紅蓮の剣

 レーズはその巨体に似合わぬ繊細な動きで、音もなく純白の峡谷に着地した。
 始まりの地のあるキハノレに至る道は、徐々にその幅を狭めている。
 左右に連なる山脈は、万年雪と合わせて天然の城砦だ。攻め入ろうとするなら、ここはかなりの難所となろう。
 もっとも今となってはあまり関係ない。先に潜むのは百の軍勢ではなく、一騎当千のエターナル六人のみ。
 あれだけの量を前線につぎ込んだ以上、この先雑兵はあまりいないだろうというのが時深の見立てだった。
 雪嶺の最奥から流れてくるマナは、肌をくすぐる熱として、徐々にその濃度を上げている。
 全員を背から降ろし身を起こしたレーズを、悠人は振り返った。
「ありがとう、助かった」
『良イ。我はアシュギスの言に従っタまでだ』
「なら、アシュギスにも伝えといてくれ。……それと、レーズ、ソスラスの皆を助けに行ってくれないか」
 この言葉に一番劇的に反応したのは光陰だった。表面上、いつも通りではあるが。
『……アシュギスからハ、最後マで汝等の供ヲせよと言わレている』
「いや、ここから先は、俺が始末をつけなくちゃならないことだ」
 悠人は首を振り、言った。
「瞬があんな風になって、世界が危機に陥っている責任の一端は俺にある。
 だから、俺があいつを斃さなきゃならない。お前達にまで、その命をかけさせることはできない。
 ……それにお前も、クロウズシオンのことが気になっているんじゃないか?」
 龍はわずかに目を見開いた。あの時、ソスラス上空での自分の言葉と行動から、この若き永遠者は何を読み取ったのか。
 レーズは悠人の後ろに並ぶ者達を見た。
 その目に、悠人に対する不信は微塵もない。いくらか諦めの表情が見て取れるが、それは理解ゆえの黙認だった。
 自分が抜けたことで減衰する戦力のことなどは、初めから思考の埒外にあるといったような。
 不思議な者達だ。レーズは思う。この者達は、この先待ち受けているであろうものに、絶望を一欠片たりとも抱いていない。
 それを、レーズは快いと認識した。深い絆で結ばれた、信頼と親愛と、そして力がそこにあった。

『……ならば、良かろウ。これヨり先の運命、汝等に全て預ケよう』
 レーズは岩の如き拳を前に突き出した。
『武運を』
〈聖賢〉と拳を打ち合わせ、レーズは背を向けた。最早振り返りもせず翼を一打ちし、一息でその身体を宙へ躍らせる。
 遠ざかる青い影を見送り、悠人は仲間達へと振り返った。

 白一色の世界の奥に、かすかに、キハノレの門が見える。
 道は緩やかな斜面を描き、雪は一層深く、悠人達の行く手を阻んだ。
「ちょっと、この雪量は異常じゃないか?」
 膝下までを雪に埋めて、隊の最前にいる悠人はぼやいた。
「マナの流れに乗って吹き降ろす風が、雪を運んできているのでしょう。もう少しの辛抱です」
 そう言うエスペリアの横で、今日子が隊を挟んで反対側にいる光陰に呼びかけた。
「ねぇ、あたしの雷撃でキハノレまでの雪、フッ飛ばしちゃうわけにはいかないかな」
「阿呆。んなことしたら雪崩になっちまうだろうが」
 呆れた様子で、光陰。ム、と今日子は口を歪めるも、事実なのだからしょうがない。
〈空虚〉の放つ稲妻には、当然ながら熱が伴う。
 全て吹き飛ばすならともかく、その熱と衝撃によって力を加えられた雪がどんなことになるのか、想像に難くない。
「……寒い」
 ニムントールが不機嫌そのものの声で呟く。今はファーレーンもその言葉を咎めない。内心、同じ気持ちであるからだ。
 皆それぞれマナの壁で寒気を凌いでいるとはいえ、そればかりに力を割くわけにもいかない。
 余計に力を消費するのは、先に戦いを控えている以上良いことではない。敵に感知される怖れもある。
 もっとも、どうであれ素通りさせてもらえるほど甘い敵でもないだろうが──

 悠人がそう思った直後だった。
「──ユート様ッ!」
 ヒミカの切羽詰った叫びと、身体が前に押し出される感覚は同時だった。
 冷たい雪に押し倒された足元を、超高熱の何かが横切っていったのを知覚する。
 声を上げる暇すらない。焦燥に駆られ振り仰いだ視界で、前に立ち、動こうとする皆を押し留める光陰の姿があった。
「立って! 前へ!」
 いつの間にか前にいた時深が、悠人と、一緒に倒れ込んでいたヒミカの手を引っ張り上げた。
 光陰が類稀な集中力で、刹那の間に最強硬度のオーラフォトンの壁を練り上げる。
 訳も分からず駆け出しながら、悠人は自分と光陰の間に、地上を横一文字に切り裂いた痕跡を見た。
 雪を溶かし、岩盤すら切り裂いたその傷口が、間を置かず灼けた鉄の赤い光を湛え──爆発する。
 左右の雪峰を右から左へ、切り裂いていった順番に、内に溜めた熱に耐え切れなくなって、大地が破裂する。
 ヒミカの叫びから爆発まで、全ては一瞬の出来事だった。
 背中を、マナを伴わない純粋な熱量と圧力が襲う。吹き飛ばされて三人は再び雪の中に突っ込んだ。
「っは、一体、何が──」
 起き上がった悠人の耳に不吉な轟きを聞いた。地獄の底から響いてくるようなそれは背後から。
 振り返ればそこにはもう誰もいない。二十歩先の大きく抉れた大地と、その向こうにもうもうと立ち込める雪煙を残しては。
「雪崩が──」
 ヒミカが唇をわななかせた。齎された正体不明の攻撃は、一瞬にして彼らを分断してしまった。
「まずい! 早く皆を助けに行かないと……」
 光陰が皆を護っていたから恐らく最悪の事態は避けられただろうが、ここは敵地のど真ん中だ。
 敵の意図は見え透いている。悠人達を分断した上で、確固撃破するつもりだ。
 加えて単騎最強のエターナルは二人ともこちらに割り振られた。早く合流しなければ、アセリア達が危ない。

「無理です。──来ました」
 時深が苦々しげに呟いた。言葉に前後して、悠人もヒミカも、痛いほどにその気配を感じ取っていた。
 三人とキハノレの門を結ぶ、その中点。遥か上空からそれが落ちてくる。
 視界を白色の瀑布が覆った。だがそれも一瞬。悠人達の頬を撫でて消え──代わりに高温の大気が鼻腔を灼く。
 その向こうに立っていたのは、お世辞にもまともな生物とは言いがたい『異形』だった。
 一言で言えば、それは毛むくじゃらの目玉だ。
 赤い球体状の身体に、縦に裂けた巨大な目が一つだけ。四肢はなく、下からは蠍の毒尾のような棘が突き出している。
 上には小さな王冠を被り、髪の毛なのか触手なのか、長い黒毛が二房、左右に伸びている。
 気づけば周囲の雪は全て溶けていた。極寒は灼熱に転じ、その熱源が今悠人達の前に立ちはだかっている。
 一瞬悠人の視界を奪ったのは、異形の着地と同時に水蒸気に転じた雪が、すぐさま周囲の大気に冷やされてできた霧だ。
 それすらも伝播する熱によって吹き飛ばされ、雪は溶かされ、蒸発していった。
 先程の攻撃の正体を悠人は悟った。上空から強力な熱線によって地表を焼き、一瞬で雪と岩盤を気化させたのだ。
「──業火のントゥシトラ。永遠神剣〈炎帝〉の担い手です」
 時深が警戒も露に身構えた。対し、異形はこちらを伺うように動かない。悠人は隙を作らぬよう視線だけを周囲に這わせた。
 奇怪。その一言に尽きた。ントゥシトラは悠人達から、三十歩ほど離れたところに浮かんでいる。
 ントゥシトラの発する熱によって一帯の雪は消え去っているが、その消え方がまずおかしい。
 ントゥシトラを中心に、雪は定規で測ったかのように、綺麗な正方形の形に消えているのだ。
 悠人達がいるのはそのうち一辺の中点であり、まるでリングの王者に挑む挑戦者のような格好になっている。
 間違ってないな、と悠人は熱気に乾きつつあった唇を湿らせた。あれは〈炎帝〉、業火を支配する王君だ。
 悠人は二人を庇うように前に出た。敵の出方が分からない以上、一番耐久力のある自分が壁になるべきだ。
「気をつけてください。『アレ』は体内に〈炎帝〉を取り込んでいます。
 そのため力を発揮するタイムラグがほぼないに等しい。隙を見出すのは容易ではないでしょう」

