紅蓮の剣

 ──そして、帝国との最終決戦が始まった。
 スピリット、人間を交えたラキオス軍は二つに別れ、秩序の壁南北両方から同時に侵攻を始める。
 壁突破後は首都を取り囲み、全軍同時に街に攻め込んで城を落とす。
 首都の大まかな道などは、かつて帝国にいたヨーティアから知ることができた。
 総力戦となるだろう。間違いなくどちらにも多くの死者が出る。
 だがこれを為さずして戦争終結はありえない。逆に言えば、これが最後の戦いなのだ。
 目的は一つ。帝国と瞬を倒し、佳織を助ける。
 そうすれば、この大陸全土を巻き込んだ戦いの、全てが終わる。
 悠人は気を引き締める。青天の下、進軍する軍靴の足音が規則正しく響いていた。
 
 マナ供給を止めた秩序の壁は、思ったより呆気なく突破された。
 元々エーテルジャンプによる罠に頼っていた部分が大きかったのだろう。帝国が兵を送り込んでも後の祭りだ。
 悠人達を先頭にしたラキオス軍は、南を通った軍と合流し、首都周辺に集結していた。
 そんな折、最後の侵攻の準備を整える軍の前で待機していた悠人達に、ヨーティアから嬉しい報告が届いた。
 先日の戦闘で悠人達が保護したウルカの元部下を、神剣の呪縛から解き放つことができるかもしれないというのだ。
 リーソカを制圧した際発見された研究所時代のヨーティアの資料が役に立つらしい。
 完全に元通りになる保証はない。だがそれでも、ウルカは微笑み、頷いて見せた。

 あれから、悠人の隣には常にヒミカがいるようになった。戦う時もそれ以外も。
 それを見てスピリット隊の面々は無論あれこれ邪推を巡らせたが、共通するのは皆、嬉しかったということだ。
 最近の悠人の姿は、皆の目から見ても危なっかしかった。ネリーやオルファがじゃれつくことすらないほどに。
 それが任務を終えて見てみれば、前のようにお人好しで明るい元の悠人に戻っていたのだ。
 ヒミカとの距離を改めて見れば、二人の間に何があったかなど一目瞭然だが──
 それでも皆、素直に悠人がかつてのような少年に戻ってくれたことを喜んだ。
 セリアもその一人だ。悠人にじゃれ付くオルファ達を見ながら、自然と微笑んでいた。
「めでたしめでたし、ってとこですね~」
 その横にふとハリオンが進み出た。いつもと変わらぬ笑みを浮かべている。セリアは苦笑する。
「それはちょっと早いわね。戦争が終わってからじゃないと」
「いえいえ、そうでもないですよー?」
 うふふー、と愉しそうな笑顔を浮かべた。
「愛の前には何も敵うものなんてないんですからー。もう終わったも同然です」
「ああ……そりゃそうね」
 セリアも納得してしまった。とはいえ、当人達はそんな感情だと思っているかどうか。
 二人揃って不器用だから、恋という感情すら知らないのではないかとセリアは思う。
 まぁ、それはそれでいいだろう。戦いの後にも時間はある。その中でまたゆっくりと確かめればいいのだから。
 そのためにも──勝たなくてはならない。セリアは改めてそう思う。
 そんなことを思っていると、隣にナナルゥとヘリオンも並んだ。

「些か、その予見は不確定要素が多すぎると判断します」
 無表情にナナルゥは言う。だがその瞳は一度、年少組にじゃれつかれたまま振り払えないでいる悠人を見、
「──ですが、問題ないと判断します」
 そう言った。理詰めで考えるナナルゥらしくない。だがそれも、悠人が彼女を変えた結果なのだろう。
「でもちょっと複雑な気持ちです……」
 気落ちした様子で言うのはヘリオンだ。あんたはユート様に惚れてたからねぇ、とセリアは苦笑した。
 ヘリオンは顔を真っ赤にして否定する。
「いいいいえそんなことないですッ! ただそのなんていうか憧れてたっていうかそれだけですってば!
 その別にユートさまとヒミカさんの間に割って入ろうとかそんなことはッ」
 気の毒なほどのうろたえっぷりにセリアはまた笑う。
「……別にどうでもいいけどね。ヒミカに聞かれる心配ならしなくていいわよ。今いないから。
 まぁ、聞かれたって気にしないだろうし、どっちにしろあんたの入る余地はないわよ。もう」
 あぅぅぅぅ、と呻きながらへなへなと座り込むヘリオンを尻目に、セリアはもう一度悠人を見た。
 丁度エスペリアが駆けてきて、オルファ達三人がお叱りを受けているところだった。
 微笑ましい、いつも通りの情景だ。もうすぐまた戦いになるというのに。
 だがそれでいい、とも思う。そして、この戦いの後も同じ光景が見れたらいい、と。
 セリアは両手で自分の頬を打つ。マナの導きを祈ることはしない。勝利は自らの手で勝ち取るものだ。
「さ、そろそろ時間よ。皆気を引き締めて。──この戦い、勝つわよ」
 三人とも、頼もしい表情で頷いて見せた。

 ──上空から見れば、首都を取り囲むラキオス軍が見えたことだろう。
 そしてラキオス軍が描く円の内側、首都をぐるりと囲む城壁の前には、帝国軍が控えている。
 スピリットを最前線に置き、後方に人間の兵士がいる。城壁の上には弓兵が並んでいた。
 首都の中も、殆ど帝国軍しかいないはずだ。
 民衆はラキオスがここを取り囲む前に首都を捨て、ゼィギオスなどへ避難してしまった。
 ラキオス軍も悪戯に民を殺すつもりはない。敢えてそれを見逃した。
 逃げた中には高官達も紛れていたかもしれないが……この後、スピリットもない身で兵を挙げるとも考えにくい。
 ラキオス軍には前もって三つのことが言いつけられた。
 略奪せぬこと。火を放たぬこと。無抵抗の者を殺さぬこと。
 終わった後にはまた民衆の生活があるのだ。それを阻害するのはレスティーナの意向ではなかった。
 それらが混乱する戦場においてどれだけ守られるか分からないが、何も言わないよりは良かった。
 為すべきことは速やかな拠点の制圧。最終目標は王城の制圧と皇帝達の捕縛。
 ──そして、帝国のエトランジェ・秋月瞬の討伐である。
 城壁、その向こうにある城を見据えながら、悠人は思う。
 瞬と、決着をつけなくてはならない。
 殺し合うことが正しいこととは思えないが、後に引けないところまで来てしまったのだ。
 ならば瞬を殺し、この戦争を終わらせるのは、他ならぬ自分でなくてはならないと悠人は思う。

 全軍が隊列を整え終え、すぐにでも進撃できる状態になった。
 ラキオス軍は大きく、東、西、南の三つに分けられている。
 一番規模が大きいのは南の軍であり、これの先頭に悠人が立っている。
 東の軍は光陰を、西の軍は今日子を先頭に置き、軍を編成していた。
 それぞれがエトランジェ率いるスピリット隊を先頭に、全軍同時に進軍。
 三方向から同時に侵攻し、市街地を突破して首都中央にある城を落とす。そういう流れだ。
 筋書き通りに行くとは限らないが、兵士の数ではラキオス軍のほうが有利だった。
 ラキオス軍は、まず先端にスピリット隊を置き、その後ろに騎馬隊、そして歩兵がいる。
 対する帝国軍も同じく先頭にスピリットを置いている。
 スピリット隊も前方にブルーやブラックを配置し、後ろには砲兵であるレッドが横一列に並んでいる。
 その後ろには弓を主武装とする人間の軍。悠人達を壁まで近づけさせぬ構えである。
 この戦いは、要はそれを突破できるか否かだ。
 帝国軍を突破し兵士が城壁を突破できるかどうかで、この戦いの趨勢が決する。
 退くことは考えられない。今日この日、日の落ちぬうちに、この戦争は終結するだろう。
 このような、人間とスピリットを交えた大きな戦は、過去この大陸の歴史にはない。
 同時にこれが最後になればいいと、悠人は思った。
 ……一キロ弱の距離を挟み、両軍が睨み合う。
 そして、レスティーナの演説が始まった。

