胡蝶

Ⅰ-1

細い街道の両脇に突き出るように伸びた岩肌。鬱蒼と繁る樹木が続く谷間。
バーンライトの山並みは、その峰を天に突き出し、細く屹立している。
人を拒むかのような景色から視界を左に向ければ、僅かながらに垣間見える平原。
ただ、首都サモドアの名を模したそれは、残念な事にあまり目を休めるような材料にはなりにくい。
山脈の切れ間から遠望しただけの印象だが、その葉先がどれも皆鋭すぎ、丈も長すぎる。
全体的にやや茶色っぽくもあり、平原と呼ぶには草や木の温かみに欠ける様にも思われるのだ。

例えば、今来た道を振り返ってみる。そこに開けるのはリュケイレムの森。
贔屓目かも知れないが、そこには無数の広葉樹が脈々と生え、自然に落ち着いた穏かな印象を醸しだしている。
我が国ラキオスが所有している二大森林地帯の内、国の南側に位置しバーンライト王国との接点ともなるそれは、
豊富な水と柔らかい日差しに包まれ、私達スピリットにも青と緑のマナを常に分け隔てなく与えてくれていた。
何より森の奥深くに立ち入れば、殆ど人の姿を見かける事などはない。
戦いだけを許された存在として忌み嫌われている私達にとっては、そこは安息を感じられる数少ない憩いの空間なのだ。

ラセリオは、リュケイレムの森を抜けた先にひっそりと佇む国最南端の街である。
普段は何という事もない、目立った特長もないささやかな、村とでも称すべきこの街は今未曾有の危機に直面していた。
隣接するバーンライトへと続く山道。閉鎖されていたそれを打ち破り、彼の国のスピリット達が侵攻を開始したのだ。
宣戦布告して2ヶ月が経っていたが、戦いは専らサモドア平原の更に東にある、リーザリオ、リモドア方面に終始していた。

完全に、意表を突かれたと言ってもいいだろう。
自ら封じていた筈の山道をバーンライト自らが開放する事を想定していなかった我が国は、
リモドアを制圧した時点で目の前のサモドアに気を取られ、スピリット隊主力を全部そちらに集中させてしまっていた。
ろくに守備隊も置いていなかったラセリオは無警戒のまま放置され、そして今は無防備のまま敵の攻撃を受けつつある。
ここが陥ちれば首都ラキオスまでは一直線。戦争を主導してきた王族達は、防御に回る事態に至って今更のように狼狽した。
これから主力を割いても、敵領土であるサモドア平原を大きく迂回し、リモドアまで送る為には膨大な時間がかかる。
サルドバルト牽制の意味も含めて首都に控置されていた私達が急遽派遣されたのは、その時間を稼ぐ為であった。

ラキオスを発って丸一日。ようやく到着した私達は、早速部隊を編成し始めた。
もっとも編成といっても、元々予備隊として残されていたスピリットは少ない。
“人”の一般兵士は無数にいるが、スピリット同士の戦いに於いて役に立たないのはこの世界の常識だった。
彼らには向こうで既に、一番人当たりの良いハリオンが街の警護を依頼している。

わかっている、と言わんばかりの傲慢な態度で配置についた彼らを横目で見ながら、
臨時の部隊長であるヒミカの説明に耳を傾ける。心持ち緊張したような張り詰めた声だった。
「敵の数は不明。ただ、その侵攻ルートが判りきっているのは助かるわ。彼女達は、あそこから来る」
永遠神剣第六位、『赤光』を指揮棒代わりにびっと指し示す。その先、狭い山道の入り口付近に皆の視線が集中した。

「両脇は傾斜のきつい崖。生えている樹木の密度と高さから、ウイングハイロゥを使っての空からの奇襲もない」
ヒミカの指摘は正しい。私達ブルースピリットやブラックスピリットが得意とする空中戦は、この地形では非常に難しい。
飛んでみれば判るが、上空から敵の姿が捕捉出来ない視界の悪さでは、確実な攻撃が出来ないのだ。
滑空しての一撃は、避わされるとその隙も大きい。スピリットの集団戦闘でそれは致命的とも言えるだろう。
気配を探って一か八か、というのもあるにはあるが、それには同士討ちの覚悟が必要である。とても選べる選択肢ではない。

「いい、私達の目的は、あくまでも時間稼ぎ。決して深追いはしないで。攻撃も、神剣魔法主体で。いいわね、ナナルゥ?」
ヒミカの確認するような問いかけに、ナナルゥが黙って頷く。兵士達の説得から帰ってきたハリオンがその隣に立った。
広範囲の敵に対して神剣魔法を浴びせられるレッドスピリットは、ナナルゥ一人しかいない。彼女の負担は大きいだろう。
それを気遣ってか、微笑みながら何か話しかけているようだった。無表情ながら、ナナルゥもぼそぼそとそれに答えている。

「あ、あのぅ、大丈夫、ですよね?」
隣からか細い声をかけられ、振り返ると真っ青な顔をしたヘリオンが立っていた。
全身で不安を表し、永遠神剣第九位、『失望』を両手で抱え込むように握り締めている。肩が少し震えていた。
彼女は、スピリット隊に身を置いてまだ日が浅い。訓練不足のまま実戦に狩り出されたのだ、無理も無いだろう。
ましてや部隊は彼女も含め、これで全員。エスペリア達主力も、高位神剣の持ち主であるエトランジェもいない。
たった5人の戦力で敵の大軍を相手にするのだ。防ぎきれなければ死ぬ。彼女でなくてもある程度の悲壮感は全員にある。

「……大丈夫よ。無理しないで、私の側にいなさい。怪我をしたら、すぐにハリオンに頼むのよ」
「は、はいっ!」
先程のハリオンの様子を思い出し、出来るだけ優しく髪を撫でてあげてみた。
するとヘリオンはぴょん、と飛び上がるように気をつけの姿勢を取り、敬礼みたいな格好でぎこちなく固まってしまう。
そんな上官に際するような態度に、思わず苦笑してしまった。やはり自分には、こういう役は向いていない。
普段から他人と接することが苦手な私は、こんな場面で咄嗟に励ますなどという高度な芸当が出来ないのだ。
それでも、もっと上手に緊張を取ってあげたかったな、そう思うと、伝わらないもどかしさが少し寂しかった。
「みんな、来たわよっ!」
そんな感傷も、ヒミカの鋭い叫びに一瞬にして霧散してしまう。
私は永遠神剣第七位、『熱病』の柄に手を添えながら口元を引き締め、山道の入り口を鋭く睨みつけた。敵の姿が見えた。