『失望』の道行

第五幕前編

ラキオスがマロリガンを下し、二人のエトランジェを新たに戦列に加えてから約二ヶ月。
サーギオス帝国を相手にした決戦の火蓋がついに落とされた。
帝国第一の防壁である「法王の壁」を攻略し、都市リレルラエルをその支配下においたラキオス王国に、
情報部から一つの報せが飛び込んだ。その内容は、
「リレルラエル奪還に向かう帝国部隊とは別に、ソーマ隊の動きがある」
というものだった。レスティーナからそれを撃破するよう命を受け、
館の居間に戻った悠人の脳裏に、苦い記憶が蘇る。

数ヶ月前にラキオスがマナ障壁を解除するためにスレギトへと侵攻を開始した時、
悠人たちはその男に出会った。サーギオスもまた、マロリガンへと戦を仕掛けて来たのだ。
マナの気配をじわじわと感じさせながら、こちらの気力を消耗させた時点での
広範囲魔法による不意打ち。目に付いた他国の部隊は全て敵であるという宣言の通り、
容赦のない苛烈な攻撃をかろうじて防ぎきった所に、ソーマは姿を現した。
周囲に、完全に神剣に心を飲み込まれたスピリットたちを引きつれ、
自分以外の全てを見下した目をして薄気味悪く笑いを浮かべている。
ただ一言、ソーマが呟いただけで一斉に強襲をかけるスピリットたち。
だが悠人はその姿よりも、むしろそのスピリットたちに強い印象を受けた。
言葉を発する事もなく、ただ命令のままに剣を振るう姿に必死に猛攻を防ぎながらも既視感を覚えたのだ。
再び、ソーマの声でずらりと元の位置で彼をかばうように整列する。
ソーマズフェアリーの名の通り、一糸乱さぬ従順さに、悠人は言葉に出来ない不快さを感じた。
こちらも、陣形を整えて対峙したが、ソーマはいやらしい笑みを深くすると、
悠人ではなく、その隣に立つヘリオンを見る。
「くく、成る程。今回は様子を見るだけのつもりだったのですが、
まさかこのお嬢さんがまたしても共に居るとは思いませんでしたよ。
報告では、あなたが居なければ作戦は完遂されたという事で大変興味が湧いていた所です。
気が変わりました。お前達、もう少し遊んであげなさい」


その声と共に、次には主な標的をヘリオンと定めスピリットたちが襲い掛かった。
咄嗟に悠人はヘリオンをかばおうと動く。
「あの時の、王都に襲撃をかけたスピリットたちはお前の仕業か!」
だが、悠人の足止めをするように、三体のスピリットが彼を取り囲みヘリオンへの道をふさぐ。
他の面々も、手出しが出来ないように数体ずつに攻撃を受けている。
ヘリオンの前には、一体の黒スピリット。その状況を作り出して何をしようというのか、
ソーマはただにやけた笑みを貼り付けて陶然と悠人の声に答えた。
「ええ、尤もわたしの部隊の数は少なかったですがね。雑魚どもの見張りにと着いて行かせました。
それにしても、折角の機会を逃すようでは帝国のスピリットといえども情けないという他ありません。
国王の殺害には成功したからまだ良いものの、勇者殿、あなたの暗殺には失敗したのですからねぇ」
その言葉に驚きながら、悠人は自分に向かって振るわれた刃を切り払う。
「俺を、暗殺だと」
「はい、わが国のエトランジェは少々扱い辛くて。
簡単には、邪魔なあなたを殺そうとさせていただけないのですよ。
あの時はちょうど良かったのですが、肝心な所で邪魔が入ったと帰ってきたものから聞きましてね」
言いつつ、ソーマはヘリオンと、彼女と切り結んでいる黒スピリットを眺めやった。
「あれが作った好機を、そのお嬢さんが潰したというのでどのような物かと期待していたのですが」
悠人に、その時の光景が蘇る。味方ごと自分を貫いた神剣魔法の槍、あれを放ったうちの一人が、あの黒スピリットだというのか。
「機会を作ったって、お前が、お前がスピリットに仲間を攻撃させたのか!」
悠人の激昂をさらりと流して、不敵に笑い言葉を返す。
「仲間?これは面白い事を仰る。我が隊の者どもも、帝国のスピリットも全て道具に過ぎません。
より高い成果を望むためなら一つや二つ使い捨てたところでなんだというのです。
それに、報告にあった隊列であなたに攻撃をかけた時点で、その行動は作戦通りなのですから、
何を思う事がありましょうか。まあ、それを実行したにもかかわらず生き残った勇者殿の悪運には
恐れ入りますがねぇ」


