紅蓮の剣

『汝に問う』
 
 何処でもない何処か、何時でもない何時か。
 時の迷宮にて試練を受ける者は心せよ。距離のない道行、その半ばにて、立ち塞がるは三頭の龍。
 彼らは力を求める者に問いを与えるだろう。
 戦う力を求める者は、偽りのない意志を以て挑むが良い。
 だが心せよ。偽りを抱く者、強き意志を持たぬ者、彼らの威風の前に挫ける者。
 視線も、足も、信念も、僅かにも退こうものならば、彼らの爪が汝を引き裂こう。
 爪を逃れ牙を掻い潜ろうと、その先に待つのは終わることない永遠の旅路のみ。
 偽ることなかれ、迷うことなかれ、惑うことなかれ。
 剣は、汝の力に非ず。
 
〝嵐を呼ぶ者〟ヴァルデルタルが、まず口を開く。
『この先に眠るのは、人の身には扱えぬ力。過ぎたる力はまず使い手をこそ滅ぼすだろう』
 それに続くのは"高みに立つ者〟ヤールトゥーレ。金色の瞳が、哀れむように細められた。
『今汝が立つのは、引き返すことも出来ぬ黄泉路。富も名声も幸福も此処にはない。あるのは悠久の孤独のみ』
 最後に、"光を纏う者〟ジルドカーンが、問う。
『力を欲するか、弱き者よ。汝は、汝の敵を滅ぼす力を欲するか』
 六つの金眼が、高みより悠人を見下ろした。巨躯の纏う畏怖は叩きつける風のよう。
「違う」
 だがそれらを前にして、悠人は一歩も退かず、言った。

「俺が欲しいのは、敵を斃す力じゃない。誰かを、大切な人達を護る力だ」
 六つの瞳を、見返して。
 龍達は沈黙を保ち、悠人を見下ろし続ける。
 悠人は視線を逸らさない。己の意志を貫き通すように、退かない。
 やがて、ジルドカーンが笑みを見せた。
『──良かろう。汝の意志は確かに受け取った。彼らに相対するに相応しい。
 だが心せよ小さき者。強き意志は、それがどんなものであるにせよ力になる』
『求めは力となる。良き願いでも、悪しき求めでも。
 誓いは力を呼ぶ。どんな誓いでも、それが純粋な想いならば』
『己のみが正しいと思うべからず。汝に敵対する者は、汝と同じ強さの想いを抱く者。
 剣は、汝の力に非ず。先へ進もうとする魂こそが、道を切り開く力となろう』
 口々に龍達は告げ、翼を広げた。
 龍達が床を蹴る。飛び立ってすぐ、巨体が空間に溶けるように消えた。
 彼らのいなくなった後には巨大な門扉があり、それが、悠人の目の前で開いていく。
 
 ──光が満ちる。
 自分というものを見失いそうな浮遊感の中。
 悠人は、自分の取るべき『剣』を見た。

 ……戦況は芳しくなかった。
 突如現れたロウエターナルとその眷属、エターナルミニオンは、瞬く間にソーン・リーム自治区を制圧。
 台地を下り、旧マロリガン領地へと侵攻を開始した。
 現地の軍が応戦するも、次から次に攻め入るミニオンの前に撤退を余儀なくされ、現在は睨み合いが続いている。
 光陰と今日子、二人のエトランジェに加え、カオスエターナル・時深の協力を以てしても、それを退けることは叶わない。
 ヒミカは城の窓から、遥か遠くに望むミスル山脈を望んだ。今日は晴れているからか、山の稜線が良く見える。
 あの向こうに、この世界を脅かす敵がいる。
 ヒミカ自身仲間と共に度々前線へと赴いているが、戦いは常に防戦。先へ進める状況ではなかった。
 それを状況を打開するために、今日、時深の仲間のエターナルが駆けつけてくれた。
 ──聖賢者ユート。
 大仰な名前の割に彼は普通の青年で、聖賢者という称号よりも名前で呼ばれることを好んだ。
 人懐っこい表情をする彼だったが、その向こうにある力は本物だった。
 現に、突然姿を現したテムオリンと名乗るエターナルを前に一歩も退かず、彼女の召喚した龍を一撃で斃した。
 小型とは言え龍は龍、それをただ一刀のもとに斬り伏せた彼を、軍の指揮を任せるに値するとヒミカは感じた。
 勿論、力だけを見てそう判じたわけではない。
 彼は、自分の仲間を誰も死なせないと言ってくれた。
 誰一人として犠牲を出さない──そんな、戦場においては夢物語でしかないことを、彼は本気で思っている。
 その在り方を頼もしく思う。エターナルとしての力だけではなく、その意志の強さこそを。
 ──ただ一つだけ。
 皆を遠くから眺める時、一度だけ見せた、寂しそうな表情だけが棘のように胸に残っている。

「時深。瞬はソーン・リームの一番奥にいるんだな?」
 夕暮れ時、悠人は城内の廊下を時深と歩いていた。
 先程大体の説明を受けはしたが、敵エターナルなどの詳細は時深にしか分からない。
「はい。キハノレの奥にあるこの世界の始まりの地には、シュン──〈世界〉と、テムオリンがいるはずです。
 そこに辿り着くまでに、テムオリンの配下のエターナル四人を倒さなくてはなりません。
 もっともまずその前に、多数のエターナルミニオンと、龍を斃さないことには、どうしようもありませんが」
 ……敵軍の中に龍がいる。それは、流石に悠人も予想してはいなかったことだ。
 とはいえそれはサードガラハムのようなこの世界の龍ではなく、先程ユートが斃したような『紛い物』らしいのだが。
 全土に散っていたミニオンは、現在旧マロリガン領スレギトを占領し、その動きを止めている。
 龍はスレギトとニーハスの間の山道に集結し、その数、確認できているだけでおよそ十数体。
 スレギトに集ったミニオン軍を切り抜けたとしても、その先にはより堅牢な龍軍の壁が立ちはだかる。
 ミニオンの数も半端ではない。かつてのサーギオス首都攻略戦にも匹敵する数が陣を構えているという。
 あの時は人間の兵士も多くいたが、今度はその全てがエターナルミニオンだ。苦戦は必至だろう。
「……このようなことになるとは、正直私も想像していなかったんです」
「時深は未来が読めるんだろ? なら、予想できない未来なんてないんじゃないのか?」
 何気なく悠人がそう言うと、時深は口をへの字に曲げて難しい顔をした。
「それはそうなんですけど、未来は無数にあるものですから。確定するまで分からないものなんです。
 実際悠人さんがヒミカさんとくっつく未来なんて、物凄く可能性が低いものでしたし──」
 そう言って、時深は何故かジト目で悠人を睨んできた。俺何かしたか、と心当たりのないまま寒気が走る。
「──光陰さんや今日子さんだって、結構な確率でマロリガンとの戦争の中で死ぬはずでした。
 なのにそれどころか、マロリガンのスピリット達もたくさん生き残っちゃいましたし、それに」
「戦争では人が死ぬのが当然なのに、俺達は、ラキオススピリット隊は一人も欠けることなく、生き残っている」

 苛烈な戦場を幾度も潜り抜け、しかし、一人の死者を出すこともなく。
 それは奇跡や偶然ではなく、悠人達自らが引き寄せた結果であり──そしてそれ故に、今の敵の姿がある。
「私達は、上手くやり過ぎたんです」
 それはテムオリンにとっても想定外だったということだ。
 だから彼女は悠人達の評価を上方修正し、自軍の戦力を必要以上に高めた。龍まで作り出すほどに。
 はぁ、と時深が憂鬱そうに溜息を漏らす。
「私の予想通りに行っていれば、彼女も余裕ぶったままあっさりと奥まで通してくれたんでしょうけれど」
「でも俺は、皆生き残っていてくれたほうが嬉しいからな。それに多勢に無勢は元々承知の上だったろ?
 足りない分は俺が埋めるさ。そのために、戦う力を手に入れたんだ」
 拳を握る。ヒミカの拳とぶつけた感触がまだ残っているかのよう。今、この手は無力ではない。
「……仕方ないですね」
 見ると、時深が少し呆れたような、諦めたような顔をしている。
「悠人さんが頑張るのに自分だけ何もしないんじゃ、まるでサボってるみたいじゃないですか。
 一肌脱ぎましょう。今の戦力で突破するのは、正直辛いですから」
「戦力のアテがあるのか? エターナルの仲間とか」
「まぁ、アテと言えばアテですが、私の仲間ではないです。皆、他のことで手一杯ですから。
 それに、流石にこの状況になれば、彼らも黙っていられない……と思うんですけど」
 言葉が急に歯切れを悪くする。悠人は訝しげに問うた。
「なぁ、そのアテって一体誰なんだ? さっぱり掴めてこないんだけど……」
「んー、いえ、期待に添えられるとも限らないんで、今は言わないでおきましょう。
 ただそうすると、決戦の少し前から私は軍から離れることになると思います。
 開戦に間に合わないかもしれませんし、最悪交渉決裂もあり得ます。その間、悠人さん一人でも大丈夫ですか?」

「……援軍が来る可能性が少しでもあるなら、是非もない。
 正直ちょっとしんどいかもしれないけど頑張る。だから、そっちは時深に任せたぞ」
「はい、任されちゃいました」
 時深が力強い笑みを見せる。と、その表情が何かに気付いたようなものに変わる。
 彼女が向けた視線の先には、こちらに向かって歩いてくるヒミカ。
 ヒミカもこっちに気付いてか、軽く頭を下げた。慌てて悠人も手を振って応じた。
「──あらあら、私は邪魔者みたいですね。退散します~」
 そこに何を察したのか、うふふふ、と全然笑ってない眼で遠ざかっていく時深。
 去り際に感じた悪寒を極力無視しつつ、悠人はヒミカに声をかける。
「よっ、こんばんわ……かな、もう。ヒミカ。何してるんだ?」
「こんばんわ、ユート様。これからちょっと身体を動かしてこようかと」
 ヒミカは笑顔で言うが、言葉の中にかつてのような柔らかさは感じられなかった。
 当然だ。ヒミカにとって自分は赤の他人である。
(けど、実際に目の当たりにすると結構辛いもんだなぁ……)
「? ユート様? どうかなさいましたか?」
「あ、いや……何でもない」
 思わず顔に出ていたらしい。何でもない、ともう一度繰り返して、悠人は切り出した。
「あー、ヒミカ」
 何でしょう、とヒミカがこちらの言葉を待ち構える。──そういう緊張が、自分と彼女の間の溝だ。
 何でもない、と撤回しそうになる自分を抑えて、悠人は言う。
「その……俺も付き合っていいかな」

 正直な話、ただ近くにいるだけでも辛い。
 あの時見たヒミカの泣き顔も、ヒミカの温度も、今のヒミカの中には残っていないのだから。
 それがエターナルになるということだ。あらゆる世界、あらゆる時間に置き去りにされるという、孤独。
 覚悟をし、受け入れ、けれど愛しさは変わらない。
 今もそう。三歩先を歩くヒミカを、今すぐにでも抱き締めたかった。
 見慣れた森の真ん中で、ヒミカは立ち止まる。
「ここは──」
「詰所裏の森です。一人で剣を振るう時は、いつもここを使っているので」
 悠人にとっても懐かしい場所だった。ここでヒミカとは二度、剣を交えている。
 記憶を頼りに見渡した木々は、例えば枝が折れていたり、幹の真ん中あたりで切断されているものは、一本もない。
 あの時戦った痕跡は、何も。
「ヒミカは、自分の剣の腕には自信があるのか?」
「……どうでしょう。アセリアやウルカなどには、未だに敵いませんし」
「ふぅん。じゃあさ、ちょっとここで剣を交えてみないか」
 え、とヒミカが驚いたような顔をする。
 ユートよ、と〈聖賢〉が諌めるように意志を飛ばしてきた。いいから、とだけ返して、悠人は続ける。
「いやほら、俺、一応これからヒミカ達と一緒に戦っていくわけだし。本番の前に皆の強さを把握しておきたいんだ」
 嘘だった。そんなことしなくても、皆の強さも、長所も短所も、適当な運用方法も、全て分かっている。
「……そういうことでしたら、僭越ながら。正直、私もユート様の実力を、自分の腕で知りたかった」
 ヒミカは一礼し、三歩下がって剣を構えた。悠人も腰を落とし、正眼に剣を握る。
「本気で来い。でないと、怪我するかもしれないから」
「言いましたね…!」
 ヒミカが獰猛に笑う。ぐぅん、と沈み込むようにマナが剣先に収束していった。