 ントゥシトラをアレ呼ばわりした時深だったが、それはひとえに性別が判然としないためだ。
 世界を渡り歩くエターナルにとって、奇怪な姿形のものと出会うことは少なくない。
 だがヒミカは、己の常識を超えた理解不能の造形に、より強い警戒を抱いていた。
「トキミ様は、あのエターナルと戦ったことがあるのですか?」
「直接目にするのは、これが初めてですね……ぶっちゃけ対策の立てようがありません」
 率直すぎる物言いに、悠人は脱力しそうになる。やる気を削ぐようなことは言わないで欲しかった。
「しっ、仕方ないじゃないですか! ただの場を和ませる冗談なんですからそんな怒らないでください!」
 逆ギレする時深を、ントゥシトラはふよふよと空中に身を漂わせながら眺めている。
 あちらも同様に警戒しているのか、もしかすると呆れているのかもしれない。
「……確かなのは、近接戦は危険だということです。
 ントゥシトラは〈炎帝〉の力で炎を手足のように操ります。また近づけば近づくほど、〈炎帝〉の影響力は増します。
 そしてそれを相手は理解している。今はいわば『待ち』の姿勢を取っている状態です。迂闊に手出しできません」
「とは言っても──」
 悠人は改めて自分達を見回した。三人とも得意なのはクロスレンジ。どうしても相手の懐に飛び込まねばならない。
 ヒミカの神剣魔法も、炎を操るエターナル相手では正直期待できない。
 唯一の遠距離攻撃は悠人のオーラフォトンビームだが、直線的な砲撃を甘んじて受けてくれるとも思えない。
「どちらにしろ、危険覚悟で飛び込まなきゃいけないわけか。腹、括るしかないな」
 後ろの二人に目配せする悠人。それだけで意図は伝わってくれた。
 前触れもなく時深とヒミカが飛び出した。大きく孤を描き左右から挟み込むライン。
 合わせて、悠人は剣先にオーラフォトンを収束させ、解き放つ。だがそれは直線的なものに留まらない。
 地面すれすれから上方向に薙ぎ払われた白光は、世界を区切る障壁となってントゥシトラに迫る。
 左右どちらに避けるにしろ、そこにはヒミカか時深が待ち構えている。

 その目論見に対して、ントゥシトラは一切積極的な行動を見せない──ように見えた。
 自らも追撃するべく既に一歩目を踏み出していた悠人は、真正面からそれを捉えた。
 だが。

「NNNNNNNNGGYYYYRUUUUUUUUUUUUUUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHH!」

 分厚い鉄板が軋みを上げて曲がるようなその音色が、ントゥシトラの奏でる『声』だ。
 人ならぬ蛮声の導きに応えて、異形をゆらりと陽炎が包み込み──
 押し寄せる白光は、巌にぶつかる波濤のように、飛沫となって空間に飛び散っていく。
 挟撃を行う時深とヒミカが閃光に目を細める中、悠人は何が起きたかを理解し、歯噛みした。
 オーラフォトンも一度放たれてしまえば、物理現象としては強大なエネルギーの塊に過ぎない。
 故にントゥシトラは、それと同じ規模のエネルギーを発生させて、オーラフォトンビームに抗したのだ。
 純粋熱量による相殺。言うのは簡単だが、短い間しかなかったとはいえ、悠人も先の攻撃にはそれなりの力を込めていた。
 それを相殺しうるだけの熱量を、ほんの一瞬で発生させた〈炎帝〉の出力は察するにあまりある。
 疾走。元より最初の一撃には期待していない。防がれたのなら、三方向から直接叩き伏せるだけだ。
 時深は真横、ヒミカはやや後方に回り込んでいる。牽制に放つファイヤボルトは到達と同時に立ち消えた。
 消滅ではなく、同化だ。火の意味を与えられたマナを、〈炎帝〉たるントゥシトラは強制的に隷属させている。
(つまり、私の神剣魔法は効果がない……でも、そうであるならば──!)
 判断し、ヒミカは自らの周囲をマナの衣で覆った。同じ火であるならば融和し、溶け合う。
 それが無効化されるのは自明だが、その瞬きほどの間は、しかし一刀浴びせるには充分だ。
 悠人と時深も同様に自らをオーラフォトンで覆い、強く一歩を踏み入れる。
 見えるもの全てが赤色の業火で、その中心には恒温の瞳がある。
 それが大きく見開かれると同時、白光が爆発し、悠人達を飲み込んだ。
「ぬ、ぉ、ぉぉ……!」
 身を小さく丸め、防御膜の密度を上げて耐える。それでも透過する熱がじりじりと頬の皮を焦がしていく。
 視界を灼く光の中、本能だけを頼りに、その中心めがけて剣を突き入れた。

 だが。
「……ッ!?」
 手応えがない。三方向から同時に突き入れられた剣は、確かに高エネルギーを放つそれを貫いていて──しかし、それは、
《抜け殻だ! 逃げろ!》
〈聖賢〉が叫び、悠人は前に跳んだ。両腕を広げ、時深とヒミカの腹を抱いてその場を離れた。
 あの爆発の瞬間。ントゥシトラは自らの発した熱量を、『そのままの形で』その場に残し、離脱したのだ。
 直後、背後に圧を感じる。
(…………ッ!?)
 脳が思考能力を失った。巨人の平手が背面から悠人を打ち据え、肺腑の酸素を全て吐き出させた。
 上空に逃れたントゥシトラが放ったサイコロ大の圧縮炎弾は、地表を一メートルほど潜ったところで炸裂した。
 悠人を打ったのは爆風ではなく、それによって吹き飛ばされた硬い土塊だ。
 意識を失いかけ、それでも悠人は走った。本能の警告が肉体をつき動かしている。
「──、──、──!」
 時深が何事かを叫ぶが、今の悠人にはそれすら理解できない。だが叫ぶ理由は、全神経でひしひしと感じている。
 両脇の二人を前へと投じ、〈聖賢〉を両手で握ってがむしゃらに己の背後へ振り回した。
 ここに至り、ようやく悠人は意識を取り戻した。
 そして見る。己の剣が押し留めているもの、その後ろに繋がるものを。
 がちがちと震えながら〈聖賢〉が食い止めているのは、大蛇のようにうねる炎の竜巻。
 剣を通じて触れているからこそ、理解した。その炎の渦には、一本で城一つを吹き飛ばしかねないほどの力が宿っている。
 それが全部で四本、空中に浮かぶントゥシトラに、まるで四肢のように接続されている。
 下方に伸びた二本がントゥシトラを固定し、その『脚』の安定を以て、灼熱の『右腕』を悠人に叩きつけたのだ。
 古の伝説にある、一つ目の巨人の威容が、ントゥシトラを核として顕現していた。

「WWWWRRYYYYYYYYYYYYAAAAAAAAA!!!!」
 渦は削岩機のように〈聖賢〉を噛み砕かんと回転数を倍加させる。押し潰しの轟圧に、悠人の足が踝まで地面に沈んだ。
 釘付けになった悠人は見る。巨人が『左腕』を大きく振り上げ、たわませ、そして振り下ろした。
 上から叩きつけるのではなく、横薙ぎの動き。胸から下をごっそり持っていくつもりだ。
「ユート様!」
「来るな!」
 駆け出そうとしたヒミカが、罵声じみた厳しい響きに身を竦ませた。それほどの想いが言葉には込められていた。
 今来られたら、ントゥシトラは確実にヒミカを狙う。その隙をついて、悠人はントゥシトラを斬ることはできるだろうが、
(それは、俺が最も望まないものだ……!)
 犠牲の上に成り立つ勝利など欲しくはない。綺麗事だが、それでも悠人はそれを求めていくと決めたのだから。
 その思いが、自分を今ここに至らせているのだから。
「お、ぉオオ────!!」
 だから、最後まで諦めることは、決してしない。
 地表すれすれを滑っていく、業火の鉄槌。超高熱に晒された地面は、それだけで水飴のようにとろけていった。
 炎の渦が迫り──悠人は〈聖賢〉をわずかに傾ける。
 力の行き場をずらされた炎神の右腕が落ち、横薙ぎの左腕と交差する。
 起きるのは融和だ。あまりに高密度であったがために、炎はお互いを通り過ぎることはなく溶け合った。
 二つのベクトルが互いを相殺し、炎の勢いだけが増す。その上に、悠人は乗った。
 自分を押さえつけていた『右腕』に沿うように回転させ、裏返した〈聖賢〉を、足と炎の間に挟んで。
〈聖賢〉を足場に置いて、無手のまま悠人は跳ぶ。ントゥシトラの眼前へと。
 真紅の眼がそれを追い、最早一つとなった両腕を振り上げる。
 だが間に合わない。腕を模して用いたものは、腕の動きに縛られる。既に巨人の懐に潜り込んだ悠人には、その両腕はあまりにも遅すぎた。
 異形の眼球に、容赦なく、悠人は硬く握った拳をぶち込んだ。