口の端をゆがめて含み笑いを響かせる。これ以上話を聞くと自分がどうなるかわからないと悠人は思い、
一刻も早くヘリオンを援護しようと包囲を抜け出すために剣を構えた。
「ほう、これはなかなかどうして、か細い剣の割には頑張るじゃありませんか。
勇者殿もご覧になっては如何です」
耳障りな男の声が悠人の心を揺さぶる。
攻撃の隙間を縫って、悠人もヘリオンの様子を覗き見る。いや、見られるように攻撃の手を緩めさせたのか。
だが、ソーマの言葉とは裏腹に、ヘリオンは完全に防戦一方だった。
強くなったといっても、それもまだ以前と比べての話なのだ。
どんなに隙を消そうと構えていても、ソーマの黒スピリットの攻撃は確実にヘリオンの隙を見つけ、
的確に傷をつけていく。だが、遊んでやれとの言葉どおりに決して致命傷は作らない。
じわじわと、力の差を見せ付けて屈辱を与えるように責めたてていく。
「ぅあっ、っつぅ、くぅぅっ」
ヘリオンが苦悶の声をあげるたびに、ソーマの顔が愉悦に歪む。
それに気付いた悠人は一時我を忘れかけ飛び出そうとしたが、
一瞬自分に向けられたソーマの冷酷な目線にかろうじて踏みとどまった。奴の狙いはこれだ。
指先一つでも全てのスピリットを自分の周りに呼びつけられるだろうソーマに、
単身でのの突撃は意味がない。それよりも先ずは。
「どけえええぇぇっ」
魔法で自らの筋力を増幅し、悠人は周囲のスピリットたちを打ち払い弾丸のように、
ヘリオンと黒スピリットの間に割り込んだ。
悠人が背にかばったヘリオンは肩で息をし、ふらついた足でかろうじて立っている。
対峙していた黒スピリットは悠人が飛び込んだ時点で距離を取っていた。
「やれやれ、これからが面白いところでしたのに邪魔をするとは。
勇者殿は興というものが分かっていらっしゃらないようですねぇ」
そう嘯き、ソーマはまたスピリットたちを呼び寄せた。自分が打ち払った者の他はほぼ無傷。
ヘリオン以外のこちらの被害も殆どない。
ソーマの思惑通りに、ただ一方的な見せ物に邪魔が入らぬように加減されていたという事か。


