朔望

円舞 Ⅹ

 §~聖ヨト暦331年スリハの月緑ふたつの日~§

先程まで青い妖精が立っていた場所に、ふわさぁ、と金の粒子を纏った純白の翼が広がる。
静かに立ち上がったファーレーンは、『月光』を左手に持ち直すと、ぐいっと口許の血を拭った。
視界の先には、今の今まで味方の勝利を疑っていなかったレッドスピリットが、呆然と立っている。
味方の巻き添えを恐れたのだろう、神剣魔法の詠唱さえ中断していたその姿は、完全に無防備だった。
猛然と殺到するファーレーン。慌てた敵が、間に合わない、と悟ったのか、手にした槍で応戦しようとした。
「…………そんなものでっ!」
叫んだ口の中に鉄の味が広がる。あれ程近づけなかった距離が、みるみる縮んでいく。
あっという間に間合いに入ったファーレーンは、一瞬右にサイドステップをした。
敵を見失ったレッドスピリットの瞳が僅かに泳ぐ。その隙に、ファーレーンは右手にマナを集中させた。
ぽうっと黒い光が手元に集まる。そしてそのまま右手を手刀にして相手の首に叩きつけた。
「………………っ!」
レッドスピリットは喉元から鮮血を迸らせ、無言のままゆっくりと倒れた。


「…………ふぅっ」
最後のマナを使い切ったファーレーンは、その場に倒れ込みたい衝動を懸命に抑えた。
左肩がずきんっと激しく痛む。当分、動きそうにも無かった。
ブルースピリットに斬りつけられた利き腕は、思ったよりも深手だったようだ。
当然剣など振れない。もしそのブラフに気付かれていたら、こう上手くは行かなかっただろう。
最後に放った手刀に篭めたマナも、自分自身を削って捻り出した物だ。
回復するまでには、まだ少し掛かるだろう。『月光』も完全に沈黙している。
ファーレーンの傷を回復させる為に全力を挙げているのだ。つまり、もう余力などなかった。
「……ユートさま」
それでもファーレーンは歩き出した。倒れている悠人の元へと。


「……どいて……下さい!」
よろよろと、それでもしっかりと睨みつけるファーレーンに、残りの稲妻部隊がおずおずと道を開ける。
鬼気迫る、鋭利な刃物のような迫力に誰も一言も声を発することが出来なかった。
「…………」
やがて震えたまま槍を握り締めたグリーンスピリットの側まで辿り着く。
まるで何もかもを失ったかのように呆然と悠人を見つめるクォーリンの横顔には、明らかに後悔の色が浮かんでいた。
その表情を「視た」途端、ファーレーンの右手は無意識に動いていた。

――――ぱんっ!

軽い、乾いた音が響いた。
驚き、今やっとそこにファーレーンがいた事に気付いたかのようにクォーリンが顔を上げる。
ファーレーンは、しっかりと意志の光が籠められた瞳で真っ直ぐに彼女を見つめ返した。
「こんな……無意味なことを……」
「な……!」
じん、と痛む頬を抑え、何かを言おうとしたクォーリンを一瞥し、ファーレーンはそのまましゃがみ込んだ。
悠人の首筋にそっと手を当てる。まだ息がある事を確認し、やっと安堵の息をついた。
「……貴女の主は、こんな事を望んだのですか……」
振り向きもせず、そう呟く。それだけで、ぴくっと身を震わせる気配。
そんな背後の気配に言いようの無い怒りとやるせなさ、そして哀しみが満ちてくる。
「助けなさい……今すぐ! 大地の妖精の名にかけて!」
きっと振り返ったファーレーンの瞳から、大粒の涙が弾けとんだ。


気圧され、弾けるように立ち上がったクォーリンが、慌てて詠唱を始める。
「木漏れ日の光、大地の力よ、この者を……っ……癒せ!」
緑色の柔らかいマナが悠人を包み、次第に血の流れが止まり、傷口が塞がってゆく。
それを見届け、ファーレーンはその場にぺたり、と座り込んでしまった。
深い溜息を漏らし、緩んだ感情をそのままに振り返り、クォーリンに微笑みかける。
「間に合った……ありがとう……ほんとうに、ごめんなさい……」
そうしてぺこりと頭を下げるその姿は、先程の迫力がとても想像できないほど女性的なものだった。

「貴女……まさか……」
ファーレーンと視線を合わせたクォーリンは、言いかけてぐっとその口を結んだ。
今更何を言っても始まらない。……自分の、戦いは終わったのだから。終わってしまったのだから。

ミエーユの方角から、それぞれに稲妻部隊を退けたラキオスのスピリット達が駆けてくる。
確認したクォーリンは残りのスピリット達に武器を収めさせ、自ら降伏の段取りを始めた。
丘を降りる時にふと振り返ると、エトランジェを抱き抱えたまま座り込み、
未だにこちらに頭を下げているブラックスピリットの姿が見えた。