 人ならぬ叫びを上げてントゥシトラが吹っ飛ぶ。炎の四肢はその場に残され、制御を失って霧散した。
 手応えはあったが、神剣で斬ったわけではないので致命傷には程遠い。
 発散される熱に跳ね上げられた〈聖賢〉を受け止め、悠人は走った。
 斃すならばこのタイミングしかない。先程のパンチも、神剣を手放してようやく得た反撃の機会だったのだ。
 恐らく次はない。ントゥシトラは警戒を強め、今度は接近を許さぬまま火力で押し切ろうとするだろう。
 だから悠人は走った。ントゥシトラは今、苦悶に喘いでバタバタと無様に地面で暴れ回っている。
 斬るならば、内部に孕んだその神剣ごと、一撃で決着しなければならない。
「おぉオオ────ッ!!」
 脇を締めて柄を握り、全身でぶつかるように〈聖賢〉を突き入れた。
「──GGGOOOOOAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHH!!!!!!」
 断末魔の絶叫が耳を劈いた。
〈聖賢〉は、ントゥシトラの眼球に深々と突き刺さっている。
 噴き出した血を全身に浴びながら、ぐち、と悠人はさらに〈聖賢〉を抉り込む。
「ぬ、う、ぅぅ…………!」
 ばたばたと暴れ回る尻尾を踏みつけにし、傷口を広げていく。一センチ切り込むたびに鮮烈な血臭が鼻をついた。
「A……OOH……HAA……A……KA……」
 ントゥシトラは最早、死にかけの獣が喘ぐような音しか洩らさない。
 だが、悠人はそれ以上剣を動かせなかった。
 巨大な目玉でしかなく、今やそれさえも切り刻まれているのに──それが確かに、勝ち誇るように『笑った』からだ。

「────、勝チ────」

 錆びた鉄を擦り合わせた耳障りな声で、そう発音した。
 怖気を感じて剣を引き抜いたときには、既に悠人は灼熱の顎に喰らいつかれていた。

「────────!!」
 苦悶と歓喜が同時に上がった。一瞬にして悠人は、ントゥシトラともども炎に包まれた。
 何が起こったのか、悠人は理解できない。
 ただ確かなのは、殴り飛ばされ、苦痛に悶えるその姿は全て悠人を誘い出すための演技だったということ。
 ントゥシトラは、自分が貫かれることも、そしてその剣が〈炎帝〉に届かないことも、これまでの戦闘で把握していた。
 全て織り込み済みで、自らが最も力を発揮する射程範囲に獲物を誘い込んだのだ。
 叫びを上げるための酸素すら、悠人は得られない。肺を喘がせれば吸い込むのは炎ばかりで、それが呼吸器を灼いていく。
(離、れ……)
 脳裏に瞬く、稚拙にして唯一の思考。なりふり構わぬ動きでントゥシトラを蹴り飛ばし、反動で後ろに跳んだ。
 ただそれだけの動作に体力全てを奪い取られ、悠人の身体は無様に地面を転がった。
 だがそれはントゥシトラとて同じ。承知の上であったとはいえ、全身を半裂きにされて平気であるはずがない。
 違うのは、炎がどこまでもントゥシトラの味方ということ。
 現にゆっくりとントゥシトラは浮き上がり、炎に融けるようにして、少しずつその傷を塞いでいく。
「ユート様っ!」
 真っ先にヒミカが駆け寄った。全身を包む炎を手で払おうとして、しかしいくらやっても炎は蛇のようにまとわりつく。
《無駄だ! これはただの炎ではない! 燃焼しているのはントゥシトラの返り血だ……!》
〈聖賢〉が指摘する。エターナルの肉体もまたマナから構成されている。それは血液とて同じことだ。
 ントゥシトラは、その飛び散った自らの血を変換・燃焼させ、自らが受けた傷の代価を支払わせる。
 懐に入り込まれても生かしては返さないという、周到さと覚悟で仕掛けた罠──
「普通の方法じゃ消えない。多少、手荒くなりますが……!」
 時深は悠人の身体に手を押し当て、オーラフォトンを注ぎ込んだ。

 オーラフォトンが一旦悠人の体内を巡り、表面から再び放出されて炎の衣を吹き飛ばしていく。しかし、
「一度では足りませんか……!」
 炎は未だ悠人を包んで燻り続けている。悠人は瘧のように身を震わせているが、次第にその動きも弱々しくなっていく。
 このまま──死んでしまいそうなほどに。

「────、ぁ」

 ……ぎしり、と。
 ヒミカの心臓が、原因不明の軋みを上げた。
 視界が真っ暗になって、けれど倒れた悠人の姿だけは鮮明だった。
 それに重なって、脳裏で何かが瞬く。意識の裏側から、それを知れという呼びかけと、知ってはならないという制止が同時にした。
 だがそれは、余計にヒミカの既視感を際立たせる。記憶の闇の閃きは、針で引っかくように情報の海を幽かに波立てる。
 見覚えなどない。目の前で倒れているその人物は、つい先日初めて会ったばかりの人物で、知っていることなどほとんどない。
 あるとすればそれは、森の中で交わした剣の感触や、
         (──それを何故か、懐かしいと感じた錯覚や、)
 互いを補い合える、良いパートナーになれると感じたことや、
         (──そして実際にそうであったのだという確信を抱いた、ありえない空想や、)
 もう会えないという仲間のことを教えてくれたときの、寂しげな笑顔や、
         (──その時自分の胸の内に生じた、抱くはずのない痛みや、)
 自分の肩に頭を預けて眠る寝顔の、歳相応の安らかさや、
         (──できるならこの人には、そうして穏やかに生きていて欲しいという、知らない願いや、)
 そんなものばかりで、今、自身を締め付けてくるこの感情など──『愛しい』などという、そんな感情など。
 持てるはずがないものなのに、ならばどうして、こんなにも胸が張り裂けそうなのだろう──

『──良かった』

 星が瞬くように、生み落とされた言葉があった。
 出所の分からない、どうして出てきたのかも分からないその言葉は、けれどヒミカの意識を打ち震わせた。
 自分はそれを知っているはずだ、と。
 そんなはずはない。ヒミカは記憶の訴えを拒絶する。だって、知らないのだ。見覚えなどないのだ。
 知らない。私は知らない。こんな状況、今まで一度もあったことがない。

 そう、今と同じような、荒涼とした大地の上で、倒れた少年の姿など──

(あ)
 外れていた歯車が、かきりと音を立てて廻りだす。
 決して、決して知らないけれど、それは確かに自分の中にあって。
(ああ──)
 忘れてなど、いなくて。
「……、ゆ」
 皆が、世界が、自分自身さえも忘れてしまっていても、なお。
 魂に刻みつけた『何か』は──その『誓い』は、まだここに残っている。
 この魂に、残されている。
 そんなのは嫌だ、と、確かに思ったのだ。

 ──忘れない。忘れない。忘れない。忘れない。
 ──私は絶対忘れない。皆が彼を忘れても、世界が彼を忘れても、私が彼を忘れても。

「ユート、さま」
 そうだ。『私』は、もう覚えてもいないほどずっと遠くで、確かに誓った。それを忘れたくないと求めた。

 ──彼の剣として、彼の傍で戦うことを。
 ──思い出を喪い傷も消え、世界の摂理というどうしようもない壁がそこにあっても。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
                    地獄に堕ちても忘れない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「……ヒミカさん?」
 悠人を包む炎を除去し、その容態を見ていた時深が顔を上げた。
 ヒミカは二人に背を向け、まるで不動の壁の如くントゥシトラの正面に立っている。
 ──護らなければならない、と。
 ただそれだけの強い意志が、ヒミカの全てを占めていた。
 理由は今もって分からない。ヒミカはまだ、何も思い出してはいない。
 記憶の水底から呼びかける声はやまず、自らを勝てる見込みのない敵の前に立たせる理由も、彼女は理解していない。
 だが、それに身を預けることに不安はなかった。
 例え誰もがそれを忘れ、世界がそれを忘れ、自分自身までもが忘れてしまっていても。
 形ある記録にも、形なき記憶にも、残っていなかったとしても。
 それは確かに、今も自分の中に『在る』のだから。
 決して消えない炎となって、この身体を突き動かし続けるのだから。
 だから、護る。
 聖賢者ユートが、世界を救う要となる力を持つからではない。
 悠人(かれ)が悠人(かれ)だからこそ、ヒミカ(わたし)は護りたいとそう思っている。
「ヒミカさん! それは──!」
 彼女の横顔から何を察したのか、時深は身を乗り出した。ヒミカの肩を掴み──小さな悲鳴と共に手を放した。
 ヒミカに触れた手の平は、表面が焼け爛れていた。
 土の焼ける独特の臭気が辺りに漂う。煙は、ヒミカの足元から昇っていた。
 ヒミカの総身には今、水を一瞬で蒸発させるほどの熱が宿っている。
 本来は空間に作用する神剣魔法・ヒートフロアは、今、ヒミカの体内でうねる熱となって顕現していた。
 だが過ぎたる力は、炎の妖精の身すらも灼こう。神剣の切っ先に宿る力は、彼女自身をも蝕む茨の棘だ。