怒りに満ちた目で睨む悠人の視線を無視し、
ソーマは悠人に支えられているヘリオンの全身を舐めるように眺めて言い放った。
「次にお会いする時にはもう少し先まで楽しませてもらう事にしますよ、
まあ、その貧相な剣でどこまで耐えられるのかはわかりませんがねぇ」
びくりと、悠人の腕にヘリオンの震えが伝わる。
邪な視線に晒された不快感と、恐怖、そして怒りがない混ぜになってヘリオンの顔から色がひいていた。
思い出したようにソーマが悠人に向き直り囀り続ける。
「そうそう、勇者殿にも邪魔をしてくれた御礼に面白いものを用意して差し上げないといけません、
それまでは、かつての同胞になど殺されないで戴きたいものです。
尤もそれは勇者殿がかつての友を手にかけるという事ですが」
あくまでも慇懃に、悠人の心の怒りの種を植え付けてソーマ隊は去っていこうとする。
その彼らの背中に、途切れ途切れの声が浴びせられた。
「ユートさまをっ、バカに、しないでくださいっ。
ぜったいに、ユートさまが殺される事なんて、ないですっ、それに、
親友を殺すなんて事、ユートさまはしませんっ」
悠人の支えをそっと抜け出し、自分の足で立ち怒りに顔を染めてヘリオンが叫ぶ。
ソーマだけが顔をこちらに向けて唇を嘲笑に歪め、
「ほう、勇者殿の言葉は自分の周りには届いているようですな。
仲間を思う、ですか。いや、それ以外にも教えた物があるようですがねぇ」
更に悠人を揶揄し今度こそ姿を消した。
それが見えなくなった頃、ついにヘリオンがふらりと体を傾かせた。
慌てて悠人が彼女を抱きとめ、駆け寄ったハリオンが治療魔法をかける。
傷は見た目ほど深くはなかったが、それが余計に精神的な疲労をヘリオンに強いていた。
「ユートさま、あんな人の言う事、気にすることありません。
そんな怖い顔してたら、エトランジェのお二人がびっくりしちゃいますよ」
それでも、悠人の心を落ち着けようと微笑むヘリオンに促され、
悠人は頭を埋めるソーマへの怒りをなんとか押さえ込んだ。


ぎり、と悠人は歯を噛み締める。あの笑みとヘリオンへの行為が脳裏に浮かぶたびに虫唾が走る。
あれ以降、マナ障壁が解除されてからは帝国の部隊は表には現れず、
ラキオスとマロリガンが攻防を繰り広げている間、力を蓄え続けていたようだ。
そして今、再び目の前に現れようとしているその相手に、悠人は思考を巡らせた。
スピリットを完全に道具、作品として扱い、敵のスピリットでも自分の作品の遊び道具とする
ソーマの行動に、悠人は純粋な怒りと、配下のスピリットたちへの哀れみを覚える。
「ユートさま、また怖い顔しちゃってますよ」
その声に、はっと俯いていた顔をあげるとそこには何時の間にかヘリオンの姿があった。
彼女の言葉の通り、こわばっていた顔を手でほぐしながら、悠人はヘリオンに向き直った。
「そうかな、いつも通りだと思ってたんだけど」
悠人の言葉に、ヘリオンは思わず苦笑してしまった。
「ユートさまが普段からその顔じゃあ、みんなもっとピリピリしちゃいますよぅ」
「そっか、俺が気の抜けた顔してるからみんなもリラックスしてるって事か」
「そんなぁ、気が抜けてるなんて、そこまでひどい事言ってませんよ」
慌てて手を振り、大げさに否定の仕草をするヘリオンを見ているうちに、
ようやく悠人の顔から緊張が取れた。
「うん、さんきゅ、ヘリオン。ちょっとは落ち着いたから、大丈夫だと思う」
「ちょっとだけ、ですか」
悠人の隣に腰をおろし、小さく息をついてしまうヘリオンに悠人は自らも溜め息を洩らし、
「相手が相手だからな、強敵だって事以上にあいつが許せない。
ソーマがスピリットたちにしてる仕打ちも、ヘリオンにした事も。
そう思うと、どうしても落ち着いてなんかいられなくってさ」
と言葉を返した。それにヘリオンは照れを浮かべかけたが、
すぐに表情を引き締め、決意を込めて悠人に向かった。
「でも、そんな気持ちじゃ危ないです。きっと罠が有るに決まってますから。ですから」
「ああ、だからさ。そうだな、ヘリオンは、自分であれから強くなったって思うか」
ヘリオンの言葉を止め、悠人も真正面からヘリオンと向き合い尋ねる。