「──皆さん、これまでの戦い、ご苦労様でした。
 平和への道であることを信じ、皆が痛みを受けることを承知で、私はこの戦いを起こしました。
 私は願います。これが、最後の戦いとなることを。
 ……今、私の目指した道は、少しずつ開けようとしています。
 すべての人、すべてのスピリットの力があれば、これをより強固にできることでしょう」
 その言葉には、この上ない説得力がある。人もスピリットも、一様にその声に聞き入っていた。
 声を聞きながら、悠人の脳裏にはあの時のソーマの言葉が蘇る。
 人間とスピリットが戦うことになる──だが、レスティーナの言葉には、それを是とせぬ力がある。
 それを、悠人は信じられる。
「この戦いで、破壊の時代は終わりです。今こそ、私達は再生の明日を掴まねばなりません。
 そのための戦いです。今しばらくの間、私を信じて、力を貸してください。
 人の未来のために。スピリットの未来のために。そして──この世界の未来のために。
 胸を張りなさい。時代を切り開くのは、あなたがたなのですから!」
 兵士達の気勢が高まっていくのが分かる。
「……それでは、皆にマナの導きのあらんことを。
 全軍、行動開始せよ!」
 大地を兵士達の喝采が震わす。そこかしこで自分達の武器をぶつけ合う音が聞こえた。

 悠人も〈求め〉を掲げた。同じようにヒミカの〈赤光〉を初め、仲間の神剣が掲げられていく。
 ガァン!と肩が痺れるほど強く、神剣同士を打ち鳴らした。
「よぉし、皆。持ち場に着け!」
「了解ッ!」
 威勢良く答え、それぞれ自分の位置についていく。
 兵士が隊列を整え武器を構えた。いつでも突撃できる。悠人も前を見据え、剣を強く握り締めた。
 そこに、声がかけられる。
「──久し振りだな、エトランジェ」
 どこかで聴いた声に驚いて振り向くと──そこには、あの時、城で自分が助けた兵士がいた。
 城の警備をしていたはずの彼は今、騎馬に跨り、不敵な笑みを浮かべてそこにいた。
「お前……どうしてここに?」
「志願したんだ。お前に助けてもらったのに、何もしないで城でのうのうと警備しているのは癪だっただけだ」
 にやりと兵士は笑った。悠人は何故か嬉しい気持ちになって、同じような笑みを返した。
 兵士は城を見やり、あそこに、と言う。
「お前の家族がいるんだったな」
「ああ……妹だよ。瞬──帝国のエトランジェに攫われて、捕まってる」
 そうか、と兵士は頷いた。

「当たり前の話だがな、俺にも家族がいる。大切な仲間だっている。
 そいつらにこれ以上余計な苦しみや痛みを背負わせないために、俺らは戦っているんだな」
 ああ、と悠人は頷く。これで終わりにしないといけない。
 兵士の横に立つ悠人は、今のこの距離を心地良く感じた。
 最初悠人は、自分を殴ってばかりいたこの兵士が嫌いだった。
 だが今は、こうして同じ戦場に立ち、同じ方向を向いている。
 時間をかければ、誰だって分かり合えるんだ、と悠人は思った。人もスピリットもエトランジェも。
 ソーマの言葉を否定しきれるわけではない。
 けれどこうして今の距離がある。それだけで充分以上に、そうとは限らないと胸を張って言える。
 兵士が槍を差し出した。悠人も〈求め〉を持ち上げ、カァン、と打ち鳴らす。
「……そろそろだな」
「ああ」
 悠人は言い、兵士が答えた。悠人は少し離れた場所に立つナナルゥを見る。
 その手の上に、人間の頭ほどある炎の球ができていた。
 ナナルゥは空を見上げ、炎を持つ腕を引き──それを、天高く投擲した。
 蒼穹に紅い炎が吸い込まれ──
 
 そして、遠雷のような爆音を轟かせた。

 それがこの戦の始まりを告げる鐘の音だった。
 人間が、スピリットが。ラキオスが、サーギオスが。皆、雄叫びを上げ、大地を踏み鳴らし敵へと駆ける。
「じゃあなエトランジェ! お前が生きる運命を引き寄せて見せろ!」
 その言葉に悠人は驚いた。それはかつて、自分がレムリアに対して言った言葉だ。
 それを何故彼が知っているのか、或いはただの偶然かもしれないが──今、同じ言葉を背負っていることが、ただ快い。
「お互い様だ!」
 応えるように。戦旗のように〈求め〉を掲げ、悠人もまた飛び出した。
 一〇〇〇メートルの距離を、スピリット達は風の如く駆け抜ける。
 帝国のスピリットもまた駆ける。速度は同じ。両者は、二点間の中心で激突する。
 ──悠人達の役目は、帝国のスピリット部隊を薙ぎ払い、後続の兵士達に道を開けること。
 その役目を、果たす。
 真正面からぶつかってきたブラックを剣の一薙ぎで屠り、横から迫る別のスピリットをまた切り裂く。
 手の届く場所全てを斬り払い、手の届かぬ場所にいる者を片っ端からマナの風で吹き飛ばす。
 悠人達は退かず止まらず振り返らず、ただ奥へ奥へと押し進んだ。
 スピリットの壁の隙間から、その奥、立ち並ぶレッドスピリットの列が垣間見えた。
 全員が神剣を握り、手を差し出し、神剣魔法を完成させようとしている。
 悠人達も兵士達も、自分の仲間のスピリットも全て、一切合財まとめて吹き飛ばすために。
 だが、それを。
『アイスバニッシャー!!!!』
 高らかな声。多重となって空に響く大音声が、全てのマナを凍結させる。

 高く上空に待機していた、アセリアを先頭とするブルースピリット達。
 それが急降下しながら敵の神剣魔法を停止させる。
 バニッシュを逃れた幾らかのレッドスピリットは、手を悠人達から空へと向けた。
 マナが解放され炎となって迸る。殺到する業火を空の妖精達は翼で大気を打ち据え回避した。
 避け切れなかった者達が小鳥のように墜落していく。それを顧みることなく、残りの妖精達は赤の陣へ突っ込んだ。
 墜とされた者は殆どが地面に叩きつけられ絶命する。落下途中で空へと融ける者もいた。
 撃墜され、しかし生きていた者達は、己の傷を押さえながらまた敵へ向かった。
 火弾の射手の戦列へ突っ込んだ蒼穹の鳥達は片っ端からそれらを斬り捨てていく。
 その更に後方にいた人間達が、入り乱れる色彩に矢を浴びせかけた。それに射抜かれまた何人もが命を落としていく。
 アセリアの頬を矢が掠めた。アセリアは周囲の敵を薙ぎ払い、血を浴びながら地面に剣を振るう。
 全力で振り下ろされた一撃が大地を叩き、砂煙を上げる。強くウイングハイロゥを羽ばたかせ風を起こす。
 風に煽られた砂煙が兵士達の視界を奪う。その間にアセリア達はレッドスピリットを殺していく。
「──アポカリプスッ!!」
 遠くからナナルゥの声が響く。巨大な爆発が、一気に十数名のスピリットを吹き飛ばした。
 煙に紛れファーレーンが駆け、次々とスピリットの首を掻っ捌いていく。
 その過程で彼女自身も全身に傷を負っていった。槍が肩を引っ掛け、肉を引き裂いた。
「ハーベスト!」
 だがそれは、やや後ろから響いたニムントールの声と同時に癒されていく。
 ありがとうニム、と口の中で呟き、ファーレーンは再び地を蹴った。

 悠人が剣を振るう。振り切って無防備になったその姿に他のスピリットが迫る。
 だがそれをヒミカの剣が貫き、マナへ還す。ヒミカの隣にいた別のスピリットを今度は悠人が斬る。
 二人は絡み合う風となり、次から次へとスピリット達を屠っていく。
 風はスピリットの壁を突破し、そして走り出す。そこかしこで他の仲間達も壁を抜ける。
 自軍の数はやや減じていた。
 見知った顔の中にいなくなっている者はいないが、名も顔も知らないスピリット達が、何人も。
 だが哀しむのは後だ。今は成果を喜べ。悠人はそう思い前へと突き進む。
 最前線にいた帝国のスピリット達は、最早その数を五分の一にまで減じていた。
 しかし悠人達の剣を掻い潜った者達は、その後ろ、人間の群れへと向かっていく。
 騎馬の首ごと兵士の胴を切断し、歩兵を次々と屠っていく。
 だが兵士達は止まらず、退かない。我が後ろに道は無しと、槍を腰に構え猪突する。
 一人の敵に三人が斬られ、四人が斬られ、五人目が斬られながら突き出した槍が、スピリットの腹を貫いた。
 動きの止まったそのスピリットに別の兵士達の槍が殺到し、全身を穴だらけにして殺した。
 如何にスピリットが一騎当千とは言え、この数の、勢いに乗った人間に勝てるほど強いわけではない。
 マナに還るスピリットを放り、兵士達は雄叫びと共にまた駆けていく。駆けていく。
 怒涛の如く。

