んだ身体を捻りながら、旋風のように剣を振るった。
 薙ぎ払われる風が一瞬でスピリット達をマナへと変えていく。
 その霧を突っ切ってまた別のスピリットが殺到する。正面の一人を蹴り飛ばし、右に剣を振るった。
 受け止めた神剣ごと吹き飛んでいく身体。そのまま振り抜き背後へと一回転。少女の身体を上下に分割する。
 回転の勢いを殺さぬまま剣を下げ、そしてすぐに斬り上げを放つ。弦月を描く一閃を、線上にいたブルー
スピリットが受け止める。しかし剣が跳ね上げられ、そのまま両目から頭蓋骨を斜めにカットした。
 脳を破壊され、残った本能が弦を引き千切るような絶叫を上げさせる。
 左に敵。慣性を駆逐し刃を返すことさえせず、〈求め〉の峰で少女の頭を粉砕した。
 パン、と呆気なく脳漿が飛散し、赤から金へとその色を変えていく。
 肉を裂く音。骨を砕く音。断末魔の音。──命の散る音。
 意識の中で耳を塞いで止まることなく剣を振るう。その度に視界一杯に血の華が咲く。命の華が散る。
 歯を食い縛った表情のまま、容赦なく剣を振るって妖精を屠殺する。
 鬼神。
 その戦う様を見るものは彼をそう呼ぶだろう。
 躊躇のない動きはいっそ美しくすらある。殲滅の風となって舞う大剣が、尾のように金色のマナを引く。
 罪悪感は常に胸に。だがより多くを護るのならば、泣き言など言ってられない。
 例えどんなに、この心が軋みを上げても。

「おい悠人、でしゃばりすぎだ。俺らの分も残しとけ」
 周囲の敵をあらかた片付けたところで、光陰がそう声をかけてきた。
 冗談めかして言っているが、それが自分の戦いぶりを見ての言葉だということは分かっていた。
 三歩離れたところで、どこか所在無げに立っている今日子を見ればそれは明らかだった。
「ああ、すまん」
 素っ気無く放たれたその謝罪は、何に向けられたものだったのだろう。
 光陰達の分を奪ったことにか、余りにも別人過ぎる戦い方にか。そのどちらであっても、悠人は無表情だった。
 まぁいいさ、と光陰が肩を竦めた。
「無理はするなよ。今俺達は三人で戦ってるんだからな。無謀をされて、一人欠けても困る」
「……そうだったな。すまん」
 少し間を置いて、同じ謝罪を悠人は繰り返した。今度は、微笑を浮かべて。
 そうだな。そうだった。今は三人で戦っているのだから。悠人は剣を握り直した。
「じゃあ行くぞ、仕切り直しだ!」
 三人が同時に、敵の群れへと突っ込んでいった。
 先端に立つのは悠人。その後ろを、光陰と今日子が追従する。

 敵に肉薄する悠人の肩を、とん、と軽く今日子が踏み、跳躍する。
 高く飛翔した今日子の〈空虚〉には蛇のように巻きつく稲妻。それが今日子の意志に答え、
「いっけぇぇぇっ!」
 ──地表を蹂躙する龍となる。
 のたうつ紫電がスピリットを次々と吹き飛ばしていく。体勢を崩した群れに、悠人と光陰が突っ込んだ。
 光陰が巨大な〈因果〉を振り回すと、それだけで二体のスピリットが霧となる。
 だが新たに三体が光陰に迫った。斃した数に勝るスピリットが次々と押し寄せる。
 それらを吹き飛ばしていく光陰の背後から迫るスピリットを──悠人の剣が斬断する。
 背中合わせに光陰と悠人は立ち、その間に今日子が入る。
「まず蹴散らす。そしたら門ぶっ壊すぞ」
「おう」「オーケイッ」
 声だけで頷き合って三人はまた駆け出す。
 今日子が疾る。正面にはブラックスピリット。縦横無尽に迫り来る居合の太刀を潜り抜け一閃。
 ごめんね、という今日子の呟きの向こうで、ブラックスピリットの喉が貫かれていた。
 身を翻し、背中を貫こうとしていた槍を避ける。獲物を見失った穂先はブラックスピリットの腹に突き立つ。
 引き抜く動作より今日子のほうが早かった。脇から心臓を斜めに貫き、速やかに命を奪った。
 左足を軸に舞うようにターン、背後から斬りつけてきたブルーの剣を左腕の楯で受け止め、剣で顎の下を貫く。

 びくん、と一震えしてマナへと還る身体。一瞬だけ瞑目し、また新たな敵に向かう。
 だがその今日子に、燃え盛る火炎が殺到した。仲間諸共に焼き払うその炎に、思わず脚を止めてしまう。
 まずい、と思う暇もあればこそ。それらは今日子を消し炭にせんと襲い掛かり──その直前で弾けて消えた。
「光陰っ」
 その名を呼ぶ。グリーンスピリットのそれより強固な加護を展開した光陰が、片目を閉じて答えた。
 尚も殺到する炎は、しかしその加護の前には無力。勢いが収まったところに、光陰が身を躍らせた。
 一気に敵の群れの奥まで突っ込み、密集していたレッドスピリット達を次々薙ぎ払っていく。
「──怯むな! 行け!」
 その後ろから声が飛んできた。姿は見えないが、恐らくは彼女達のリーダーなのだろう。だが、
「不用意だな!」
 それが彼女の明暗を分ける。
 光陰は剣の一振りで纏わりつくスピリットを振り払い、勢いそのままに〈因果〉を投擲した。声の方向へと。
 がっ、という呻きが遠くから聞こえた。迷わずその方向に向かって、光陰は駆ける。
 指令系統を喪い、一瞬スピリット達の動きが止まる。その隙に光陰は〈因果〉へと駆け寄った。
 胴体に深く〈因果〉を突き刺し、マナへと還りつつあるスピリットからそれを引き抜く。
 そして周囲に眼を走らせ、光陰は決断を下す。
 レッドスピリットはあらかた潰した。邪魔はされない。やるなら、指令系統の復帰していない今のうちだ。

「やれッ、今日子!」
 オーライ、と威勢のいい声が返ってきて、その方向へと周囲のマナが掻き集められていく。
 悠人と光陰は今日子の邪魔をされないよう、周りの敵を打ち払っていった。
 そしてやがて、雷撃の法が完成する。今日子が剣を掲げ、腹の底から声を発した。
「ラァイットニングッ! ブラストォ──────────ッ!!」
 光条。
 風を切り迸る太い雷の帯が、真っ直ぐに帝国への門へと突っ込み──その中心をブチ抜いた。
 門を閉じていた太い留め木を焼き尽くし、雷霆の鎚は南の空を明るく照らしながら、消えた。
 留めるものを喪った門が、雷の巻き起こした風に煽られ開いていく。
 よっしゃあ、と思わず今日子がガッツポーズを決めた。
「ユート様!」
 丁度そこに、敵を全て斃したのだろう、ヒミカ達四人が左手の階段を降りてきた。悠人はヒミカ達に頷く。
 オルファ達の気配も近づいてきている。後は、と、悠人は敵に向かって声を張り上げる。
「門は開いた! 法皇の壁はもう落ちる。これ以上は無意味だ!
 抵抗すれば容赦しない。だが投降するなら身の安全は保障する!」
 僅かな望みを持って、悠人は言う。スピリット達はそれに、剣を構える動きで答えた。──否、と。
 仕方ないか、と悠人は気持ちを切り替える。予想できていたことだ。
「──皆、もう少しだ! 法皇の壁を完全に落とす!」