 そんなことは分かっている。けれど、そうしなければ自分はきっと、あの炎の化身には届かない。
 そしてまた──
「大丈夫です」
 ヒミカははっきりとそう言った。なおも伸ばされる時深の手を、焼かぬように優しくどけて、微笑んで。
「死んでまで勝とうなどとは、思っていません。そんなことをすればユート様が哀しんでしまう。
 私は生きます。勝って、生きます。それがどんな困難な道だとしても」
 剣を前に、這い蹲るように姿勢を落とした。
 号砲を待つスプリンターは、剣の名前と同じ光を、その身に纏わせている。
「……不思議なものですね。勝てない敵を前にして、けれど、微塵の恐怖もありません。
 ただ一つ、『護れる』と、そんな奇妙な確信だけがあるんです」
 それは錯覚だ、と時深は言ってしまいたかった。
 どれほどの修練を積もうと、どれほどの想いを込めようと、彼女はスピリットで、敵はエターナルだ。
 そこには覆しがたい、断崖の如き差がある。彼女の小さな炎は、地獄の業火の前に飲み込まれるだろう。
 だが、どうしてそれを止めることができようか。
 ヒミカの横顔は、同性である時深が見ても、息を呑むほどに美しかった。
 大切なものを護ろうとする、潰えることなき太陽のような輝きが、今のヒミカにはあったのだ。
 同じ女として、同じ男を愛した者として、どうしてそれを否定できよう。
 ──だから、時深も足を踏み出した。
「護るなら二人で、です。傷は半分のほうが、戦いの後悠人さんの心配も少なくてすみますから」
「違いありません」
 敵を前にして微笑み合った。それをントゥシトラはどう取ったのか、周囲に渦巻く炎がその火勢を増した。
「──私が先行します。私の炎であれの『鎧』を融和させ、一瞬止めます。その隙に」
「ええ。頼りにしています、ヒミカさん」

 二人の脳裏で同時に撃鉄が落ちた。
 言葉通りヒミカが先行する。その肉体に許された最高速度の疾走で、乾いた大地を駆け抜ける。
 対するントゥシトラは再び『四肢』を顕現させ、閉じゆく花のように正面に向けて束ねようとする。
 ……ントゥシトラは姿こそ異形であるが、人間以上の知性を備えた存在である。
 そして〈炎帝〉の契約者として、ントゥシトラは全ての炎の王であり、またロウエターナルの戦士でもある。
 故に王として、優勢を確信しながらも油断せず、戦士として、ヒミカの正面突破を真っ向から迎え撃つ。
 ヒミカと時深の覚悟に、誇りを以て相対した。微塵の躊躇なく、完全なる勝利を果たすため。
 だが、ヒミカはその気概の先を行く。
 低い前傾の姿勢から更に身を倒し、振り上げていた〈赤光〉を地面に叩きつける。
 インパクトの瞬間、剣先から迸らせたマナの圧力が、地中で逃げ場を失って炸裂する。
 その圧力が、ヒミカに肉体性能の限界を超えた速度を与えた。
 四つの炎蛇が交差するその座標に、身を滑り込ませ──全身に満たしたマナの半分をそこで爆発させる。
 ヒミカの炎は回転する円環として生まれる。それにぶつかった『四肢』は融和し、円環の一部となった。
 ぽっかり空いた筒状の空間にスフィアハイロウを一個置いて支えとし、自身は慣性のままントゥシトラの真下に着地。
 見下ろす眼球に強き意志の眼光を返し、高らかに己の剣の名を叫んだ。
「〈赤光〉、ファイヤエンチャント──!!」
 残り半分のマナを全て剣に注ぎ、加えて周囲のマナをも取り込まんとする。
 しかしそのマナは既にントゥシトラの隷下にあり、格の劣るヒミカではそれを奪い取ることはできない。
 だが、それでいい。
 奪い取れないまでも、ントゥシトラが集めたマナは違う命令系統からの割り込みを受け、ほんのわずかな時間綻びが生じる。
 そこに、時深が飛び込んでくる。
 巫女服の裾を削り取られながら、肩に担ぐように剣を構えて。

 一刀が、咄嗟に纏った炎熱の衣ごとントゥシトラを切り裂く。
 血が飛沫くより速く自分の時間を加速させ、時深はントゥシトラの頭上を飛び越える。
 ヒミカが燃え盛る〈赤光〉で追撃する。捻りを加えた一撃はントゥシトラの下部を大きく抉り、血を浴びぬよう背後へ抜ける。
 咄嗟に戻していた『四肢』の一本が、しかし虚しく空を切り地面を穿つ。
 だが止まらない。地に刺さった一本を軸にントゥシトラは自分の身体を振り回し、慣性を与えた一本で背後を薙ぐ。
 少女達は身を低く落として回避する。目標を逸れた炎は長く伸び、後方二十メートルの地面を抉り取っていった。
 退くことはできない。一度遠ざかれば、もう二度と懐には入り込めないだろう。
 中心であるントゥシトラに近く、『四肢』の動きを見極められる場所にいなければ、次なる攻撃の糸口は掴めない。
 残り二本のうち一本が、さっきとは逆、右から左に薙がれようと初動を見せる。
 しかしあえて二人はントゥシトラに向かって突進した。それよりも突っ込んで斬るこっちほうが速い。そう判断した。
 ──背後に隠れていた四本目が、ントゥシトラの脇を抜けて真正面から突き出される。
「…………!!」
 視線を走らせた右の一本は、一向に動く気配がない。フェイント。そう理解すると同時に時深は動いていた。
 ヒミカに一歩先んじて、剣の腹に手を添えて突き出した。
 うねる蛇ではなく、堅牢な柱となって直進した炎を、傾けた神剣で逸らそうとする。
「っぐ、ぅ……!」
 重い。腕と剣がこぞって悲鳴を上げる。意識ごと削り取られそうな、破砕の意志を宿す一撃。
 けれど、と時深はヒミカを見た。既に時深が作った隙間からントゥシトラへと肉薄している。
 彼女が再びントゥシトラの炎に綻びを作れば、自分が限界まで時を加速して、ントゥシトラを切り刻む。
 そのためのマナは総身に満ちている。この攻撃を凌げば、あとは永劫にも近い一瞬の中で決着する。
「ぅぅぁぁぁっ!!」
 息と一緒に力を振り絞って炎を跳ね上げ、一歩という動きを以て空間に身を躍らせ──精神のスイッチを切り替える。

 時間の加速が始まっていく。相対的に自分以外のものが全て遅くなっていく。
 スフィアハイロウの補助により、ヒミカは時深が作り出した間隙を力ずくで押し広げる。
「引き裂けろ……!」
 それを保ったまま後方に退き、マナの揺らぎを引っ掻いて歪みを増大させ、さらに間口を広げた。
 千々に裂かれるマナの流れを、ゆっくりと視界の端に捉えながら、時深は剣を握る手に力を込め、

「タイムアクセラレイト──!」

 ──まるで世界が切り替わったかのような感覚を、ヒミカは得た。
 一瞬前には何もなかった座標に時深がいて、きしり、とガラスが軋む音を聴く。
 ントゥシトラの眼球の表面に、縦横無尽に切れ目が走り──破裂するように血肉があふれ出した。
 永遠に近い一瞬の中で振るわれた幾百の剣閃は、内部に取り込んでいた〈炎帝〉本体にまで到達している。
 かしん、かしん、と。小さな罅割れの音を流れる血に乗せて、それは砕け散ろうとしていた。

 ……そのときヒミカは、視界に映るものの全てを見届けていた。
 飛び散る血の玉のきらめき、時深の頬を伝う汗の雫、舞い上げられた砂粒一つ一つ。
 頭上を、左右を、足元を、音もなく通り過ぎていく、殺意という名の陽炎の筋。

 時深が力を振り絞り、血を被る前に後方へと跳んだ。
 剣は確かに〈炎帝〉の本体を捉えた。〈炎帝〉は──ントゥシトラはもう消滅を待つだけの存在だ。
 だがなおも精神は緊張の糸を張っていた。油断はできない。手負いの獣ほど怖ろしいものはない。
 二歩目は強く踏みしめた。背後のヒミカと共に、速やかにントゥシトラの射程圏内から逃れなくてはならない。
 時深のその推測は正しく──そして、どうしようもなく遅かった。

 ──その少し前。
 雪崩によって遥か下まで流された光陰達は敵と相対していた。
 数はわずかに二人。だがそのいずれもが、人智を超えた力の担い手だ。
「エトランジェとスピリット相手に、エターナル二人か。──ちぃとばかし破格じゃないかね」
「それは僕らがあなた達に対してですか? それとも、あなた達が僕らに対してですか?」
 にこりともせず応じる青年に薄ら寒いものを覚えつつ、前者さ、と光陰は答えた。
「正直なところ、俺と今日子で一体、他の皆で一体なら行けるかと思ってたんだが。
 実際あんたらを目の前にすると、いやはや、ちょっと自信過剰だったかもなと思ってる」
「ご自身の過小評価はよしたほうがいいですよ。勝てるものも勝てなくなりますから」
「ご忠告、痛み入る」
 くつくつと光陰は笑った。その横から不機嫌を隠そうともしない今日子が耳打ちする。
(あいつ、ヤな奴ね)
(見りゃ分かる。……もう一人のほうもな)
 え、と今日子が目をやると、青年の隣の美女が、目隠しの奥から嘲弄の視線を向けていた。
(ぐ、なんて生意気なプロポーション……! ちょっと光陰見るんじゃないわよ)
(見てねぇし、興味ねぇよ)
 いまいち緊張感の欠ける相棒に、それもまぁらしくて良いかと思いつつ、疑問を重ねた。
「──が、むしろウチのエターナル二人に、一人だけしかぶつけなかったってのは不可解だな。
 数の上でなら正しい割り振りだが、あの二人はそんな生易しい相手じゃない。甘く見すぎじゃないか?」
 言いつつ、さりげなく敵の武装を確認する。青年は双剣を腰に下げ、女は束ねた鞭がそれだろう。
 時深から聞いた話からすると、青年がメダリオ、女がミトセマールという名のはずだ。
 前者はともかく後者のそれは、どう見ても剣ではない。だが発せられる禍々しさは、疑いようがなかった。