 帝国の兵士達が、弓に矢を番える。
 彼らの為さんとしていることを正確に理解した悠人は、〈求め〉を振るい剣圧で彼らを吹き飛ばした。
 風に薙ぎ倒される若草の如く兵士達は倒れていく。しかし倒れなかった兵士達は、矢を天へ向け、
「──ッてぇ!!」
 号令一下。
 弦が弾け、矢が飛翔する。
 天へ向かって射られた矢は当然重力に引かれ、放物線を描いて地へと落ちる。
 鉄の驟雨が、地をひた走るラキオスの兵士達へと降り注ぐ。
 兵士達は頭上に楯を掲げそれを凌ぎ、尚も駆けていく。
 だが矢衾は容赦なくその隙間から兵士達に突き立っていった。
 脚を射抜かれた兵士が蹲り、その背中を六本の矢が貫く。
 運悪く集中した矢が楯を砕き、その下にいた兵士を殺す。
 隣で倒れた戦友を振り返った兵士の首に矢が突き刺さる。
 次々と倒れながら、しかしラキオスの兵士達は前へと進む。
「やめろぉっ!」
 叫んだところで止まるものでもないが、それでも悠人は叫びながら剣風で兵士達を薙ぎ倒す。
 そして悠人はその向こう、将棋倒しに倒れた兵士達の先。そこにある、城壁の門目掛けて跳んだ。
 空中で剣を振り被り──着地と同時に振り下ろす。

 轟音と衝撃。
 城壁の門が粉々になりながら内側にすっ飛び、あまりの衝撃に城壁そのものが小刻みに震えた。
 揺れに足を取られた帝国兵が、僅かな時間、弓を放つのを止める。
 悠人やスピリット達はその隙に一斉に門の中へと駆け込み、或いは城壁を飛び越えていった。
 それを見届け、兵士達の先頭に立っていた騎兵隊長が叫んだ。
「雨が止んだぞ! 歩兵隊、槍を投げろォッ!」
 応える声と共に、兵士達が走る勢いを乗せ、槍を天へと投擲する。
 立っていた兵士の数だけ槍が空へ飛んだ。その数は先の矢の群れの比ではなく、しかし一つ一つが必殺。
 槍が、たたらを踏んでいた帝国の弓兵達に突き刺さっていく。
 槍は城壁の上の弓兵にも届き、頭蓋を、心臓を、腹を貫いては絶命させる。
 生き残っていた弓兵達は、先頭を走っていた騎馬隊が文字通り蹴散らした。
 遅れて剣を抜いた歩兵達が殺到し、地上にいた弓兵の群れを蹂躙していく。
 帝国軍もまた弓を投げ捨て剣を抜くが、数に押されその数を減らしていった。
 先頭にいたラキオスの兵は門をくぐり、城壁を駆け上がって帝国兵を切り払い後続の安全を確保する。
 敵兵をランスで貫き、騎兵隊長が声を張り上げた。
「先行したスピリット達に遅れを取るなよ! この戦いは我々の戦いでもある。
 今まで奴らに預けていた血と痛みを、今この場所で取り戻せ!」
 応、と力強く応える声が響いた。

 城下町に入った悠人達を出迎えたのは、やはり人間の兵士と、スピリットだった。無論悠人達の相手はスピリットだ。
 勢いに乗った悠人達は止まらない。及び腰の兵士達を軽くあしらって、その奥から肉薄してくる妖精を斬り伏せる。
 足元に火弾が飛んできた。顔を上げると、レッドスピリットの群れが大通り両側の家の屋根に並んでいる。
「ヒミカ、アセリア!」
 了解、と二つの声が答え、それぞれ違う方向に地を蹴った。
 屋根に着地し、立ち並ぶスピリット達を次々蹴散らしていく。
 路地裏から現れた集団にナナルゥが火炎を放ち、民家の窓を突き破ってきた者をやり過ごす。
 建造物を隠れ蓑としてゲリラ戦を展開するスピリット達の中、悠人達はただ真っ直ぐ突っ走る。
 周りには構わない。制圧すべき場所はただ一ヶ所。
 目標は、正面にあるサーギオスの城のみ。
 ひた走る悠人の耳に、ザッと一瞬ノイズが紛れ、女性の声が聞こえてきた。
『──ユート様、イオです。そちらの戦況はいかがですか』
「順調だ。城壁を抜けて、城目指して走ってる。光陰と今日子は?」
『お二人の部隊も城壁を突破し、城へ向かっているそうです。
 人間の軍でも大勢は決しました。後は、城を落とせばこの戦争は終わります。──では、マナの導きを』
 ああ、と悠人は強く頷いた。
 城の門は、もうすぐそこだ。

「悠人!」
 そこに丁度光陰率いるスピリット隊が到着する。その多くはかつての稲妻部隊だ。
 少し遅れて今日子も到着、三隊は合流し、城の敷地内へと入っていく。
 それらを追うように、町中に隠れていたスピリット達が城の門へと詰め掛けた。
「クォーリン、しんがりは任せた!」
「はいっ!」
 光陰の声に答え、クォーリンは足を止め後ろを振り返る。
 左右をスピリット達が通り抜けて行く中、クォーリンは右手を前に突き出し神剣を通してマナを掻き集めていく。
 仲間が皆通り過ぎ、それを追って帝国のスピリット達が門に詰め掛ける。
 密度の増したそこを、クォーリンは両の眼で見据え、槍の穂先を向ける。
 周囲のマナ全てを、自分の手へと手繰り寄せるイメージ。舌が許す限界の速度で詠唱し、座標を視線の先へと固定。
 数秒かからず詠唱を終える。意志を乗せ、腹の底から声を放った。
「──エレメンタルブラストッ!!」
 マナの暴風が吹き荒れ、帝国のスピリット達がそれに飲み込まれる。
 風の収まった後に、最早立っている者はいない。クォーリンはそれを見届け、皆を追って走り出した。
 
 瞬と、そして佳織がいると思われる場所は城の中心に近い。漠然とその方向に強い神剣の気配を感じる。
 だが簡単にそこまで辿り着けるはずがない。城の中はそれこそスピリットの巣窟だった。
 人間の兵士達は悠人達を見るなり我先に逃げていく。それと入れ替わるように、スピリット達が通路に詰め掛ける。

 鍛え抜かれたラキオススピリット隊や、稲妻部隊には及ぶべくもないが、しかし数が多い。
 それでも何とか悠人達は城の中を突き進む。時折ナナルゥやオルファが狭い通路に神剣魔法をぶち込んでいたお陰で、
三階への階段に到着する頃には帝国のスピリットも大分数を減じていた。
 階段を上り、行きがけの駄賃とばかりにナナルゥが階下にアポカリプスを落とす。
 それから程なくして、悠人達は謁見の間に続く扉に辿り着いた。向こうには、紛うことなき〈誓い〉の気配。
 悠人は躊躇うことなく、その門を蹴り開ける。
「瞬ッ!!」
 広い、玉座の間。いつもは兵士や大臣で満ちているそこには、今は二人しかいなかった。
「来たか、悠人!」
 誰もいない玉座の前に立つ瞬が、歪な笑みを浮かべて悠人を出迎えた。
「お兄ちゃん!」
 肩を瞬に掴まれた佳織が、身じろぎしながら悠人を呼ぶ。今すぐ駆け出したい衝動に駆られながら、悠人はそれを抑えた。
 瞬が悠人達を一瞥し、侮蔑の笑みを浮かべた。
「一人では勝てないからって、仲間を連れてきたのか? 全く、弱い奴ほど群れたがる。
 弱いから、仲間なんてものを頼らなくちゃいけないんだ」
「──そうさ、俺は弱いから仲間を頼る」
 あっさり認めた悠人に、何、と瞬が怪訝そうに眉を顰めた。──瞬には、絶対に悠人の心が理解できないだろう。
「俺は、自分一人で全てを背負おうなんて、そんな思い上がりはやめたんだ。
 一人で全てをこなそうとすることは、周りの人間を信用していないのと同じことだから。
 ……何より、俺は、お前の言う通り全然強くないからな」