 それからものの半刻としない内に、法皇の壁は制圧された。
 悠人達の中にも負傷者は出たものの、死者はいない。光陰の策が功を奏した結果だった。
 帝国のスピリットはその殆どが命を落としたが、最後の悠人の言葉のせいか、投降してきた者も少しいた。
 それを見て、悠人は僅かに安堵する。犠牲は少ないほうがいい。
 捕虜となったスピリット達は神剣と引き離された上でラキオスまで送還された。帝国の内情を探るためである。
 とはいえ拷問にも口を割らぬような頑なな者ばかりのようで、実質上はそのまま牢に収監しておくだけに近い。
 だがそれも戦争が終わるまでだ。それまで辛抱していてもらうことになるが、仕方がない。
 悠人達は翌日にはリレルラエルへと進軍した。
 ケムセラウトからの兵士を待っていては、その間に帝国が軍を送ってくると判断したのだ。
 半日でリレルラエルに到達し、既に守りを固めていた帝国軍と交戦。
 だが、巨大なだけ時間はかかるが、法皇の壁に比べればその守りは貧弱だった。
 悠人達は日が暮れる頃にはリレルラエルのスピリットを掃討し、遅れてやってきた兵士達が改めて制圧した。
 レスティーナの思想は、ラキオス以上にマナに頼って生きてきた帝国の民には受け入れ難いもののようで、
強く反発の声が響いた。だがそれを治めるのはレスティーナの仕事である。悠人達に出来るのは戦うことだけだ。
 悠人達は帝国が利用していた砦を拠点とし、これからの方針を練った。
 丁度そこに、ヨーティアから連絡が入った。

 ヨーティアによれば、首都サーギオスを守る秩序の壁には、エーテルジャンプを利用した罠があるという。
 今のままでは突破できないということだ。
 秩序の壁の罠を維持しているのは、帝国の都市、ゼィギオス、サレ・スニル、ユウソカの三つ。
 当面の悠人達の目的は、その三都市から秩序の壁へのエーテル供給を止めることになる。
 結局、帝国全土を制圧するまで戦いは終わらないということだ。悠人はこれからを思って溜息をついた。
 兎も角悠人達は部隊を二つに分け、ゼィギオス、サレ・スニル制圧後、ユウソカの手前で合流することにした。
 ゼィギオス側は、異常なマナ濃度の暖気の大平原、トーン・ジレタの森を横切るため、大きな被害が予想された。
 またユウソカまでの道程も、サレ・スニル側に比べて長い。
 そのことを鑑みて、ゼィギオス方面には悠人、光陰を中心とした長期戦闘に向いた部隊を編成。
 サレ・スニル側には、今日子、アセリアを中心とした短期決戦を旨とする部隊を編成した。
 リレルラエルの混乱が収まり、人間の兵士達も準備を整えたところで、悠人達はそれぞれ出発した。
 
 ヒミカはサレ・スニル方面の攻略に参加していた。
 今はハリオン、ナナルゥと共に、先行部隊としてシーオスに続く森の中を駆けていた。
 悠人達はつい三時間ほど前に、セレスセリスを落としたとの連絡が入った。
 こちらももうすぐシーオスだ。森の中に隠れた敵のせいで少し難航してしまったが、順調と言える。
 イオから神剣を通して声を伝えてきたのは、そんな折だった。

『──聞こえますか。聞こえますかハリオンさん。イオです』
「はいはい。聞こえますよ~」
 一度足を止め、三人はその声に耳を傾けた。定期連絡の時間だ。
 各隊の状況や、後方支援の様子、制圧区域などが報告されていく。聞く限りどこも順調なようだった。
 報告を聞き流しながら、ヒミカは思いを馳せる。ユート様はどうしているだろう。
 怪我の心配をしているのではない。傷を負うようなことはないという確信はあった。
 心配なのは心の在り様だ。マロリガン戦では友を殺すようなことはしなかったし、投降を呼びかけたり無益
な殺生はしていないが、それでも敵と認めた者に対しては容赦がなかった。
 殺す度に心に降り積もる澱を、彼はどう受け止めているのだろう。
 そこまで考えて、やめやめ、と頭を振る。彼のことを案ずるのはいいが、今は任務の途中だ。
 四六時中一人のことしか頭にないなど、恋する乙女と何が違おう。
 まずは目の前の仕事をきっちりとこなす。そうすることのできる、いつもの冷静な自分に戻──

『それとつい先刻、セレスセリス近くの森でユート様が負傷。治療のためラキオスに戻りました」

 ──れるはずがない。
「なんですって?」
 喰らいつくような勢いで、ヒミカはハリオンの〈大樹〉に詰め寄った。

「イオ、詳しく説明して。いつ、どこで、何があったか」
 努めて冷静を装うが、言葉からは焦燥と不安が滲み出ている。
 それをイオも感じたのだろう、落ち着いてくださいヒミカ様、と〈大樹〉の向こうから静かに言われた。
『ユート様はセレスセリス制圧後休息していたのですが、丁度その頃森から巨大な神剣反応が感知されました。
 コウイン様、ファーレーン様が様子を見に行ったのですが、その途中でもう一つの神剣反応を感知。
 恐らくそれがユート様です。二つの反応は俄かに増大し、しかしやがて片方が弱まり、残りも消えました。
 二人がその場所に駆けつけると、ユート様が重傷を負って倒れていたそうです。
 始めの神剣反応は、コウイン様によれば〈誓い〉のものだということです。
 帝国のエトランジェが急襲してきたということでしょう』
 そんなことはどうでもいい。それよりも、
「ユート様の容態は?」
『一時期危険でしたが、エスペリア様が神剣魔法による回復を行い、今は安定しています。
 しかし相当の深手で、現在はラキオスまで戻って療養しています。しばらく戦線復帰は無理かと』
 ほっとヒミカは胸を撫で下ろした。生きてるならそれでいい。
 だがひどく胸がざわざわする。本当に大丈夫だろうか。どんな酷い怪我だったのだろうか。
 それだけが気にかかる。つい先程まで考えていたことを忘れるくらい、ヒミカは冷静さを欠いていた。
 もどかしい。落ち着かない。心配でたまらない。──今すぐにでも戻りたい。

 耐え難い焦燥で溢れかえるヒミカの思考に──突然、異質な感触が割り込んできた。
 神剣反応。敵が近くに来ている。ハリオンとナナルゥも即座に構えを取る。
 ザッ、と左右の茂みから四つの影が飛び出す。色は黒黒緑青。ナナルゥが口を開き、
「──接」ザズン
 接敵、と言い終わる前に、影が千々に千切れて散乱した。
 ぼとぼとと細切れの身体が地面に落ちる。肉片の雨の向こうに、ヒミカが立っていた。
 ナナルゥもハリオンも──その二人でさえ、ぽかんとしてその背中を見た。
 ヒミカが振り返る。顔からは感情というものが全て抜け落ちて、しかし瞳だけは紅く爛と輝いていた。
「──何してるの二人とも。行くわよ」
 言うが早いか、ヒミカは一人で駆け出した。慌てて追いかける。
『ハリオン様? 何かあったのですか』
 当然、こちらが見えていないイオに事態を把握できるはずもない。状況を質す声が聞こえた。
「いえいえ、なんでもないですよ~。ただ──」
 ちら、と振り替えず走り抜けるヒミカの背中を見て、
「後方の皆に、兵士さん達も含めて大急ぎでこっちに来るよう言ってください~。
 多分、二時間もしないうちに、シーオス落ちちゃうと思いますから~……」
 
