朔望

夜想 Ⅱ

 §~聖ヨト暦330年ホーコの月赤よっつの日~§

レスティーナの私室から出てきたファーレーンは、一度黙礼した後静かにその扉を閉めた。
周囲に気配の無いのを確認してからゆっくりと歩き始める。城の中だろうが油断は出来なかった。

重鎮の中にはレスティーナ皇女に不満を持つ者達がいる。
現ラキオス王、ルーグゥ・ダィ・ラキオスを擁する一派がその最たるものだ。
彼らは必要以上にレスティーナ皇女が表に出るのを好んではいない。
どころか聡明過ぎるその「理想」を本能的に察し、自らの地位を守る為に彼女の失脚をも狙っている。
真に国を憂える一部の者を除き、ルーグゥ派は圧倒的な勢力を誇っていた。

力無い者程その保身には敏感だ。数が力だというのも、間違ってはいないのだろう。
しかし地位に伴っていないそれらの頭脳は、肝心な所がやはりというか抜けていた。
軍隊などの目に見える力だけを過信し、それさえ掌握しておけば安全と決めつけ、
レスティーナ皇女に対して情報部への干渉だけは残しておいたのだ。
官僚社会における典型的な“閑職”へにでも追い込んだつもりだったのだろうか。
しかしそれがいずれは彼らにとっての決定的な致命傷になる。
ファーレーンは、そう確信していた。

「理想」に賛同する者だけを残し、情報部は今や皇女の手中にあった。
ただ、新生してまだ間もない組織は未だ十分な機能を発揮する事が出来てはいない。
それよりもルーグゥ派が主流である現状、皇女の些細な動きも逆に致命傷になりかねなかった。
例えば情報部という本来人の行う部署に自分のような者が配置されている事。
それはスピリットをただの兵器としか考えられないルーグゥ派にとっては笑止としか取れない行動だろう。
しかしそれでもこの事実は漏れれば糾弾の材料にはされてしまう。
なぜならこの国、いやこの世界では、スピリットはただ指示に従って戦うものでなければならないからだ。
もしそれが自身の判断や分析などを伴っていると、例えば国民にでも知れればパニックになるだろう。
生命として、明らかに人より自己保存能力や攻撃・索敵能力に長けたスピリット。
それは操れると知ったればこそ、存在を許されるもの。
ある程度とはいっても自由を持たせて安心していられる訳が無い。
街を歩けばそれが良く判る。操る側の者が、操られる者を避けて通るのだ。
誰も疑問にすら思っていないその事実を、レスティーナ皇女の思考はいとも容易く打ち破った。
公に口にした事は勿論無かったが、ファーレーンはその理念をこう解釈していた。

 ―――― 人とスピリットの共存 ――――

ただ、理解しているという事と同意するという事はイーコールではない。
それが自分達にとって有益な事なのかどうか、そんなことはこの時のファーレーンにはどちらでも良かった。
主の命に従う。そして主を守る。それだけだ。だからこそ、警戒を怠ってはいけない。
唯一人、自分が今まで必死になって守ってきた大切な者の為に。

物思いに耽っていつの間にか辿り着いた部屋から僅かに灯が洩れていた。
少しの間自分の表情を確かめた後、そっとその扉を開く。
すると深夜にも関わらず、やはりまだ起きていたニムントールが振り返った。
「おかえりお姉ちゃん、遅かったね」
「ただいまニム。まだ起きてたの?」
「あ、別にお姉ちゃんを待っていた訳じゃないよ……その、神剣を手入れをしていただけだから」
そう言って、ニムントールは今まで床に放っていたらしい槍を慌てて持ち直す。
可笑しくなってきてくすくす笑った。そんな言い訳、しなくてもいいのにと思う。
「ニム、そっちは穂先、あぶないですよ。……ありがとう、待っててくれて」
「~~~~う、うん」
えへへ、と少し気まずそうに照れた後、ぽふっと胸に飛び込んでくる。
受け止めつつ、いつもと同じように髪を撫でながら訊ねた。柔らかい、日向のようなニムの髪。

「どうしたの、ニム」
「だって…………お姉ちゃん、どこ行ってたの?」
「ごめんね、ちょっとお城の用事が長引いちゃって…………さ、もう寝ましょう」
「…………うん、わかった」
やや不安げに見つめた後、大人しく着替えて布団に入るニムントール。
その間に兜を脱ぎ、ふわさぁと開放された髪を軽く解した。
『月光』を傍らに置き、ベッドの脇に跪いていつものように彼女の手を軽く握る。
「へへ…………お姉ちゃん………………」
ニムントールの寝息がゆっくり静かなものに変わっていく。
見届けながら、小さくごめんね、と呟いていた。

ニムントールが寝静まったのを確認した後、起こさない様静かに部屋を出た。
そのまま詰め所の外、リクディウスの森の中へと足を踏み入れていく。
いつも独りで考えたいことがあると必ず訪れる場所。森の中でも一際目立つ大樹。
仲間内で「陽溜まりの樹」と呼ばれているその樹の幹に手を当てそっと目を閉じる。

  ――――必ずエトランジェを守ること――――

『ただし、これは極秘裏に行ってもらいます』
『他言は無用です。もちろん、スピリット隊にも内密です』
『一方情報部としての活動も同時に進めてもらいます』
『その交換条件としてのグリーンスピリット・ニムントールの戦場への参加の遅延を認めます』

皇女の言葉が次々と思い出される。
これまでの内部諜報活動とは全く違う性質の密命。
それは明らかに、「戦争」が発生する事を前提としたものであった。
もしかしたらニムントールが戦場に立つ時期がもう直ぐそこに来ているのかも知れない。
他のどんな事態よりも、それが憂鬱だった。
重く、霧のように積み重なる不安が心に根を下ろし始めていた。

色々と浮かび上がる憶測や考えを追い払うように、ファーレーンは少しだけ息を止めた。
心と背中の中間にすっと精神を集中させる。それだけで、背中に白翼が展開した。
ふわさぁと闇に映えるそれをゆっくりと羽ばたかせ、大樹の更に上へと浮かび上がる。
そこで彼女はいつもの様に胸元に手を当てつつ、瞳を閉じて詩を口ずさみ始めた。
遠くラキオスに伝わる、深く静かな愛想曲(セレナータ)。詩の意味はよく判らない。
それでもいつも心を鎮めてくれる、ファーレーンにとっては魔法の詩だった。

 ―――サクキーナム カイラ ラ コンレス ハエシュ
      ハテンサ スクテ ラ スレハウ ネクロランス――――

ふと先日目の合った青年を思い出す。思えば彼がエトランジェだった。
正直、とても救世主と呼ばれる存在とは思えない。頼り無さそうで、何か欠けている様で。
それでも……何と表現したら良いのだろう。そう、まるで、吸い込まれるような眸の持ち主。
そんな「人」を見たのは初めてだった。彼を守るのだと思うと不思議に少し気分が軽くなる。
「確か…………ユート、様…………」
先程聞いたその名前を口に出して確かめてみる。
すると突然何かがこみ上げてきて、気付いた時には詰め所の方角に振り向いていた。
今、彼の部屋の窓は暗く閉ざされている。もう寝ているのだろう。
なんとなく寂しくなってきて、腰の鞘へとそっと手を添えてみた。
呼応した『月光』が、リィィィン――と柔らかい音を立てて震えた。

やがてファーレーンは静かに森へと降りていった。少し欠けた月の綻びが見守る闇の中へと。