「──参ります!」
 風が逆巻き落ち葉が舞い上がる。身体は低く、影のように地を這う。
 悠人の足元に滑り込むヒミカ。差し出すのは剣ではなく、草を刈るように薙ぎ払う脚。
 爪先のステップで悠人はそれを飛び越え、身体を丸めて〈聖賢〉を上段から振り下ろす。
 旋風を伴い上昇する〈赤光〉が迎え撃ち、宙空にあった悠人は、衝撃の中和により刹那の浮遊感を得る。
 勢いに逆らわず三歩分後ろに着地、肉薄する赤い風をまっすぐに見た。
 ぎぃ、と耳障りな音。悠人の斬り上げとヒミカの唐竹割りが二人の間で削りあい、火花と軋みが宙に弾ける。
 力負けしたのはヒミカのほうだ。細い身体が縦に回転しながらすっ飛んでいく。
 後方には太い木。距離を確認、空中で猫のように身を捻り、幹に垂直に着地する。
 悠人の剣は疾く、重い。剣の衝突だけで生まれた慣性は、ヒミカが一秒以上幹に足をつけていることを許す。
 慣性が重力に負けるより速く、ヒミカはマナをスフィアハイロウに流し神剣魔法を発動させる。
 循環、収斂、そして開放。目標は剣を振り上げ切った悠人。四つの火球が飛翔する。
 軌道は悠人の左肩から右脇腹を狙うように斜め一列に。火球は威力よりも速度を重視している。
 右手で剣を振り上げた悠人には撃ち落としにくい位置だ。
「…………!」
 勢いに引っ張られる右腕を力任せに左へと流し、頭上で左手との両手持ちに切り替え振り下ろす。
 大きく弧を描くような軌道は火球全てを一閃し破裂させ、
 ──炸裂する火炎の脇をすり抜ける、ヒミカの姿を見る。
〈聖賢〉は右に振り落とされている。無理な駆動を行った筋肉はその一瞬、軋んで止まっていた。
 赤い影の突き出す切っ先が、左脇腹を抉る光景を幻視する。
 悠人は身体を右に倒しながら、片足を軸に一回転。背面から、掠めていくヒミカの剣にかち合わせる。
 勢いを押し潰され、ヒミカの身体があらゆる慣性と重力を失って静止する。
 足裏で地を砕いて礎とし、無防備なその姿に、握り直した剣を真っ直ぐに振り下ろした。

 ヒミカは〈赤光〉を頭上に構え、マナの壁を展開。だが薄い。
 悠人の剣はあっさりそれを砕き散らす。止まらぬ刃が〈赤光〉に触れ重量を感じる寸前、ヒミカは真後ろへ跳躍。
 着地の勢いを捻りを加えた震脚として殺し、地面に跳ね返されるように飛び出す。
 切っ先が悠人の頭の横を掠めた。頬の皮一枚と引き換えに、〈聖賢〉は大気を縦に叩き割る。
 ヒミカが背後へステップ。鼻先を通り過ぎる分厚い刀身。退き様にヒミカが伸ばした剣を、悠人は見ずに躱した。
 ベクトルをずらされた〈聖賢〉が燕の如く翻り、舞い上がる枯れ葉を伴い再び上昇。
 そして更に一歩、悠人の右足が踏み出された。弧の頂点で再び翻って、袈裟懸けに落ちる〈聖賢〉。
 咄嗟に立てた刃の上を、重い振動を与えながら〈聖賢〉が落ち、今度こそ切っ先が土を穿った。
 痺れの抜け切らぬ手から放たれた一閃はなおも冴え、だが、半身ずらした悠人の左脇に挟まれる。
 得物が自由を喪う。一瞬の迷いもなく、ヒミかは〈赤光〉を捨て後退した。
 ヒミカを追って踏み込んでくる斬閃。〈赤光〉は脇から落とされ自由落下を開始。
 立て続けに繰り出される銀の軌跡に、前方に飛び込むことで応えた。剣風を寒気として感じながらも、〈赤光〉を掴む。
 振り返り剣を薙がんとし──額に、氷のように冷たい感触を覚えた。
 顔を上げれば、一瞬の内に身を翻した悠人がヒミカを見下ろしている。
 突きつけられていたのは、〈聖賢〉の柄だった。これが実戦であれば、ヒミカの頭蓋は砕かれていただろう。
〈赤光〉を捨て、両手を挙げる。悠人も〈聖賢〉を引き、座り込んだままのヒミカの隣に腰を下ろした。
「流石に、強いですね」
 足を崩して座り直しながら、感嘆を含んだ声で言う。率直な賞賛に、悠人は照れながら答えた。
「俺なんかまだまだだよ。エターナルとしては新参でさ、力の使い方とか、まだ良く分かってない」
「ですが、太刀筋は見事なものでした。私達の国のものと似ていますが、良く洗練されています」
 似ているどころかそのもので、悠人の太刀筋は戦いの中でそれを自分なりに噛み砕いていった結果だ。
「……まぁ、それなりに剣は使ってきた。そういうヒミカも結構なものだったと思うけど」
「いえ、私こそまだまだです。現に、ユート様には敵わなかった」

 そう本人は言うが、ユートから見れば、ヒミカの剣には自分がいなくなる前より、更に磨きがかかっている。
 恐らくあれからも、鍛錬だけは欠かすことなく続けてきたのだろう。
「……一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「ん? ああ、なんだ?」
 懐かしい思考に耽りそうになった自分を引き戻し、悠人は言葉を待つ。
「昼間、ユート様は私達を見て哀しそうな顔をしていましたが……どうしてですか?」
「────────」
 言葉を喪う。そうか、と思った。押し殺したつもりでも、顔に出ていたのか。
 そしてそれを、よりにもよってヒミカに見られてしまったことが、何よりも悔しい。
「あ……失礼しました。聞かなかったことにしてください。ちょっと気になっただけなんです。誰にだって──」
 いや、と悠人はヒミカの言葉を遮った。
「そんなことないから。いや寧ろ、……聞いて欲しいことかもしれないから」
 不意に早まった心臓を意志の力で押さえつけながら、悠人は続ける。
「昔と、昔一緒だった仲間と、皆が余りにも良く似ていたものだから」
「そんなに似ていたのですか?」
「ああ。だからちょっとその時のことを思い出しちゃってさ。もう、会えないと思うと」
 もう二度と、あの場所に戻れないと思うと。
「大切な、仲間だったのですね」
「もうこれ以上ないってくらいに、な」
 沈黙が降りる。森の中で、風の音だけが聞こえてきた。
「──すいません。変なこと聞いてしまって。やっぱり、余計なお世話でしたよね」
 黙りこくってしまった悠人に、申し訳なさそうにヒミカが言う。
「いや、そんなことはないよ。俺自身、聞いて欲しかったんだと思うしさ」

「いいえ、やっぱり失礼なことをしてしまった。会ったばかりなのに、こんなに親しそうに話してしまって。
 ……ですが、おかしな話です。何故か、ユート様とは初めて会った気がしなかった。
 そうでなくては、こうして話していることもなかったでしょう」
 初めてなどではない。そう言い出せたらどんなに楽だったろう。
「いや……俺もだよ。戦ってる最中も、何だか、やりやすかった気がしたしさ」
 自分の心を誤魔化すように言う。だがヒミカは、そうですか?とやけに明るく答えてきた。
「実は、私もなんです。ハリオン達と訓練する時より、次に何をしてくるか分かりやすかったと言うか。
 戦場では、私達は良いパートナーになれそうですね」
 ずきん、と胸が痛んだ。なれそう、なのではなく、なっていたのだと、どれだけ叫びたいと思ったことか。
「あ──申し訳ありません、また変なことを言ってしまって」
 悠人の沈黙を別の意味に捉えたのか、ヒミカが頭を下げる。
「……いや、そんなことはないよ」
 抱き締めたかった。今すぐにでも、自分達がどこでどう戦ってきたのか、最初から最後まで教えたかった。
 この森で剣を合わせたこと、ランサでの防衛戦のこと、重ねた肌の温度、別れ際に打ち付けあった拳の感触。
 それらを必死に覆い隠し、悠人は軽くヒミカの頭に手を置いた。指先から伝わる強張りを意識しないようにしながら。
「期待してる。一緒に戦って、絶対勝とうな、ヒミカ。誰一人、欠けることなく」
 ヒミカは一瞬きょとんとしたが、すぐに力強い笑みで答えた。
「はい、私とユート様で、皆を護りましょう」
『俺とヒミカで皆を護るんだからな』
 その言葉は──
 あの別れの森の中で、悠人が言った言葉だ。
 何故それをヒミカが覚えているのだろう。自分の何もかもが喪われたはずの世界で、この少女は。

 一瞬、自分がかつての場所に戻ってきたのだと、錯覚した。
 ……偶然のはずだ。たまたま同じ言葉が重なっただけで、自分が意識しすぎているだけ。
 だが、それでも。今胸に感じているこの熱は、確かにあの時と同じものだ。 
「ああ──必ず」
 今は、それだけ言うのが精一杯だった。
 
 ──七日後、スレギトに駐留していたエターナルミニオンの軍勢が一斉に進軍を開始した。
 まるでエターナルとなって帰ってきた悠人が、戦線を整えるのを待っていたかのようなタイミングで。
 否、実際にそうだったのだろう。テムオリンは、この戦いを愉しんでいる。
 弱者が足掻くのを楽しみにしている。そういう人物なのだと時深は言っていた。
 対抗すべく、ラキオスだけでなく、ファンタズマゴリア全土から集った軍勢はある一点に集結する。
 砂漠の入り口。ヘリヤの道の途中に建設された、ランサへの侵攻を防ぐ砦。
 かつてマロリガンとの戦いの折、悠人達が攻略の足がかりとしたその場所は、この戦いにおいても本陣を構える場所となった。
 ミニオン達は旧マロリガン首都の方角へは軍勢を進めることはなく、全軍、ラキオスへの道を目指してきている。
 故に、ここが最終決戦場であり、最終防衛ライン。
 続々と人間の兵士とスピリットが終結し、技術者総出で準備を整えている中に、時深の姿はない。
 この侵攻を予見していた時深は、数日前にラキオスを発っている。
 行き先は告げられていない。だが、時深の帰還まで護り通す約束をした。
 ならば、それを果たすまでだ。
 砂の果てを見る。刻一刻と景色を変えていく砂漠は、今は凪いだ海のように遠くまで見渡せた。
 ミニオンの軍勢の到着は、明日の明け方。
 それが、悠人にとって、この世界での最後の戦いの開始時刻となる。