 ……一時間半後。シーオス、陥落。

 傷を負って、丸二日が経過しても、悠人は自室から動けないでいた。
 傷の治りが遅い。グリーンが出払っているせいもあるが、それ以上に〈求め〉の干渉が強かった。
〈誓い〉と接触して興奮状態にあるのか、〈求め〉は執拗に干渉を繰り返し、悠人に強制的に力を流し込んでくる。
 恐らくは次に〈誓い〉と戦う時負けぬようにしているのだろうが、それに悠人自身の強度が追いつかない。
 内側から破裂しそうな痛みに耐えながら、悠人は〈求め〉の干渉を押さえつける。
 やってきた時と同じように、速やかに痛みが引いていく。この遣り取りももう何度目になるだろう。
 ふぅ、と精神的な疲労から悠人が溜息をつく。と、丁度その時ドアがノックされた。
「ユート様。よろしいでしょうか」
「ヒミカか? いいぞ」
 タオルで額の汗を拭いて、ヒミカを迎え入れた。失礼します、と一礼してヒミカは部屋に入ってくる。
「お加減はいかがですか?」
 椅子に座り、眉尻を下げそう訊いてくる。心配させてしまったようだ。
「まだちょっと辛いかな。……っと」
 横になっていた身体を、どうにか起き上がらせようとする。ヒミカが自然とそれを支えてくれた。
「さんきゅ、ヒミカ」
 いいえ、とヒミカは答え、ベッドの縁に腰を下ろす。手を伸ばせば届く距離。
 ただそれだけのことがこの上ない安らぎを与えてくれた。

 一度手を伸ばしかけて──降ろす。一瞬自分の手が、紅く濡れているのを幻視した。
「どうかしましたか?」
 自分の挙動を見てヒミカが問う。悠人は自分の手を見ながら、休んでいる間に思っていたことを言った。
「何だか、違和感を感じるんだ」
 ヒミカが首を傾げる。主語を欠いた言葉の意味を量りかねているのだろう。
「色々なことにさ。瞬はいけすかない奴だったし小競り合いもしてきたけど、あそこまでじゃなかった」
 少なくとも、自分の愛する人間を争いに利用するほど外道ではなかったはずだ。
「それに俺も──あいつを殺したいと思うのが、いつの間にか当然になってた」
 ある一人を求める二人の、ただの喧嘩だったはずだ。殺してでも奪い取る、なんて考えはなかったはずだ。
 原因は、自分達の持つこの剣にもあるのだろう。〈求め〉と〈誓い〉、激しく憎みあう剣。
 それに引っ張られて、自分達の意識が殺すことを安易に考えるようになってしまったのかもしれない。
 だが、それに引っ張られるかどうかは、結局は心の持ち方次第だ。
 そうならば、自分は結局その程度の人間だということだが──違和感を感じるのはもっと根本的な部分だ。
「何もかも『出来すぎている』気がする」
 自分と瞬にあてがわれた、憎みあう〈求め〉と〈誓い〉。攫われた佳織。巻き込まれた今日子と光陰。
 そして、クェドギンの残した言葉。『この世界は神剣に支配されている』──あれはどういう意味だ?
「嫌な感じがするんだ。何か、全部を舞台袖から見られているような……」

「ユート様……」
 ヒミカが不安そうな顔をする。はっとして、自分の顔が険しくなっているのに気づいた。
「すまん。全部俺の気のせいかもしれないから。忘れてくれ」
 無理矢理笑顔を作って言う。そうですか、とヒミカはとりあえず頷いたようだった。
「まずは目の前のことを考えないとな。戦争が終わらないことには、どうにもならない」
 だがそれで終わるのか、という不安はあった。佳織を助けるだけで全て終わるのか?
 それは舞台袖にいる脚本家を喜ばせるだけではないのかと──そんな予感がした。
 だがそれでも迷う暇はないのだ。自分にできることはそれだけなのだから。
「──帝国を、斃す」
 ユート様、とヒミカが悠人の袖を掴んだ。その動きは弱々しく、彼女らしくない。
 ふと、気付く。いつの間にか自分は、『らしくない』と思えるくらい、いつもこの少女を見てきたのだと。
「……少し、お休みになってもよろしいのですよ?」
 その言葉は、心から悠人のことを気遣ってのものだ。だがそれが分かっているからこそ悠人は頷けない。
「それはできない。皆戦ってるんだろう? なら、隊長の俺が休んでるわけにもいかない」
 くしゃりと、ヒミカの髪を撫でた。硬く癖のある髪質は自分のものと良く似ている。
 その温かさに触れながら、ヒミカは訊いた。
「──悠人様は、お辛くないのですか」
 彼の眼を見ることができないまま、そう訊いた。

 辛いよ──そう答える声がした。そしてけれど、と続ける声も。
「それでもやらなきゃいけないんだ。そうしないと、皆も、ヒミカも護れないから」
「けど、それではユート様が」
 救われないじゃないですか、と。ヒミカは静かに叫んだ。
「そうでもないよ。俺が戦った後に皆が生きていて、笑っていられるなら、俺も嬉しいから。
 それにほら、こうしてヒミカが心配して、ここに来てくれてる。今は、それで充分だよ」
 本心から、悠人はそう言った。自分のために時間を割いてここに来てくれていることが嬉しかった。
 確かな親愛の情から、悠人はもう一度優しくヒミカの髪を撫でた。そして手を放し、ベッドに寝転がる。
「すまん、少し寝る。早く治して、前線に戻らないといけないからな」
「……はい、おやすみなさい、ユート様」
 三十秒と経たずして寝息が聞こえてきた。意外と幼く見える少年の寝顔を眺めながら、ヒミカは拳を握り締めた。
(それだけでは、足りないんです)
 そう思った。悠人は自分に、いてくれるだけで嬉しい、と言った。
 でもヒミカはそれだけでは足りない。それだけで、彼の心が癒されるとは思えない。
 あなたは私達のために戦ってくれている。なら、私達はあなたのために在れていますか?
 私達は、あなたのお役に立てていますか? 本当にあなたを救えていますか?
「私は──」
 あなたのために、なにができますか?

 しばらくして悠人は戦線に復帰した悠人を、光陰が出迎えた。
「よう遅かったな悠人。お前が休んでる間にここも制圧しちまったぜ」
 今皆がいるのはユウソカだ。悠人が負傷した後は光陰が臨時に指揮を執り、ゼィギオスを制圧。
 サレ・スニル方面の部隊とも合流し、ユウソカまで制圧を終えていた。
 これにより秩序の壁は解除され、首都サーギオスへの侵攻が可能となったわけである。
「すまん。苦労かけた。サボってた分、これから働かないとな」
「ああそうしてくれ。だが傷に響かない程度にしてくれよ? 無茶されて倒れられたらかなわんからな」
 努力する、と悠人は苦笑する。こつん、と握った拳をぶつけて笑いあった。
「さて、あと帝国領内の拠点といえばリーソカだけなんだが、こっちはすぐにカタがつきそうだな。
 ちっさい町だし、兵力もない。斥候からの話じゃ、他を落とされてもう抵抗する気力もなさそうだ」
 侵攻は順調にいっている。ほとんどすぐにでも首都に攻め入れる状況だった。
「で、だ。そこでちょっとやらなきゃならんことがあるんだが──」
 光陰は話し始めた。
 帝国首都へは、秩序の壁の南北両方の門から攻め入る手はずになっている。
 勢いに任せて門を突破し、首都を取り囲んで制圧するのだ。
「でだな。それはいいんだが、北門側にはまだ少しスピリットが攻めてきてるらしくてな。
 数は少ないんだが相当の手練だ。元マロリガンのスピリットも何人かやられちまった」
 俺の部下だった奴もな──そう光陰は、遠い眼をして言った。