 瞬は強い。だが、独りだ。自分は違う。仲間がいて、ヒミカがいる。
「俺には俺の弱さを支えてくれる人がいる。俺はそいつと仲間を信じてる。
 瞬、お前は強いかもしれない。だが自分以外誰も信じないお前は、孤独だ」
 悠人は〈求め〉を強く握り、瞬を睨みつけた。
「──俺は弱い。でも、俺は俺が弱いことを知っている。だから仲間を頼り、仲間の力を信じてる。そして──」
 雨の森の中で感じた、ヒミカの温かさが蘇る。
「自分の罪深さを知って、それを背負うと決めた。そして、一緒にそれを背負ってくれる人にも出会えた。
 だから、負けない。皆の力を借りて、皆と一緒にお前を倒す」
 切っ先を瞬へ向け、悠人が告げる。瞬は、嘲笑を以て答えた。
「へぇ、涙ぐましい気構えじゃないか。──だが見苦しい。見るのも不快だ」
 吐き捨て、瞬もまた剣を構えた。
 一触即発の状況。どちらかが少しでも動けば、その途端に激突するだろう。だが、その前に。
「一つ訊く。皇帝はどこだ、瞬。ここにはお前達以外いないのか?」
「皇帝? ──ハハッ。そんなもんいやしないさ」
「……どういうことだ?」
 光陰が眉を顰める。瞬は両手を広げ、演説するかのように大仰な仕草で喋り出した。
「この国には最初から皇帝なんていないんだよ! この大地は、ずっとこの〈誓い〉が動かしてきたんだ。
 どいつもこいつも馬鹿ばかりさ。神剣に屈するような、意志の弱い馬鹿ばかりだ」
 つまり、それは。神剣が、人々を操ってきたということなのか。

『神剣の思惑通りに生きるなどあってはならない』。クェドギンの言葉が蘇る。
 この国は、真実、彼の言う通り神剣によって動かされてきたということか。
 バッ、と瞬は指揮者のように両手を大きく広げて見せた。
「──そして僕はその〈誓い〉に選ばれた。この世界を、真に正しい世界に導くために!」
 熱の篭もった瞬のその瞳には、紅い、狂気の色が宿っていた。怖気の走るその紅を見返しつつ、悠人は叫ぶ。
「違う! お前のほうこそが〈誓い〉に操られていると、何故気付かない!」
「出鱈目を言うな悠人。〈誓い〉は僕を必要とし、僕には〈誓い〉が必要だった!
 ああ、そうだ。僕は〈誓い〉が必要なんだ。この世界を統べ、お前を、〈求め〉を、滅ぼすために……!」
 狂笑に歪む口の端から泡を飛ばしながら叫ぶ姿は、どう見ても常軌を逸している。
 それに悠人は見覚えがある。自分が〈求め〉に呑まれた時と同じ、神剣に魅入られた者の瞳。
「だから、僕の前から消えろぉぉォォォッ!!」
 前触れなく振るわれた〈誓い〉から、凶悪なマナの雷が迸った。
 悠人達はばらばらに散開する。交渉の余地なし。後は、もう戦うしかない。
 大規模な神剣魔法は、佳織が近くにいる以上使えない。アセリアとウルカが大回りに走り、左右から攻め込んだ。
 だが瞬は剣の一振りでそれを跳ね返す。二人に隠れ、背後に回っていたファーレーンも軽くあしらわれた。
「おおおっ!」
 真正面から悠人が突っ込んだ。ギィン、と〈求め〉と〈誓い〉が衝突し、怨嗟のように金属音を掻き鳴らす。
「そうやってお前はいつも僕に歯向かう! 疫病神め、お前がいるから佳織が苦しむんだ!
 消えろ、消えろよっ! 僕と佳織の世界にお前の居場所なんてないんだよ!」
 瞬が、表情筋がはち切れそうなほど顔を歪ませ、憎悪の言葉を吐き出した。

「ああ、そうさ。俺は疫病神かもしれないけどな、だけど今、佳織を苦しめてるのはどっちだよ!
 こっちに来て、お前がその剣を持って、その隣で佳織が一度でも笑ってくれたことがあったか!?」
「──黙れェッ!」
 力任せに瞬が悠人を弾き飛ばした。悠人は赤い絨毯の上に後ろから倒れるも、素早く受身を取って起き上がった。
「お前がッ、お前達がッ! お前達がいるからいつまで経っても佳織は目を覚ましてくれないんだ!
 お前達が佳織を狂わせてるんだ! お前達皆消えてしまえば、佳織はまた僕の側で笑ってくれるんだぁぁぁっ!!」
 狂気の風が玉座の間を蹂躙した。クォーリンと共に加護のオーラを展開し、皆を護りながら、光陰が呟く。
「狂人は自分が狂人であることに気付かない、とは言うがよ。ここまで盲目的なのは行き過ぎだぜ……!」
 風が緩んだその一瞬に、ヒミカは駆けた。姿勢を低くし風を掻い潜り、瞬へと肉薄する。
「くっ、かお──」
 瞬の手が、佳織を求めて伸ばされた。──楯にするために。
「させない!」
 だがそれを一条の光が遮る。二人の間に割って入ったナナルゥのフレイムレーザーが、瞬の動きを鈍らせた。
 ヒミカが〈赤光〉を振り下ろす。防御も間に合わず、瞬の胸が斜めに切り裂かれる。
 手応えは浅いが、しかし怯ませるには充分。
「ヘリオン!」
「はいっ!」
 声に応え、ヘリオンが一蹴りで玉座まで跳び、瞬から離れた佳織を掻っ攫った。

「カオリ様、我慢してくださいね……!」
 勢いは止まらず、佳織を抱き締めたまま正面の壁に足をつけて蹴った。
 仰角45度で跳躍したヘリオンは、更に天井を蹴り三角形を描いて、勢いを殺しきれないまま仲間のもとへ戻る。
 このまま突っ込めば佳織は兎も角、受身の取れないヘリオンは骨の一つでも折ってしまうだろう。
「んっ!」
 だがそれを、ハリオンが全身で抱き留める。ハリオンの後ろでは、ネリーとシアーが彼女を支えていた。
 獣じみた怒声を上げながら瞬が剣を振るい、ヒミカは後退してそれを回避。
 追うように雷球がヒミカに迫る。オルファの魔法がそれを撃墜し、討ち漏らしをエスペリアとニムントールが防御した。
「喰らいなさいっ!」
〈空虚〉から、瞬の雷球の比ではない稲妻が放たれた。瞬は己を焼く雷に、〈誓い〉を立てて耐える。
 雷が止み、沸き立つ煙のその向こうから光陰が身を躍らせた。
「観念しろ、秋月ぃっ!」
「舐めるなっ!」
〈因果〉の分厚い刀身を、全身の力で瞬は弾き返す。衝撃に光陰の身体が揺らぎ──だが、笑った。
「──観念しろと、言ったぜ」
 光陰の大柄な身体、その陰から、〈求め〉を横に振り被った悠人が現れた。
〈誓い〉は振り切られ、戻す暇もない。ひゅっ、と瞬が息を吸い込む間もなく、
「終わりだ、瞬────────────────ッ!!」
 鮮やかな軌跡を描いて、〈求め〉が瞬の脇腹に吸い込まれた。

 悠人の手に鈍い感触が伝わる。肋骨の間から入った刃は、左肺を切断し、心臓にまで達した。
「が…………!」
 悠人が剣を引き抜く。切っ先が臓腑を引っ掻き、夥しい量の血が噴き出した。
 間欠泉のように血の吹き出る、傷というには余りに大きな切断面を手で押さえながら、瞬はうつ伏せに崩れ落ちた。
「うぁ、っあっ、あぁ…………!」
 致命傷を負い、それでも〈誓い〉を手放さず、瞬は地面を掻き毟る。
「ぼくっ、僕は選ばれた、人間だ、ぞ。何で……ッ! 何で僕が、お前達如き、に、負けなきゃならないんだ……!」
 見苦しく、往生際悪く、けれど必死に己が死に抗いながら、瞬は尚も怨嗟を紡いだ。
「……簡単な話だよ、秋月。
 ただの一人で千人分の力を持っていたってな、たった一人じゃ百人の相手に勝つこともできないんだ」
 緩やかに死に向かう瞬を見下ろしながら、光陰は哀れささえ滲ませて言った。
「……お前には、理解できんだろうな」
 瞬には最早、光陰のそんな言葉すら聞こえない。
「僕は信じない、僕は認めない……! 僕が負けることなんてないはずなんだ……ッ!」
 血から、その身体から、黄金の霧が立ち上り始めた。
「いやだっ……! 僕はまだ死なない。死にたく、ない……! まだ、殺して、ないのに、ぃ……!」
 ぎしぎしと音がするほどに、瞬の手は〈誓い〉を握り締めていた。瞬はそれを見、そして、呼んだ。
「──聞こえるか、〈誓い〉ィィィ……!」