意表を突かれて目を瞬かせたヘリオンだが、自らの胸に手を当て、思うところを正直に答えた。
「え、それはまあ、また『失望』も強くなったみたいですし、わたしだって訓練してますから」
実際の所、それは悠人も分かっている。
マロリガン、サーギオスとの戦いを経て、ヘリオンは格段に成長を遂げている。
いまだ原因は不明である事が不安ではあったが、
神剣に飲まれる事も無くスピリット隊の一員として誇らしい働きを見せていた。
あくまでも確認のために聞いただけの事だが、それでも少しは安心する足しになる。
「だったら、頼みが有るんだ。また、俺と一緒に来て欲しい。
今度は絶対に戦わなくちゃいけないけど、必要以上に怒りに流されちゃきっとソーマの思う壺だろうから」
「ユートさま、その、わたしも連れて行ってくださいって言おうとしてたんですけど、
ほんとに良いんですか。足手まといだから危ないって怒られちゃうと思ったのに」
「危険な目にあわせる事になるっていうのは分かってる。
でもそれ以上に、ヘリオンが一緒にいたほうが安心して戦えるんだ。
出来る限り俺もヘリオンを援護するから、その分、俺を支えてて欲しい」
聞いているうちに、顔を真っ赤に染めて俯いてしまったヘリオンの様子を見て、
自分にもこみ上げてきた恥ずかしさを誤魔化すように、悠人は軽い調子でヘリオンに声をかける。
「それにさ、ヘリオンだってあれだけバカにされたんだから、ちょっとはやり返さないと気がすまないだろ?」
ふっと微笑みを浮かべて、ヘリオンは顔をあげた。
「わたしが気に入らないのは、ユートさまが侮辱されたからなんですけどね。
わかりました、わたしも全力でユートさまをお助けします。一緒に頑張りましょう」
今度は悠人がその表情に顔を赤らめて、頷いた後はヘリオンを見つめたまま黙ってしまった。
「なあお前ら、そういうのは自分の部屋でやってくれんか。
報告に来たのにそれじゃいつ始めりゃ良いのか分からんからな」
光陰の声に見つめ合っていた顔をその方向にやると、それに加えて今日子がいた。
光陰、今日子はリレルラエル防衛の指揮をとることが任務となっていた。
それに関しての部隊の運用案を提出しに来たという。
悠人は慌てて真面目な顔を作りそれを受け取った。


「リレルラエルには正規部隊が押し寄せてきてやがる。
こっちはやたらと数を揃えていやがるから、悪いが本当に二人で行ってもらわなきゃならねぇが、いいんだな」
「ああ、そっちは任せた。光陰と今日子が率いてくれるんなら安心だからな」
「うん、大船に乗ったつもりでいなさい、絶対被害なんか出さないから!」
「むしろ、本当に心配なのはヘリオンちゃんよりも悠人、お前なんだぜ」
光陰は頭を掻いて、役に立つかどうかは分からんが、と前置きして言葉を続けた。
「奴さん、中身はアレだが立てる作戦に関しては残念な事に最悪だ。
それもこっちの弱みを確実に突いてきやがる。きっとこんなに早く情報を掴ませたのも、
悠人が動ける間にソーマ隊におびき寄せたかったからだろう」
息をついて、光陰が悠人を見据える。
「言っとくぞ。ソーマズフェアリーたちに同情してる暇なんざ無ぇ。
ソーマを先に倒すなんてのも不可能だ、奴がそれを許すはずもない。
まず、フェアリーたちを倒しきってから、ソーマにとどめをさす。
俺が戦うならその線で行く。奴も、お前の甘さを念頭に置いて攻めてくるはずだ」
「分かってる、そもそもあのスピリットたち相手に手加減なんかしてる余裕は無いじゃないか。
それに、あそこまで心を飲み込まれたスピリットたちを今日子の時みたいに助ける事はできない。
残念だけど、それくらいは分かってるよ」
ならいいんだがな、と光陰は溜め息をついた。しかし心の中では何か拭いきれない不安がある。
確かに悠人はそれくらいの覚悟なら今までの戦いで培ってきただろう。
たとえ無理やりにそう思い込むというものだとしても。
ただ、その程度で悠人の弱みをつく事になるかという観点ではまだ弱いと光陰には感じられるのだ。
そして何よりも、悠人と、自分と今日子には決定的な違いがある。殊に人を相手取るというのなら。
「いいヘリオン、悠が無茶しないように面倒みてやるのよ」
「はい、キョーコさんもコウインさまもご無事でいてくださいね」
本当に、どちらが守られる事になるのか分からないなと、
悠人はひそかに微笑みを浮かべてヘリオンたちを見やっていた。
その様子を光陰は厳しい目で見続ける。最後まで、その不安を口にする事は無く、
出立の時刻や侵攻の道筋などを確認して四人は解散した。


