朔望

夜想 Ⅰ

 §~聖ヨト暦330年アソクの月黒いつつの日~§

「はぁ……」
ひっそりと暗い夜、静まりかえった部屋の中。悠人は片膝を立てたまま窓際に腰掛けていた。
窓の外をぼんやりと眺め続けている。相変わらず見慣れた星座は一つも見つからない。
月の色も少し青かった。それでも、満天の星空と大きく浮かぶ満月だけは元居た世界と変わる処はない。
一月をかけて回ってくる月の満ち欠け。こんな世界でも、それだけは同じ。
理不尽な世界に放り込まれ、孤独と不安に苛まれる中、唯一その事だけが心休まる事実だった。

…………そう、この世界に迷い込んで、もう一ヶ月。それとも、まだ、というべきなのか。
どちらにせよ起きた出来事は余りにも多く、そしてその殆どはろくでも無いものばかりだった。
正に悪夢とも言うべき時間。振り返るのも重過ぎる。だが夢は、醒める気配も無く続いている。
言葉さえまだろくに通じない別世界の中で、混乱するまま流され続けて。
もちろん考える事もやるべき事もいくらでもある筈。ただ今は、どうしても心が追いついてこなかった。

「佳織…………」
城の方角に視線を移す。そこに囚われているはずの妹。考えるだけで、焦燥が心を駆り立てる。
出来るものなら今すぐにでも駆けつけたい。あの忌まわしい、『エトランジェの制約』などが無ければ。
「くっ…………」
逸る心を抑える為に膝をぎゅっと握り締める。爪が肉に食い込む程強く、強く。
そうすれば、痛みが思い知らせてくれる。
自分は現実に、『ここ』にいるのだと。『この世界』が夢なんかじゃない、という事を。

軽く頭を振って迷いかけていた思考を逃がす。
鬱々とした気分を抱えたまま、もう寝ようと窓枠に手をかけて立ち上がったその時だった。

 ――――視界をなにかが掠めた。

何故そんなに慌てていたのか、後になってもよくわからない。
気付いた時にはばたんっ、と勢いよく窓を押し開けていた。

開かれた視界一杯に飛び込んでくる満月。先程と何の変わりも無い、満天の星空。
それらを無言で背負った森の一望。月に照らされてその闇を僅かながらも抑えている夜。
そんな蒼く淡白む風景の中。先程には無かったシルエットが浮かび上がっていた。
リクディウスの森の中でも一際高い大木の、さらにその先に佇む人影が。
いや、人ではない。第一、影には翼が生えていた。黒く翳る身に対称的ともいえる純白の羽。
身長をゆうに越えるであろう白翼が、月に負けない光を放って主を映し出していた。

――――そう、“彼女”は宙に浮かんでいた。
目は悪い方ではない。そしてこの世界が所謂“ファンタジー気味”なのもいい加減解っていた。
それでも自分の目が信じられない。それは、あまりにも非現実的な光景に思えた。

気が付けば、身を乗り出していた。そのまま暗闇に目を凝らしていれば、徐々に視界が慣れてくる。
逆光に浮かび上がる女性的なシルエット。その滑らかな境界線が少しづつ明瞭になっていく。
悠人は知っていた。その姿が正に妖精――アセリア達と同じ、スピリットのものなのだと。
ひゅう、と一陣の風が吹く。それに混じって微かに聞こえてくる音…………声。
耳に流れてくる空気の震えが徐々に旋律を形作るのが判る。スピリット――彼女は、謡っていた。
柔らかい、穏やかな抑揚。もちろん歌詞など理解出来る訳もないのに、何故か酷く懐かしく感じた。

月光が照らし出す黒蒼色の世界。その中で、少女は独り朗々と口ずさんでいた。
視線は軽く伏せられ、胸に当てた両手は紡がれる旋律を自ら抑え込む様に。
両肩からぼんやり伸びた白翼が軽く撓(たわ)み、その煌きで守る様に少女自身を浮かび上がらせている。
遠く近く澄み渡る声。淀みの無い音の波は静寂を優しく貫き、その波紋は穏やかに心に染み渡る。
そこだけが淡い光で包まれた空間。時折通り過ぎる風がロシアンブルーの髪を優しく静かに撫でて往く。

やや暗い白地に黒の紋章模様をあしらった中世的な衣装。腋から縦に僅かに施された臙脂。
深く刻まれたスリットから伸びたすらりと長い足は黒いオーバーニーソックスで覆われ、
胸元をそっと抑えた細い両手には銀色の手甲が光っていた。
そしてその腰から地上に向けて伸びている二紫の鞘。
収められているであろう神剣には無数のマナが細かく舞い散る。
やや細身の日本刀のような形状の剣が、何故か彼女にはとても相応しく思えて綺麗だった。
神を讃える戦乙女(ヴァルキュリア)。一瞬そんなことを連想していた。

ふいに、歌声が熄んだ。
少しづつ、うっすらと開かれていく少女の瞳。その眼差しが、微かに揺らいだ……様な気がした。
静かに湛えたような、深い海の様な鋼色の瞳。波紋を帯びた双眸がゆっくりとこちらに振り向く。
「~~~~!」
目が合った、と思った瞬間、強く窓枠を握り締めた。
体が全く動かない。いつの間にか煩い程激しい心臓の鼓動。
痺れたように働かない頭が警鐘を鳴らす。吸い込まれた目線が彼女から離せない。
しかし少女もそれっきり、動こうとはしなかった。
じっと見つめる瞳にかかる長い睫毛だけが時折風に震えている。
二つの視線が絡み合う。どちらからも逸らそうとはしない。

少しづつ失われていく距離感。悠人は少女がまるで目の前に居るような錯覚を覚え始めていた。
同じような事を考えていたのか、少女の整った顔が微かに揺れ動き、髪がたなびく。

どれくらい、そうしていただろう。

 ――――ひゅう……

穏やかな時間がゆったりと流れた後、軽い突風が夜気を薙いで静寂を破った。
それが合図だったかのように少女の翼が大きく羽ばたく。

「ま、待ってくれ!…………」
はっと我に返った悠人が初めて少女に声を掛けた時、その影は既に消え去っていた。
残された白い羽達が月の光に舞う。
次々と消えていくそれらの内の一枚が、風の徒(いたずら)か部屋へと迷い込んできた。
差し伸べた掌にそっと降り立つ一枚の白羽。やがて金色に還ったその羽から、微かに森の匂いがした。
向こうの世界と同じ、どこか懐かしい、瑞々しい香りだった。

呼び止めて、何を話すつもりだったのだろう。残された部屋の中で、悠人は暫く立ち尽くしていた。
開いた掌をぎゅっと握る。いつの間にかじっとりと汗ばんでいる手の平。
滲む様なその感触が、夢などでは無かったことだけを伝えていた。
窓から差し込む蒼い光に少しだけ目を向ける。
しかし当然彼女の姿は見えない。悠人は苦笑してベッドに寝転んだ。

眠気は意外と早く訪れた。
余計な思考も感情も洗い流された、こんな穏やかな深い眠りは久し振りだった。
もちろん、この世界に来てからは初めてのものだった。