 死にゆく身体のどこにそんな力があるのか。瞬は、〈誓い〉を支えに立ち上がる。
 ……その力の名を妄執と言う。たった一つのことに対する執念が、今彼を立たせている。
「あいつを殺したいんだろう、〈誓い〉。あいつが憎いんだろう、〈誓い〉!
 なら殺せ、なら動け、なら力を貸せ! 僕に、僕に僕に僕に僕にィ! あいつを、殺させろォォッ!」
 ──この時点で、既に瞬の目的と手段は入れ替わっていた。
 いや、もうずっと前から──〈誓い〉を手に取った時からそうだったのかもしれない。
『悠人を殺して佳織を手に入れる』のではなく、ただ『悠人を殺す』ことに。
 そのことに、結局瞬は気付かないまま。
 自分をそう変えた剣に、更なる力を求めた。
「──僕から何を持っていったって構わないッ! 〈誓い〉よ、あいつをすぐに殺せぇぇぇェェェェェェッ!!!」
 瞬間。
 黄金の霧が逆流する。瞬の身体から立ち昇っていたマナが、巻き戻すように身体に吸い込まれていく。
 それだけに留まらず大気中のマナさえも、瞬は取り込んでいく。
 マナの乱流が巻き起こす凄まじい風は、頑丈なはずの壁にさえ罅を入れ、柱を崩していく。
 逆巻くマナの風の中で──瞬の身体そのものが、形態を変えていく。
 傷が消え、服が作り変えられ、身体の所々が昆虫のような赤黒い装甲で鎧われていく。
「あぁああぁあぁぁぁああぁぁあああッ!!」
 瞬が人間のものではない絶叫を上げる。びりびりと大気が震える中で、恐怖に彩られた声で〈求め〉が言った。

『砕け、契約者よ! 今すぐ、〈誓い〉を砕くのだ……!』
 殺意と恐怖に彩られた悠人はその声に逆らわなかった。得体の知れない恐怖は、また悠人の中にもあった。
 悠人は、再生を終え今にも動き出そうとする瞬へと跳ぼうとして、
「ッ、佳織っ!」
 崩れ落ちる天井の真下に、佳織がいた。
 咄嗟に悠人は佳織のもとへ跳んだ。剣の一振りで瓦礫を吹き飛ばし──
「──隙があるぞ、悠人ォォォォォッ!!」
 背後から瞬が迫る。その瞳に正気はない。最早、佳織のことすら目に入っていない。
 オーラを展開する暇もない。悠人は辛うじて〈求め〉を振るい、
 
 ぱきぃぃぃぃ────────ん。
 
 ガラスが割れるような音を奏でて。
〈求め〉が、〈誓い〉に叩き折られた。
 カラン、と落ちた〈求め〉の刀身が立てた澄んだ音を、どこか遠く悠人は聴いた。
 全身から力が抜けていく。神剣を喪い、身体が、ただの人間に戻っていく。
「はっ……あははははははっ! 〈求め〉は死んだァッ!」
 瞬は哄笑し、〈誓い〉を振り上げる。悠人は咄嗟に佳織をヒミカ達の方へ突き飛ばした。
「次はお前の番だ、悠人ォッ!」

 悠人は瞼を強く閉じた。神剣を前に、ただの人間は余りに無力だ。
 だが──
「お、あ、ぁぁぁぁああぁああああああ!?」
 剣は落ちず、代わりに瞬の叫びが聞こえた。──その右手は、手首まで〈誓い〉と同じ色に染まっている。
 そして床に落ちていた〈求め〉の欠片が浮き上がり、形状を変えて瞬の周りに浮かんだ。
 瞬の周囲の空気が、力を喪った悠人ですら分かるほどドス黒く不快なものに塗り変えられていく。
 苦しむように背を曲げていた瞬が、突如、弾けるように身を反らして哄笑した。
「ふ、ふふ、あはははははははははははっ!!」
 その声は、瞬のものであって瞬のものではない。瞬の皮を被った、別のものだった。
「何という解放感か! これほどの歪みを抱えているとは、正に逸材であったのだな!」
(……〈誓い〉、か? ……いや)
 そうですらないと悠人は直感的に感じた。アレはもう秋月瞬でもなければ、〈誓い〉でもない。
 果てしない絶望感が押し寄せる。ただの人間では、あれに抗する術はない。──けれど、
(けれど、だからって死ねるもんかよ!)
 ……悠人は、この世界に来て一つ、学んだことがあった。それは『自分が生かされている』ということだ。
 自分一人で生きてきたつもりだった。だが、それは思い違いだったのだ。
 元の世界は単に、多くの人間が『一人で生きていける』と錯覚するくらい整備された場所だったに過ぎない。
 自分以外何も持たずにこの世界に来て初めて、誰かに助けられ、誰かを助けることの大切さに気付いた。

 だから悠人は、自分を護ってくれた皆を、それと同じように自分が護りたいと思っていた。
 そして護ってくれた者のために、自分もまた生きていく──それが、護られた者のすべきことだ。
 あの夜、ヒミカと本気で剣を交えた夜を思い出す。ヒミカは護ってくれた者のために、死のうとしていた。
 それを自分は否定したはずだ。護られた者が自ら死を求めることは、護ってくれた者への冒涜に他ならない。
 そしてあの雨の中で、ヒミカは自分と共に道を歩むと言ってくれた。
 ──そう、誓ったのだ。仲間を護り、自分を護り、互いを護ると。
 生きるために生かすために、戦うと。
「だから諦めてたまるか、こん畜生……!」
 柄だけになった〈求め〉を握り締めた。まだ微かに、〈求め〉が気配を感じられる。
(俺は皆を護るんだ! 少しくらい根性見せやがれ、バカ剣ッ!!)
 強く、強く呼びかける。すると柄が身じろぎするように震え、弱々しい声が聞こえてきた。
『……全く、人使いの荒い契約者だ。最早、我が意識は〈誓い〉に呑まれつつあるというのに』
(そんなこと言ってんじゃねぇ、どうにかならないのかよ!)
『無理を言うな。折れた剣など剣ではない。……だが、そうだな。
 我らは本来互いに力を与えるのが流儀なのだが……この程度の酔狂、あっても良かろう』
 少しだけ〈求め〉の声が強くなる。
『汝へと〈門〉を開こうとしている者がいる。我に残された力で、それを開こう。
 何が出てくるかまでは知らぬ。それでもいいか?』

(……分かった、頼む。〈門〉を開いてくれ)
『それが汝の最後の『求め』か。……ふふ、汝と過ごした日々、なかなか退屈しなかったぞ』
(俺は休む間もなかったけどな。
 ……お前には、色々迷惑かけられたけど、俺や仲間を助けてくれた。そのことに礼は言っとく。──ありがとな)
『契約だ。そこには感謝など存在せぬ。──が、その言葉だけは貰っていこう』
 皮肉げに笑う気配。
『では、契約者よ……さらばだ!』
 潔い言葉だけを残し、今度こそ本当に〈求め〉の気配は消えた。本当に、呆気なく。
 迷惑ばかりかけられた。だが、それでも〈求め〉とは、戦友と呼べる間柄だったかもしれない。
 じゃあな、と心の中で別れを呟き、──その直後、頭の中に聞き覚えのある声が響いた。
『──門を開いてください、悠人さん。時間がありません。早く、茅の輪をイメージして!』
 言われるまま悠人はイメージする。頭の中にある茅の輪に──『自分の想像していない誰か』が駆け込んできた。
 そうだ、その人影は、その少女は、
「──時深!?」
 パァン、と茅の輪のイメージが弾け、入れ替わるように目の前の空間が歪み──倉橋時深が飛び出してきた。
 どうしてここに、と問う暇もなく、時深は変貌した瞬へと突撃した。
 まだ体勢を整えていなかった瞬は急襲に身を硬直させる。
 それを時深は逃さない。手に握った剣を縦横無尽に振り回し、瞬の身体を切り刻んでいく。
 その疾さは、そう、それこそ時間を早めているかのように。

「ちぃっ!」
 一旦後退し、瞬は周囲に浮かぶ六本の剣を時深へと飛ばした。
 だがそれすらも障害に成り得ない。時深はそれら全てをするりとすり抜け、一瞬で瞬まで肉薄した。
 胴を薙ぐ斬撃を、しかし瞬も回避する。距離を取り、二人は向かい合った。
「……この私に、あなた程度の攻撃では届きません。それでも、まだやりますか?」
「ひとまず退く、と言いたいところだが……俺を虚仮にしたことは許さん。今、殺す」
 殺意を漲らせながら、しかし瞬は無表情だ。愚かな、と嘲るように呟き、時深は再び剣を構えた。
 今にでも弾けそうな空気の中で、
「──あらあら、面倒なことになっていますわね」
 第三者の声が響いた。
 時深は弾かれたように音源の方を見る。崩れ、最早殆ど原型を留めていない玉座の上。
 そこは時深が現れた時と同じように空間が歪み──そして、一人の少女が、舞い降りるように姿を現した。
「……法皇テムオリン! 何故、あなたがここに!?」
 驚きを交え、時深はその白い──しかし禍々しい空気を纏う少女を睨みつけた。
 テムオリンと呼ばれた少女は、その幼い顔に似合わぬ嘲笑の表情を以て時深に答えた。
「何故? 貴女が何故、と? トキミさん。未来を見るあなたが、私が此処に来ることを予測しなかったと?」
「……想定はしていました。しかし何の用です。あなたがここに現れる必要などないように思えますが」
「嘘をおっしゃいな。『見』ている癖に。……まぁ、一応教えてあげますわ。
 今回も傍観させて頂いていたのですけれど、そこの坊や達が思った以上にやるものですから、ね」

