反転

――最初から、何故か気に入らなかった。

「今日からこのスピリット隊の隊長になった、高嶺悠人。ユートでいい、宜しくな」
そう自己紹介して頭を掻きつつ愛想笑いを浮かべている長身黒髪(注:ぼさぼさ)の男。
わたしと同い年位だろう。先日我が国に降臨したというエトランジェ。永遠神剣第四位、『求め』の持ち主。
歴史上世界を割るような戦いを繰り返してきた無骨な鉈を肩に担いだその姿からは、
しかし戦いに身を措く剣士としての緊張感や風格といった物が微塵も感じられなかった。
こちらの顔色を窺うような緩みきった(そう見えた)表情から、卓抜した知性などを有しているとも考え難い。
そもそも自分の力だけを信じて戦ってきたわたしは、その他人に媚びた(そう見えた)ような笑顔が嫌いだった。
一目見ただけで実力の底が見えたようなわたしは、顔に出さないように心の中だけでこっそりと溜息をついた。
これからこの男の指示を仰いでいかなければならない。それがただ物憂いと、単純に思った。

第一印象が確信に変わったのは最初の訓練の時。
「どりゃぁぁぁっっ!」
ただがなり立てているだけの声からは、気配を消すという剣士ならば当然の配慮も、
相手を威圧する鋭い殺気も、自らを高める為の気合ですら、微塵も感じられなかった。
剣を合わせてみれば、何の工夫も無くひたすら直線的に飛び込んでくるだけ。
おおよそ教えを受けた事も無い、全く素人の剣だった。これでは訓練にもなりはしない。
予想通り、という事がこれ程虚しく感じたのは初めての事だった。
「…………はぁ」
三合、あしらった後で『熱病』を収めた。見切りは早々につけるに限る。これ以上は時間の無駄だった。
一応礼儀として、一礼してから背中を向ける。次の練習相手を探すつもりだった。
「お、おい、どこいくんだセリア」
背中から、戸惑った様な声が聞こえてくる。しかしもう、返事をするのも億劫だった。
「……………………」
「ちょっと待ってくれ、俺、何かしたか?」
質問を無視して立ち去ろうと歩き出す。それでも男は慌てて追いかけてこようとしていた。
だんだん近づいてくる声。はっきり言わないと判らないのだろうか。イライラが募った。
「おいって、セリア!」
いきなり肩が掴まれた。思いのほか力強い手に驚く。しかし、不快感の方が遥かに上回っていた。
しつこい。これ以上、関わりたくない。そう身体全体で表しているのに、察しもしない。
なんでこんなに無遠慮なんだろう、この男は。拒絶されているのに気づかないのだろうか。
反射的にその手を振り解き、睨みつける。多少上目遣いになって初めて男の背の高さが気になった。
「これ以上は時間の無駄です。失礼します」

「な…………っ」
思っていた事を、その通りに、皮肉たっぷりな丁寧語で叩きつける。
それだけで、男の瞳に動揺の色が走った。だらしない。そう思った。
返事が無いのを確認して、再び背中を向ける。今度こそ、開放してくれるだろう。そう思った時だった。
「ちょ、ちょっと待…………おわぁっ!」
「え…………?」
慌てた声が背後からした、と思う間も無い。わたしの頭はがくっと勢い良く後ろに引っ張られていた。
「………………いっ!!」
思わず、声が漏れる。突き抜ける様な激痛が髪と首に同時に走った。一体何が。ってこの男が何かしたのだ。
多少涙目になりながら振り向けば、やはりというかわたしの髪を引っ張ったまま、男が冷や汗を浮かべていた。
どうせ躓いたか何かして、咄嗟に掴まったのだろう。頭の隅ではそう冷静に分析していた。でも。
この髪は、まだ誰にも触れさせていなかったのだ。密かに自慢している、枝毛一つ無いウェーブ。
目と同じ色のやや癖のある青髪は、長く伸ばすのだって艶を保つのだってそれなりの努力がいる。
お気に入りの黄色いリボンで束ねるのだってコツがいる。幼い頃から大事にしてきた、たった一つの楽しみ。
ずっと一緒に居たアセリアにも、もちろん他の仲間にも、戦いの最中に措いてさえ、誰かに触らせた事などない。
それほど丁寧に気を使ってきた自慢の髪なのだ。それをよりによってこんな男に。大切な物を穢された気分だった。
きっと睨みつけて、意識した低い声で。今度はちゃんと殺気も篭めて。最後の理性だけは保って、敬語で囁いた。
「…………いつまで掴んでいるおつもりですか?」