 悠人達が戦の準備を進めている頃、時深は『それ』と対峙していた。
 本来、昼夜の関係なくそこは暗く、光も届かぬ場所で──しかし、ここだけは蛍火のような明るさに包まれていた。
『我に戦え、と?』
 厳かな言葉は、周囲の岩壁に反響しているせいではあるまい。
 それは空気を震わす声ではなく、魂そのものに響く不可視の振動なのだから。
 時深は眼前の巨大な気配に気圧されることもなく、言う。
「そうです。力を貸してくれませんか?」
 は、という声。嘲りよりも無気力が勝る声だった。
『虫の良い話よ。我等を汝等の都合で斯様な場所に落とし、蓋代わりにした挙句、後は放置。
 それが今になって助力を請おうなどと──我等を都合の良い唯の道具と思っておらぬか?』
 時深は沈黙を保つ。気配は続けた。
『我等を生み出したのは汝等だ。それは感謝しよう。自我無くして我は我たり得ぬ。
 だが、長き時の中で我が同胞はその自我さえも喪い、あまつさえ人に殺されもした。
 あの哀れなガリオーンを見よ。最早獣より幾許かましという程度の智慧しか残っておらぬ。
 成程、汝等は我等の親。親の言うことを聞くのは子の務めでもあろう。
 しかしこうなるまで放って置いたのは誰だ? 我等を置き去りにし、一度も振り返らなかったのは』
「……そのことについては謝ります。私達はあなた達に頼り過ぎていた。
 ですが、彼らの死の裏には、ロウエターナルの策略があった。そのことだけは分かってください」
『その責の半分は、それを止められなかった汝等にあることも忘れるな』
「分かっています。……だからこそ、今、力を貸してくれませんか。これ以上の悲劇を食い止めるために」
『虫が良い、と言った』
 気配は今度こそ嘲笑った。

『少なくとも彼奴等の味方にはならぬが、汝等の味方にもならぬ。己の負債は己で帳消しにするが良い』
「テムオリンはあなた達と同型のモノを使役し、戦に用いています」
『────────』
 気配の質が無関心から動揺に変わるのを察し、時深は畳み掛ける。
「あなたが私達を恨んでいるのは分かりました。そのような相手に無理に助力を請うことはできません。
 ですがあなた達は、かつて王者としてこの世界に君臨していた。
 ここに落としたのは私達です。でも、この長きを過ごしてきた世界に、あなたは少しの愛着も感じないのですか?」
 気配は沈黙を保つ。それは何かを思案しているようでもあった。
「あなたの言う通り、己の負債は己で帳消しにしましょう。この世界は、私達が護ります。
 共に戦えとも言いません。ただせめて、少しでもこの世界を愛しているのなら。
 ──〈再生〉に至る道を、切り開いてはもらえませんか」
 長く、沈黙があった。白い光の中、気配は初めて、その双眸で時深を見た。
『……解せんな。何故汝はそこまでこの世界に拘る。
 汝等は幾つもの世界を渡り歩き、時に救い、時に救えず、そしてそれを幾度も幾度も繰り返してきたはずだ。
 混沌の永遠者・倉橋時深。汝は何故そこまでして、三千世界の一つに過ぎぬこの世界を救いたがるのだ』
「そんなの、簡単です」
 時深は胸を張り、笑顔で答えた。
「私の愛した人が護りたいと思っている世界だから」
 気配は面食らったように瞼を瞬かせた。彼がこのように驚く様などまず見れまい。時深は少しだけ愉快な気分になった。
『……ローガスの眷属は、何と?』
 気を取り直した彼は、確認するように問うた。
「あなたの決定に任せる、と」
 気配は沈黙する。長く沈黙する。時深はただ、その答えを待った。

 空の青と砂の黄色で色分けされた世界。太陽の昇りきらぬ砂漠には、まだ夜の冷たい空気が残っていた。
 ダスカトロン大砂漠。生命が住まうことを許さぬ砂の海から、生命を殺す意志に満ちた鳴動が押し寄せてくる。
 悠人は砂に〈聖賢〉を突き立て、ただ砂の果てを、その向こうより来るであろうまだ見ぬ軍勢を睨む。
 背後には、光陰、今日子達を先頭とするスピリット達と、人間達からなる軍。
 悠人は、それら全ての人々の先頭に立っている。
 ふと、悠人は太陽の昇り来る地平線の向こうに、陽の光を遮る砂嵐が立つのを見た。
 風が吹き始めたのだ。頬を撫でる風ではなく、命を削り取っていくだけの、戦の大風が。
「来るぞォッ!!」
 砦の上の物見から兵士が叫ぶ。徐々に近づいてくる砂の雲は、決して自然現象などではない。
 それは足取り。疾走するエターナルミニオンが巻き上げる砂が重なり合った、軍勢の侵攻を示す狼煙である。
「総員、抜刀ォ────ッ!!」
 悠人が声を張り上げる。兵士達とスピリットの勇ましい声が渇いた大気を震わし、金属の擦れ合う音が共振する。
『あーあー、聞こえるかー聞こえてるなー』
 砦の上から声を飛ばすのは、エーテル技術で作った拡声器を持つヨーティアだ。
『準備はいいな。作戦通り……っつーても、作戦って呼べるほど上等なもんじゃないけどさ。
 まぁ兎も角、皆、自分に課せられた役割をしっかり果たしてくれ。
 ……あとこれは、ほんとは私みたいな、直接戦わない技術班の人間が言えることでもないんだけどな』
 そこで、ヨーティアは一度言葉を区切る。拡声器越しに、すぅ、と息を吸う音が聞こえ、
『絶対勝つぞ! 世界にマナの導きを!!』
 自らの意志を鼓舞するように歓声が重なり合い、天に掲げられた剣が槍が陽光を反射して煌いた。
「行くぞ皆ぁッ!」
 応、という声は怒涛となって大気に波打つ。それは己の背中を預けられる声だ。
 悠人は突き立てた〈聖賢〉を引き抜き、足に力を込める。


 見よ。朝焼けと共に死がやってくる。
 距離、目視で一二〇〇メートル。剣先をまっすぐに前方へ向け、
「ラキオススピリット隊ッ、突ッ貫────────────ッッ!!」
 マナの爆発を推進力に、悠人を先頭とする一団が飛び出した。
 ……ヨーティアの言った通り、これから悠人達が取る行動は到底策と呼べるようなものではない。
 為すべきはただ一つ、『道を切り開き、前に進む』。
 エターナル・悠人とその永遠神剣〈聖賢〉の破壊力を頼りに敵陣を切り崩し、そこを真正面から精鋭部隊が突っ切る。
 精鋭は、従来のラキオススピリット隊に、旧マロリガンの稲妻部隊を組み込んでいる。
 崩れた敵陣は、大陸全土から集められた人間・スピリットの軍が相手をする。
 突破した悠人達はそのまま龍の群れとの戦闘に突入し、これを撃破、進軍し、そのままソーン・リームへと進む。
 少数による浸透突破と、大軍による真正面からの合戦。
 ……この戦いで、多くの犠牲が出るだろう。
 エターナルミニオン。如何にその力が作り主に及ばぬとは言え、仮にもエターナルの眷属である。
 スピリットと同等かそれ以上の力を有する彼女達との戦闘は、双方共に甚大な被害を齎すだろう。
 否、死をも怖れぬミニオンの軍勢は、混乱する戦場においては計り知れない脅威となる。
 悠人にしてみれば、後続の兵士達に『戦って死ね』と言っているようなものだ。
 それを了承した上での、この『作戦』だった。
 本当なら、仲間の犠牲を嫌う悠人がこのようなものを認めるはずがなかっただろう。
 勿論認めたくなかった。だがそうでもしなければ勝てない、とも悠人は理解していた。
 仮に少数精鋭であの無数の敵を殲滅できたとしても、疲弊した仲間は、その次に待ち構える龍の群れの前に膝を屈する。
 強引に強行突破しようとしても、龍に足止めされたところで追いつかれては意味がない。
 山越えや迂回をしてソーン・リームに攻め入っても、その間にミニオンの軍勢がラキオスを蹂躙する。
 無視することも、押し留めることも出来ない大軍。──それが目の前の軍。

 故に、悠人達は戦端を切り開き、最奥まで突き進む剣とならねばならなかった。
 悠人達は、仲間達の道を切り開く剣となり、友軍は、悠人達の道を護る盾となる。
 ──そう、仲間だ。
 始めは、アセリアやエスペリア達だけだった。やがてそこに、ヒミカ達が加わった。
 光陰と今日子と再会し、共に戦わなくともヨーティアやレスティーナも大切な仲間だった。
 サーギオス戦では、憎たらしく思っていた兵士とも剣を打ち鳴らし、勝つことを誓い合った。
 そして今、ここに集う全ての人々は、共に世界を護るために戦う『仲間』だ。
 悠人にとって、『仲間』とは、共に戦い、共に進み、そして護るべき人々のことだ。
 この世界に生きる、滅びに抗う全ての生きようとする意志が、
(俺の『仲間』だ。だから)
 ぐっ、と全身に力を漲らせた。呼吸を止め、眼を細め、重心を前に倒し──放たれる寸前の大矢のように。
(俺は、皆を護る剣としての責務を果たす!)
 弦が弾ける。
 悠人は砂漠を駆ける先陣から、更に先へと大跳躍した。空を踏みしめ、己が新たな剣を天に掲げて。
「全力で行くぞ〈聖賢〉! お前の力を、今ここで見せてくれ!」
『良いのか? 後に響くぞ!』
「今がないなら後もない! 俺の進む道が永遠だと言うのなら、こんなところで立ち止まってる場合じゃない……!」
『──その通りだ!!』
〈聖賢〉の意識が歓喜に打ち震え、刀身が光を帯びて震動する。
 砂漠のマナが、内側に閉じていく竜巻のように、〈聖賢〉に吸い上げられる。
「────────────────────────ッッ!!」
 肺の中の空気を、最後の一滴まで喉から搾り出し、悠人は剣を振り下ろした。

 轟。
 音。
 大海原で鯨が宙返りを打つように、砂とマナの飛沫が柱となって天を衝く。
 大気の震えは遅れてやって来て、それだけで周囲にいた全てのものが足を止めて身を支えざるをえなかった。
 悠人の一刀は大軍に巨大な空白を穿つ。百近い数のミニオンが消滅し、マナへと還り、
「二発目ぇ!!」
〈聖賢〉がそれを貪り喰らい、純粋な破壊のエネルギーへと変換する。
 横薙ぎの一撃。刃の軌跡をそのまま巨大化するように、オーラフォトンの波動が空間をたわませ、爆砕する。
 ミニオン達が消し飛び、〈聖賢〉はそれによって生じたマナを原動力に更に先へと突き進んでいく。
 それは呼吸する光の嵐だ。
 体勢を崩されたミニオンに追い討ちをかけながら、悠人が切り開いた道を光陰達が追いかける。
 陣の終端まではすぐに辿り着いた。悠人達はそのまま止まることなく走破する。
〈聖賢〉の出力を三割程度にまで落とし、悠人はミニオンが追ってこないことを確かめる。
 だがそれも今だけ。ミニオン達はすぐに混乱から復帰するだろう。
 この後、追いかけてくるミニオンの相手をするのは、後方に陣を構える仲間達だ。
「トキミ様は間に合うでしょうか」
 横に並んだエスペリアが不安げに言う。来るさ、と悠人は息を整えながら答えた。
「そう約束したんだ。時深は絶対に間に合う」
 だがそう信じていても、願わずにはいられなかった。
 一刻も早く、仲間達が傷つく前に助けに来てくれることを。