空は曇天。垂れ込める雲の下、悠人とヘリオンはソーマのいる本隊を目指しリレルラエル南西の森を疾駆する。
『求め』が敏感に感じ取る神剣の気配を追って進むうちに、既に幾度かの交戦をも行っていた。
確かに、ソーマズフェアリーは強敵だったが小隊単位での行動中に遭遇した事と、
悠人とヘリオンの息の合った連携が効果的に働いている事で、個別撃破に成功している。
とはいえ気の抜けない戦闘が続いている事に変わりはなく、
二人には肉体的、精神的にも疲労が見え始めていた。
近くに敵の気配がないことを確認した悠人が隣を走るヘリオンを留める。
「よし、ここで最後の休憩にしよう。終わったら一気に本隊へ突っ込むぞ」
ヘリオンは頷き、悠人に尋ねた。
「本隊にはあとどれくらい、残っているんでしょうか」
「まだ距離があるけど、大体ならわかる。ざっと七、八人くらいだ。それに、ソーマもいるだろう」
その名を出した瞬間、悠人の顔に陰が落ちた。首を振って、それを振り払う。
そのまま、悠人は黙って木の幹に背を預け体力の回復に努める。
それを見るヘリオンは何も言えずに、ただ悠人の左手を握り彼の肩に頭を預けた。
暫くして、ヘリオンは頭にぽんと悠人の手が置かれたのを感じた。
何時の間にか閉じていた目を開けると、目の前にはヘリオンを見つめている悠人の顔があった。
「あ、す、すいませんっ出発ですねっ。わたしったら、ぼーっとしちゃって」
「いや、まだもう少しいいんだけどな。何か安心して寄りかかられてるとこうしたくなって」
くしゃくしゃとヘリオンの頭が撫でられる。
「ユートさま、緊張感が無いですよぅ」
「そんなこと無いよ。ヘリオンがくっついてくれてるから落ち着けてるだけなんだ」
悠人は最後に一度、ヘリオンの頭をぽんと叩くと、そろそろ行こうかと切り出した。
ヘリオンは深く呼吸をして心拍を落ち着けて頷いた。
「はい。わたしも、平気です。さ、ユートさま行きましょう」
ヘリオンの言葉に悠人も頷き、二人は再び、ソーマが待つ本隊に向かって動き始めた。