「あ、す、すまん…………」
狼狽する声は、どうやら謝っているらしい。それは、認めよう。だけど、そんな謝罪はどうでもよかった。
さっさと離せば良いものを、硬直しているのか未だその無骨な手は、わたしの髪を握ったままなのだ。
いいかげんにしてほしい。首の鈍痛が拍車をかける。そろそろ我慢も限界だった。
「触らないでっ!!」
「いてっ!!」
ぱんっ、と軽い音。思いっきり引っ叩いてやった。ようやく髪を開放した男がその手で頬を押さえる。
驚きで見開いた瞳がやや揺れていた。もう一度それを睨みつけ、わたしは無言で歩き出した。
「お、おいセリア…………」
何か言いたそうな声が聞こえてくる。それでもさすがに追いかけてくる気配はしない。
もう名前を呼ばれるだけで不快な気分だった。わたしは声を無視してその場を離れた。
今更ながらに手がじんじんしてくる。そのむず痒い熱さがより不愉快さを煽った。
離れてから、ふと手の平を眺める。そういえば、と思った。男を平手打ちしたのなんか、初めてだな、と。

それから暫く、第二詰め所は何故かあの男の噂で持ちきりだった。
まぁ、判らなくもない。女ばかりのスピリット隊に、初めて男の部隊長などを迎え入れたのだ。
訓練士などは周囲にいるものの、これが異例の事なのには変わりが無い。
彼女達もどう対処していいか戸惑ってはいるものの、概ねはこの状況を楽しんでいる様だ。
毎日誰かがエトランジェの情報を持ち帰っては夕食後のこの時間などに皆で語らっている。
その時ばかりは、さながら祭りかなにかのような、浮かれた雰囲気が詰め所内を満たしていた。
自分の感情はともかくとして、とりあえずわたしは任務に支障が無ければその程度は問題無いと思っていた。
ただし、関わるつもりは一切、無い。いつも一人雑談の輪から離れ、ハーブを楽しんでいた。
「ね~ね~セリア、知ってる?」
「…………は?」
何時も通りに訓練を終え、何時も通りに食事を済ませ、何時も通りにお茶の香りを楽しんで、
そろそろお風呂に入ってのんびりと明日の訓練内容でも考えようと思っていた時だった。
たまたま隣に座っていたわたしと同じブルースピリット、『静寂』のネリーが話しかけてきたのは。
小さい身体でいつでも元気一杯明るい彼女は、ある意味この第二詰め所のマスコット的な存在である。
あまり馴れ合いを好まないわたしにでも、あれこれと気楽に話しかけてくれる数少ない存在だ。
髪型が近いせいもあり、よく懐いてくれている。普段から洗髪料やカットの仕方などを語り合っていた。
ちなみに彼女が今付けているリボンはわたしのお下がりだ。使ってくれていると思うと悪い気はしない。
仲の良い『孤独』のシアーの姿が見えない。どうやらそれで退屈になって、話しかけてきたという所か。
しかし今の今まで話題に入らず考え事をしていたわたしには、肝心の話の流れが見えていなかった。
なのでてっきり共通の話題である髪に関しての事かと油断すれば、飛び出してきたのはあの男の名前だった。