 ――――ほんとうに、ごめんなさい…………

エトランジェを刺し貫いた時の感触が、まだ手に残っている。
謝ってきた意味は未だに判らなかったが、思い出すたびに、ずきり、と胸が痛んだ。


 ――――――――

「あ…………?」
ぽたり。熱い雫が頬に当たる感覚。ぼんやりと浮かび上がる顔。次第にはっきりしてくる頭。
「っ! ユートさま……良かった……本当、に……」
「俺…………そうだっ! 今日子、今日子はっ!!」
がばっと身を起こす。と、脳裏に浮かぶ、消えていく今日子の微笑み。瞬間、悠人はその場にへたり込んだ。

「ユート、さま……」
沈痛な表情を浮かべ、言葉を捜しているファーレーン。彼女は気づいていた。
先程から、エトランジェの気配が他に無いことを。しかし今は、その仕草でさえ悠人には辛かった。
少しずつ広がってくる、悔しさ、悲しみ。やり切れない思いに、勢い良く地面を叩きつける。
「くそっ!!」

「…………っ!」
咄嗟に顔を背けるファーレーンが一言も発さないのを見て、悠人は自嘲的に笑い出した。
「ははっ……そうだよな、俺が……俺が、殺したんだ……」
がっがっ、と地面を穿つ拳。その度に削れていく心。壊れそうな叫びを、悠人はもう抑える事が出来なかった。
「っ違……!」
「違わない! 気づいてたんだっ! 光陰が、死んじまったって!……約束したのに! なのに俺は! 俺はっ!!」
ファーレーンの言葉を遮り、叫ぶ。皮が破け、血が噴き出した。それでも悠人は憑かれたように殴り続けた。

「誰が誰を救うって?! 何が世界を変えるだっ! デカい事言って、結局何をしたっていうんだっ……」
そうしてようやく止めた手は、真っ赤に染まっていた。悠人はその手をじっと見つめた。血に汚れた、手。
「また、殺しただけだ……この手で、スピリットも、友達も殺したんだ……」
がっくりと、肩を落とす。呆然と呟く瞳には、もう何も映し出してはいない。
「止められなかった……今日子も……光陰も……“俺”も…………」

「ユートさま……」
自分自身をひたすら責める、背中。いつもより小さく感じる背中。
絞り出すような叫びを聞き、ファーレーンの胸に、込み上げて爆発する熱い想いがあった。

「ユートさまは、間違ってはいません……」
俯いたまま、言葉が自然と零れる。共に戦うと言ってくれた。あの時の嬉しさは忘れない。
支えたい、と思った。支え合いたい、と願った。それは純粋な、真っ直ぐな想い。
純粋で真っ直ぐな、悠人の心に魅かれたから。それが間違っている、なんてことは、絶対に……ない。
自分だけではない。皆が何故、こうして悠人についてくるのか。悠人の何を信じているのか。
それを伝えたかった。笑顔を、思い出して欲しかった。自信を、取り戻してあげたかった。
だがそれよりも先に、ファーレーンは自分の感情を――――もう、抑えきれなかった。

気づいたときには、傍らの『月光』に視線を下ろしながら囁いていた。
「月光は……太陽の光を月が受け止めるもの。陽光が無ければ月も……輝かないんです」
虚ろな視線のままの悠人には、届いていない。それでもファーレーンは続けた。続けたかった。

「……ユートさま、ユートさまはわたしを紡いで下さいますか…………?」
思い詰めるような口調に、悠人が初めて顔を上げる。すぐ側に、涙に濡れたファーレーンの顔があった。
「ファー……?」
「ユートさまは何も変わっていません。今までも、そしてきっとこれからも。
 変わってしまったのはむしろわたしです。こんなにも気になってしょうがなくなったのですから……
 最初からずっと変わらない、弱くて、それでも強いままのユートさまの心が、わたしは………………」
震える指先が、悠人の頬をなぞる。涙の跡に感じる温かさ。

 ――――ナイハムート、セィン、ヨテト……ソゥ、ユート…………


 ざぁーーー………………


風が吹き、そして凪いだ。
「…………ごめんなさい、こんなときに」
ゆっくりと開く、深く静かに湛える瞳。映し出された自分の顔がそっと離れていく。
悠人は無意識に自分の唇をそっとなぞった。たった今、触れた温もり。微かにファーレーンの匂いが残っていた。
ぽた、ぽた、と一粒ふた粒、さざ波のように溢れる涙がとめどもなく零れ落ちてくる。
――――崩壊していく世界の中、その熱さだけが感じられる唯一だった。