 その怖気を、むしろいとおしさの対象とするように、女は鞭を撫でる。
「それこそ、過小評価が過ぎるってものさ。見ていないからそんなことが言える。
 分断したのは、あれ一人で充分だからだよ。……まぁ、巻き添えを食らいたくなかったからというのもあるけどね」
 発する言葉に偽りはない。自信過剰というわけではなく、それが正当な評価なのだ。
「そりゃまた、悠人達も災難だなぁ」
「他人の心配とは余裕ですね。それと、くだらない時間稼ぎもそろそろ終わりにしていただきたいのですが……」
 言葉は慇懃そのものであるが、そこには一切の感情が乗っていない。
 光陰は肩をすくめ、悪かった、と軽く謝罪した。
「できればもう少し時間稼ぎをしたかったんだがな」
「それを赦すほど、こちらも時間に恵まれていませんので。それに僕らは、過大評価も過小評価もしません。
 あなたの後ろで、そんな物騒なマナを溜めている方々……大火力の神剣魔法の準備中のようですね。
 それを喰らっては、僕らとて多少は痛い目に合いそうですが、詠唱は終わっていても、マナがまだ充分でないと見える。
 今のうちにやめていただければ、苦しまずにそっ首落として差し上げますよ」
 いかがでしょう、とセールスマンのように告げる顔には、やはり一片の笑みもない。
 光陰はその無垢な殺意を真っ向から受け止めつつ、しかし気の抜けた仕草で鼻の頭を掻いた。
「……評価されてるのか馬鹿にされてるのか、いまいち分からないんだが」
「最大限評価していますよ。その結果が僕らに及ぶものであるかどうかとはまた別ですが」
「成程な。それでもまぁ高すぎる評価だと思うんだが、戦う前にこれだけは言わせてくれ」
「ほう、なんです?」
 光陰は申し訳なさそうに苦笑して、

「すまん、もう終わってる」

 唐突に身を沈めた光陰の後ろ、両手を突き出すようにしてオルファが立っていた。
 その背をまるで支えるようにナナルゥが手を押し当ており──そこから大量のマナがオルファに流れ込んだ。
 本来ナナルゥのものであるべきスフィアハイロウは、今オルファの傍らに浮かんでいる。
「だぶる・あぽかりぷす!!」
 即席の合体魔法がオルファの手から爆風となって迸った。
 空間を舐めるように通り抜けた炎熱の怒涛は、しかし伏せた光陰の舌打ちがその結果を物語る。
 右方から蒼い閃光が飛ぶ。報復のようにオルファとナナルゥを覆ったそれは、新たに収束されかけていたマナを散らした。
(バニッシュか!)
 把握。判断。光陰は跳びすさりつつ指示を飛ばす。
「今日子! アセリアとウルカ連れてメダリオを追え!
 ネリー、シアー、ハリオン、ファーレーンもそっちだ! 残りは俺と来い!」
 了解と返る声だけを聞き、光陰は左に跳んだ。
 その反対に跳んだ今日子は、立ち込める爆煙の向こうに標的を見つける。
「そこだぁっ!」
 突き入れた〈空虚〉の一撃は、しかし軽く振るっただけの〈流転〉の一本に防がれる。
 姿勢の崩れた今日子に振るわれるもう一刀。それを、割り込んだアセリアの剣が受け止めた。
 背後、回り込んだウルカの居合いが音もなく振るわれ、その首を断たんとする。
 打ち合わせもなしに行われた、最善にして最速のコンビネーション。それを、
「──ふむ」
 ぐるん、とメダリオは剣に触れたままの今日子とアセリアごと、三者の配置を『かき回し』た。
 位置関係が入れ替わり、メダリオの首のあった場所には、今や今日子の頭があった。
 既に、刃を止められる速度ではなかった。一刀はほんの数瞬後に、今日子の眼球ごと頭部を断ち切ろう。
「────ッ!」

 だがウルカは、『止まらない』選択肢を進む。
 手首を返し、風に舞う木の葉の如く刃の軌道が翻る。右翼のみで空気を強く打ち、傾ぐ身体を押さえつけて剣を走らせた。
 一陣の疾風となった剣を、しかしメダリオはそっと身を逸らしただけで回避する。
 流水。ウルカはその言葉を思い浮かべた。己が風であるならば彼は水だ。ただの一合、剣を交えただけでそれを悟った。
 水月の双剣──成程然りだ。水面に映る月の如く捉えどころがなく、しかしその刃の鋭きことこの上なし。
 だが、
(斬り難きを斬ってこそ、剣士冥利に尽きるというもの! そして──)
 踏み出した一歩の先に、アセリアが差し出した〈存在〉がある。
〈存在〉は縫い止めれたように中空にて耐え、その上で躊躇なく、全身の力を爪先に集わせ、蹴った。
(越え難きを共に越えてこそ、仲間というものよ!)
 弾かれたように飛び出した身体は、裂帛の咆哮をその太刀に乗せて突き入れる。
 正面からの突きに対し、メダリオは右手の剣を払うことで対応し──己の迂闊を悟る。
「せぃやぁあっ!」
 がら空きになった背を、既に姿勢を立て直していた今日子の剣が襲う。
 気配だけを判断材料に、メダリオは身を捻って逃れる。だがそれを、別方向から詰めていたネリーとシアーが阻む。
 左右から全身の力を以て振り下ろされる二剣。
 メダリオは、右のシアーを剣で、左のネリーは、あろうことか持ち上げた足の裏で受けとめた。
 空いた左腕は、頭上から落下するファーレーンの太刀へと宛がい、後方からのハリオンの突きを首を傾げるだけで回避する。
 ギ、と一瞬だけ全方向からの力が拮抗し、メダリオがその全てを弾き飛ばす。
「三方包囲! 手近な子と組んで!」
 今日子の呼びかけに応え、それぞれが三人ないし二人のチームとなり、メダリオを取り囲む。

「これで七対一。過小評価も過大評価もしないアンタから見て、この戦況はどうかしら?」
 勝者の余裕ではない。少しでも会話で時間を引き延ばし、息を整える時間を仲間に与えたかった。
 それはメダリオにも時間を与えることになるが、問題はない。何故なら彼は全く息を乱していないのだから。
 彼はハリオンの突きによってついた頬の傷を指で拭い、
「たかが七対一、ですよ」
 事も無げに告げた。
「むしろ、ミトセマールのほうに同情しますね。彼が相手ではどうにもやりにくいでしょう」
 ついと向けた視線の先では、ミトセマールと光陰達がつかず離れずの攻防を繰り広げていた。
「そういった意味では、まぁ、あなたがたはとても殺し易そうだ。
 ──ものは相談ですが、生きるのを諦めてはもらえませんか。そうすると僕も助かるのですが」
「冗談キツいわ。あんたこそ、この世界から出てってもらえると助かるんだけど」
「交渉決裂ですか。残念です」
 全然そうは思っていない口調でメダリオは言い、くるりと、剣を逆手に持ち替えた。
「さてそうなると、少々手間取りそうですね。あなた方はそれなりに強いようだ。
 なので申し訳ありませんが、僕も本気で行かせてもらおうと思います」
 勿体ぶった喋りをするメダリオの異変に、今日子は気づいた。
 ハリオンがつけた頬の傷。そこから明らかに血ではないものが溢れ出している。真っ黒な、おぞましい何かが。
 それはやがてメダリオの皮膚を這うように広がっていき、全身を覆っていく。
「痛くても、後悔しないでくださいね。素直に死んでくれないあなた達が悪いのですから」
 口元が黒い液体で覆われる直前、メダリオは初めて笑った。氷のような、酷薄な笑みだった。
 やがてメダリオの露出していた皮膚が、指先まで残らず漆黒に覆われた。
 闇にも似たそれは体表面を蠢いて、やがて統一されたある形を取っていく。

 ──きろり、と。宝石じみた、しかし温かみの欠片もない、異形の双眸が開かれた。
 最早メダリオの輪郭は、人のそれとは程遠いものと化している。
 頭部は鋭角的なラインを描き、裂けるように広がった口にはずらりと短い牙が並んでいた。
 首には左右に三本ずつ切れ目が入り、それはゆっくりと、規則的に躍動を繰り返している。
 両腕は長く伸び、肘からは細く長い翼のようなものが生えていた。剣の柄は手と一体化してしまっている。
 今日子は、そのフォルムに見覚えがあった。
 鮫だ。小学生のとき水族館で見たそれを、さらに先鋭化し、凝縮したイメージを今日子は得た。
 その凶暴性をも、無理矢理人のカタチに押し固めたかのような──
『やれやれ、この姿になると、どうも自制が効かないのですが……』
 奇妙にくぐもった、どこか弾んだ声で、メダリオは告げる。その異様に、今日子達は身を強張らせていた。
 その反応を楽しむかのように、ぎちぎちと歯を鳴らして彼は嗤う。
 水中において絶対を誇る捕食者が、歪なヒトを象って、雪の海原に立っていた。
『──精々、楽しませてください。肉を裂く歯応えくらい、あると良いのですがね』