「……分かった。そいつらを掃討してくればいいんだな?」
「そういうことだ。頼めるか?」
「任せとけ。休んでた分、きっちり取り戻してくる」
 頼んだぜ、と光陰が笑う。
「ゼィギオス側のエーテルジャンプ受け入れの準備はできてる。いつでもいいぞ。
 お前が露払いしてる間に俺達でリーソカは落としとく。──その後は、いよいよ瞬だな」
 ああ、と頷く。首都では瞬と、佳織が待っている。待ってろよ、と心中で呟き、悠人は〈求め〉を握り締めた。
 
 ゼィギオスに向かったのは、悠人、ヒミカ、アセリア、ウルカの四人だ。機動力に富んだメンバーである。
 四人は今、ゼィギオスから秩序の壁への道を駆けていた。空は曇天。今にも泣き出しそうな黒い雲が一面に広がっている。
 濃い森だった。道は狭く、大軍が進めるようには出来ていない。そして濃密なマナが神剣の気配を阻害する。
 ここにいると分かっていても、掃討できずにいた理由はそれだろう。下手に手を出せば逆にやられる。
 だが今ここにいる四人は、不意を打たれた程度でやられるような者達ではない。
 そして──森に潜む気配を見逃すこともない。
 ざっ、と四人が足を止める。右手の森の中、押し殺した、しかし強い神剣の気配。
(……どうする? 行くか?)
 場所は分かっている。向こうも気付いているだろう。森に飛び込むべきか、悠人は逡巡した。
 しかし──悠人の決定を待たずして、ウルカが森の中に飛び込んでいた。

「ウルカッ!?」
 疾風のように茂みに突っ込んでいくウルカ。悠人の声すら間に合わず、その気配は遠ざかっていく。
 彼女らしくない突発的な行動に半ば呆然としながらも、悠人達もウルカを追って森に入った。
 ウルカはすぐに止まった。先の神剣の気配の目の前で。
「ウルカ!」
 茂みを抜け、ウルカの背中を見つける。だがウルカは振り返ろうともしない。
 ただ前に立つ光無い瞳のスピリットを見つめたまま。悠人は歩み寄り、肩を掴んで言う。
「ウルカ、一体どうしたんだ。いきなり走り出すなんて──」
 ウルカは呆然とした瞳で、てまえの、と呟いた。
「え?」
「────手前の、部下達です────」
 目の前に立ち並ぶスピリット達を見て、ウルカは言った。
 ……部下がいる、という話は悠人もヒミカも聞いたことがあった。帝国に置いてきたことを悔やんでいるとも。
 自分にとっては家族のような存在だと、嬉しそうな──そして哀しそうな顔で言っていた。
 自分が見聞したことを、愉しげに聞いてくれる者達。安らかな場所がそこにあったと。
 それが、今。
 温かさも笑顔もどこかに置き去りにして、彼女達が立っていた。

 呆然とする悠人達に、立ち並ぶ妖精達の後ろから声が聞こえてきた。
「──かつての家族と再会できて嬉しいでしょう?」
 木陰から一人の男が姿を現す。眼鏡をかけ、その奥で蛇のような瞳を光らせるその男は。
「ソーマ・ル・ソーマ……!」
「私如きの名を覚えて頂けたようで。光栄ですな、勇者殿」
 慇懃に腰を折って礼をする。その姿が、たまらなく不快に見えた。
「ソーマ! これはお前がやったのか!」
 未だ呆然とするウルカの横で、代わりのように悠人が激昂した。その怒りを、ソーマは嘲笑で受け流す。
「そうですとも。元々そこのウルカ以上に使い物にならないモノばかりでしてね。少しばかり調整を。
 今では立派な戦士ですよ。そこらのスピリットなぞには負けません。
 戦い、勝つ。それがスピリットです。そしてこの娘達は強くなり、勝てるようになった。
 ──良かったですね? ウルカ。あなたの家族達は、皆見事にスピリットとして戦っていますよ?」
 一言一言が、凍りついたウルカの心臓を揺さぶる。ふざけるな、と悠人が叫んだ。
「スピリットはモノなんかじゃない! 皆生きて、ちゃんと自分を持ってる。人間と変わらない。
 なんでそれを、お前は──お前達は道具みたいに扱おうとするんだ!」
 悠人の激しい言葉に、しかしソーマは浮かべていた嘲笑を引っ込めた。
「……大層、崇高な精神をお持ちですな、勇者殿」

 鼻で嗤うでもなく、眉根に皺を寄せ、不快そのものの表情でソーマは言う。
「あなたも、あの女王も、全く素晴らしい人格者だ。全てを平等に扱おうとする。
 その意味も知りもしないで。ええ、全く素晴らしい──夢想家ですよ」
 ぞくりと、悠人の背筋に怖気が走る。悠人からしてみれば、弱い人間のはずのソーマが、何故か『怖い』。
 その理由を理解しないまま、悠人は言葉を重ねた。
「夢想家でも何でも構わない。俺はただ、皆に、戦うだけじゃないってことを教えてあげたいだけだ。
 スピリットが道具なんかじゃなく、ちゃんと生きて、色んなことができるってことを」

「……拍手」
 ソーマが言う。すると、彼の前に控えていたスピリット達が一斉に拍手を始めた。
 ぱちぱちと、からっぽの拍手が、夜の森に響いた。
 ぱちぱち、ぱちぱち、ぱちぱち。その人形の無機質さが、悪趣味さが、拒んでも悠人達の耳に残る。
 どん、と悠人が手近な木を拳で叩いた。木の幹が大きくへこむ。
「──やめさせろ」
 今にも弾けそうな怒りを押し殺した声。ソーマが指揮者のように手を一振りすると、拍手がやんだ。
「お気に召されませんでしたか。残念ですな。折角褒めて差し上げたのに」
「ふざけろ……てめぇなんかに、一生俺や皆や、お前が壊したそいつらのことなんて理解できないだろうな!」
 悠人が剣を抜いた。眦が裂けそうなほど眼を吊り上げ、射殺す視線でソーマを睨めつけた。

 対するソーマは、ふん、と鼻を鳴らし、答えた。──憎悪を込めて。
「ええ解りませんとも。たかが人間に、スピリットのことも、エトランジェのことも解るはずがない。
 生まれながらにして神剣を持ち、強大な力を手に入れていたモノ達のことなんて、解るはずがない。
 ですが──逆に問いますがね、勇者殿。あなたに、我々人間の何が解るというのですか」
 顔を俯かせ、眼鏡を押し上げ、額とレンズの隙間からソーマの眼光が悠人を射抜く。
 一瞬、それに気圧されそうになる。激戦を潜り抜けた悠人でさえたじろぐ得体の知れない何かが、そこに在った。
 だが悠人はそれを押し返した。そんな怖気よりも、こいつへの怒りがただ強かった。
「──解りたくもねぇよ」
「そうですか」
 短く答え、ソーマが一歩後ろへと引いた。応じるように、スピリット達が剣を構え前に出る。
「では死になさい。この子達の手にかかって。──殺せますか? あなたに」
 びくっとウルカが震えた。そして首を巡らせ、悠人へと向ける。行くべき道を喪った迷子の顔で。
 ウルカの家族。ウルカの大切な家族。血は繋がっていなくてもかけがえのないもの。──佳織。
 殺せるか。殺せるか。殺せるか。殺せるか。殺せるか。自分が詰問してくる。
 ──立ち塞がる影は十人。いずれも瞳に光はなく、殺す意志のみを伝えてくる。
 殺さなければ生き残れない。だが殺せるのか。自分の仲間の、大切な家族を。
 ──まず三人が跳ぶ。手に手に神剣を携え、動かぬ悠人達の命を奪わんと疾駆する。
 だが。だがだがだがだが。自分は何を、決めたのだったか。