 テムオリンの視線が悠人を捉える。ぞくりと、背筋に走る得体の知れないものを悠人は感じた。
「シュン、あなたも今は矛を収めなさいな。まだ本調子ではありませんでしょう?」
 図星なのか、瞬は押し黙る。テムオリンは再び時深に向き直った。
「さてトキミさん? 貴女はこれから私がどんな行動を取るか、幾つ予測していらっしゃるのかしら?
 十通り? 二十通り? それとも百通りかしら? そのどれを取るか、貴女に分かりますこと?」
 時深は答えず、ただ神剣を握り締めた。いつ、どんな風に、テムオリンが行動を起こそうと対処できるように。
 その様子を見て、テムオリンは満足げに微笑み、そして言った。
「……もう貴女とは長い付き合いですからね。いい加減、貴女が何をしようとしているか分かりますの。
 例えば私の取れる選択肢のうち、どれが一番選ぶ確率が高くて、どれが低いか、とか。
 どれが合理的でどれが非合理的か、とか。──どんなことをすれば貴女が間に合わないか、とか」
 サッと時深が顔を青褪めさせた。
 そうだ、どうして気付かなかった。いつも彼女と共にいるあの黒い剣士が、何故今この場にいないのか──!
「悠人さん逃げてぇっ!」
 時深が叫び、だが、

「──遅い」

 悠人の真横に突如現れた漆黒の大男が、鉈のような大剣を振り下ろした。

 落ちてくる剣は遅く見えた。だが空気が全部ゼリーになったみたいで、悠人は自由に身動きが取れない。
 時間が遅いのだ。その中を、凝り固まった空間を切り裂いて死が落ちてくる。
「──ユート様ッ!」
 だがそれより尚速く飛び出した赤い影が、断頭の剣から悠人を救い出す。
 しかし、それでも遅かった。通り過ぎた剣の余波が、それだけでヒミカの背中をズタズタに引き裂く。
「あぅ……ッ!」
 悠人を抱き締めたままヒミカは倒れ込む。
「ヒミカッ! おい、大丈夫か!?」
 大丈夫なわけがないのは一目見て分かった。背中の表面が抉られ、白いものが見え隠れしていた。
「あ……ユート、様。ご無事、でしたか」
「ああ無事だよ! だからヒミカも……! くそ、誰か治療を……!」
 力ないヒミカの身体を抱き締め、悠人は首を巡らせるが、光陰達は動けないでいた。瞬が遠くから牽制している。
 悠人さん、と叫んで、駆け寄ろうとした時深は──しかし動けない。喉元に、杖が突きつけられていた。
「隙がありますわよ、トキミさん」
〈秩序〉を保持したまま、テムオリンは口元を袖で隠し、微笑んだ。
 してやられた。時深は歯を食い縛る。最初から、テムオリンはこれを狙っていたのだ。
 時深は、テムオリンが悠人を攻撃する可能性を無視していた。力を喪った悠人を殺しても無意味なはずだからだ。
 だが実際の目的はその向こう。悠人を襲うこと自体が、時深に隙を作る手段だった。
 テムオリンにしてみれば、時深が悠人の死に動じないことも考えられたが、それはないとテムオリンは判断した。
 時深がそうしないということくらい、付き合いの長いテムオリンには分かっていたのだから。

 読み負けた。今更己の浅薄さを悔やんでも意味はないが、時深は唇を噛み締めずにはいられない。
 可能性という言葉の何と無意味なことか。否、それを見ていながら活用できなかった自分の、何と愚かなことか。
 時を読む自分が、読み負けた。その屈辱を噛み締めながら、時深は嘲笑うテムオリンを睨みつけた。
「……大勢は決したようだな」
 巨大な剣を床に埋めたまま、黒い剣士が言う。剣を引き抜き、軽くそれを肩に担いだ。
「タキオス、もう用済みですわ。全員、始末しておしまいなさいな」
 は、と短く答え、タキオスは〈無我〉を振り回す。
 光陰達は身構えるが、全員、その男には勝てないことを理解していた。力のケタが違う。
「そういうわけなのでな、お前達には何の恨みもないが、斬らせてもらう。
 ……お前とは、一度剣を交えてみたかったのだが──最早、それも叶わぬか」
 自分を睨みつけてくる悠人と、手に握る〈求め〉の柄を一瞥し、タキオスは言った。
 悠人の腕はただ強くヒミカを抱き締めている。息の音さえ聞こえない少女が、マナに還ってしまうのを留めるように。
「いい眼だ。我が主の命とはいえ、殺すには惜しい戦う者の眼だ。
 だが、諦めろ。もうお前達には何もできないのだから。……情けだ、一太刀で終わらせる。共に黄泉路を行くがいい!」
 唸りを上げて鉄塊が落ちてくる。確実な死であるそれから、けれど悠人は眼を逸らさない。
(──ふざけるな)
 諦めろ、だと? 諦めきれるものか。この腕の中に抱く少女の温もりがある限り。
 腕の中のヒミカは瘧のように震えている。背中の傷からマナが立ち昇り、唇は紫に染まり──だが、まだ生きている。
 もう何の力もないけれど、俺は死んでない。ヒミカも生きている。俺には、まだ護りたい人がいる。──だから、
(ふざけるなよ、この野郎!)
 その魂に、火を点けろ。

 ──それはありえない動きだった。
 高速で落下するタキオスの剣、それが地に到達するまでの刹那の時間。
 悠人は抱いていたヒミカをハリオン達のほうへ放り投げ、自身は横に跳んだ。
 すぐ横に鉄塊が墜落する。剣圧だけで脚の肉が削がれた。痛い。
 それでも悠人は両脚のばねを限界まで使い、地を蹴った。手の中に〈求め〉の柄を握り締めて。
 注視すれば見えただろう。悠人の身体から、薄く黄金のマナが立ち昇っていたのを。
 タキオスの顔が驚愕に染まる。剣をもう一度振り上げるのも間に合わない。
「あぁぁぁぁッ!」
 無防備なその顔面に、全体重を乗せるようにして拳を振り抜いた。
 ──みしり、と。悠人の拳がタキオスの頬にめり込んだ。
 その場にいた全員が硬直した。時深も、瞬も、テムオリンさえも。
 殴られたタキオスは、頬の拳を呆けた視線で一度見、そして悠人と視線を合わせた。
「……よもやな。拳で殴る、という行為を、久しく忘れていた」
 ク、とタキオスは唇の端を吊り上げて笑う。
「だが力なき勇気は無謀でしかない。無謀な己を痴れ者と知れ!」
 タキオスが平手で悠人を払いのける。それだけで悠人の身体は羽虫のように吹っ飛んでいった。
 ぼきぼきと、悠人は肋骨が立て続けに折れる音を聞いていた。軽い平手だったのに、意識が朦朧とする。
「中々愉しませてもらったが……今度こそ終わりだ」
 タキオスが再び剣を構える。床を転げ、しかし即座に起きた悠人に歩み寄ろうとする背に、タキオス、と声がかかった。
「テムオリン様? ──!」
 テムオリンの首に、時深の神剣が突きつけられていた。