「今日子!」
 メダリオの変貌を察知し、光陰が叫んだ。だが剣を振るう手はミトセマールから離さない。──離せない。
「ッハハ、他人の心配なんかしてる余裕あるのかねぇ!」
 雪を跳ね上げて飛び出した鞭の先端が、光陰の鼻先を掠めた。
 翻って脳天に落ちようとしていた鞭が、しかし途中で向きを変え、左の空間を薙ぎ払った。
 その一撃で幾つもの火球が打ち落とされ、次いで後方から躍りかかったセリアをも軽くあしらった。
 ナナルゥとオルファは、牽制としてファイヤーボールを放ち続けている。エスペリアとニムントールは二人の防御だ。
 その合間を縫って光陰やヘリオン、セリアらが攻撃を仕掛けるが、それでようやく五分だった。

 ミトセマールの鞭──〈不浄〉は、長さを変化させ、時として幾条にも枝分かれして変幻自在に振るわれる。
 ただでさえ鞭というあしらいにくい武器だというのに、その間合いまで変化させられてはやりづらいことこの上ない。
 加えてミトセマールは、まるで背中にも目があるかのように、こちらの動きのことごとくを把握していた。
 レッドスピリットで行動を制限しつつ、三人で接近戦を挑んで、ようやく拮抗できる。
 その事実に、光陰は背中が薄ら寒くなる。エターナルの力を身を以て思い知った。
 ミトセマールは、何も大威力の魔法を放つわけではない。武器は鞭一本であり、それ以外にはない。
 だがその反応速度が段違いだった。あらゆる方向、あらゆる速度の攻撃を、まるで手玉に取っている。
 いなし、払い、打ち据え、弾き、光陰達の攻撃はただの一太刀とて届くことはない。
 ……彼らに寿命はない。肉体の性能も、人のそれとは比べ物にならない。
 つまりそれは無限に経験を積み重ね、それを活かせる肉体を持っているということだ。
 ミトセマールがどれくらい生きているか知らないが、光陰の年齢を彼女の年月で割れば、おそらくほぼゼロだ。
 それほどの開きが、自分達とエターナルの間にはある。
 彼らの剣捌き、鞭遣いが経験に裏打ちされたものであるならば、光陰がそれを覆せる道理はない。
 唯一の隙は、ミトセマールがまだ余裕を見せていることだ。強者ゆえの驕りと言ってもいい。
(何か考えなきゃならんな。その隙を突けるような手を……)
 鞭を捌きつつ思索を巡らす光陰を嘲笑うように、ここに来て、ミトセマールは笑みを深めた。
「さぁって、それじゃあここらで追加オーダーと行こうか!」
 音を立てて、ミトセマールのコートが宙に踊った。
「おいおい……俺ぁもう、腹いっぱいだぜ」
 引きつった笑みを浮かべる光陰の前で、コートは毒々しい深緑の牙獣へと姿を変える。
 主人の姿を反映するように眼のない怪物は、獰猛な牙の並ぶ口を笑みに歪め、光陰へと襲いかかった。

 ──波濤のように散る雪煙がアセリアの視界を覆う。だがその中心にある鋭い影だけは、見逃しようがなかった。
 龍の顎の如く左右より閉じる双剣を、翼を一打ちし上空に逃れる。
 だが剣は双牙となって翻った。たまらず振り下ろした神剣が、嫌な軋みを上げて身体ごと弾き飛ばされる。
「下がれ!」
 ウルカの言葉に応え、蒼白と宵闇が入れ替わる。同時、反対側から疾走してきたファーレーンが剣を抜いた。
「「星火燎原の太刀ッ!!」」
 激声の唱和。二刀四連、計八閃が左右からメダリオを強襲する。
 その全てを、メダリオは腕を交差させ、自らを抱き締めるようにして防御した。
『……軽いですね。もう少し、届いてくれるものと思いましたが』
 牙の隙間から声が漏れる。〈冥加〉と〈月光〉は、メダリオの剣と肘に絡め取られるようにして停止していた。
 奇妙な光沢を放つ黒い肉体には傷一つなく、無感情な眼球に宿る静謐な殺意も衰えない。
 対して、今日子達に無傷な者など誰一人いなかった。多かれ少なかれ全員が手傷を負っている。
『中々でしたが……これ以上は望めないでしょうね。それでは、速やかな決着を』
 握っていた神剣ごと、ウルカとファーレーンが空中に投げ飛ばされた。
 無防備になった二人には目もくれず、メダリオは雪原を駆ける。
 身を膝の高さより低く沈め、鼻先と両腕で雪を掻き分けて進む、滑るような疾走。
 その先にあるのは寄り添いあうネリーとシアーだ。幼い二人では、この速度から振るわれる剣に抗しきれない。
「させません!」
 割り込んだのはハリオンだった。普段の温和な雰囲気をかなぐり捨て、幼い姉妹を護るために彼女は立った。
 緑光の障壁が〈流転〉を受け止め──続く連打が、マナの結合そのものを揺るがした。
「ぐ、う、ぅうぅ……!」
 連撃は一呼吸のうちに十を数えた。気を抜けば命ごと散らされそうな障壁を、ハリオンは維持し続けようとする。

 だが、次の息を継ぐより早く二十を数え、とうとうその障壁が砕け散った。
『二十六。良く堪えました。誇ってもいいと思いますよ』
 愉悦を含ませた二十七撃目が頭上から振り下ろされる。
 倒れゆくハリオンに、だがそれは届かなかった。ネリーとシアーがハリオンを自分の側に引っ張り込んでいた。
「弱いものいじめしてんじゃないわよッ」
 そこに今日子が飛び込む。鋭い突きは、右の剣の腹で受け止められた。
『酷い誤解だ。幼子をいたぶる趣味はないので、ならば先に逝かせてあげようと思ったまでです』
「咲く前の花散らすほうがよっぽど悪趣味だわ」
『それならお望みどおり、あなたから殺して差し上げましょう』
 右の剣が傾ぎ、〈空虚〉の切っ先にかかっていた力をズラした。
 体勢を崩したところに、頭上から回り込むように左の剣が落ちてくる。
 前に飛び込んで回避し、振り向き様に雷撃を放つ。金の閃光はメダリオを吹き飛ばしたが、ダメージを受けた様子はない。
 心の中で悪罵し、今日子は思考を巡らせる。
(──っつったってあたし頭悪いしなぁ。どうしたもんかしら)
 とりあえず、目の前の鮫野郎に生半可な攻撃は通用しないことは分かっている。
 光陰はバニッシュを警戒してこちらにレッドスピリットを寄越さなかったのだろうが、
(そもそも魔法使う暇もありゃしないっての。あの速度にはまともについていけないわ)
 こちらは雪の上で動きづらいというのに、相手はむしろ速くなっている。まさに雪の中を泳ぐように。
 ウルカとファーレーン二人がかりで、どうにか防御させた程度だ。届きはしても、ダメージを与えるには至らなかった。
 咄嗟の一撃だったとはいえ、雷撃も効果が薄い。あの表皮が絶縁膜のような役割をしているのかもしれない。
(……待てよ?)
 ふと、今日子の脳裏に閃いたものがあった。それならば、あの敵を倒せるかもしれないと。

 だが問題はそこに至る道程だ。光陰ならばここで姑息な手段の一つでも思いつくのだろうが。
(生憎そんな頭は持ってないし……やるしかないか)
 後方の仲間達に目配せする。それだけで意は伝わった。
 覚悟を決めて、悠然と歩んでくるメダリオへと剣を向けた。
『……ほう?』
 足を止め、メダリオが剣を構えた。今日子の左手には、マナが稲妻となって集いつつある。
 ──どちらからともなく駆け出した。
 ギィン、と〈空虚〉が弾かれ、その流れのままに今日子は跳躍する。メダリオの頭上を飛び越え、左手の雷に意味を与えた。
「マナよ、我が求めに応じよ! 小さき雷となりて敵を討て!」
 集ったマナは、まだ充分とは言えなかった。だがそれに構わず今日子は神剣魔法を発動させる。
「──ライトニングブラストッ!」
 収束された雷光の砲撃は、しかしメダリオを穿つには至らない。容易く回避され、雷光は雪を吹き飛ばし地を抉る。
 だがそれこそが、今日子の狙いだった。エターナルをこの程度の攻撃で貫けるとは最初から思っていない。
「おぉりゃ────────ッ!!」
 空中で全身を捻った。まるで巨大な剣のように振るわれた雷砲が地表を舐めていく。
 そう、最初から狙いは地面だ。雪を残らず吹き飛ばし、でこぼこの荒れた大地を露出させること。
(これで、足場の不利はなくなったぁ!)
 その意図を悟り、メダリオが地上に降り立った今日子に言い放つ。
『それがどうしたと言うのです! まだあなた方の不利は変わらない!』
「んなこたぁ分かってんのよぉ!」
 打ち倒すにはもう一手、あと一手が必要だ。それを為すのは今日子一人では無理だろう。

