黎明

プロローグ

――朝の日差しが私を揺り起こした。
 カーテンの開けられた窓からは柔らかな太陽が覗いている。
 時折耳を掠めるのは、軽く窓を撫でる風と一日の始まりに歓喜する小鳥の歌。
 ゆっくりと布団から抜け出すと、未だぼんやりした頭とふらふらと左右に揺れる身体を
引きずって階段を下りる。
 明るい日の差す居間からも、清潔なテーブルが佇む食堂からも、誰の声も響くことは無い。
古いけれど手入れの行き届いた食器棚も、鮮やかに着飾った庭の草花を見渡せる
大きな窓も、今にも動き出しそうな躍動感を持ちながら朝の静謐な空気の中でじっとうずくまっている。
(まるで自分一人だけ別の世界に紛れ込んだみたい…)
 居間と食堂の境界でぼうっと立ち尽くしたまま私はそんな事を考える。
(自分でご飯作ったりお洗濯しなきゃいけないな…)
 ひとりぼっちが何より嫌いなのに、のん気な事を…――頭の隅から聞こえる。
 そりゃそうだよ、ともう一人の自分に反論する。
 だって、例え誰も居なくなっても、例え何所に行ったとしても――

「あら、おはようニム。朝ごはんもうすぐ出来るから、着替えて顔を洗っていらっしゃい」
「…ん、おはよ、お姉ちゃん」

――お姉ちゃんがいつも私の側に居てくれるから。

 食後のお茶を飲みながら、隣に座ったニムをちらりと見る。猫舌なのでお茶が冷めるまで
待っているのはいつものことだが、普段ならば昨日あったことや読んだ本の事など、何かしら
話しかけてくるのだけれど、今朝はなにやら呆けている。
――飾り気の無い白磁のティーカップに注がれたお茶に映る自分の顔とにらめっこしてみる。
 そんな自分の行動に違和感を覚え、なんとなく苦笑いが浮かぶ。
 そもそも違和感なんてこの館中に満ち溢れている、とようやく気付いたから。
 いつもは少々騒がしい朝の食堂も、今朝ばかりは静かな空気が流れている。
 この第二詰所のメンバーは皆サルドバルドとの戦争に出払っているため、先日ようやく
別任務を終えた私達だけ。
 考えてみればこの広い詰所に二人っきりになったことなどなかった。朝食の用意をしている時に
妙に台所が広く感じたのはそのせいだったのね、と一人納得する。
 再びニムに視線を戻すと、ようやく飲める程度の温度になったカップに口をつけていた。
しかし依然として会話は無い。一見ぼーっとしている時のニムは、本当にぼーっとしているか、
何かに対して神経質になっているかのどちらかだ。
 後者であっても無理はない、と私は胸の中で呟く。
 ラキオスがついに戦争を開始したこの状況に加え、今日は本隊に合流するためラセリオ方面から
イースペリアに進軍しなければいけない。そしてこれはニムにとって初陣でもある。

 かちゃり、とカップをソーサーに置かれる音を聞く。ニムのティーカップも私とお揃いだ。
ニムのは白磁に小さな赤い花が、私のには青い花が描かれていて、以前街で一目惚れし、
エスペリアに頼み込んで備品として購入してもらった私のお気に入り。
 ヒミカやセリアなどには、少女趣味ねぇ、とからかわれたものだが。
 ふと視線を上げてみるとニムがこちらを見ていることにようやく気付く。
「お姉ちゃん、いつ頃出よっか?」
「そうね…準備して戸締りしてからだから…一刻後くらいかしら」
「ん、わかった」
「二階の戸締りはよろしくね。私は下の片付けと戸締りするから」
「うん」
 そう言うとニムは席を立った。
 食堂を出て行く背中を見ながら私は僅かな不安を覚える。
 軽い仕事を頼まれたニムは面倒、といつもの口調で返し、私は軽く笑いながらそれを
嗜める、といったやりとりを期待していたのだ。
(やっぱり神経質になってるのかしらね…)
 少し温くなってしまったカップに口をつける。
 エミナの葉から淹れたお茶の香りが鼻腔をくすぐるのを感じ、軽く嘆息する。
「…神経質になってるのは私のほう、かな」
 ニムは初めて戦場に出る。
 つまりそれは一度も私が戦場に立っている姿を見たことが無い、と言う意味だ。
 もちろん多少の小競り合い程度の戦闘は幾度か共にしたこともある。
 そんなものは戦場とは言えないし、私も本気で戦っていたわけではない。
 しかし、戦場の私は、別人だ。それを見たニムは私をどう思うだろうか?
 今度は少し深くため息をつく。エミナの葉のお茶には香りも味も爽やかな甘味がある。
 それは発酵させることにより生まれる甘味で、生のままのエミナの葉は素晴らしく苦い。
 そんな二面性が私に似ているから、と言う訳ではないけれど私はこのお茶を好んだ。
 残ったお茶を飲み干すと、私も立ち上がった。

――今日もエミナのお茶だったな。
 行軍用の荷造りをしながら、私はそんなことを考えている。
 お姉ちゃんが戦場に出る前は、必ずエミナのお茶を淹れる。
 エスペリアが、エミナのお茶には心を落ち着かせる働きがある、って言ってたからだろうか。
 今朝のお姉ちゃんは少しおかしかった。
(優しいのはいつものことだけど、普段以上に私の顔色を窺っていたみたいだし。
…私も色々考えることあったから口数が少なかったけど)
「えっと、代えの戦闘服と下着と、パジャマと、雨具と…ブラシはお姉ちゃんと一緒で良いし…」
 多分、私に戦っている姿を見せたくないんだろう。
 しかし間接的、とは言え一応知っているのだ。
 ヒミカからは何度もお姉ちゃんの活躍を聞いていたし、哨戒任務中にその片鱗は見ている。
 実際に見たとしてもお姉ちゃんはお姉ちゃんだし、多分格好良いな、と思う程度だろう。
 それに――
「…かさばったり重かったりするものはダメって言われてるけど…本持って行っちゃダメかなぁ…」
――そもそもそんな事で、私がお姉ちゃんを嫌いになったりするはずがないのに。
 思わずくすっと笑みが漏れる。そんな心配性で優しい所がお姉ちゃんらしい。
「…うん、一冊くらいなら持って行っても怒られないよね」
 枕元からヒミカに借りた読みかけの本を手に取り、鞄の中にしまう。
ふと、以前読んだ植物図鑑の一文を思い出す。
――エミナの葉は発酵させたものがお茶として広く親しまれているが、
生の葉は傷薬として重宝されている薬草でもある――
部屋の窓が閉まっているのを確認すると、私は他の部屋の戸締りをするために部屋を出た。

本の背表紙には真っ赤な文字でこう書かれていた――『紅蓮の剣』