§~聖ヨト暦330年エクの月青みっつの日~§
荒れ狂う咆哮。殺意というよりは、純粋な怒り。
肌を圧する苛烈な力は最早竜巻などという比喩では追いつけない。
凶暴な息吹(ブレス)を受けながら、悠人は懸命に折れそうな自分自身と戦っていた。
魔龍サードガラハム。
初陣を覚束無くも辛うじて勝利で収めた悠人が次に受けた命令、それはラキオスに棲む異種族の討伐だった。
元いた世界ではファンタジーでしかお目にかかれない代物。リクディウスの門番とも言われるその存在。
出撃前に“謁見”したラキオス王の下卑た笑いが思い出される。
「エトランジェよ、無論やってくれるな?」
断る事が出来ない者への嫌味な物言い。切れそうになった悠人が何とか堪えられたのはエスペリアのお陰だろう。
「いまは耐えるときです。カオリさまのためにも……ユートさまのためにも……」
ただその一言が、踏み止まらせた。しかし同時に、後にも引けなくなっていた。
そして今、握っているもの。一見ただの骨董品に見えなくも無い『求め』という名の無骨な金属の塊。
何らかの理由で休眠していたその意志を、悠人は先日の戦いに於いて逡巡の末目覚めさせた。
ただ、佳織を救う為に。それが引いては自分自身の為なのだと言い聞かせて。
アセリアの『存在』を介して接触(リンク)した悠人の精神に響いた第一声は、
『我は力。求める者に力を与え、代償を求める』
――そうして覚醒したこの永遠神剣は、しかし悠人にとってはとんでもない代物だった。
力には、代償がある。失わずに得られるものなどない。元いた世界で大人達に嫌という程教わった法則。
初陣を思い出す。自分とそう歳の変わらない少女達との殺し合い。倫理観とかそういった綺麗事ではない。
ただ単に、怖かった。剣を振るう度に押し寄せるイヤな予感。自分が何かに飲み込まれる様な感覚。
悠人は遂に、一人の敵も殺める事が出来なかった。勝利が仲間のおかげだったと気付いたのはずっと後の事だ。
「代償」がなんであるのかは、すぐに解った。マナを得る事。その為にだけ囁く『求め』の呪詛。
以前からずっと聞こえていた不愉快な声の正体。それが、「神剣の干渉」だった。
神剣に、国などという概念はない。ただひたすら血と殺戮を求め、そのマナを啜る。持ち主に、それを強いる。
先日も僅かな隙を突かれ、アセリアやオルファリルという一緒に住んでいる仲間達を襲いそうになったばかり。
あの時はなんとか凌いだが、逆にそれ以降『求め』は全く沈黙し、悠人はその力を引き出せないでいた。
そして今。圧倒的過ぎる力を前に、悠人は再び『求め』の力に頼らなければならなくなった。
死なない為に。失わない為に。そしてもしかしたら、倒れている仲間の為にも。
『小さき者たちの都を火の海としよう』
その一言が、悠人の心の最も柔らかい部分に深く突き刺さる。灼熱。怒り。そうしてエトランジェは目覚めた。
しかしそれらの想いにようやく応えた『求め』を得ても、なお守り龍――サードガラハムは強すぎた。
「このっ!バカ剣、もっと本気を出せっ!!」
ともすれば飲み込まれそうな意志と吹き荒れるブレス。叫びながら、悠人は内外の脅威と必死に戦っていた。
魔龍の咆哮が一瞬熄む。その隙を突いて、一気に間合いを詰めると渾身の力で斬り付けた。
「うおおおおおっ!!」
がぎぃぃん、と硬い音が洞窟内に響く。弾き返された『求め』の勢いで悠人はよろめいた。
サードガラハムの目がぎょろり、と赫く燃え上がる。鋼の様な“鱗”には傷一つついてはいない。
『…………その程度で我に歯向かうのか、小さきものよ』
深く殷々と刺し貫く守り龍の声。
開いた翼が狭い洞窟の内壁に激突し、岩石の雨が降り注ぐ。撓らせた巨大な体躯が更に大きく膨らむ。
ブレスの予兆。身体が硬直するのが判った。避わせない。
「…………むぅっ」
そう思った時、魔龍の気配が一瞬小さくなった。
「うわあああああっっ!!」
考えも何も無い。“斬れ”なければ“刺す”しかない。十数メートルの高さを一気に跳躍する。
胸の辺りに取り付いた悠人は夢中で『求め』を逆手に持ち、その心臓目がけて深々と刺し貫いていった。
「与えられし苦痛を、与えし者に返せ…………!」
先程から、見られているのは判っていた。
黙殺されていたのは、いかに自分がサードガラハムにとって取るに足らない存在かという事の証明。
もし立ち向かえば造作も無く踏み潰されるだけだろう。
だから自らは動かず、ただ見守っていただけだった。
しかしそれでも悠人が危険だと判断した時。
自分でもよく判らない力に後押しされて、無意識のうちにファーレーンは飛び出していた。
無我夢中で放った神剣魔法は『月光』の力を半分も使ってはいない。
アイアンメイデンが龍の視界を捉えたのは、ただの偶然だった。