「──エターナル・ユート様以下スピリット隊、敵陣を突破しました! 全員無事です!」
 望遠鏡を眼に当てたまま兵士が声を上げる。周囲から快哉の声が上がる。
「喜ぶのはまだ早いよ! こっちはこっちでやんなくちゃいけないことがあるんだ、準備はしっかりな!」
 厳しい口調で言うが、ヨーティアの声には押し殺しきれていない歓喜が滲んでいる。
 これで自分達の戦の半分は終わったも同然だ。彼らさえ先に進めれば、最悪、自分達は全滅してもいいのだから。
 だが、それを彼らは良しとすまい。彼らはこの世界を、そしてそこに生きる皆を護るために戦うのだから。
 だからこれから行うのは、彼らの道を護るための戦い。
 そして彼らの想いに応えるための、生き残るための戦い。
 凱旋する彼らを、墓標ではなく、笑顔を以て迎えるための戦いだ。
「気張るよ。世界が救われる瞬間ってのを、この眼で見てやろうじゃないか」
 兵士達が力強く頷き、それぞれの持ち場へと駆けていく。
 ヨーティアは顔を上げ、悠人達の駆けていった地平線から手前へと視線を移す。
 未だ混乱から抜け出せないでいるミニオン達と、スピリットと人間の軍勢が接触する瞬間だった。
 両軍の交差は正に激突。
 怒涛の如き勢いを以てぶつかっていく騎馬の群れが、動けずにいたミニオンを押し潰す。
 その隙間を縫うように躍り出たスピリット達が深く切り込み、更に仲間が進軍するための道を作る。
 押し寄せる波のように、入れ替わり立ち代わり奥へ奥へと。
 付け入る隙を与えず、士気と勢いを保ったまま全力で叩き潰す。そうすることによって、彼らは勝利を得ようとする。
 自軍の優勢は明らかであり──しかし、ヨーティアの背筋に、ぞくん、と得体の知れない怖気が走った。
 そしてそれは数秒後、赤き大火となって顕現する。

 ──アポカリプス。

 幾つもの声が、全く同じ調子、全く同じ声音で重なって、空間に反響した。
 収束しゆくマナは、その意を正しく顕さんと変化する。
 二軍を分かつ境界線、勢いに乗っていた人間とスピリットの軍勢は、最前線の密度を高めていた。
 その一角が丸ごと消滅する。
 爆発どころではない、中心に向かって堕ちていく黙示録の劫火。その中にいた者達は、敵味方の区別なく焼却された。
 それは天へと伸びる紅い御柱に見えた。逆巻き、誘爆する炎によって巻き起こされた風が、それだけで乾いた砂を灼く。
 神剣魔法の作り上げた地獄はやがて、その中にいた全てのもの諸共、痕跡すら残さず消えて失せた。
 後には焦熱だけが残った。砦の上にいたヨーティアをあざ笑うように、頬を熱い突風が撫でていった。
「……っだぁっ! 何てことするんだ、あいつらは……!」
 急激な温度変化に伴う突風の中、髪を押さえながらヨーティアは悪態をついた。
 まず地平線を見た。悠人達の姿は最早見えない。今の爆音を聞いて、戻ってくることはないはずだ。
「ブルーはどうしたッ。バニッシュしてたんじゃなかったのか!?」
「多分効果範囲外からの攻撃だ! あいつら、味方ごと全部フッ飛ばしやがった……ッ!」
 兵士が叫び合う。声に含まれる怒りは、まるで畏れを拭い去るためのもののよう。
 成程な、とヨーティアは理解する。
 あれらは『軍隊』ではなく『群体』。個々の統率による連携ではなく、全てで一つであるが故の連帯。
 個なきが故に、背後に充分な数があるのであれば、自らの一部を切り捨てることを是とするということ。
 ──勝利の前には、兵隊の命など綿毛より軽いということ。
「危険ですヨーティア様、砦の中に避難してください」
 促すイオに、駄目だ、とヨーティアは答えた。
「皆、戦ってるんだ。自分だけ隠れて縮こまってるわけにもいかないだろう」
 そして思う。ミニオンの戦い方は、かつて自分達人間がスピリットに強いてきたものだ。
「だから、向き合わなくてはいけない。あれは、私達の罪そのものだ」


 ──最前線では、炸裂する赤が砂海に激しい飛沫を立て始めていた。
 間断なく立ち上がる炎の柱は、重なり合い、壁となってミニオン達の行く手を阻んでいた。
 炎と煙に阻まれて視界はないに等しい。だがこの程度の炎であれば、突っ切って進撃することは可能である。
 しかし、ミニオン達はそれを考えてはいなかった。
 意識の向かう先はその逆、悠人達の駆けて行った方向だ。
 ミニオンがテムオリンより与えられた命令は、〈再生〉を砕こうとするロウエターナルの足止めである。
 本来、このような場所で有象無象を相手取って戦闘する必要はなく、早急に彼らを追わなくてはならなかった。
 それをしなかったのは、悠人達の強行突破によって陣を乱され、そこを目の前の軍隊に叩かれたからだ。
 如何にエターナルミニオンであれ、体勢も整わぬまま敵に背を見せて無事でいられる道理はない。
 悪戯に軍勢の数を減らしてしまえば、悠人達に太刀打ちできなくなる。
 現に、彼らはこの千を越える軍勢を中央からぶち抜き、走り去っていったのだ。
 よってミニオンはまず、目の前に立ち並ぶこの世界の軍隊を相手取った。
 個々の力は弱くとも、背を向けて無視することはできない障害。ミニオンは彼らをそう認識し、障害を排除すべく動いた。
 だが、彼女達はその評価を撤回しつつある。
 先程の味方の一部を巻き込んだ大規模な神剣魔法により、敵は大きく陣を崩され、逆にミニオンは陣を整え直す時間を得た。
 引き際だと判断した。これ以上相手をする必要はない。
 この炎の壁は、彼らが体勢を立て直し切れていない証明。わざわざその時間稼ぎに付き合うことはない。
 足止めにいくらか残しておく必要はあるが、今から追えば龍と挟撃できる形になるだろう。
 ミニオンはそう判断し、後方の軍勢に悠人達を追わせようとして、
 風切りの音と、声を聞いた。

 音の正体は降り注ぐ矢だ。炎の柱を乗り越え、驟雨と降り注ぐ鏃の群れ。
 日の光さえ遮るそれは最早壁だ。見上げたミニオンの視界を多い尽くさんと直下する。
 ミニオン達は退かない。それは退く意志などないということであり──同時に、退く場所がないという意味でもある。
 故に剣を構え、盾を張り、魔法を放つ。この程度蹴散らせずして、何が永遠たる者の眷属か。
 我らが意志は唯一つ。我らが主の与えたもうた使命を果たすことのみ。
 即ち、聖賢者ユートを〈再生〉へと辿り着かせぬことである。だが──
「逃すものか!」
 最早消え行きつつある炎の向こうから、大気を打つ声が聞こえた。
 見れば、敵陣の後方にいたはずの弓兵達が、前へと進み出ている。
 矢をつがえ、弓を引き、矢をつがえ、弓を引きながら、彼らは叫ぶ。
「逃すものかよ! 我らが敵よ! 行けばその背を我らが鏃が貫くぞ!」
 朗々とそう告げる老いた弓兵の眼は、彼が放つ矢よりも鋭く、ミニオン達を射抜いている。
 立ち並ぶ全ての者が同じ眼をしていた。怯えも怖れも混じっているが、それよりも強く、戦う意志がそこにはあった。
 それが戦争という行為によって生まれた興奮と狂騒であるにせよ、彼らはただ勇猛だった。
 弓を引き続ける兵士達の間から、騎馬が、剣士が、スピリットが、前へ前へと。
 その中には先の爆撃によって傷ついた者達もいた。流れ出る血もそのままに、剣を握り、ミニオンに立ち向かう。
 ──降り注ぐ矢を払い、時に貫かれながら、ミニオン達は再定義を行った。
 彼らは避けるべき障害なのではなく、斃さねばならぬ敵なのだと。
 鉄の雨が止む。その間に人間とスピリットは陣を組み直した。
 整っているとは言い難い、半数が負傷したままの頼りないものであったが、しかし。
 ──宿る闘志では決して負けぬと、無数の瞳が物語る。
 ミニオンは無言で剣を構え直す。今度こそ、彼らを撃滅せしめんがため。そうせねば使命を果たせぬと理解したが故に。
 誰からともなく雄叫びが上がり、両軍が相手へ向けて疾走する。

 一度は離れた戦線が再び衝突し、剣と鎧が交差する。
 強く打ち付けられた、熱い二つの鉄のように、最早両軍は離れない。
「退くな、退くな、一歩も退くな! 相手はバケモノなどではない、俺達と同じ生き物だ。殺せば死ぬ!」
 大剣を構えた壮年の兵士は、額から血を流しながら叫ぶ。
 神剣を振るい、翼で戦場を駆け、光の盾で矢を弾き、マナを炎に変えようと、生きていることに変わりはない。
 頭を潰せば死に、心臓を貫けば死に、首を断てば死ぬ。それは人間もスピリットもミニオンも変わりない。
 腕を刺されれば剣を振るえず、足を裂かれれば動けなくなる。皆同じように──
 ──斬られれば、痛いのだ。
「かつての俺達は、そんなことすら分かっていなかったが……!」
 自分達の負うべき痛みの全てを、浴びるべき血の全てを、妖精達に押し付けた。
 今は違う。ラキオスとサーギオスの最後の戦いの中、兵士達はスピリットの戦う姿を見た。
 可憐な姿を血に濡らし、死してはマナへと還りながら、それでもなお剣を止めぬ姿を見た。
 そして気付く。これまで自分達は、自分達が最早負いきれぬほどの痛みを、彼女達に与えてきたのだと。
 彼女達も、生きていたのだと。
 だから、
「退くことなどできようか!」
 血と痛みを取り戻せ、と、サーギオスのあの戦場で、ある騎兵隊長は叫んだ。
 ならばまた、それを果たそう。ただ一度の死地を乗り越えた程度で、贖えるほどの痛みではないのだから。
 死にたくはない。痛いのは嫌だ。怖くてたまらない。
 だがそれでも、退くことなど考えられない!
「単なる意地だ。出来れば誇りと言い張りたいが。──だが、それでも命を賭ける理由には充分だ! そうだろう!」
 おお、と男達の声が波打った。

 ここで戦う者達に、人間と妖精の別はない。
 誰もが同じ方向を向いていた。同じ敵を見ていた。同じ意志を抱いていた。
 それはこれまで一度もなかったことだ。使役される種として定義されたスピリットが、今や人と共にある。

 そのことは歓喜となって、彼女の意識を駆け巡る。
 ああ。吐息が漏れた。血に濡れながら、恋する乙女のような熱い切なさを伴う息だった。
 自分は何て幸せなんだろう。戦わされるのではなく、人と肩を並べ、共に戦うことができている。
 この先、この戦いが終わった後、きっととても良い未来が訪れるだろう。
 人間とスピリットが、今度こそ手を取り合って生きることのできる未来が。
 それは今まで得られなかった素晴らしい世界だ。
 今、それを勝ち取ろう。
 だから少女は駆けた。眼前、ミニオンとの打ち合いに負け、今まさに両断されんとする兵士の姿がある。
 疾走を以てその間に割り込んだ。殴りつけるように神剣を振るい、死の刃を弾き返した。
 お前、という兵士の声が心地よく聞こえた。
 ミニオンの鋭刃が翻る。それを受けた。だが重い。今度は彼女の剣が弾かれた。
 再び剣が翻った。間に合わない。脇腹に、銀色の閃きが吸い込まれた。
 そのとき、自分は確かに笑っていたと思う。闇に沈む意識の中でそんなことを考えた。

 ──その瞬間を壮年の兵士は見ていた。と同時、身体は動き出していた。
 ミニオンは、ブルースピリットに食い込んだままの剣の柄を強く握り直していた。
 捻る気か。兵士は悟った。ち、と舌打ちを一つこぼし、一歩と共に槍を突き出す。
 槍がミニオンの頭を抉った。だが消滅のその瞬間まで、ミニオンは剣を手放さない。
 兵士は腰の短剣でミニオンの腕を断ち切り、乱暴に剣を引き抜いた。抉られるよりはいいだろう。
 よろめいたスピリットを、彼女に守られた兵士に押し付ける。視線が交差し、頷き合う。それで充分だった。