 ──先頭に立つのは悠人とウルカ。スピリット達は呆然と立ったままのウルカを狙う。
 仲間を誰一人として死なせず、また自分も死なぬと誓ったのではないのか。罪を背負うと。
 ──ウルカは動かない。動けない。己の家族が自分を殺そうとしているのに。
 ならば。仲間を護るために誰かを殺す罪を背負うと誓ったのなら、するべきことはたった一つ。
 ──切っ先がウルカを狙う。ウルカを殺す。距離は短い。最早一歩にも満たぬその距離で、
 悠人は剣を振り上げ、そして、
 ──刃金が、視界を叩き割った。
 一刀のもとに向かってきた三人のうち、真ん中にいたスピリットが両断された。
 頭頂から股間までを両断した剣を、刹那慣性に任せ手を放し、悠人は柄を逆手に握り直す。
 それと同時、悠人は左手でウルカの髪を掴んで後ろに引っ張った。
 振り下ろされた剣を一度引き、ウルカの体重移動に合わせて、フックの要領で左のスピリットへと振るう。
〈求め〉がスピリットの左腕を切り飛ばし、ウルカを後ろに放り投げて横に回転。
 遠心力に乗せて叩き込まれた一撃が、右のスピリットを神剣ごと吹き飛ばす。
 一連の動きは全て一瞬。鮮やかな躊躇無い剣閃が、一人を殺し、一人を傷つけ、一人を退けた。
「……ユート、どの」
 静まり返る空間。その中で、ウルカがたどたどしく、泣きそうな声を上げた。
 その声に、ウルカを見ることもなく、悠人は言葉を紡いだ。

「──すまない。けど、殺さないとウルカが死んだ」
 視線を立ったままの七人から逸らさず悠人は言う。無表情な声で。けど、とウルカは叫ぶ。
「それでも、彼女達は──!」
 手前の家族なのです、と言おうとしたウルカを、悠人は遮る。
「俺だって殺したくなんかない。でも、ウルカ達に死なれるのはもっと嫌だ。
 ……俺は正義の味方なんかじゃないからさ。全員救うことなんて出来ないんだ」
 ただ救えなかった命は背負うと、悠人の背中がウルカに告げる。
 それを見て、最早ウルカは何も言えない。
 ウルカがかつての家族を殺したくないように、悠人もウルカを死なせたくないと分かったから。
 唇を噛み、〈冥加〉の柄を握り締め、己に言い聞かせるように言う。
「……許せよ。神剣に飲まれたお前達を救う術を、手前は知らぬ」
 そうして腰を落とした。敵を殺す彼女の構え。
 その二人の背中を見るヒミカは、ひどく胸が締め付けられるような感じがした。
 ──それで、良いのですか。
 恐らく悠人は、ウルカに恨まれることも承知で戦うことを決めた。己が苦しむことを覚悟の上で。
 辛くないはずがない。今だってきっと心が軋みを上げているはずなのに──彼はそれをおくびにも出さない。
 何も自分にはできることはないのだろうか。彼の心を癒せないのだろうか。
 できないと誰かが告げた。戦うばかりだった自分は、誰かを癒すことなどできはしない。

 だから今できるのも、剣を構えることだけだ。
 ちきりという音。緩く握っていた双剣の柄を強く握り直す音だ。
 アセリアもまたヒミカの隣で剣を握る。相手もまた剣を構え直した。
 互いの間にあるのは殲滅の意志。静かな殺気が、夜の大気を駆逐する。
 ソーマが後方に下がり、夜闇に紛れて見えなくなる。
 そして、風が、
 ──吹いた。
 七人が一斉に跳んだ。先行するのは槍を突き出したグリーンの二人。
 悠人が剣を振り上げる。切っ先が跳ね上がり、しかし脇から差し込まれた長剣が悠人に二撃を放たせない。
 ウルカはただ剣を払い、頭上を薙いだ剣を受け止めるでもなくただ避けた。
 やはり、斬りたくなかった。それを甘えと笑わば笑え。例え如何に戦場であろうとも、己が家族を殺せるものか。
 故にこそ、悠人の躊躇のない動きが不安になる。彼は殺す。間違いなく殺す。
 ヒミカも、アセリアも、殺すだろう。
(しかし、手前は──!)
 剣に迷いが出た。不可視であるべき高速の斬閃は、しかし揺らぎ、受け止められ──頭上に、剣が。
「何やってるの!」
 ぐい、とウルカの腕をヒミカが引っ張り、頭上の剣を打ち払った。

「ッ、すまぬ、ヒミカ殿」
 一歩下がり剣を握り直す。だがヒミカはウルカの様子を一瞥し、敵に向き直って、言った。
「……殺せないなら、殺さなくていいわ。あなたが、罪を背負うことはない」
 ヒミカの脳裏にナナルゥとハリオンの姿が浮かぶ。彼女達が敵に回ったとして、自分は彼女達を殺せるか?
 きっと殺せないだろう。殺せたとしても、その先ずっとその罪が自分を苛むだろう。
 それが分かるから、ヒミカはウルカに彼女達を殺させようとは思わない。
「あなたが苦しむことなんてないんだから」
 だが、ウルカは逆にその言葉で眼が覚めた。
「……いや、これは手前の役目です。袂を分かった部下に引導を渡すのも、また上官の役目なれば」
 再度、剣を握り直す。今度は強く、手放さぬように。
 これまで面倒を見てきた家族だからこそ──最期まで、面倒を見切らなければならない。
「──そう、ならもう何も言わない」
 ヒミカが敵に斬りかかる。その背を追うように、またウルカも地を蹴った。
 その一部始終を視界の端に捉えつつ、悠人は敵の剣を薙ぎ払う。
 強いと感じる。目の前の敵は、ただ本能のままに戦うだけの獣ではない。
 先の三人も、殺すつもりで剣を振るったのだ。だが実際に殺せたのは一人だけ。残りは手負いと無傷である。
 ちらとアセリアを見ると、アセリアもまた苦戦している様子だった。
 さっき一人斃すのを見たが、今はブラックスピリットの猛攻に防戦一方だ。

 獣でも戦闘機械でもなく、彼女達は、確かに戦士の動きをしていた。
 退くべき時に退き、隙は逃さない。だが確実に相手を殺せる時は、己の身を省みない。
 自己保存本能の無い戦士。それをソーマが作り上げたというのなら、訓練士としての彼の腕は確かだということだ。
 だが、それを認める訳にはいかない。
 ソーマへの怒りが募る。あの男にとって、スピリットは戦争の道具でしかない。
 自分がドス黒い感情を腹の裡に抱えているのを自覚しつつ、悠人はまた一人スピリットを殺した。
 ──心が軋む。自分が今斬った少女は、ウルカにとってどんな家族だったのだろう。
 妹分か、親友か、少し幼かったから娘みたいなものだったのかもしれない。
 考えるな、と悠人は思考を押し殺そうとする。敵は殺す、仲間は護る。そう決めたのは誰だ。
 罪悪感は常に胸に。殺した命を背負い、心が軋みを上げても剣を止めないと誓ったはずだ。
 だが──それでも悠人の心は尚も軋み続ける。今にも弾けて壊れそうな、罅割れのゼンマイ仕掛けのように。
 剣を振るう度、剣を向ける度──目の前の少女達に、佳織が重なる。
 悠人にとって最後に残った唯一の肉親。とてもとても大切な少女。
 自分は今、ウルカの『佳織』を殺しているのだ。そんな感傷を、悠人は下らないと切り捨てられない。
 ふと脳裏に浮かぶ。今まで斬ってきた者達にも、それぞれ大切な仲間が、家族がいたかもしれない──
 やめろやめろやめろ。今それを思い出すな。この場で迷いは死となる。死を呼ぶ。
 意識を閉ざせ。後悔も懺悔も後にしろ。今は、この場を切り抜けろ。