制御も出来ず放った黒い槍の内の一本が、たまたま門番の眸に飛び込んだだけ。
だが結果的にそれで動きの止まったサードガラハムは、『求め』に刺し貫かれてあっけなく絶命した。
幸いにして、自分の存在は悠人達には気付かれなかった様だ。
立ち去り際に、そっと溜息をつく。『月光』に飲まれたマナがまだ回復しきっていない。
ファーレーンは意識してゆっくりと歩きながら、懸命に自らの心を制御しようとしていた。
先程の行動は、ただ皇女の命令を遂行しただけに過ぎないと何度も自分に言い聞かせて。
雲間に欠けた月が覗いていた。
「そういえばあのユートって奴、“守り龍”を倒したらしいね」
「え…………?」
ゆったりと窓の外を眺めていたファーレーンは唐突な妹のセリフに振り返った。
「ニム、それどこから聞いたの?」
「やだそんな怖い顔をしないでよお姉ちゃん。オルファリルが言ってたんだってば」
「そ、そう…………」
誤魔化す様に手拭でそっと顔を拭く。そんなに険しい表情をしていたのだろうか。
それにしてももうここまで伝わっているとは……情報部の在り方に疑問を感じてしまう。
「……もしかして、知らなかったの?」
怪訝そうなニムントールの表情に、はっと我に返る。
(……いけない。王城に行っていた事になってるんですよね)
「えっとほらニム、そろそろ上がりましょう、のぼせちゃうわよ」
ざばぁぁ。ファーレーンはやや慌てながら、湯船から上がった。
透き通る様な白い肌に水滴が流れる。身体全体が湯気に当てられてほんのりと赤みを差していた。
戦士とは思えない程滑らかな背中の曲線を伝い女性的な丸みを帯びた臀部へとこぼれ落ちる雫。
ニムントールが暫くじっとその様子を見つめていた。
「…………なに?」
妹の視線に気付いたファーレーンが心持恥ずかしげにその形の良い胸元を隠す。
「…………お姉ちゃんってスタイルいいよね」
「え?……いきなりななななにを言うんですか!」
ぼっと火のついた様に顔中真っ赤になったファーレーンを更にしげしげと眺めながら、
からかうように上目遣いで覗き込んだニムントールが続ける。
「う~んニムもいつかこんなになれるのかなぁ」
「~~~~っ!ニ~ムぅ~…………いいかげんにしなさいっ!」
ばしゃぁぁっ。羞恥か怒りか最早全身桜色のファーレーンはニムントールに湯を浴びせた。
「わっ!ご、ごめんなさい~っ!」
「こら待ちなさい!ニム貴女、またユートさまの事を呼び捨てにしてましたねっ!」
「だってユートはユートだもん…………ってちょ、ちょっと怒るのはそこなの………がぼがぼ………」
妹とじゃれ合いながら、ファーレーンはふと窓を見上げた。
今日初めて自らの意志だけで神剣を目覚めさせたエトランジェの少年を思い出す。
彼はこの夜を、一体どのように過ごしているのだろうか。同じ月を、見上げているだろうか。
そんな事ばかりが頭に浮かんでは消えた。ラースの月も、また欠けていた。
風に流れる分厚い雲が月を覆い隠していく。
僅かに差し込まれていた光が失われると、とたん部屋に湿った闇が満ちた。
きぃぃぃぃーーん…………
硬い、鋭い金属音が頭の中にだけ響く。錐の様に貫く痛みが全身をばらばらにさせる。
ベッドに腰掛ける事すら出来ず、悠人は部屋の中央でのたうち回っていた。
灯の無いはずの部屋にぼんやりと立ち込める青白い霧。『求め』の放つ禍々しい波動。
洞窟からの帰途エスペリアを押し倒した時の衝動が、磨かれた棘のように心の中を駆け巡る。
『マナ…………マナだ、契約を果たせ……』
頭を掻き毟り、額を床に打ち付ける。破れた歯肉から鉄の味がする。必死で床にしがみつく。
神経を剥き出しにされながら、自分自身は掴めない。感情だけが内から爆発しようとする。
ありったけの力を込めて、それでも搾り出すのはしわがれた悲鳴だけ。
「く、ぐっ……ぐぉあ…………」
掻き毟った爪が割れ、鮮血が滲む。脂汗が額を伝って床に染みを作った。
数刻後。潮が引く様に痛みが治まる。再び訪れる静寂。
汗まみれの全身が気怠い。時折こめかみに走る鈍痛がまだ生きていると実感させる。
「はぁっ、はぁっ、はぁ…………」
ようやく規則正しく吸い込む空気。ぼんやりしていた視界がゆっくりと戻ってくる。
「あ………………」
ふいに、温かいものが頬に触れた。
纏わり付くような澱んだ闇は退けられ、何時の間にか窓の外に浮かぶのは欠けた月。
月光がこんなにも温かいとは知らなかった。重い体を引き摺ってふらつきながら窓際に立つ。
そこに救いを求める様に。何を探しているのかも解らないまま。
『異界の小さき者よ。汝は何を求めて戦うのだ?』
サードガラハムの問いかけが耳に重く響く。しかし未だ虚ろな頭は何も考えられそうもなかった。
どんよりと重そうな雲は、今はもうどこかへ消え去ってしまっていた。