「おいっ、誰か、グリーン!」
 守られたほうの兵士は、腕の中の妖精を後方の仲間に引き渡す。
 槍持つ兵士は更に一歩を踏み込んでいた。マナとなり消えるミニオンの向こうに槍を突き入れる。
 手応えはなかった。殺気が生まれた。背中から冷たい汗が噴き出した。
 マナの霧を振り払い、二人のミニオンが大上段に構えた剣を振り下ろす。
 がむしゃらに槍を払う。一人に当たり一人がよけた。剣は頭上から自分を狙う。
 終わりか。兵士はそれだけを思った。目前の死を前に気持ちはひどく穏やかだった。
 だが剣は血を飛沫かせない。兵士の背後から伸びた赤い閃光が、ミニオンの腕と首を貫いたからだ。
 兵士は倒れていく身体には目もくれず、先程槍で薙いだミニオンの胸に槍を刺し、抉った。
「不思議なものだ」
 額の汗を拭い、短剣を鞘に戻した兵士は、隣に立つ見覚えのないスピリットに語りかけた。
「死ぬのは嫌だが怖くはない。人間と殺し合ったときでさえ、こんなことはなかったが」
 兵士はかつて、辺境の匪賊討伐に当たっていた警備隊の人間だった。
 戦争はスピリットが行っていても、スピリットのいない場所では人間が人間を襲うことは珍しくなかった。
 彼はそんな場所に身を置いていた。死に掛けたことも一度や二度ではない。
 そのどれもが恐ろしい体験だったと彼は感じていた。その恐怖に足掻いて、今まで生きてきたのだ。
 だというのにさっきは、死を前にしても寒気を憶えこそすれ、恐怖は微塵も感じなかった。
 どうしてだろうな、と思いつつ──ふと隣を見て、兵士は思い至った。
「……ふむ」
 つまりは、死んでも後を気にする必要がないということか。
 自分が死んでも、戦いを引き継いでくれる誰かがいる。そして、戦いの後を作ってくれる誰かがいる。
 成程、ならば怖いはずなどない。むしろ後顧の憂いなく死んでいけるというものだ。
「援護を頼めるか」
 兵士は顔を前に向けたまま訊いた。頷く気配が隣から返ってきた。

『戦い』はあらゆる場所にあった。幾つもの命がそこかしこで喪われていった。
 誰もが死を受け入れられた訳ではない。仲間の名を、家族の名を呼びながら、人も妖精も死んでいった。
 そこも、そんな『戦場』の一つだった。

 ──その妖精は、自分が何故ここにいるのか分からなかった。
 ただ、今は皆が戦わなくてはならないときであり、ならば戦うモノである自分もそうあらねばならないと思った。
 自分とは──スピリットとはそういうものだと、彼女は思っていた。
 何故そう思うようになったのかはもう憶えていない。
 いやそもそも、自分は一体誰なのか。特定の呼称で呼ばれた記憶はあるが、それが自分の名前だったのだろうか。
 頭の中は分からないことばかりで、けれどその答えを探そうという気は全くなかった。
 それは彼女といつも共にあった、数人のスピリットも同じだった。
 彼女達と、いつから一緒にいるのか分からない。
 けれど今まで一緒にいたから、これからも一緒にいるのだろうと漠然と思っていた。
 そんな無気力な意志のまま、身体が覚えているままに剣を振るい、敵を焼き尽くす。
 目の前でまた一人、敵がマナへと還っていく。
 誰一人、傷を負っていない者はいなかった。だが少女達はそれに頓着することなく、ただ斬り進んでいく。
 生きたいという意志も、生きるという概念も、彼女達の中ではひどく薄っぺらなものだった。
 戦って死ぬモノ。そう己を定義する言葉だけが、脳裏に深く強く焼き付いている。
 ただ、そう。一つだけ、心の隅に引っかかっていることがある。
 この戦いの前。戦場に向かう自分達の前に立ち、寂しげな微笑を浮かべていた黒き妖精。
 銀の髪と褐色の肌、刃のような凛々しさを備えた、あの女性のことが頭から離れない。
 黒き妖精に抱く感情を、『懐かしい』と少女達は認識していた。

 そのような感情、長らく忘れていたと思ったのに。否、感情というものの存在すら、自分の中にはなかった。
 もしかしたら自分は、今それを取り戻しつつあるのかもしれない──他人事のように少女は思った。
 そう、他人事。実感が伴わないなら、それを自分のことと認識することはできない。
 それに、例え感情があろうとなかろうと、ここは戦場なのだ。
 理由の分からない懐かしさも、実感できない己の命も、容易く泡沫と消える場所。
 だから、
 ──がくん、と唐突に脚が力を喪う。ああ、刺されたな、と認識したのは痛みより後だった。
 脹脛を貫かれ、体勢を崩した自分に振り下ろされる剣を、彼女はぼんやりと見ていた。
 死ぬかな、と少女は分かりきったことを思う。動けばまだ助かるかもしれないし、助からないかもしれない。
 どちらでもいい。少女は思う。ここで死ななくても次で死ぬ。そうでないならまたその次だ。
 戦場の真ん中で、機動力を喪った兵ほど弱い者はない。それ以下は既に死に向かう者である。
 だから諦めた。いつか死ぬなら、いつ死んでも結局同じだ。
 ──脳裏に、銀髪の女性の笑顔が浮かぶ。
 しかしそれは戦いの前にみた寂しいものではなく、見たことがないはずの、温かみに満ちた笑顔。
 身体中に蘇っていく懐かしい温もりを感じながら彼女は瞼を閉じ、
 
「──何してんだっ!」
 
 砂を打ち鳴らして割り込んだ怒声が、彼女の死を振り払った。
 振り下ろされるはずだった剣の気配が真横にすっ飛んでいく。
 呆気に取られる暇もあらばこそ。少女の軽い身体は宙に浮き、そのまま前線を離れていった。

 戦いの中心から離れた場所で身体が落ちた。
 見上げると、騎馬と、それに跨りランスを握った、人間の兵士がいた。
 ふと辺りを見渡すと、仲間もどうやら同じような目にあったらしい。騎馬と兵の数は、自分達より少し多かった。
「無事か。怪我してるなら退け。後方にグリーンがいるだろう、治してもらっとけ」
 状況を把握し切れていない少女に、兵士は矢継ぎ早に言った。
 言葉の内容を反芻しながら、少女はようやく自分の置かれた立場を理解する。
 どうやら自分は、この騎馬隊に助けられたらしい。敵を蹴散らし、自分達を掻っ攫っていったのだろう。
 だが少女には、その行動が理解できなかった。人間がスピリットを助けたという、そのことが。
 思考停止に陥った少女を兵士は怪訝そうに見ていたが──やがて、視線は険しいものに変わっていった。
「……お前、帝国のスピリットか」
 腕章を睨みつけながら兵士は言った。少女は頷く。少女は帝国との戦いの折、ラキオスの捕虜になっていた。
 そしてこの戦いが勃発し、大陸中の兵士とスピリットが集められる過程で、少女も戦いに赴いたのだった。
 無論、服や鎧は帝国時代のままだった。服を新調するほどの時間の余裕も、この世界には残されていなかったのだ。
 兵士は忌々しげな顔をしたが、無理矢理表情を消し、顔を背けた。
「俺の仲間は、お前達に殺された」
 ラキオス城にスピリットが侵入した時のことだ。あの時に王と王妃が死に、そして兵士の仲間も何人も死んだ。
「……なら、何故助けたの?」
 少女は問うた。それなら余計助ける理由がない。
 憎悪という感情を抱いたことはないが、理解はできた。きっとこの兵士達は、自分達を憎んでいるはずだと。
 遠くから戦いの音が──命が喪われる音が聞こえてくる。その方向を眺めながら、自分を助けた兵士はぽつりと呟いた。
「殺されそうな奴を放っておくほど薄情ってわけでもない。目の前で死なれても寝覚めが悪いだけだ。
 俺がお前達を憎んでいることと、お前達が死んでいいかってこととは、別問題だ。
 ……それに、前に俺を助けたのも、お前達スピリットだったからな」

 それだけ言って兵士は馬の鼻先を音のする方向へ向けた。仲間が戦っている方向へと。
「お前達にだって、戦いに生き残って、また会いたい奴の一人や二人いるだろ」
 兵士は言う。少女の脳裏を、光を弾く銀色の髪が掠めた。
「生き残りたいならもう少し自分の命を考えろ。でなきゃ、そいつが哀しむだろう」
 その言葉を最後に、兵士達は馬を走らせた。遠ざかっていく背中を見ながら、少女は考えた。
 ……でもそれなら、あなたにも、あなたが死んだら哀しむ人がいるだろうに。
 銀髪の女性。──彼にも、同じように懐かしさを感じる誰かがいる。
 それに会うために戦っているのなら、彼もまた死ぬわけにはいかない。
 いや、死なせるわけにはいかない。
 何故だか分からないが、少女はそう感じた。
 ただはっきりと分かっていることが一つ。この懐かしさも、温かさも、きっとなくしてはいけないものだ。
 だから彼にもそれがあるのなら、わたしは、それを喪わせたくない。忘れかけていた己の意思がそう言っていた。
 少女は、地を蹴った。
 
 騎馬を走らせていた兵士の背中に、とん、と軽い重みがかかった。
 驚いて振り向くと、ついさっき置き捨ててきたはずの少女がいた。
 いつの間にか他の騎馬の背にも、彼女の仲間達が飛び移っている。
「怪我で脚が上手く動かない。わたしは魔法を使うから、あなたが脚になって」
 少女が言った。戦場の真ん中だというのに呆気に取られていた兵士は──二秒後、おかしくてたまらないといった風に笑った。
「ああ、じゃあ振り落とされないようしっかり捕まってろ!」
 ──騎馬が走る。
 人が手綱を握り、妖精に背中を預けて。

 その数時間後、スレギトとソスラスを結ぶ道の中腹。
 
 まず悠人達を出迎えたのは、身を竦ませるほどの咆哮の連なりだった。
「……冗談にもなりゃしねぇな」
 そう言う光陰の口元は、やはり、いつも通り笑っていた。怒号の嵐の中、気負うような気配はどこにもない。
 見上げなければ頭が見えないほどの巨体。立ちはだかる龍の数は二十を下らない。
『巨大である』ということはそれだけで威力を持つ。その威容は見るものを竦ませ、腕の一振りで地形を変える。
 砂を踏み締め立ち並ぶ異形どもは、純粋な暴力の塊だ。
 出迎えるように最前の青龍が一際高く嘶き、口腔から青く輝く閃光を撃ち放った。
「散開! やつらの足元に潜り込むんだ!」
 良く通る悠人の声。皆はその通りに動いた。閃光が地面を砕いたとき、もうそこには誰もいない。
 最初に駆けたのはヘリオンとファーレーンだった。持ち前の俊足を生かして一息で肉薄し、神剣を一閃。
 青龍の足首から血が噴き出し、巨体がバランスを崩す。すかさず、上空からの大剣の一撃が頸を切り裂いた。
 アセリアは振り向き、皆に頷いて見せた。斃せる、という意思表示だ。
 それを皮切りにして、次々に皆は敵の懐に潜り込む。龍はその巨体故に、足元への対処は疎かになる。
 ブレスは強力だが、危険を承知で懐深くにまで潜り込んでしまえばそれも問題にならない。
 注意すべきはその爪だ。強靭な膂力を以て振るわれる凶器は、人間をボロクズのように引き裂いてしまう。
「っとぉッ!」
 ぶわっ、と髪が逆立った。頭上を通り過ぎた爪に今日子は冷や汗を垂らしながらも、背後に回り込み、切っ先を龍の翼に向けた。
 雷光一撃。片翼を稲妻が撃ち抜き、赤い龍は苦悶の叫びを上げた。
 すかさず、その背を駆け上がる。三歩で頭部に到達し、今日子は〈空虚〉の切っ先を全力で突き下ろした。
 骨を貫く重い手応え。脳漿を抉り、切っ先に、天を灼くほどの雷を宿らせた。
 ばん、と。下顎だけを残して、龍の頭が弾け飛んだ。ぐらりと揺れた身体から今日子は飛び降り──
 左、全身に力を漲らせた龍の、閉じた牙の間から漏れる破壊の光を見た。