『求め』が感じる気配のままに歩を進め、森の中でも少し開けた場所に陣取る本隊を発見し、
二人はゆっくりとその場へと足を踏み入れた。先ほどからは相手の神剣の気配もまるで見せ付けるように
強く感じ取れていたため、こちらの場所も割れている事は分かっていた。
向こうから動く事は無く、ただ待ち受けていたソーマにどんな手が隠されているのか。
悠人とヘリオンは警戒を強めながら対峙した。
「予想よりも随分と早かったものですね、やはりあれでは物足りなかったのですかな」
以前と同じく、周囲にスピリットを配置してソーマは悠然と立っていた。
スピリットの数は三人。黒スピリット二人と青スピリットが一人。その誰もが無表情にソーマの命令を待っている。
感じ取った人数よりも少ない事に気付き、更に周囲を注意深く探ろうとする悠人に、
ソーマはゆっくりと言葉を続ける。
「いやはや、ラキオスの勇者殿の武勇は我が方のエトランジェにも届きましたよ、
まさか、マロリガンのエトランジェとの和解を成功させるとは、とね。
確かに、勇者殿の言葉は正しかったわけです。仲間を思うという言葉は」
芝居がかった調子で台詞を吐き続けるソーマに向かい、腹の底を探られるような不快感を覚えながら、
悠人はソーマたちに剣を向けた。
「思ってもいない褒め言葉なんか要らない。俺達はお前を倒しに来たんだ、ソーマ」
「いえいえ、思っていないなどという事はありませんよ。事実、私もそれを確認した所ですのでね。
……御出でなさい、お前達」
その言葉を言った時に、ソーマの背後の茂みから新たに四人のスピリットが現れた。
青スピリットが二人に赤スピリット、緑スピリットが一人ずつ。
彼女達は他の三人と同じ様にソーマの前に、壁となるように並ぶ。
だが、それを見て悠人とヘリオンは一瞬、驚きに目を見開いた。
その姿は元からソーマの側にいた者達とは大きく違っていたからだ。
頭上に輝くハイロゥは限りなく黒に近いが灰色に保たれ、その瞳には灯火とも言えるほどの小さな光。
そして、残った光が宿す物は明らかな怯えだった。


「まさか、まだ意志が残ってるんですか」
「ええ、以前に少々手に入れる事が出来ましてね。普段なら即座に私に忠実なようにしてしまうのですが、
勇者殿にはこちらの方が好みに合うと思いましたので。お気に召されましたかな」
「ふざけるな!」
ソーマの言葉にヘリオンが思考をやるよりも早く、悠人が吼えた。
悠人の一喝に『求め』からも強力なオーラが噴き出し、その圧力に四人のスピリットは大きく震え上がった。
「やれやれ、やはり神剣に格差が有るときには恐怖が先にたちますか。
酷いとは思いませんか勇者殿、あなたのせいでこんなに怯えてしまって」
そう嘯きながらソーマは背後から一人の頬に手を這わせた。ぴくりと、恐怖とは違った嫌悪に身を震わせたのを
悠人もヘリオンも見逃す事は無かった。そのまま、ソーマは四人に囁く。
「まあ、それもこれまででしょうがね。お前達、あれがラキオスの勇者、ユートです。
その残った心のままに、お行きなさい」
そう悠人を指差すと、そのスピリットたちの動きが変わった。
即座に神剣を構え、一斉に飛び掛かり、または詠唱を始める。
先ほどの震えを微塵も感じさせること無く、悠人に向かい攻撃を加えた。
先ずは青スピリットの強烈な斬撃、それを悠人が受け止めたときに目が合った。
その瞳に残る物は殺意でも敵意でもなく、純粋な憎しみ。
そして緑スピリットの刺突、切り払った剣から伝わる物があった。
衝撃でもマナのオーラでもなく、純粋な憎しみ。
更にもう一人の青スピリットから斬りつけられる。かする程度に回避した悠人がその表情に気付く。
かわされた悔しさで無く、傷つけた嬉しさで無く、純粋な憎しみ。
最後に、赤スピリットが火球を叫びと共に放つ。ヘリオンと分断されるように跳び退いた悠人の耳に声が響く。
必殺の気合でもなく、自己への鼓舞でもなく、純粋な憎しみ。


火球が飛び去った後のヘリオンの視界には悠人に向かうスピリットたちの姿が映った。
「ユートさまっ」
離れた悠人に駆け寄って背中を守ろうとしたヘリオンに、二つの影が忍び寄った。
「お嬢さんの相手はこちらです、また私を楽しませてください。
ああ、ご安心を。勇者殿とは違って殺せとは命じられておりませんので、命までとろうとは思いません。
まぁ、彼が死ぬ所を見せて差し上げた後にゆっくりと可愛がってあげますよ」
下卑た笑いを浮かべるソーマをできる限り無視し、ヘリオンは目の前の二人に神経を集中させる。
絡みつく視線を感じながら、やはり弄ぶように剣を打ち付けるスピリットたちを相手取り、
「邪魔をしないでください、わたしはユートさまの所に行くんですっ」
突破口を開く事を考えながらヘリオンは剣を振った。