 だが、今日子は一人ではない。
「みんな!」
 叫んだ。それだけで全ての意が通じるというように。
「──そいつを止めて!」
 突風となって、アセリアが正面から突っ込んだ。大上段の一撃が双剣での防御を強制させる。
 左右からウルカとファーレーンが身体ごと剣を突き入れ、右肩と左脇腹を貫いた。
「ッ!?」
 逃れようとした脚を、ネリーとシアーがしがみついて止めた。背中からもハリオンが押さえ込む。
 メダリオの動きが、完全に静止する。
 メダリオの頭上に影が差した。思わず見上げたところに、落雷にも似た一閃が疾った。
 呻きは今日子とメダリオのどちらのものだったか。
 全力で振り下ろされた〈空虚〉は、メダリオの歯で挟まれ、止められていた。
 だが今日子はにやりと笑い──握り固めた拳で、メダリオの鼻先を殴りつけた。
『ガァッ?!』
 たまらず口を開いてしまった瞬間、嫌な音を立てて、〈空虚〉がメダリオを口の中から貫いた。
「……前に、聞いたことあんのよ。鮫の鼻殴って撃退した人がいるって。嗅覚神経が集中してるから、弱点らしいわ」
 グギュ、とさらに深く〈空虚〉を押し込むと、口腔から赤黒い血が溢れ出した。
「やっぱり、外は硬くても、中はそうでもなかったみたいね。
 ──内側から焼き魚になりなさいッ! サンダァァァストォォォォォォム!!」
〈空虚〉を残し、今日子含む全員がそこを離れた直後、凄まじい轟音と共に天空より紫電が直下した。
 もうもうと、煙と臭気が立ち込める。余波に吹き飛ばされた仲間達は、傷だらけだが誰一人欠けることなくそこにいる。
 山からの吹き降ろす風が通り過ぎたあとには、ただ黄金色のマナがあり、それもやがて消えていった。

「──チッ、メダリオはやられちまったみたいだね。仕事が増えたじゃないか。
 さっさとあんたら殺して、残りの手負いも始末するとしようかね」
 唸りを上げる牙獣を撫でながら、膝をついている光陰を見下ろすミトセマール。
「……勘弁して欲しいね。俺はまだ人生を楽しみたりてないんだ。具体的には、女の子とか」
「ふぅん。なら、いっそあたしのものにでもなるかい? そしたら悪いようにはしないよ」
 自我はなくなるだろうけどねェ、と毒蛇を思わせる笑みを浮かべて、言う。
「悪いが年下専門でな」
「あ、そ」
 戦場にあるまじき軽口の応酬は、ミトセマールにとっては余裕の顕れであり、光陰にとっては時間稼ぎの術だ。
「中々骨がありそうだし、悪くはないんだがねぇ。あたしの責めをあれだけ受けてまだ倒れてないんだから」
「立ってもいねぇけどな」
 ──苛烈さを増したミトセマールの攻め手は、それまで均衡を保っていた戦況を一気に傾けた。
 実際、光陰はもうボロボロだった。服は所々が裂け、額の傷から流れ出した血が片目を塞いでいる。
 それは光陰が、本来仲間が受けるべき攻撃を全て一手に引き受けたからだ。
 ミトセマールは軽く吐息すると、〈不浄〉をひらりと振って姿勢を崩して見せた。
「──聞きたいんだが、あんた指揮官だろう? 指揮官がそんなぼろぼろになっちまっていいのかい?」
「まぁ、部下を護るのも、指揮官の役目だからな」
 光陰がそう答えると、ミトセマールはおかしそうに笑い、そして言った。
「何言ってるんだい。部下を犠牲にしてでも勝利を得る。それこそが、指揮官に与えられた義務であり、権利だろ?」
「ほんとにそう思ってるんなら、俺はあんたとは一生仲良くできそうにないな」
 はははとお互い笑い合い、その手は己の武器を強く握り締めた。

「それで? あんたが護ってきたあんたの部下達が、あたしを斃すとでも?
 あんたでさえ、あたしに一太刀も届かないってのに?」
「ああ」
「しゃらくせぇ」
 力強い光陰の即答を、ミトセマールは一笑に伏した。
 だが──否、だからこそ、彼女は周囲への警戒を強めた。表情で嗤っても、その精神まで同じとは限らない。
 それは、後天的に今の姿になったミトセマールならではの性格なのだろう。
 ただ朽ちゆくを待つばかりであった己は、〈不浄〉と契約し新たな姿を得た。
 そんな自分然り、メダリオやントゥシトラ然り、彼女は外見があてにならないことを理解している。
 目の前のエトランジェが、ただ軽口を叩くだけの男でないと確信している。
 現在、スピリット達はそれぞれが光陰とミトセマールを取り囲むように散開していた。
 左右に赤と緑の組が一つずつ。ミトセマールの後方に青。光陰の後方に黒。
 それぞれマナの消耗はあるが、肉体は十全。傷一つ負っていない。
 だが、彼女達がミトセマールを捉えることはできない。傲慢ではなく厳然として聳える事実だ。
 この状況から自分を斃そうというならば、全方位からの同時攻撃か──
(いや、そう考えるのは早計か)
 どんな手段を打ってくるかは分からないが、最も警戒すべきなのが目の前の男であることに変わりはない。
 そしてどんな策を弄そうと、エターナルとしての力と矜持を持ってそれを越え、真正面から叩き伏せるだけだ。
「それで、どうやってあたしを斃すって?」
 ミトセマールが口火を切った。これが最後の会話になるだろうことは、対峙する両者とも理解していた。
「ああ……」
 光陰は小さく息を吐き、そして、

「──こうするのさ!」
 全力で後退した。
 同時に周囲のスピリット達がそれぞれ動き出す。ミトセマールは凄惨な笑みを浮かべた。
「部下を護ると言ったやつが大層な振る舞いじゃないかい、えぇ!?」
 言葉とは裏腹に、むしろその行動を評価していた。
 光陰は後退しつつ神剣にマナを収束させている。一度引いて、強力な一撃を叩き込むつもりなのだろう。
 それでこそだ。力及ばぬ者が勝利を得ようとするならば、何かを犠牲にしなくてはならない。
 十全たる勝利を収めるためには、部下など消費物の一つとして切り捨てなければならない。そして、
「それを叩き潰してこそ、無為に帰してこそ! あたしも愉悦を得られるってもんさぁぁぁ!!」
 左右で膨れ上がっていくレッドスピリットのマナを無視し、ミトセマールは牙獣を走らせる。
 追いすがる暴虐は容易く光陰へと追いつき、その爪を突き立てんとする。
「ハァッ!」
 それより疾く、光陰は〈因果〉の一太刀にて牙獣を両断し、
 ──二つに分かれた獣の向こうから飛来した〈不浄〉に絡め取られる。ミトセマールの口に笑みが浮かんだ。
(これで──!)
「そう、終わりさ」
「!?」
 にやりと光陰が笑い、身体を後ろへと引く。
 二者の間で、ピンと〈不浄〉が張りつめ、ミトセマールがたたらを踏んだ。
 タイミングを合わせて、左右からオルファとナナルゥの神剣魔法が斉射される。
「舐めんじゃ、ないよっ!」
 瞬間的に放出したオーラフォトンによって、火球の連弾を全て消し飛ばす。

「まだです!」「だよ!」
 声は斜め前方、それも両側から聞こえた。回り込んだエスペリアとニムントールが、懇親の力を込めて槍を突き出す。
 だが、それもブラフとミトセマールは判断した。彼女の存在しない眼は、後方から忍び寄る鋭気を捉えている。
 地を這って跳ね上がるセリアの剣と二本の槍を、ミトセマールは上空に跳躍することで逃れた。
(仕切り直すしかないか。一旦〈不浄〉を解いて、それから各個撃破に──!)
「悪いが、させるわけにはいかねぇな!」
 がくんとミトセマールが強い力で引っ張られた。
〈不浄〉の先に意識をやれば、溜め込んでいたマナを全て放出して、光陰が踏ん張っていた。
 光陰の手はしっかりと〈不浄〉を握り締め、振り解けない。慣れ親しんだ武器こそが、今や彼女を縛る鎖だった。
 空中で完全に無防備となったミトセマールを睨みつけ、光陰が腹の底から叫んだ。
「走れ、ヘリオンッ!」
「はいっ!」
 光陰の肩を足掛けに、ツインテールの少女が陣風となって〈不浄〉の上を疾走し、──そして、駆け抜けた。

 ──その刹那、ミトセマールには選択肢があった。
 ここまで追い込んだ光陰は大したものだが、まだミトセマールは余力を残している。
 一瞬、そうほんの一瞬〈不浄〉を手放して両手が自由になれば、体捌きだけであしらうのは難しくない。
 この攻撃をかわしたあとで再び〈不浄〉を手にすれば、もはや彼らに手はなくなる。
 だが、ミトセマールはそれができなかった。彼女の手は〈不浄〉を握って離れなかった。
 それどころか指の一本でさえ動かせない。まるで呪いのように、身体が凍り付いていた。
(呪いか……確かに、そうかもしれないねぇ)
 居合いの一閃が己の臓腑を切断する感触を味わいながら、ミトセマールは自嘲した。