「おおおおおおおっ!!」
 迷いも記憶も振り払うが如く、悠人は〈求め〉を振るう。
〈求め〉から引きずり出した力が風となり、スピリットをまとめて二人両断した。
『…………』
 そんな戦いの中で、〈求め〉は何も言ってこない。いつものように殺せ斃せと叫ばない。
 けれど悠人は、そんなことにも気付かない。それくらい余裕がなかった。
 その沈黙は何ゆえに。声を聞ける契約者が気付かず、真意を問い質さぬ以上、誰も知ることはない。
 ──あいつは。
 剣を振るいながら、悠人はただ一人を探していた。
 ──あいつはどこだ。
 ソーマ。先程から姿を見せないあの男は何処に隠れている。
 俺達を見て嗤っているのか。蔑んでいるのか。それとも、顔に不快を浮かべて見ているのか。──どれでもいい。
 ただあいつは許せない。絶対許さない。気配を探した。神剣を持たない人間は辿りにくいが、それでも探した。
 あいつだけは絶対に殺す、と。
 戦争の大義も関係なく、神剣の意志に引きずられたのでもなく、悠人は心からソーマを憎悪した。
 ──そして、見つける。前方三十メートル先の木の裏。そこにいると直感した。
「前に飛び込めウルカァッ!!」
 叫んだ。前方で戦っていた黒い妖精が剣を投げ捨て、戦っていた敵を抱き締めるように飛びつき──

 ──ソーマ・ル・ソーマは剣士だった。
 彼の剣の腕前は常人離れしており、かつてそれが評価されてスピリット隊隊長となった。
 そして優れた剣士であったからこそ──スピリットと人間の差を理解できていた。
 人間ではスピリットに勝てない、と。
 なまじ腕が優れていただけに、彼はそれを知ってしまった。
 ソーマは絶望した。どんなに努力し、どんなに鍛錬を重ねても、マナを操る妖精に人間は勝てない。
 彼ほどの腕であったなら、一対一ならまだ望みもあろう。
 だがスピリットは人間には在り得ぬ再生速度で傷を癒し、戦いを続行できる。
 そしてまた、スピリットには知能がある。単一能として力を振るうのではなく、技能としてそれを修得しているのだ。
 それを脅威と呼ばずに何と呼ぶ。絶望の後に、ソーマは怖れた。
 そして彼は、この世界の仕組みを理解した。何故、人より優れたスピリットを人が支配するのか、その理由を。
 人間はスピリットを怖れているのだ。一番初めにスピリットに出会った人間は、まずそう感じたに違いない。
 だから支配した。手元に置き、歯向かわぬよう育て上げた。それが当然とスピリットに教え込んだ。
 でなければ彼女達が敵となった時、それに勝てないと理解していたからだ。
 個体数は少なく、生殖能力もなく、しかし一騎当千の力を誇る存在。
 ヒトはそれを恐れ、それを封じ、それを利用しようとした。

 彼女達を奴隷の身分に置き、幼少からそれを当然と教え込んでいく。
 それが人間という『種』を守るための手段だと、ソーマは理解した。
 立場を対等に扱えば、自然、ヒトを超えた力を持つスピリットがより上に立っていくだろう。
 その気になればヒトなど簡単に殺せる彼女達が、もしヒトを支配する立場になったら?
 支配者として、彼女達が間違わなければそれは理想的だ。
 力ある治世者が、常に悪を断罪し、常に善良な民を護るのであれば、それは正しく理想的な社会の在り方だ。
 だが人間と対等に育てたスピリットは、人間と同じように欲を持つだろう。
 人間と同じ欲を持つスピリットが、人間と同じ過ちを犯さないとどうして言い切れる?
 もしスピリット達が過ちを犯しても、妖精より弱い人間にはそれを是正できない。
『革命』という手段によって、悪辣な治世者を是正することができないのだ。
 それは社会性を持つ生物にとって致命的である。腐敗の泥は、徐々にヒトをも侵していくだろう。
 そうなってしまえば後には混乱しか残らない。ヒトもスピリットも多くが死に絶えるだろう。
 そのような事態を避けるため、そして先に大地を支配してきた者として、ヒトはスピリットを認めない。
 スピリットに権能を与えてはならない。地位を与えてはならない。欲を与えてはならない。
 ヒトはスピリットを支配し、スピリットを運用し、スピリットを畏れながら蔑み続ける。
 それこそが、ヒトとスピリット双方にとって、最もバランスの取れた在り方だったのだ。
 そう理解したから、ソーマはスピリットを道具として扱った。

 そこには怖れも、能力に対する劣等感も多少なりともあっただろう。
 だがソーマにとってスピリットを道具として扱うことは、この世界にとって正しいことだった。
 意志無き兵器として育て上げ、運用することが、互いにとって最も良いと信じていた。
 そして事実、そのやり方でこの世界はバランスを保っていたのだ。
 ──だというのに、あの愚鈍な女王とエトランジェはそれを崩す。
 それがソーマには我慢ならない。
 何も分かっていないのだ。力の絶対量が違う者同士が、手を取り合って仲良く歩む。
 そんなものありえないのだということを、彼らは分かっていない。
 戦争をしている今はいいだろう。ヒトを護り戦う彼女達は英雄だ。だが終わった後はどうなる。
 レスティーナが勝てば、人間とスピリットの平等を宣言し、人々は沸き立つだろう。
 だがそれも一時的なものだ。やがてヒトは、強すぎる隣人を改めて怖れていくだろう。
 その末路を、彼らは考えていない。或いは自分達ならどうにかできると思っているのか。
 それは凄まじい傲慢だ。如何に聡明な女王とて、誰も彼もを惹き付けられるわけではないのに。
 愚かなり。ソーマは悠人を、レスティーナをそう断じ──
 
 ──そして今、その剣に斃れようとしていた。

 鶏を縊り殺したような悲鳴が、夜の森に響いた。
 それに驚いた鳥がばさばさと飛び立っていく。戦っていたスピリット達が動きを止めた。
「ヒミカ、殺すな!」
 悠人が叫ぶ。その意を正確に汲み取り、ヒミカは交戦していた一人に延髄蹴りを見舞って失神させた。
 ウルカとアセリアも剣の峰で打ち、殺さず気を喪わせる。
 どさりと倒れた身体は三つ。結局、十人のうち最後まで残っていたのは三人だった。後は殺した。
 悠人はそれを確認し、森の中へと足を進め、そしてすぐに、半ばから断たれた木を見つけた。
 そのすぐ下から、ひゅうひゅうという隙間風のような音が聞こえていた。
 悠人は木の裏側に回る。──そこには、背中に斜めに〈求め〉の刀身を埋めたソーマの姿があった。
 ──悠人が全力で投擲した〈求め〉は鉈のように木を切断し、その後ろにいたソーマに突き立ったのだ。
 うつ伏せに倒れたソーマは、掠れるような呼吸を繰り返しながら、背中に刺さった〈求め〉を引き抜くこと
もせず土を掻き毟り前に進もうとしている。
 悠人はその姿を哀れにさえ思った。表情を殺し、進もうとする彼の目の前に立った。
 それに気付いて、ソーマが顔を上げる。あれほどふてぶてしかった顔には、死相が張り付いていた。
 頬は青ざめ、瞳孔は焦点を喪い、脂汗が滲み、唇は震えている。だがソーマはその顔で──嗤った。
「ククッ──」
 苦痛に歪んだ嘲笑の表情を浮かべ、ソーマは悠人の脚を掴んだ。