「キョウコ!!」
 覚悟を決めた今日子の耳に、幼い声が届いた。視界の隅、赤い小さな影が弾丸の如き跳躍を見せる。
「おるふぁきっく・檄ぃッ!」
 ひねりを伴って繰り出された蹴りが龍の横っ面を打ち、彼女の個性的なスフィアハイロウもそれに続いた。
 ブレスの軌道が逸れ、辺りを大きく横に薙ぎ払った。
 線上にいた龍を二、三体巻き込み、そのうち一体と交戦中だったネリーとシアーのすぐ横を掠めていった。
「「オルファのばかぁ────────!!」」
 涙交じりの怒りは龍に向けられた。息の合った連撃が龍の片腕を落とし、そこに稲妻部隊が殺到、滅多刺しにする。
 オルファの蹴りを喰らった龍は、倒れる直前、真下に先程とは別の赤い妖精がいることに気づいた。
 その手に真紅の魔法陣が展開し、妖精の口唇が短い言葉を紡いだことにも。
 爆炎は一瞬で龍を飲み込み、胸から上を跡形も残さず消滅させた。
(……いける、か?)
 龍の爪を払いながら、光陰は思った。
 そこかしこで龍が斃されていく。混戦状態だったが、皆は小隊単位で行動することを忘れてはいない。
 龍の知能自体は獣と大差ないようだった。かつてラキオスが斃したサードガラハムは、高い知性が備えていたと聞くが。
 最初見たときはその大きさと数に圧倒されはしたが、案外、何とかなるものだ。
 ランサからここまでの道のりをほぼ休みなしで踏破してきたが、スピリット達はその疲れも見せない。
 エターナルである悠人の力もあって、龍は既にその数を半減させていた。
 頼りになる奴らだ、と快さと共に光陰はそう思った。
 その直後だった。背骨に氷を刺されたような悪寒が、遠い空からもたらされた。
 悪寒は速やかに現実となる。飛来したそれらは大地を割り砕き、そして命あるものを等しく竦ませる雄叫びを上げた。
「本当、冗談にもなりゃしねぇ……!」
 戦いの前と同じ笑顔と言葉は、しかし今は張り詰めた凄惨さを孕んでいた。

 新たに現れた龍は十体以上。その全てが、他の龍より二回り以上大きい体躯を誇っていた。
 身体に満ちるマナの量も密度も、それまでとは比べ物にならないくらい強大だ。
「くそっ!」
 悠人が駆け、仲間達の前の前に出た。周囲一帯のマナがそちら側に流れていくのを感じ取ったからだ。
 このマナ密度のブレスを受ければただではすまない。剣を構え、オーラフォトンを壁のように展開する。
 龍が、大きく鎌首をもたげた。
 
 ……時間は少し遡る。
「チッ、何とかならねぇのか、これは」
 馬で戦場を駆けながら、兵士は悪態をついた。
 今日の自分は余程ツキが回ってきているに違いない。ミニオンを相手取って、これまで怪我らしい怪我をしていなかった。
 だが、それもいつまでもつか。
 口は動くが、体力も精神も相当参っている。背中にかかる重みは、魔法の連発で呼吸すら上手く継げていない。
 今、兵士は自陣へ後退しているところだった。
 自分はともかく、こいつはもう限界だ。足の怪我もある。早く治癒担当のグリーンに引き渡さなければならない。
 つい口から漏れた悪罵は、前線を離れ砂丘の上から見下ろした戦場を見たからだった。
 死と狂騒の舞台からやや視線を奥に向ける。そこでは未だ、ミニオンの軍勢は健在だった。
 不気味なほどの静けさがあった。顔色一つ変えず、身じろぎ一つせず、人形のようにミニオンが立ち並んでいる。
 こちらは総掛かりで攻めているというのに、ミニオンは未だ予備兵力を残している。そうする余裕がある。
 待っているのだ。兵士は思う。自分達が疲弊し、勢いが弱まるのを。
 天秤が僅かにでも傾いたその瞬間、奴らは雪崩を打って総進攻を開始する。
 殺し合いを演じているときは感じなかった怖気が身を包んだ。敵の壁の厚さを、改めて思い知った。

 負ける。最早それは予感ではなく、確信としてあった。
 もし自分達が勝てるとしたら、生き残れるとしたら。それこそ天秤を傾けるような何かがない限りは──
 苦渋の表情で戦場から目を背け、馬を走らせようとしたとき、頭の真上で風が唸りを上げた。
 それとほぼ同時、背後で海に大岩を投げ込んだかのような炸裂音が鳴り響く。
 神剣魔法か。先の大規模破壊が脳をよぎった。音に驚き暴れそうになる馬をなだめ、その鼻先を向け直した。
 広がった両軍の、その一角にぽっかりと穴が開いていた。
 先程と違うのは、消えていたのがミニオンの後衛のみだったということだ。
 連続する音に、兵士はその正体を知った。上空から幾つもの光の槍が降り注ぎ、ミニオンの軍だけを次々に飲み込んでいく。
 眩さに閉じた瞼を再び開いたとき、ミニオンの予備兵力のほとんどが、文字通り消滅していた。
 呆然とするしかない兵士の背中、赤い妖精は、飛び去っていったものの名をぽつりと呟いた。

『二発以上はもつか分からんぞ!』
「三発だろうが耐えてみせろ! それでも上位神剣か、〈聖賢〉!」
 広く散らばった仲間を護ろうとするならば、自らが矢面に立たなければならない。悠人はそれを実行した。
 閃光の中、悠人は今はもう遥か昔のことのように思える、高校生活のことを思い返していた。
 クラスマッチでやった野球、バッターボックスに立ち、白球めがけてバットを振るったその感触が手の中に蘇る。
 息を止めて殴りつけるようなスイング。ばぁん、と目の前で光が弾けた。
 返す刀でもう一打。悠人を飲み込まんと大口を開けた白い津波を、割り砕いた。
 足がもつれかける。砕けた波の向こうから三度目のブレスが迫ってきていた。
『──まったく、前任者には心の底から同情するぞ……!』
 相棒の雄叫びの中に消えた〈聖賢〉の呟きは、しかし楽しそうだった。
 地面を砕いて踏ん張り、全身の捻りで剣を回す。高密度のマナの衝突が、一瞬、身体から感覚を奪った。
 光が逸れて遠くの大地を灼いた。飛び散るマナの粒の隙間から悠人は前方を目視し、
(四、発、目……!)

「ユート様ぁぁぁっ!!」
 ヒミカが叫び、彼に向けて走り出した。何もできないと分かっていながら、それでも身体が動いた。
 青い龍が咆哮と共に、充分に練り上げられた超高密度のブレスを吐き出した。
 光が迫る。悠人は懸命に神剣を持ち上げようとした。エターナルである自分はともかく、他の皆はあれに耐え切れない。
 だが、腕が上がらない。いかに永遠を生きる者とはいえ、肉体に頼る以上、それを超えた動きは許されない。
「ご、ぉぉおおああああっ!」
 絶叫で全身を奮い立たせ、全霊を込めてマナの壁を張る。だが構成が甘い。耐え切れるか。
 光が迫り、そして、
 
 ──響いた音は、鋼鉄を衝突させたかのように重かった。
 その直前、倒れる悠人は蒼穹を真っ二つに切り裂く光の柱を見ていた。
 己の頭上を跨ぐようにして飛来したそれは、龍のブレスと正面衝突して敵と我が身の両方を砕いた。
 何が起きたのか理解できなかった。砕けたブレスが作る霧の中、悠人は現状認識に努めた。
「ユート様! ご無事ですか!?」
「ああ、大丈夫だ。それより」
 駆けつけたヒミカの手を取って立ち上がりながら、悠人は後方の空に目を向けた。
 敵の龍も同じ方向を見ていた。そこから来る何かを警戒してか──或いは、何が来るのかを知っているからか。
 ひゅう、と光陰が口笛を吹いた。他の皆はぽかんと口を開けていた。
 先程から見慣れていた、しかし明らかに大きさの違うシルエットが、悠々と空を泳いで近づいてきた。
 降臨。まさにそう呼ぶに相応しい。降り立つ山の如き巨体は真白く輝き、神性とすら呼べるものをその身に纏わせていた。
 白い龍の両隣には青と緑の龍が降り立ち、続くように、他の龍も大地を揺らしながらその後ろに着地した。
 その場にいた全員が呆気に取られる中、先頭に立つ白い龍の鼻先から、ひょっこりと顔を覗かせた人物がいた。
「あれって……時深!?」
 今日子が声を上げる。皆の驚きに答えるように、その人物──倉橋時深は龍から飛び降り、仲間のもとへと帰ってきた。

「ごめんなさい。遅くなりました」
 駆け寄ってきた仲間に、時深は頭を下げた。
「ガリオーン、ネストセラス、セーイリイト……話でしか聞いたことのない龍が、全部……!?」
 エスペリアの声は震えていた。その身には、強大なる者への畏れが満ちていた。
「これが……この龍達が、時深の言っていた援軍なのか?」
 悠人の問いに、低く重い振動が直接脳に返ってきた。白い龍が鼻を鳴らしたのだ。
 龍は羽のもげた蟲を見るような眼で、悠人達を睥睨した。
『自惚れるな。我等は援軍に非ず。汝等の生き死になど心底どうでも良い』
 そういうことらしいです、と時深は苦笑した。
 その白い龍は自分達と同じ形をしたものに眼を向け、そして不機嫌そうに牙の間から息を吐く。
『だが、あれらは赦せん』
 あからさまな殺意に、対峙するロウエターナルの龍は肩をいからせ、喉の奥から唸りをあげ始める。
『──若き永遠者よ、我はアレタス。ローガスの眷属である』
 そんな中、白い龍の隣にいた青い龍が、水晶のように冷たく澄んだ声で悠人に語りかけた。
『我等は、我等の友、シージスとサードガラハムを殺した人間を赦さぬ。
 そしてその怒りは汝にも同様に向けられる。サードガラハムを殺したのは、他ならぬ汝らであるが故に』
 意識に直接働きかける、静かな声の中には、赤く燻り、冷め止まぬ怒りがあった。
「……ああ」
 悠人はその怒りを正面から受け止めた。
 ラキオスの護り龍の死を、彼を手にかけたそのときから、悠人は背負っているのだから。
 それをアレタスがどう受け取ったのか悠人には分からなかったが、彼は金の双眸をわずかに細めて、続けた。
『案ずるな。赦さぬだけで、滅ぼしはせぬ。人も妖精もまた、この大地に生きている命なのだから』
『もっとも我等に手を出そうと言うのであれば、相応の代価は支払ってもらうことになろうがな』