 エターナルに寿命はないが、死はある。
 契約した上位永遠神剣の本体が破壊されるか、永遠神剣を手放した状態で死ぬと、もう二度と蘇ることはないのだ。
(ざまぁない。一人も仕留められず、あまつさえこの醜態か──)
 ミトセマールは、テムオリンの部下だ。やがて全ての永遠神剣が一つに集うとき、共に滅びる運命にある。
 部下として、指揮官のために動こうとするのであれば、ミトセマールは〈不浄〉を手放し反撃すべきだった。
 それができなかった。彼女は彼女自身が口にした理念に反した。
 彼女は久しく忘れていた、死の恐怖に囚われたのだ。死ぬかもしれないという曖昧な恐怖が、彼女を縛ってしまった。
(人のこと、言えたもんじゃなかったね)
 見事に自分も仲間も喪わぬまま勝利を収めた光陰を思い浮かべ、自らを恥じつつも、しかし〈不浄〉は手放さない。
「ま、今回はこれで終わりか。仕方ないね、良い経験になったと、思うことにするさ──」
 笑いながら、ミトセマールの身は〈不浄〉と共にマナへと還っていった。

 ミトセマールが完全に消滅するのを見届けてから、光陰は倒れた。
「光陰ッ!」
 今日子が駆け寄ってきて抱き起こす。肉体の損傷は、思っていたよりも大きかったようだ。
「すまん、大丈夫だ」
 エスペリアの回復魔法を受けながら、光陰はなんとか自分の身を支える。
 なんとか、勝てた。だが勝利を喜ぶ余裕も今はない。もう一人のエターナルが、悠人達のところにいるはずなのだ。
「向こうは、どうなって──」
 そうして光陰が顔を向けた、その瞬間だった。
 天を衝くような炎の柱が、キハノレの近くに屹立していた。

 いきなり、時深の身体が強い力で後方に引っ張られた。
 三度目の急加速に肺が呼吸をし損ねる。遠のいていく視界の端に──ヒミカの姿があった。
 後ろにいたはずの彼女が何故前にいるのか、一瞬理解が及ばなかった。
「何を」
 突っ立っているのだと、そう発音することはできなかった。
 マナを込めたヒミカの掌底が、時深の腹をしたたかに殴りつけた。
 さらに速度を追加され、時深の身体がすっ飛んで、その意味を問わんとする前に──
 左足が消滅した。
「、な」
 地を砕いて現れ、天を衝くように伸び上がった炎の柱が、時深の左足を奪っていったのだ。
 それは先程から飽きるほど見てきた、うねり渦巻く炎蛇の姿であり、
(地面の下を、潜らせて──)
 ついさっき空振りし、地を穿った『四肢』の一本。それが時深とヒミカの退路を塞ぐように回り込んでいた。
 さらに上方と左右からも炎が伸びた。死の抱擁は途中からいくつにも枝分かれし、球形の檻を編み上げる。
 時深はその外側に逃れた。だが、時深を逃がしたヒミカは、
「ヒミカさ──!」
 伸ばした手は意味を成さない。閉じゆく業火に炙られながら、ヒミカは小さく微笑んで──
 そして、炎に呑み込まれた。

 時深の腕を引っ張ったとき、ヒミカは「ああ、やっぱりか」と思った。
 ントゥシトラは、恐らく自分が致命的な一撃を喰らうことを予測していた。
 そして逃れられないと知るや、時深とヒミカを相討ちに持ち込もうとした。
 死に至る己の、その向こう側の勝利のために、防御の一切を捨て『四肢』を回り込ませた。
 足元をくぐらせた一本で退路を塞ぎ、残り三本で二人を抱き締めるように灼き殺そうと。
 それを何故ヒミカが瞬時に理解できたのかは、彼女自身も与り知らない。
 だが理解したときには、身体は勝手に動いていた。魂にまで染み付いた、戦士としての判断がそうさせたのだ。
 ここで二人とも斃れるわけにはいかない。ならば時深とヒミカ、どちらが生き残るのが正解か。
 ──答えるまでもない。
(ユート様は、悲しむでしょうけれど)
 それだけは心残りだ。きっとすごく悲しんで、すごく怒って、赦してなんてもらえないだろう。
 だが不安はない。
 自分がいなくなっても、彼はきっと全てをやり遂げてくれる。
 自分を捨てるような戦い方はするなと、かつて否定された。──誰に? 誰だっただろうか。
 でもこれは違う。捨ててなどいない。自分がここからいなくなっても、意志は皆が継いでくれる。心を、置いていける。
 夢に向かおうとする意志は喪われたりはしない。きっとそこで、自分は生き続けていける。
 ……身体が炎に包まれていく中で、ふとヒミカは気づいた。
(ああ──)
 焼けついた喉はもう声を出せない。それでもヒミカは、ントゥシトラに向けて、言った。
(きっとあなたも、私と同じなのですね──)
 自分がいなくなっても、残る仲間が目的を果たしてくれるはずだと。
 だからントゥシトラは、自分の命と引き換えに、時深とヒミカを殺すことを迷わなかったのだろう。

 無論、確証はない。意思疎通が可能かどうかさえ分からない存在だ。だがヒミカはそれを確信できた。
 何故ならばントゥシトラは、今になってなお諦めていないのだから。
 残せる全ては残して、持っていける全ては奪っていこうと、滅びゆく肉体を奮わせている。
 それを、ヒミカは看過しない。
 その、戦士としての最期の輝きが、愛する人を害するというならば。
 我が意を以って、その気概を打ち砕こう。
(あなたは、私が連れていくわ)
 己の死も、彼の死も、ただ待つなどとは最早思わぬ。今この手でその命を砕き、終焉をくれてやる。
「…………!」
〈赤光〉を、その柄を強く噛み締めて保持する。自由になった両手を崩れゆくントゥシトラの中に突っ込んだ。
 痛覚は最初の半秒で麻痺した。同時に感覚そのものも消え失せた。それでも記憶と勘だけを頼りに、それを探した。
 一旦引き抜いた右腕は途中からなくなっていた。露出した骨まで黒焦げだった。
 左腕も同じだろうと思っていると、とうとう炎に網膜を焼かれた。灼熱の業火が視覚野に焼きついて消えなかった。
 全身の皮膚感覚も消え果てた。自分が立っているのかさえおぼろになる。
 それでも、短くなった腕で燃え盛る血肉を掻き分けた。
 見つけた。
 いつの間にか地に落ちていたントゥシトラの身体を、両肘と右足で引き裂いた。
 まだ残っていた筋繊維が軒並み千切れて、左脚の膝が砕けて身体が傾いだ。
 しかし、見つけた。いまやヒミカ唯一の感覚器となった〈赤光〉が、〈炎帝〉の本体を捉えた。
(これ、で……!)
〈赤光〉ごと首を振り上げて、
(さようなら、ユート様)
 振り下ろした。

「ヒミ……カ……?」
 小さな、何かが割れるような音が、悠人の意識を呼び覚ました。
 炎の中に、二つの影がある。そのうち一つはよく見知った形をしていた。
 そこで悠人は気づいた。さっき聴いたのは、〈炎帝〉と〈赤光〉、いずれが砕けた音か。
「待て……」
 手を伸ばそうとしても、まともに身体は動かなかった。
 あそこに、ヒミカのところに行かなければならないのに。彼女を助けなければならないのに。
 なのにどうしても、身体は動いてはくれなかった。喘ぐ息だけが喉から漏れ、震える指が地面を掻いた。
 護ると誓ったはずだ。そのために自分はここにいるはずだ。
 彼女と世界から忘れられても──彼女と世界を護ろうと。
 そうまでして得たはずの力は、どうしてあの場所に届かないのだ。
 ああ、いや、おい、待て。待ってくれ。ちょっと待ってくれ、それはないだろう。
 努力は必ずしも報われはしない。それは分かっている。この世界に来ていくつもの理不尽に出遭ってきた。
 何度も命を奪われかけ、その度に、己に降りかかる理不尽を他者に押し付けて生き長らえた。
 それが嫌になって、誰も彼もを護ろうとした結果が、これだと言うのか。
「ヒ……ミカ、ヒミカぁ……!」
 うわ言のように名を呼びながら、萎えた手足を奮い立たせた。力を振り絞って立ち上がり、けれどそれを止める者があった。
「ダメです、悠人さん! 行っては、あなたまで……!」
 誰が何を言っているのかもよく分からず、ただ煩わしいと思って、しかしもう自分にはそれを振り解く力もない。
 その間にも影は形を失っていく。断末魔の叫びは炎となって、全てを奪っていく。
 地にひざをつくような姿勢から、腕が落ち、肩が落ち、──首が落ちた。

 ぼろりと、灰になった、何よりも大切だった少女の末路に、肺は引き攣るように息を吸い込み、心臓は鼓動を止めた。
 渦巻いていた炎は、束縛する何かから解き放たれたかのように高く高く燃え上がる。
 高熱による温度差からくる風が、悠人と時深の全身を嬲っていく。
 それは生者を弄する地獄からの嘲りであり、死者を弔する鐘の音だ。
 心臓が再び動き出し、肺から空気が押し出された。
 吐き出したとき、それは叫びだった。

「ヒミカァアァァァァァァ────────────ッ!!!」

 燃える。
 燃えていく。
 炎の妖精の全てが燃え落ちる。
 魂に宿る全ての記憶も思い出も一切合財。
 魂が孕む全ての誓いも約束も一絡げに。
 燃えて。
 落ちる。