「くっ、くくっ、くふふふふふ……ッ!」
 ソーマは嗤っていた。嗤いながらユートの身体を這い上がってきた。
 悠人は、鬼気すら放つソーマのその異様さに、振り払うことすらできない。
 そしてソーマは言った。
「──勇者、殿。あなたは、御伽噺の勇者の末路を、知って、いますか──?」
 途切れ途切れの声で、ソーマは狂笑を貼り付けたまま問う。
 ソーマの言う御伽噺は、悠人も知っている。姉を王宮に住まわせるため、王子と共に戦った勇者の話。
 物語の最後で、勇者は歓待する人々を離れ、何処かへ旅立っていくという──
「あれはですね、真実なのですよ。かつて、この世界で、あったことなのです。
 ──ただ本当は、勇者は、王子に殺されてしまうのですよ! 力を怖れた王子に!」
 血の泡を撒き散らしながらソーマは叫ぶ。ソーマは既に悠人の胸まで這い上がってきていた。
「面白い話だと思いませんか?! えぇ!? 勇者はね、自分が助けた者に殺されるんですよ!
 同じ勇者として、どんな気持ちですか勇者殿! 自分もそうなると考えたことはないですか?!
 戦の無い世界で力は不要なのですよ! あなたやスピリットといった力はね!
 人間と平等になったスピリットを蔑むことは許されない。今までは畏れると同時に蔑んでいたのに!
 そうすることで人間とスピリットはバランスを取っていたのに!
 いいですか勇者殿、あなたはね、この世界を壊しているですよ。この世界のバランスを!
 あなたが来たから、あの愚鈍な王は、こんな下らない戦争を始めた!
 あなたさえ──あなた達さえいなければ、この世界はあのまま在れたものを!」

 何処にそんな力があるのか。ソーマは悠人に喰らいつくように叫び続ける。嗤いながら。
 その度に血飛沫が悠人の顔に飛び散っていく。
「呪いを残してあげますよ血塗れの勇者殿! この戦争の後は、人間とスピリットが戦うことになると!
 人間は妖精を怖れ、やがてそれは殺意に変わる! 次は自分が支配されるのではないかと怖れる!
 そしてやがて、力を持たぬ人間と、力を持つ妖精が争うことになる!
 他ならぬその原因は、勇者殿、あなた達な」
 トスッ、と。声が断ち切られた。
 眼を見開き、嗤ったまま絶命したソーマが、ずるずると悠人の身体を滑り落ちていく。
「ヒミカ──」
 ソーマの背後には、ヒミカが立っていた。握る〈赤光〉の切っ先は、マナに還らぬ血で濡れていた。
 ヒミカは何も言わなかったし、悠人も何も言わない。ただソーマの屍体を、悠人は見ていた。
 ぽつりと、悠人の鼻先に冷たい感触が落ちてきた。見上げれば次は頬に、天の雫が落ちてきた。
 ぽつぽつと、雨足は段々強くなっていく。曇天の下で、マナに還らぬ屍体が、冷たくなっていく。
「ユート殿──」
 自分を呼ぶ声に顔を向けると、そこには、脇に気絶したスピリットを抱えたウルカとアセリアがいた。
「帰還しましょう。進軍を阻んでいた敵は──消えました」
 その顔は暗い。彼女の手には、家族を斬った感触がまだ残っているだろう。
「……いや、皆は先に帰っててくれ。俺は──」
 そう言って、悠人は足元の屍体を見下ろした。

「……承知」
 ウルカが頷き、アセリアと共にウイングハイロウを広げた。
「ウルカ」
 飛び立とうとしていた背中を呼び止める。ウルカが顔だけで振り向いた。
「──ごめんな」
「……いいえ。ユート殿は、指揮官として正しい判断をされたのですから」
 言い残して二人は飛び立つ。悠人はソーマの身体から〈求め〉を引き抜く。
 そして刀身を横に寝かせ、スコップ代わりにするように、地面を掘り始めた。
『我は剣なのだが』
「今回だけだ。我慢しろ」
 抗議じみた声を黙殺。ユートは地面を掘る作業を続けた。雨が降り始め、地面が柔らかくなっているのはありがたい。
「ヒミカも帰っていいんだぞ」
 そう言うが、ヒミカはいいえ、と言って動かなかった。悠人も、そうか、とだけ言った。
 やがて人が入れるだけの穴を掘り終わる頃には、二人はすっかり雨に濡れていた。
 悠人はソーマの身体をその穴の中に横たえ、土を被せた。人一人分だけ盛り上がった土を見ながら、悠人は瞑目した。
「こんな奴でも、野晒しにして獣に食われるのは忍びないからな」
 それに──少なくとも彼は、歪ではあったけれど、必ずしも戦争を望んでいたわけではないと思うから。

 悠人は天を仰いだ。空は曇天。雨が収まる気配は無い。
 ソーマの叫びが、耳に張り付いて離れてくれなかった。
 スピリット達に、戦うことだけが全てじゃないことを教えたい。その想いは変わらない。
 けど理解してしまったのだ。ソーマの言葉の意味を。自分達が今やっていることの、その先を。
 いつもの悠人だったら、それでもどうにかすると断言するだろう。根拠がなくても。
 けれど今の悠人はそうは言えなかった。どうにかできる自分を信じるには、今この心は重すぎる。
『血塗れの勇者』と。ソーマはそう呼んだ。
 ……ああそうだろう。自分はこれまで数え切れないくらいスピリットを殺してきた。
 それを誤魔化すつもりはない。殺した命を背負って、それでも皆を護ると決めた。
「……それでも、他人に言われると結構こたえるもんだなぁ」
 ぼそりと空を仰いで呟いた。結局、その程度で揺らぐ覚悟だったのだろうか。
 ウルカの家族を殺したのも、ひどく辛かった。佳織が殺されていく姿を幻視し、心臓が痛みを訴えた。
 そんな風に冷静に自己分析している自分がやけにおかしかった。
 そんな悠人の背中は、ヒミカには今にも壊れてしまいそうなほど脆く見えた。
 だから、問うた。
「悠人様は、──お辛く、ないのですか」
 そんな、分かりきった問いを。

「──────つらいよ」
 長く間を空けて、悠人は答えた。
「……ヒミカ、俺は間違ってたかな。あいつの言う通り、俺はこの世界には要らなかったか?」
 ヒミカは静かに答えた。
「間違っているとか、いないとか。そんなこと、私には分かりません。
 正否の判断など出来ないことです。実際に未来が訪れるまで、分からないことです」
 けれど、とヒミカは続ける。
「ユート様が、私達をただ戦うだけの存在ではないと──そう言ってくれたことは素直に嬉しかった。
 だから私には、ユート様は確かに必要で、信じられる存在です」
「俺は自分が信じられなくなりそうだよ」
 はは、と自嘲気味に悠人は笑った。雨に濡れ、垂れた髪の下の顔は、ひどく苦しげで。
 悠人が自分の手を見る。
「俺は、ウルカの家族を殺しちまったんだな」
 ヒミカは何も言わなかった。否定も肯定も、今の彼には何の意味もない。
 彼を癒す言葉も見つからない。やはり自分は、誰かを癒すことなどできない。
(けれど。けれど──)