 言葉を引き継いだのは、その後ろにいた黒い龍、クロウズシオンだった。
『双方、必要以上に関わろうとしなければ何も問題はない。
 身に余る行いさえしなければ、大地は、その上に生きるものを常に優しく抱き止めてくれる。──それ故に』
『そう、それ故に、我等は我等の大地を砕く者を決して認めぬ』
 白い龍を挟んでアレタスの反対側にいた緑の龍が、更に後を引き継いだ。
『人であろうと、妖精であろうと──永遠を生きる者であろうとも。我々は、そのような者を決して認めぬ』
 白い龍が一歩を踏み出し、力に満ちた声で悠人達の魂を震わせた。
『ここは、龍の大地ぞ……!!』
 周りに供する龍達は、打ち鳴らされた破鐘のように応えた。
 意識に響くのではなく、大気に響く生きた声だ。巨体を伸び上がらせて、大地を砕かんばかりの轟吼を次々と放った。
 咆哮は咆哮を招いた。相対する卑龍の群もまた胃の腑を震わせながら轟々と吼え立てた。
 世界が龍の声に満たされ、それは遥かランサの兵士やスピリットの耳にも唸りとして届いた。
 ──かつて。この大地の支配者は龍であった。
 爪の一振りで岩を砕き、咆哮と共に吐き出される光で全てを薙ぎ払う彼らに、人は等しく畏怖を抱いた。
 これはその再生。聖ヨト暦以前の世界が、今、この場に蘇っている。
『──哀れ也!』
 白い龍が怒りと苦渋と憤怒に満ちた声音で告げた。
『哀れ也、従者なる同胞達! 姿形は同じと言えど、誇りも智慧も与えられず、ただ白痴の走狗たれと定められた者達よ!
 僅かでも我が言葉、理解するなら今直ぐ失せよ! でなくば我が牙が汝等の喉笛を切り裂くぞ!!』
 しかし、龍達は一層大きく喉を震わせ始めた。知性の欠片も見当たらない、荒々しいだけの吼え声だった。
『……レーズ、クロウズシオン!』
 苦々しげな召致の声。それに応え、レーズと呼ばれた青い龍と、先のクロウズシオンが、悠人達の隣に寝そべった。

『乗レ』
 爬虫類の瞳をぎょろりと動かし、片言の発音でレーズが告げた。
『運んでヤる』
 悠人は一瞬躊躇したが、すぐにその背に飛び乗った。他の皆も次々にその背によじ登る。
『しっかりと掴まっておけ。多少、荒々しい飛び方をするかもしれんのでな』
 稲妻部隊を背に乗せたクロウズシオンは、翼の調子を確かめるように軽く羽ばたかせ、言った。
 そうだ、と悠人は屹立する白い龍を振り返った。
「一つ、頼みたいことがあるんだ。あいつら斃した後、余裕があったらランサの皆を助けてやってくれないか」
『断る。我にその様な義理は無い』
「できたらでいいんだ。俺は俺の仲間を、死なせたくない」
 龍は巨躯を屈め、射殺すような視線で悠人をきつく睨みつけた。彼から見れば悠人は鼠に等しい大きさしかない。
『痴れ者め。あの巫女にも言ったが、斯様な有様になった責は汝等にも有るのだぞ。
 ましてや妖精を良い様に使い、我等が友を殺させた仇を助けるなど、我等が許容できると思うのか』
「でもそれは死んでいい理由にはならない」
 それは龍が眼を剥くほど、純粋で強い意志に満ちた声だった。
「確かに人はスピリットに酷いことをしてきた。お前の仲間を殺したことも、俺も含めて許してもらえるとは思わない。
 でも、今あそこにいるのは、この大地を護るために戦ってくれている者達だ。
 同じ大地を護ろうとする者の生死を──お前は、どうでもいいと見捨てるのか」
 悠人はまっすぐに白い龍を見た。
 龍の顔は、よく見ると蜘蛛の巣のような罅割れが広がっていた。それが陶器か金属のような、不思議な質感を与えている。
 言葉通りの白磁の表皮は、白い龍が歩んできた時間と、内に抱えるものの重さを感じさせるには充分だった。

 白い龍は押し黙った。しばらく何かを考え込むように眼を細め、やがて吐き出すように言った。
『リバイル、行け』
 アレタスの反対側にいた緑の龍──リバイルは、頷きを一つ残すと、咆哮ひしめく荒野を後にして飛び去った。
「助けてくれるのか?」
『あそこにいる眷属共も、大地を脅かす存在であることに変わりは無い。汝に言われずとも我はリバイルを遣わした。
 故に、安心などするな。もし、あの守護者リバイルの眼に、不愉快なものが留まるのであれば──
 何かの弾みに奴の爪牙が、お前が信じると言った者に向くかも分からぬぞ』
 言い返そうとした悠人に、最早白い龍は眼を向けることはせず、翼を一打ちした。
 レーズとクロウズシオンは数歩後ろに下がり、体勢を低くする。号令を待つスプリンターのように。
『そろそろ飛ブ。しっカりつかまってイろ』
 レーズはそう告げ、全身を透明に近いマナの壁で包み込んだ。前方の密度が特に厚くなっている。
「風防代わりか。どんな速度で飛ぶつもりなんだかな」
 光陰がにやりと笑った。こめかみには冷や汗が一筋。それを見て、今更になって悠人は不安になってきた。
 飛行機に乗るのとは訳が違うのだ。マナの壁があるとはいえ、生身で大空に飛び出さなければならないのだから。
 後ろではしゃいでいる年少組の気楽さが少し羨ましい。
 対峙する龍軍の咆哮は、いよいよ激しい昂ぶりに支配されつつあった。
 足先の爪を髪の毛一本で縫い止めるかの如き危うさ。誰かが一歩でも前に踏み出せば、後は怒涛となって流れるだけだ。
『聞け!』
 それを破ったのは、白い龍だった。全生物の魂を揺さぶる大音声で以て、彼は名乗りを上げる。
『我はアシュギス、守護者アシュギス! 世界の堰たれと産み落とされ、古より此の大地に在りし、護りの龍である!
 今より我は慈悲を忘れる! 哀れみ等は欠片も抱かぬ! よって告げる!
 ──滅べ! 消えよ! 我は汝等に、地を踏む赦しを与えておらぬぞ!!』

 決壊した。
 ロウエターナルの龍達が、一つの巨大な暴力の塊となって突っ走る。
 応じるように、アシュギスが一際甲高く嘶き、上体を逸らした。巨体が纏う光が、眩いほどに輝きを増す。
 それを合図としてレーズとクロウズシオンが地を蹴った。
 アシュギスの纏う光が、両手足の先と翼から、一つの場所を目指して収束していく。
 光は全て喉へ。代償にアシュギスの肉体から光輝が失われていき、その下の朽ちかけた神殿のような表皮が見えた。
 割れ砕けそうな全身をしならせ、アシュギスは振り下ろされる断頭の剣の勢いで、首を前に突き出した。
 ──世界に光が溢れる。
 天地の認識も手足の感覚も希薄になりそうな光の中、悠人は自分が前に進んでいることだけを感じていた。
 熱のない光は暴力の津波の真正面に大きな穴を開けた。後に残ったのは澄みきった青空と、まっすぐに伸びる道だけ。
 それは滑走路だ。悠人達を乗せた二龍は迷いなく疾走し、敵龍とすれ違い──そして、飛んだ。
 上からの圧迫感が龍の背に乗る者達に襲い掛かった。垣間見た視界には、もう空の青しかない。
 圧迫は数十秒ほどにも数分間ほどにも感じられた。不意にそれが消え、ようやく息をつく機会を得た。
 マナの膜に護られているためか、風は感じない。
 ふと好奇心を出して龍の背から身を乗り出すと、遥か地上に先程までは見上げていた山稜があった。
『安定飛行に入った。周囲に敵の姿なし。このまま高度と速度を維持するぞ』
『了解しタ』
 などと、飛行機の操縦士じみた会話をする龍の背中で、皆は呆けていた。
 さっきまで騒がしかった年少組も言葉を忘れたかのようにすっかり黙りこくってしまっている。
 ふふん、とクロウズシオンが鼻を鳴らした。
『得難い機会だ。この光景を楽しんでおけ。我等、龍の眼から見えているものを』
 声は誇らしげに語る。遠くには、これから向かう地、ソーンリームの雪嶺が見えた。

「こりゃいい眺めだ。飛行機に乗った時でも、ここまでの景色は見られなかったからな」
 普段の豪放さ故か、いち早く回復したのは光陰だった。レーズの首の辺りから身を乗り出して、下界を眺めている。
「あたしは足が竦むんだけど……」
 その後ろの今日子は、いつもの威勢の良さもなりを潜めて、龍の背をしっかりと両手で掴んでいた。
 レーズの背は盛り上がった筋肉のお陰でお世辞にも居心地がいいとは言えないが、その分、掴まる場所には困らない。
「皆はまだ怖いか? 動き回らなきゃ平気だぞ、多分」
 悠人はさっきから一言も喋らないスピリットの面々に声をかけた。
 思えば、この世界に空を飛ぶ道具の類はないので、怖がっていても不思議ではない。
「アセリアやウルカなんかは普段から空飛んでるし、それほど抵抗はないんじゃないか?」
 ブルースピリットやブラックスピリットにとっては、空もまた得意とする領域のはずなのだが。
「……いつもは、ここまで高くは飛ばないから。ちょっと、うん、けっこう怖い」
 とアセリア。普段通りの何を考えているのか分からない無表情だったが、外に出ない程度の怖さは感じているのだろう。
「まぁ、手前らは万が一落ちても何とかなる故、さほどでもないのでしょうが。他の者は……」
 ウルカは皆を見回した。たまたま視線が合ったエスペリアは笑って誤魔化したが、手はしっかりと背を掴んでいる。
 ニムントールはファーレーンにしがみついていた。平然としているのはハリオンとナナルゥぐらいなものだ。
 もっとも、自然と寄り添う形にならざるを得ないから分からないだけで、本当は二人も怖いのかもしれない。
 レーズは龍の中でも大きいほうだったが、それでも背中に十数人乗っていれば狭くもなる。
 そうやって肩を寄せ合って、文字通り青空の中で車座を組んでいると、先程までの戦闘が嘘のように思えてくる。
 それは悠人に、かつて自分がいた頃の詰め所の風景を思い起こさせた。
 もう手の届かない場所になってしまったけれど、自分がいなくても、彼女達は仲良くやっていくだろう。
 悠人はそれを誇らしくすら感じた。胸に開いた孤独の穴が、別の何かで埋まっていくような感じだった。

 ──だが、悠人は気づいていない。そしておそらくは、他の皆も。
 彼は最早自分の場所がここにはないと思っている。皆が自分のことを忘れてしまっていると思っている。
 違う、と時深は思う。客観的にことの次第を眺めてきた彼女には分かっていた。
 悠人を観察していれば分かることだが、彼に何かあったとき、すぐに駆けつけられる位置に、常にヒミカがいる。
 そして誰一人としてそのことに疑問を差し挟まない。
 最も部外者に対して過敏に反応しそうなセリアでさえ、彼が隊長になることに反対しなかった。
 それは皆の魂が、既に彼を受け入れているからだ。
 記憶を失っても残るものは確かにある。時深はそれを絆と呼んでいる。
 悠人は、無数の絆に支えられてここにいる。幾つもの戦場を仲間と共に乗り越え、強くなってきた。
 そのことに、時深は狂おしいほどの愛しさと切なさを憶えていた。
 それは悠人が幼かった頃から、彼を見守り続けてきた時深にしか分からない感情だ。
 慈母の如き愛と、鬼女の如き嫉妬が自分の中に同居していることに、時深は気づいていた。
 あれほど頼りなかった少年が、永遠を生きる戦士の道を選んだことが、この上なく誇らしくあり──
 そして、その彼が見つめるものが自分でないことが、この上なく悔しかった。
 永遠を生きる者として、それは重たい枷にしかならない、余計な感情の揺らぎでしかない。
 だがそれを棄てなかったからこそ、倉橋時深は倉橋時深のまま、ここに在ることができている。
(……失恋かぁ)
 この歳にもなって、と自嘲した。そして自分で思って腹が立ってきた。主に、歳、というところに。
 この怒りはテムオリンにでもぶつけてやろう──と不穏な決意を固めたところで、不意に悠人が動いた。
 ユート様、と倒れかかる身体をさりげなくヒミカが支えた。そのことに思わず頬の筋肉が反応したが、
「戦闘での疲れが出たのでしょう。今日は最初からかなり無茶をしていましたからね」
 それを抑えて、積み重ねてきた年月にふさわしい強度の鉄面皮を被った。