「私もまだまだですわね。その坊やが動いたくらいで取り乱すなんて。
 それともこれも貴女の読み通りかしら? トキミさん」
 命を握られているというのに、テムオリンは尚も時深を嘲笑う。
 時深は答えず、ただテムオリンから視線を逸らさない。テムオリンはつまらなさそうに吐息した。
「……仕方ありませんわ。タキオス、シュン、退きますわよ。どうにも、トキミさんはその坊やにご執心のようですし」
「やけに潔いですね。何を考えているんです?」
「別に何も。ただ、今私がこの世界から消滅しては、為すべきことを為せなくなってしまいますもの。
 それとも、今ここで私の首を刎ねますの?」
 テムオリンが嗤う。
 ……今、時深がテムオリンを殺せば、瞬とタキオスの動きを制限するものがなくなる。
 この二人を同時に相手にして無事でいる自信は、流石に時深にもなかった。
「……よしましょう。去るなら、さっさと去りなさい」
「では、お言葉に甘えて。タキオス、シュン、先にお行きなさい」
「は──」
 タキオスが頷き、瞬は不服そうな表情で悠人達から離れた。
 ごぅ、と二人を激しいマナの渦が包む。それを見て、す、とテムオリンも下がり、その渦に入った。
「ではトキミさん、ごきげんよう。それと──」
 テムオリンの瞳が、一瞬悠人を捉える。悠人はその幼い邪悪を、負けじと睨みつけた。
 三人が消え、悠人は先程放り投げたヒミカのほうを振り返ろうとして──そのまま、意識を喪った。

 ────夢を。
 懐かしい夢を見た。手を伸ばして、けれど届かない、そんな懐かしい夢だった。
 
 ……眼を覚ます。
 すっかり見慣れた天井が広がった。第一詰所の、悠人の部屋だった。
 右手が何故か痛い。胡乱な頭のまま手を持ち上げ開くと、中には、鈍く光を弾く青い金属片があった。
「気がつきましたか?」
 声がかけられた。首を巡らせると、ベッドの横の椅子に巫女姿の少女が座っていた。
 少女が喋り出す。
「おはようございます、悠人さん。私は──「時深! ヒミカは!?」」
 がばっと悠人は跳ね起き、激しい口調で声を被せた。対し、時深は思わず硬直してしまう。
「何で……忘れてないんですか……?」
 呆然と時深が口を開く。忘れるものか、と悠人は思った。
 確かに、自分は忘れていた。だが手の中の〈求め〉の欠片と、時深の姿を見た瞬間には全て思い出していた。
 瞬のことも、あの白い少女や黒い剣士のことも、ヒミカが、自分を庇って傷を負ったことも。
「時深、ヒミカは……生きているのか?」
 語気を強めてもう一度問うた。最後に見た彼女はずたぼろだった。浅い傷ではない。
 死んでいるはずがない。生きていなくてはならない。だが、あの赤い背中がそれを不安にさせる。
「それは──」
 時深は、少しだけ眼を逸らした。

 その仕草に、悠人はざぁっと波の引くような音を立て、自分の顔が青褪めるのを感じた。
 まさか。まさかまさかまさかまさか。ヒミカは、
 
「──ユート様」
 
 声が、聞こえた。
 きぃ、と部屋の扉が開いて、ドアの縁に白い手がかけられた。
 弱々しい足取りで、ヒミカが部屋に入ってくる。顔は青く、壁伝いに、それでも悠人へ向かって。
「ヒミカ……ッ!」
 たまらず、悠人も毛布を跳ね除けた。全身が軋む。特に、抉られた脚が痛かった。
 だが歩いた。床に足をつけ、油の切れた機械のように自由の利かない身体を歩ませた。
 ヒミカは壁から手を放し、悠人への最短距離を歩み始めた。だがすぐに脚をもつれさせ、その身体が倒れ掛かる。
 それを、悠人が受け止めた。あ、と声を発するヒミカを、そのまま強く、抱き締めた。
「……良かった」
 心からの安堵と愛しさを込めて、悠人が言う。
 力の入らない腕に、懸命に力を込めて抱き締める。もう二度とこの身体を離すまいと。
 あの瞬間の、今にも消えてしまいそうだったヒミカの感触が蘇る。
 だがそれは雪が溶けるように、今抱き締めている温かさに払拭されていく。──ここに、いる。
「……生きてくれていて、良かった」
 強く抱き締める悠人に、ヒミカもまた、はい、と答え、悠人の背中に手を回した。

「まったくもう、二人とも無茶しすぎです」
 二人に自分の紹介と、現状の説明を済ませるなり、時深は説教を始めた。
 ベッドで横になった悠人の隣では、知らせを受けて駆けつけたハリオンとエスペリアが治療に当たっている。
「ヒミカさんは眼を覚ますなり部屋を飛び出すし。第二詰所からここまで来る間に倒れたらどうするんですか」
 すいません、と椅子に座ったヒミカが縮こまる。
 ヒミカの傷は深かったが、ハリオン達のお陰でどうにか一命を取り留めた。
 つい先程目覚めたのだが、ちょっとハリオンが目を離した隙に悠人のところへ向かっていたのだ。
 どちらにせよ無事で良かった、と悠人が呟くと、じろりと時深が睨みつけてきた。
「大体、危険な状態だったのは悠人さんのほうなんですからね。
 タキオスを殴った時、自分がどれだけ危ないことしたか気付いてないんですか?
 あの瞬間悠人さんは、自分の身体を構成するマナを、〈求め〉の柄を媒介に無理矢理力に変換したんですよ?」
 神剣は大気中のマナを取り込み力とする。
 刀身を喪った〈求め〉にはそれができない。だが、悠人は自分の身体のマナを使って力に変えたのだ。
「非常識にも程があります。一歩間違えれば自分自身が消えてたんですからね」
 ぷんすか怒る時深に、仕方ないだろ、と悠人は反発した。
「自分でも何やったかなんて覚えてないんだよ。それに、ああしないと俺もヒミカも死んでたんだから」
「結果論でものを語らない!」
 喝、と時深がバックに虎を背負って叫んだ。
 前にも同じことを言われたなと思いつつ、今度こそ悠人は「すまん」と謝った。

「……とにかく、悠人さんもヒミカさんもしばらく安静にしていてください。ヒミカさんも、自分の部屋に戻って」
 後半部分をやけに強調して、時深は言った。
 だがヒミカは、それは無理です、と澄ました顔で返した。
「残念ながら、ここに来るまでの間に体力を使い果たしたので自力では戻れそうにありません。
 少し休んでから戻ることにします」
 ひくっ、と時深の頬が目に見えて引き攣った。
「じゃ、じゃあ私が背負ってでも連れ帰って」
 さしあげます、と言おうとした時深の両腕を、ハリオンとエスペリアががっちりとホールドした。
 ハリオンは愉しそうな笑顔で、エスペリアは呆れと諦めが綯い交ぜになった表情で、だ。
「ダメですよ~トキミさま。怪我人に無理させちゃ、めっ、です」
 そのままずるずると部屋の扉へと引きずっていく。エスペリアは無言だった。
「え、ちょっと待ちなさい。そうじゃなくって、あー……」
 ドアの外まで引きずり出され、時深の声が遠ざかっていく。
 ぱたん、とドアが閉じる様子を、呆然と悠人は見送った。
「……お加減はいかがですか、ユート様」
 二人きりになった部屋でヒミカが問う。悠人は軽く腕を回してみせた。
「ちょっと動きが鈍いけど大丈夫だ。それよりヒミカはどうなんだ? 体力尽きたとか言ってたけど」
「私も大丈夫です。少なくとも、今のユート様のお世話を出来るくらいには」
「……無理しなくてもいいんだぞ?」
 別に無理なんかじゃないですよ。ヒミカは穏やかに笑った。

 とはいえ、一通りのことはハリオン達が済ませてしまったので、ヒミカも取り立ててすることはない。
 二人の間から言葉が消えた。わずかに開いた窓から、暖かい風が吹き込んでくる。
「……これから、どうするかな」
 ぽつりと悠人は呟いた。
 さっき時深から、元の世界に帰る目処が立ったと聞かされた。
 それはとても嬉しいことだ。だがそれを素直に喜べないのは、この世界に大切なものが多すぎるからだろう。
 共に戦ってきた仲間がいる。護りたいと思った国がある。
 悠人は心配そうにこちら見ているヒミカを見た。──共に歩むと言ってくれた人がいる。
 そして、瞬──否、〈世界〉はそれを壊そうとしている。放っておけるはずがない。
 だが、もう悠人に戦う力は残っていない。
〈求め〉は折れた。この身体はマナでできているだけの単なる人間に他ならない。
 戦うことは、できないのだ。
 静かに握り締められる悠人の拳に視線を落としながら、ヒミカは言った。
「ユート様は、元の世界に戻られるべきだと思います」
 そうヒミカは搾り出す。……そんなこと、悠人自身にも分かっていた。
 だがどうしてそれに頷くことが出来よう。誓ったのではなかったのか。雨の森で。
「俺は、ヒミカを護りたいのに」
 強い想いはそのまま言葉となって口から出た。それは言霊になって、また強く悠人の心を呪縛する。
「……ユート様は、もう神剣を持っていないではありませんか。それでどうやって戦うというのです。
 もう充分でしょう。カオリ様を、助け出せたじゃないですか」