「も~、だから、ユートさまの事だよ~。あのねあのね…………」
ネリーの言葉は途中から聞こえなくなっていた。……さま?今、さまって言った?あの男を?わたしは耳を疑った。
そういえば、と記憶を辿ってみれば、なるほどわたしは自分からあの男の名前を呼んだ事が無い。だがそれにしても。
確かにあの男は部隊長だしおかしくはないのかも知れないけど、でもわたしの髪を触ったあの男をさま付け?
いやそんな事より、まさか自分もあの男を呼ぶ時はそういった敬称を付けなくてはならないのだろうか。
…………いけない、眩暈がしてきた。冗談じゃ無い。大体わたしはあの男をまだ部隊長とは認めていないのだ。
「セリア、セ~リ~ア~!」
「きゃっ……あ、ごめん、なんだっけ」
耳元で叫ばれて、我に返った。目の前にどアップで迫るネリーが不満そうに頬を膨らませている。
「も~、だからね、ユートさまって仕方なく、戦ってるんだって~」
「………………え?」
意外な話だった。言葉足らずなネリーの話は長くなったけれども、それでもわたしは根気良く聞いていた。
…………彼は、元々一般人だったらしい。それが妹を人質に取られ、止むを得ず神剣を握っている。
だからもちろん戦闘経験も無いし、剣術も部隊指揮も初めてである。話を纏めると、概ねこんな所だった。

振り返れば思い当たる節は幾らでもある。極々普通の人間並みな体力。剣術が稚拙な事。気迫も殺意も見出せない事。
――それらは、当たり前の事だったのだ。それでも彼は、あんなに必死に、わたしを捕まえて訓練をしようと…………
「…………ふんっ」
脇道に(それもまずい気がする方向に)逸れそうな思考を、鼻息で一蹴して懸命に奮い立たせた。
だからといって、今更彼を認める訳にはいかない。大体今のままでは隊長としてあまりにも頼りなさ過ぎる。
置かれた状況には同情するが、それとこれとは話が別だ。戦場では、弱い者から殺されるのだから。
それに、髪を掴んで傷めた事は、まだ許していない。なにしろ誰にも触らせた事がなかったのだから。

暫くしてネリーと別れたわたしは、そのまま浴場に向かった。丁寧に解いた髪を洗いながら、真剣に考える。
明日からの訓練メニューを考え直さなければならない。気に入らないけれども仕方が無い。
未熟な彼を鍛え直さないと、部隊全体が危うくなる危険性があるのだから。
髪の一件については、とりあえず保留という事にしておいた。

…………とにかく、彼は使い物にならなかった。
具体的に挙げれば、脇が甘い、剣先が鈍い、体重移動が遅い、動きに一貫性が無い、etc、etc……
つまり、どこから手をつけて良いやら、もはやメニューの修正などといったものでは追いつけそうもない。
訓練に自分から誘った事を、今更ながらに後悔していた。どうかしているとしか思えない。
「…………はぁ、もう結構です。今日はこれまでにしましょう」
溜息混じりに『熱病』を下ろす。するとやはり、彼がまだ構えたままの体勢で不思議そうに訊ねてきた。
「え?だってまだ始めたばかりじゃないか」
「もう充分判りました。今日はこれまでにしましょう」
もう一度同じ言葉でぴしゃりと言い放つ。すると今度は気のせいか、少し寂しそうな笑顔を見せた。意外だった。
「…………そうか、ごめん」
背を向けたわたしに諦めたような口調。何故そこで謝るのだろう。うじうじした態度が妙に癇に障る。
相手にしなければいいのに、そう思った時には、しかし反射的に振り返って一言言ってやろうとしていた。
だけど、それが間違いだった。ふにっ。妙な擬音と共に、鼻先を硬い針金の様な髪の毛が掠った。
「…………え?」
「……んんっ?!」
くぐもった声がその下から聞こえる。同時に胸の辺りが低く響いた。一瞬何が起きたか判らなかった。
「………………」
「ご、ごめんっ!!!」
ぱっと離れた彼が勢い良く前に出した手と首をぶんぶん振りながら、何かを言っている。
突然の事態に呆然としていたわたしの頭は、その情け無い顔を見ながら次第にクリアになっていった。