 悠人は尚も続ける。
「俺が今まで殺してきた奴らにも大切な誰かはいたんだろうな。それを俺は──奪ってきた。
 覚悟したつもりだった。割り切っていたつもりだった。なのに──凄く痛いんだ」
 くつくつと壊れた人形みたいに悠人が笑う。
「……泣いて、いるのですか」
 ヒミカは問う。泣いてなんかない、と悠人は答えた。
「俺にはそんなの許されないよ」
 殺した者のために、殺してきた自分が涙を流す権利などないと。
 ああ──ヒミカは思う。結局、この少年は今も変わらず、出会った頃のままなのだ。
 人が良く、直情的で、自分のせいで誰かが死ぬことを一番怖れる少年のまま。
 何も変わらないのだ。幾ら戦場を潜り抜け、幾らスピリットを殺しても。
 ならばこそその心は磨耗していく。殺す罪を背負い続け、押し潰されていく。
 仲間を護るという理由で彼は自分を張ってきた。
 だが張り詰めた弓の弦はいつか切れてしまう。それが分かっていても、彼は戦いをやめることはできない。
 為すべきことがあるのなら。護りたい何かがあるのなら。
 どんなに辛くても、どんなに痛くても、その道を外れることなどできない。
 ──それが、彼の決めた道だから。

 それは茨の道に他ならない。その在り方はいつか彼を殺すだろう。身体ではなく、心を。
 戦争自体はもうすぐ終わる。だが、それは必ずしも彼の心を癒さない。
 佳織を助けても、元の世界に戻っても、命を奪ったという現実は彼を苦しめ続ける。
 けれど幾ら望んでも、ヒミカには彼の苦しみを癒せない。
 ヒミカは聖人ではない。彼と同じ、たくさん命を奪い続けてきた殺人者だ。
 その心を理解することはできるだろう。でも同じだから、彼を救えない。
(けれど)
 それでも。
(それでも、私は──)
「──ヒミカ?」
 悠人を正面からヒミカが抱き締めた。彼の胸に顔を埋めるようにして、ヒミカは強く彼を抱いた。
「……私には、」
 胸に埋めた顔を上げぬまま、ヒミカが声を発した。
「ユート様の傷を癒してあげることなどできません」
 ヒミカは告げる。
「私は戦うことしかできない。これまでずっとそう在り、これからもずっとそう在るから。でも──」
 ヒミカは顔を上げ、背伸びをし、悠人の肩に顎を乗せるようにして、もう一度悠人を抱き締めた。

「あなたの側にいて、あなたと一緒に罪を背負うことくらいは、できるつもりです」
 耳元で、確かな決意を秘めて、そう告げた。
「私はあなたの側に立ちましょう。そしてあなたの重荷を、半分私に背負わせてください。
 私にも、あなたを護らせてください。あなたの心を、護らせてください」
 同じだから彼を救えない。
 けど同じだから──理解できるから、支えることはできる。
「私はあなたと同じになります。あなたと同じ道を歩み、あなたと同じ数の血に手を穢し、あなたと同じ数の
戦場を渡り、あなたと同じ数の敵を殺し、あなたと同じ数の罪を背負います。
 辛かったり、苦しかったりしたら、私に言ってください。
 癒すことも慰めることも、私にはできません。けど、心が崩れそうでも、支え合うことはできます。
 だから──だから、もう──」
 強く、強く、抱き締めた。

「──もう、泣かないでください──」

 そうヒミカに言われて初めて、悠人は、自分が泣いていることに気付いた。
 悠人を抱き締めるヒミカの首に、冷たい雨と違う温度の雫が、ぽたりぽたりと落ちていた。

 ヒミカは、自分の胸に去来する切なさと愛しさを自覚している。
 これを愛と呼ぶのかは分からない。
 けれど、気付いた。自分にとって、この少年はとてもとても大切な人だと。
 自分の命よりも喪いたくない、世界で一番護りたいもの。
 かつての自分のように、友を喪った罪悪によって己の価値を下位に貶めるのではない。
 自分の命も、仲間の命も、この世界も全てひっくるめて──
 それでも、この少年の、かけがえのないキレイなココロを何よりも護りたいと思った。
 ごめんなさい、とヒミカは心の中で、ナナルゥとハリオンに謝った。
 もし、彼女達と悠人、どちらか一方しか助けられないことになったら、自分は迷わず悠人を選ぶ。
 他の皆にも、一人ひとりごめんなさいと謝った。
 ──私は皆の剣でもなく、国を護るための剣でもなく、ただ一人ユート様を護る剣になる。
 それも、この人が元の世界に帰る以上、叶わない誓いかもしれないけれど──それでも。
 例えこの先何があっても、元の世界に戻っても、私の想いがあなたを死なせないと誓いたい。
 あなたのココロを護ると誓いたい。
 その誓約を口にする。違わぬ約束、決して潰えぬ想いを、この胸に刻もう。
「ユート様──私を、放さないでください」
 ──私はあなたを護ると誓う。あなたのために生きると誓う。
 ──だからあなたが私を厭わぬ限り、私を側に置き、私にあなたを護らせてください。
 胸の内の想いを全て、その短い言葉に込めて。

 返事はしばらくなかった。ただ二人の上に注ぐ雨が、涙のように頬を伝っていく。
 そしてやがて、トスッ、と地面に何かが落ちる音がした。
 悠人の手から零れ落ちた〈求め〉が、地面に突き刺さっていた。
「──────────────ああ」
 悠人の太い腕が、ヒミカの身体を緩く抱き締めた。
 目の奥が熱い。それは哀しいのではなく──悠人は嬉しかった。
 自分の行く道は血塗られた道だ。誰かを護るために誰かを殺す、そんな道だ。
 それなのに、この少女は共にいようと言ってくれた。それが、何よりも、嬉しかった。
 この少女を愛しているかと問われれば、悠人は今すぐに答えを出すことはできない。
 だがヒミカがそうであるように、悠人もまた、何よりもヒミカが大切だった。なくしたくないと思った。
 何よりも護りたいと、そう思った。
 ──この想いを胸に抱いたのはいつからだろう。
 そんなこと問うだけ無粋だし、問われても分からない。
 ただ思うのは、自分とヒミカが似ているのではないかということだ。
 二人して自分の命より他人の命を救いたがっていた。
 そんなのだったから、きっとお互い相手のことが心配でならなかった。
 自分が助けようとしている相手が助けさせてくれないから、気が気じゃなかった。

 不意に、悠人は笑いたくなる。そんな簡単なことにも気付かなかった。
 だから自分は重荷に押し潰されそうになった。
 仲間の命と、自分の命と、殺した命。全部、自分一人で背負おうとしていた。
 ──でも、気付いた。
 もう、一人じゃない。この少女が一緒にいると言ってくれた。
「……そうだな」
 抱き締める腕に力を込めた。雨に濡れたはずの身体が、何故か温かい。
 張り詰めた弦を解こう。それはほんの少しの間だけだけれど、次に弦を張る時は、隣に大切な人がいる。
 戦いはまだ続く。戦争の後も、己との戦いがあるだろう。その時、罪の重さを分かち合おう。
 倒れそうなら支え合えばいい。
 届かないなら手を重ねればいい。
 一人では無理でも、二人なら共に行けるから。

「──ありがとう、ヒミカ」

 はい、と小さく、震える声で、ヒミカが頷いた。
 二人はずっとそうして抱き合っていた。
 風が吹く。森の枝葉が揺れ、ざぁざぁと波打つ音を奏でた。
 遠い海の、潮騒にも似た。