 それでも、と悠人はヒミカを見つめた、
「それでも俺は護りたいんだ。ヒミカも、皆も。俺一人、何もしないままじゃいられない」
 言葉に強い意志を込め、言う。だが、ヒミカは首を横に振った。
「それでも、です。そのような使命感は捨ててどうかご自愛を。
 言いたくはありませんが、今のユート様に戦う力はありません」
 決然と、しかし瞳には心苦しさを宿してヒミカは言う。その事実と、ヒミカの瞳の色に、悠人は何も言えない。
 唇を引き結んだ悠人に、ふっ、とヒミカは不意に優しい笑みを浮かべた。
「……安心してください。私は、ユート様が護ろうとした全てを護ります。そしてまた、私自身も護ります。
 ユート様が私を護ろうと思ってくれている。それだけで充分なんです。
 想いは、力になります。ユート様、あなたのその想いが、私を生かす力になる」
 そして、とヒミカは一拍置いて続けた。
「ユート様が元の世界に帰っても、私があなたを護ります。
 想いはきっと届きます。例え世界を隔てても、私の想いが、ずっとユート様を護ります。
 何の根拠もないけれど……私の想いが、あなたを護ると私は約束する」
 胸の上で拳を握り、ヒミカは誓約を立てる。
 柔らかな笑みには、しかし決意と誓いの強い意志が込められている。
「……ああ、ありがとう」
 その笑みに込めた意志が紛れもない真実だと分かっていたから、悠人はそんなことしか言えなかった。
 それを退けて我を通すだけの力も権利も、今の自分は喪ってしまっているのだから。

 悠人のそんな想いを、またヒミカも理解していた。けれどヒミカはやはり微笑むことしかできない。
 ヒミカは、悠人の抱く無力感を癒すことなどできない。──否、きっとそれは誰にもできないのだ。
 それまで届いていた場所に届かなくなる。そのもどかしさを誰が理解できよう。
 戦う者の背負う罪は理解していた。同じ者であるヒミカに癒すことはできなくても、支えることはできた。
 ……今は、彼の苦しみを理解することすらできない。
 癒すことも支えることもできない。彼は無力感を抱えたまま元の世界に戻るだろう。
 だが──それでいいのだ。それで、これ以上彼が傷つくことがないのなら。
 共に罪を背負おうとは言ったけれど、背負わないに越したことはない。
 元より彼はそんなものとは縁遠いはずの人間で、自分は昔からその中に身を置き続けてきたのだから。
 正常な状態に戻るだけだ。彼は苦しむだろうけれど、理不尽な戦いで命を落とすことはもうない。
 この少年が生きていてくれることこそが、今の自分の望むことだ。
 そして存在する世界を違えても、悠人がいるなら──例え敵がどんなに強大であっても、絶対に死なない。
 彼の想いが自分を護り、自分の想いが彼を護る。
 この想いがある限り、傷つくことも罪を背負うことも苦にはならない。そう思えた。
「……そろそろ、私も戻ります」
 言って、ヒミカは立ち上がった。悠人と一緒にハリオン達の治癒を受けたお陰か、身体も大分楽になっている。
 まだ少し動きのぎこちない脚に気合を入れ、出来る限りしっかりとドアに歩いていく。
 ああ言った手前、悠人の前で転んだりするわけにもいかない。つまらない意地だが、それでも張り通す。
「では、失礼します。ユート様も、ちゃんとお休みください」
 ああ、と悠人が答える。それに微笑を返して、ヒミカは部屋を出た。

 ばたん、と閉じたドアを、しばらく悠人は眺めていた。
 遠ざかる足音が聞こえなくなったところで、悠人は小さく息を吐く。
 ……自分が情けない。
 戦う力が欲しかった。〈世界〉を斃し、この大地を護れるだけの力が欲しかった。
 あの時見た〈世界〉と、テムオリン、タキオス。あの三人の力は常軌を逸している。
 ヒミカはああ言ったものの、正直悠人には、ラキオスのスピリットが結集しても勝てる気がしない。
 それは仲間が──ヒミカが死ぬということだ。それを、悠人が許せるはずもなかった。
(──けれど、自分には何もない)
 レスティーナの指導力も、ヨーティアの技術力も。神剣を喪った自分は、ただの脆弱なヒトでしかない。
 時深が記憶を封じていたのも分かる。
 あのままだったら、何も疑問に思わず、ただ別れを惜しんでこの世界を去っただろう。
 それでお話はお終い。めでたしめでたし──と、この物語の幕は閉じるはずだった。
 だが生憎と、この〈求め〉の欠片はそれを許してくれなかった。
 戦いは終わっていない。何も終わっていないのだ。でも──
 ……両親との約束がある。佳織を幸せにするという、亡き父と母との約束。
 佳織は元の世界に戻るべきだ。佳織は、あの世界で幸せにならなくてはいけない。
 それなら自分も一緒にいるべきではないのだろうか。それを見届けるべきではないのだろうか──
 そう思うには、自分にはこの世界で多くのものを背負いすぎた。護りたいものと、犯した罪を。
 その為にも。力が得られるならば、自分は迷わずそれを手にする。そして、この世界に留まるだろう。
 一人きりの部屋の中、未だ明確な答えは出ないながらも、悠人はそれだけを確信していた。

 そして一週間後、動けるようになった悠人は時深に呼び出された。
 そこで様々な事を聞かされた。エターナルのこと、永遠神剣のこと、時深自身のこと。
 ……自分がエターナルになれる可能性。
 エターナルになると、自分があらゆる世界から『いなかった』ことにされてしまうこと。
 つまりそれは、佳織やヒミカ、アセリア達からの記憶から消えてしまうということだ。
 歴史の改竄。その時点で消えるのではなく、遡って『自分』とそれに関する因果そのものの抹消。
 よく考えてください、と時深は言って、部屋を出た。
 
 悠人がエターナルになれる可能性を持つことは、悠人以外の全員が知っていた。
 目を覚まし、部屋に戻った後、ヒミカもまた時深からそれを聞かされていた。
 そして彼が、間違いなくその道を選ぶであろうことを、誰よりもはっきりと感じていた。
(そういう、人ですから)
 訓練所裏手の森で剣を振るいながらヒミカは思う。
 そういう人間なのだ。誰かが傷つくことを厭い続ける人間。そのために己が傷つくことを厭わぬ人間。
 そこまで分かっていながら──どうしても、自分の胸のうちにあるわだかまりを消せない。
 わだかまりの正体は自明だ。
 ──ヒミカさんは、エターナルにはなれません。
 一連の話の最後に、時深はそう言った。自分は、悠人と共に歩く資格がないのだという。
 糞喰らえだ、と汚い言葉でそれを罵っても、それで何かが変わるというわけもない。
 共にいることもできず、思い出を抱くことすら許されない。
『ユート様──私を、放さないでください』
『私の想いが、あなたを護ると私は約束する』。
 戦いの前に求めたこと。戦いの後で誓ったこと。全てが虚構と消え、それを果たすことさえ世界は許可しない。

 悠人が力を取り戻すことは嬉しいことのはずだ。戦士としての自分はそう判断する。
 彼は自らの手で皆を護り、自分もまた共に戦列を組んで戦える。
 違うのは悠人のことを覚えていないというだけで──けれどそれは決定的な違いだった。
 悠人が力を得て戻ってくることよりも、自分が忘れてしまうという恐怖のほうが強かった。
 ……今、何も出来ないのは、自分のほうだ。
 悠人は間違いなくエターナルになる道を選ぶだろう。もう一度、その手に剣を執るだろう。
 それをどうして止められようか。同じ、仲間を護るために戦う者として。
 ──それでも、この心は彼を求めて止まない。
 でもそんなこと言えない。そんなのは彼を困らせるだけだと、分かっている。
 分かっている、はずなのに。
 ならば自分はどうして、今こんなにも必死に剣を振るっているのか。
「は、ぁ──」
 手から、〈赤光〉が滑り落ちた。もう力が入らなかった。連動するように膝が折れ、ヒミカはその場に座り込んだ。
 荒い息に合わせ、額から滴り落ちる汗が、地面に染みを作っていく。
「……私は、」
 ユート様と一緒に、いたい。それが今の偽らざる願い。戦士ではなく、『ヒミカ』としての。
 なくしたくない。この想いを喪いたくなかった。罅割れてしまいそうな心臓を、服の上から掴む。
 生まれて初めて抱く、切なく哀しい感情が、ヒミカの心を締め付ける。
 この感情がきっとそうなのだと分かっているが故に、尚のことその強さが呪縛となる。
 
「ユート様、私は、あなたを────」