つまり、こういう事だ。
彼は、頭を下げていた。しかも、わたしの直ぐ後ろで。で、向き直したわたしの胸に、頭から突っ込んだと。
で、今度はそれを謝っているのだ、と。声の近さや内容をもっとよく判断していれば、確かに判る事だった。
深く考えずにいきなり振り返ったわたしも悪い。悪いけど。デモソンナ問題デハナイ。
つかつかつか。冷静に、冷ややかな視線を心がけ、大股で近づいた。怯える瞳を湛えて、彼の動きが止まる。
「セ、セリア?…………っ」
そして何故か、彼はぎゅっと目を閉じた。腕をだらんと下げて、やや俯き加減でじっとしている。
……ああ、そうか、わたしが手を振り上げた意味、ちゃんと判ってるんだ。覚悟はO.K.って訳ね。じゃ、遠慮なく。
了承したわたしは手加減無しで腕を振り切る。ばしぃぃぃぃぃん…………と平手打ちの音が辺りに響いた。

「…………痛ってぇ~~~」
「……ふんっ」
手形がくっきりと残った頬を押さえ、涙目で呟く彼を残して振り返ると、何事か、という視線を大量に感じた。
見ると、訓練場のあちらこちらで動きを止めた皆がこちらを見ている。とたん、かぁっと顔に熱が帯びた。
わたしは内心焦りながら、それを悟られないようにゆっくりと逃げ出した。恥ずかしさでいっぱいだった。
歩きながら、何故こんな思いをしなければならないのか、と腹が立った。建物の影に入った所でやっと壁にもたれた。
「はぁ~~…………なんでいつもいつも…………」
たった今叩いたばかりの手の平を、そっと眺める。赤く腫れていた。少し後悔を感じているのに驚いた。
軽く握って口許に持っていく。そっと唇を当てると、熱かった。頬の感触が蘇る。
「…………少し、やりすぎだったかな…………」
初めて胸を触られたっていうのに。そう思い返してももう、憤りも恥ずかしさもどこかへ行ってしまっていた。

不思議な事に、その後実戦に赴いた彼は、いつもちゃんと帰ってきた。
なんだか変な言い方だが、それほどわたしは彼が生き残れるとは思っていなかったのだ。
永遠神剣第四位、『求め』の遣い手とはいえ、その力をろくに引き出してもいない。
剣技は今だに未熟なままだし、体力も精神力も普通の人間と大差が無かった。

……今振り返ってみると、彼が不在の時、わたしはいつも落ち着かなかった様な気がする。
気が付けば窓の外をぼぅ、と眺めていたり、指先がせわしなく机をとんとん叩いていたり。

まだ戦闘配備に就いていなかったわたしは、戦いの経緯を後からただ報告として聞かされているだけだった。
そしてその戦闘詳報や帰ってきた仲間達からの口伝てとしての戦場しか想像する事が出来なかった。
その中には、もし自分がいれば、と思わずにはいられない場面も所々ある。
落ち着かないのは、それらが、ただじれったいだけだと思うようにした――彼を心配している、とは思いたくなかった。

――――考えてみれば、その時気付くべきだったのだ。
    「好きの反対は無関心」。不満がある、ということは、期待がある、ということ。
    関心がある時点で、もう可能性は芽生えてしまっている、というのに。

それから、毎日遅くまで、地図を広げる日々が続いた。
仄かな灯の下、爪を噛みながら、自分なりに色々と検討したりもしてみた。
たまに帰ってきた彼と、廊下ですれ違う事もあった。
そんな時、声をかけようとしても、足が勝手にきびすを返してしまう。
もやもやした何かが、常に邪魔をしていた。立ち去る後姿をこっそり振り返るのも躊躇われる程に。

そうして部屋に戻ってから、いつも決まって訪れるのは後悔と……失望。
――いったい何を期待していたというのだろう。
ばふっと身をベッドに投げ出し、天井を眺める。自分の感情が理解できなかった。
早く、戦いに参加したかった。そうすれば、もっと――もっと、なんだというのか?気が付けば、疑問が疑問を呼んでいた。

そんな訳で、サモドアへの出撃命令は、わたしにとってある意味待ちわびたものだった。
出発の前の晩は、中々寝付けなかった。いよいよ自分の力を試せるという高揚感。それが自分を昂ぶらせている。
そう思わずには冷静でいられなかった。油断すると浮かんでくる顔を、思考の隅から追い払う為に。