『マだしばラクかかる。休めルときに休んデいろ』
 意外にも、レーズは悠人を気遣うように、ぎこちなく言った。
「ああ……じゃあ、そうさせてもらうかな……」
 そう言う悠人は既にうとうとと舟を漕ぎ始めていた。
 やがて、かくんと電池が切れるみたいに首を垂れ、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
 頭をヒミカの肩に乗せ眠りこける顔は、歳相応の少年のものにしか見えない。
 ヒミカはそれを優しげな瞳で見つめていた。他の皆も自然と頬の筋肉を緩めている。
 幸せ者ですよ。時深は声に出さずそう話しかけた。あなたには、こんなにも想ってくれている人達がいる。
 あなたはその想いの中で幸せになる権利が──あったのに。
 けれど、いやだからこそ、彼は戦うのだ。仲間が彼を想うのと同じように、彼もまた仲間を想っているから。
(──けれど今だけは、お休みなさい。悠人さん)
 この眠りの後には、また護るための戦いが待っているのだから。
 
 ……悠人が目を覚ましたとき、視界には青よりも白の割合が多くなってきていた。雲が出てきはじめている。
「今どの辺りだ?」
 目の付け根を押さえながら悠人は訊いた。エスペリアが答える。
「もうじきソスラスが見えてくるはずです。それにしても、雲で視界が──」
『掴マれッ!!』
 レーズが叫び、そしていきなり足場が傾いた。
 悠人は咄嗟に近くにいたヒミカとハリオンの腕を掴み、レーズの背に押さえつける。
 よろけた今日子を光陰が引っ張り、ウルカとアセリアがエスペリアを支えた。
 世界が右に四十五度傾いて──三筋の光が地上から伸び、雲を切り裂いた。

『地上からの攻撃だ! 下に龍がいる!』
 クロウズシオンが声を張った。飛行軌道を変え旋回する。
「皆無事か! 落ちた奴は!?」
 自身もまた必死にしがみつきながら数を確認する。誰も落ちてはいない。
 光陰がクォーリンの名を叫ぶように呼んだ。クォーリンは手を円を描くように振り、無事を伝えた。
『どうスる。このママ突っ切るか』
『逃げ切れるのであればな。後ろから追いかけられたら面倒だ』
 龍の声は風に影響されず耳に届く。空が激しく左右に回転し、地上からは細くしかし鋭い光が乱立する。
 出力を絞って連射し、こちらの足止めを狙っているのだ。
 二体の龍は迂回路を取るべきか言葉を交わした。そのときだった。光陰は龍の背をしっかと踏みしめ、立ち上がった。
「クォーリン! 降下して地上の敵を足止めしろ! 命令だ!」
 今日子がはっと顔を上げた。他の皆も同じように光陰を見ていた。
 それは現在指揮権を持たない彼が命令という言葉を用いたことにではなく、その言葉の意味そのものへの問いかけだった。
 逡巡は僅かな時間だった。クォーリンは槍を掲げて了解の意を伝え、クロウズシオンに降下を頼んだ。
 龍同士は最早言葉を交わさなかった。クロウズシオンは首を下げ、急降下に入る。
 乱立する光の照準はクロウズシオンに集中した。それをのたうつような動きで巧みに回避しながら、彼は地上に迫る。
 その隙にレーズが翼を強く羽ばたかせた。急加速が光の林を一瞬で駆け抜け、再び何もない空へと舞い戻る。
 さっきまで隣にあった同じ形の影は、今はない。
「光陰、あんた!」
 安定飛行に入ると同時、今日子は光陰に詰め寄った。何故あの子達を置いてきたのか、そう問わんとする瞳だった。
 それを抑えたのは、悠人だった。

「悠人……」
 今日子の肩に手をかけ、首を横に降る。今日子が眉尻を下げると、悠人は光陰に視線をやった。
 光陰は、ばつが悪そうに、けれど後悔のない皮肉げな笑みを浮かべた。
「……すまんな。勝手に命令飛ばしちまった。どうも以前の癖が抜けないみたいだ」
 光陰は言った。その言葉の裏に隠された意味、悠人は充分以上に理解した。
 光陰は、彼女達を逃がしたのだ。
 これから向かう先には、エターナルが六人控えている。たかが六人、されど、戦力は未知数だ。
 しかし光陰は、サーギオスの城で瞬が〈世界〉へと変貌した際、テムオリンやタキオスの力を目にしている。
 加えて、元稲妻部隊のスピリットの実力は、ラキオススピリット隊に及ばない。
 並のスピリットより強力とはいえ、大陸全土を戦い抜いたラキオスの妖精達にはわずかに及ばないのだ。
 それを踏まえての光陰の命令だった。
 エターナル達と戦わせるよりも、龍とミニオンと戦わせたほうが、生存率が高いと踏んだのだ。
 この先の戦いは数だけで決するものではない。
 そしてもし彼女達が敵の攻撃に晒されたとき、その全てを護り切れる自信は悠人にもなかった。
 勿論、戦術的に見ても、挟撃を避けるために背後の部隊を殲滅することは間違いではない。
 だがその判断を取らせたのは、光陰の情の部分が作用していると言う他なかった。だから光陰は、笑んでみせたのだ。
 戦いに私情を挟むべきではない。だが──悠人には、光陰の心の内が手に取るように分かった。
「いいさ。俺も同じことを言おうとしていた」
 それ故に、彼の行為を肯定した。
『高嶺悠人』の消滅により歴史の改変が行われているとはいえ、そうなる前の光陰と稲妻部隊の間には強い絆があった。
 悠人は、護るべき人に優先順位を定めたくない。それが卑近な満足だとしてもだ。
 だが光陰は違う。今日子のために悠人を殺すことを辞さなかったように、より絆の深い、かつての仲間を優先した。

『賢明な判断ダ。尻を焼かれたノデはかなワん』
 援軍は意外なところから来た。レーズは光陰と悠人に賛同の意を示す。恐らく、その裏にあったものを知った上で。
 今日子はしばし光陰を睨みつけていたが、悠人と光陰の間に漂う何かを察し、その怒りを引っ込めた。
『急ぐゾ。クロウズシオンは強イ。案ずるコトなどナい』
 レーズは速度を上げた。それは背に乗る者達の言葉を封じるかのような加速だった。
 
 遠ざかっていく龍影と、逆しまに落ちていく世界。掠めていく金光を視界の端に、クォーリンは直下の敵を見た。
 龍が三体と、その周囲を取り囲むミニオンの群。占拠したソスラスに陣取っている。
『突っ込むぞ!』
 高度はもう、地面が間近に見えるほどまで下がっている。レーズが叫び、大きく旋回軌道を取る。
 建造物を上手く盾にしながら、雪の深く積もった大通りに足から着陸する。
『全員降りろ!』
 その言葉に、クォーリン達は応えた。クロウズシオンの背を蹴って、それぞれが大通りに降り立った。
 背中の気配が残らず消えたことを確認し、クロウズシオンは未だ残る慣性に身を任せ、砲弾となって疾走する。
 雪の下の石畳を砕きながら、正面、市街の中心部に立つ赤い龍へと。
 赤い閃光を掻い潜り、足元のミニオンを雪煙と蹴散らして、一瞬という時間で懐に潜り込んだ。
 両の腕で顔面と肩を押さえ込み、その喉笛に喰らいつく。
 首を捻ると大量の血液が真っ白な世界を真紅に染め上げ、雪に吸い込まれてなお響く断末魔が辺りを覆う。
 噛み千切り、跳躍。両側から殺到する光爆を避け、牽制にブレスで辺りを薙ぎ払う。
 翼を羽ばたかせ、隊列を整えた稲妻部隊の後ろに、傲然と降り立った。

『さて、どうする? しんがりを任されてしまったわけだが、それでも敵の数は決して少なくはない』
 クロウズシオンは口調の端々に、どこかこちらを探るような色を滲ませている。
 クォーリンは思う。恐らくは自分と同じように、彼も理解しているのだ。光陰の意図を。
 頼りにされないことが口惜しく、大切にされていることが哀しかった。
 自分では決して彼の一番になれないのに、彼は自分を大事に扱おうとする。
 それは彼女にとって、温かみに満ちながら、この上なく残酷な仕打ちだった。
 だが──理由はどうあれ、己の慕う彼は、あの無骨で思慮深い戦士は、自分達にこの場を任せたのだ。
「迷うことなどないでしょう。私達は、与えられた任務を全うするだけです」
『ふむ、ぬしは良い兵だな。命令に余計な感情は差し挟まぬか』
「任務完了後は、皆を追いかけ、援護に入ります」
 そうクォーリンが言うと、洞穴を通り抜ける風のような音が頭に響いた。クロウズシオンが笑ったのだ。
『成程それならば文句のつけようもないな! 良い気概である!』
 楽しそうに声を響かせるクロウズシオンの下、クォーリンは己の部下達を見回した。
 皆、瞳に宿る意志は同じだ。
 前方を見る。赤い龍の消滅した広場に、残る二龍と、ミニオンの軍勢が揃っていた。
 三区画分の距離を挟んで相対する両者の数には、あまりにも開きがあった。
 だがそれを、クォーリンは全く脅威と感じない。
 この身は稲妻部隊。かつての大国マロリガンにおいて、精強の二字を冠した部隊である。
 属していた国に未練などはないが、戦う者としての矜持は、彼女達にもあった。
 だからこそ──こんなところで止まってなどいられない。
 命令があるならばそれをこなし、再び最前の戦列に参加するまでだ。

 クォーリンは勇壮そのものの声を張った。
「稲妻部隊、構えェッ!」
 既に、正式には存在しない部隊名を叫ぶ。敢えてその名を口にする彼女の脳裏には、光陰の背中があった。
 応、と答える声も高らかに、妖精達は神剣を抜き放ち、冷気の中に白刃を晒した。
 最早人のおらぬ街はそのものが墓標のようで、生を許さぬ無言の圧迫感があった。
「協力をお願いします」
『是非もない』
 振り向いたクォーリンの求めに、クロウズシオンは頷き一つで答える。
 そして、漆黒の巨体を一歩大きく踏み出し、厳かな声で言葉を紡いだ。
『我は門番。クロウズシオンの門番。モジノセラに座し、かつて此の身を以てダスカトロンの砂海の堰と為した者。
 今再び、我は堰と為る。其の身を以て剣とする、砂海の妖精の守護と為る。
 ──我が爪牙、怖れぬならば来るが良い! 我が腕の一薙ぎで、汝等が命は泡沫と散ろう!』
 名乗りを受けて、立ちはだかる二龍が咆哮を轟かせた。それを後押しに、ミニオンが地を蹴り、飛び出してくる。
 クォーリンは最後の指示を飛ばす。
「──生きなさい! 誰一人、欠けることなく!」
 それは光陰が、悠人が、そして皆が望むことだ。クォーリンはそれに応えたい。
 そう、生きてこの戦いの果てを、その後に広がる世界を、仲間と共に迎えたい。
 あの人は必ず帰ってくるから、それを、笑顔を以て迎えたい。
「以上ッ、散開して各自敵を討てッ!」

 駆け行くその背中に、迷いなど微塵もなく。
 ただ、未来を目指す意志があった。