起き上がった悠人が周囲を確認すると、既に四人のスピリットに囲まれていた。
ヘリオンには元からいた三人のうち、黒スピリットと青スピリット一人ずつが斬りかかっている。
またしてもソーマは遊んでいるつもりか、まだ本気で相手をさせていない様に見える。
(援護するって言っておいてこの様かよ、情けない)
当のソーマは一人離れた所で見物を決め込んでいるようだ。
悠人の視線に気付き、ソーマは大仰に笑みを浮かべる。
「どうしました勇者殿、その子たちの思いには気付いたでしょう。
どうか、叶えさせてやってはくれませんか。そうすればその思いからは解放されるのですから」
「ぬけぬけと、お前がそう仕向けたんだろう!」
「いいえ、その子たちの感情は元からあなたに対して向けられていた物です。
私はそれをあなたにぶつけられるように育てて、舞台を用意してやったに過ぎません」
ソーマの言葉が終わらぬうちに、再び悠人にスピリットたちが襲い掛かる。
その攻撃は、ソーマズフェアリーにしてはまだ凌ぎ易かった。
しかし実際の攻撃以上に、込められた憎悪が悠人の動きを鈍らせる。
そして、ひしひしと伝わる感情に紛れ悠人の背後から更なる一撃が加えられた。


「何っ――」
咄嗟に身を捻って直撃は避けられたが、浅く切り裂かれた左腕からは血が流れ出している。
ソーマズフェアリー最後の一人が、殺気も感情も無く、黒スピリットらしい静けさで襲い掛かってきたのだ。
(黒スピリットが本命で、後はその気配を隠すための囮ってことか)
ならば、と悠人が先に黒スピリットを相手取るために『求め』を構えなおした時、
四人の表情が驚きに変化し、黒スピリットを守るように移動する。
「言ったでしょう、その子達は仲間思いなんですよ。何しろ彼女がその子達に残された最後の仲間なのですからね」
戸惑う悠人に嘲る声がかかる。その反応を楽しむように一呼吸置き、
「分かりませんか、先ほどからあなた方が殺してきたスピリットの大半が彼女達と共に私の下に来た仲間だったのですよ。
数が減るのを感じる度に勇者殿への憎しみは一段と強くなった。最後の仕上げはあなたがもたらしたのです」
ソーマは声を上げて笑う。
口内が乾くのを感じながら、もう一度悠人は四人のスピリットを見た。
仲間をかばおうというよりは、奪おうとする相手への憎しみという意志が覗く。
だが紛れもない意志の光に、悠人は無意識のうちに躊躇いを覚える。
「ヘリオンを助けに行くには、やるしかないじゃないか。誰が相手だって!」
だが言葉とは裏腹に『求め』から立ち上るオーラは鳴りを潜め、その剣先はかすかに震えていた。

悠人の様子を視界に納め、ソーマは自分の作戦が的中した事をほくそえんだ。
命令で戦わされているわけでも、心を失ったまま戦わされているのでもなく、
自らの意志で自分を殺そうとする相手。悠人はそういう敵を相手にした経験が殆ど無い。
その数少ない相手は今は味方についている。つまりは、その相手を悠人が殺した事は無い。
殊に帝国のスピリット相手では予想外の出来事だろう。ならば、きっと迷う。
そのために趣味には合わないが、そう調整を施したスピリットを用意した。
目的に合うように成功したのは四体だが、あの様子では十分だろう。
それに囲まれて防戦に徹している悠人をちらりと見て時間の問題と判断する。
後はもう一体の方だ。この戦に残っている第九位とはどのような味なのか。
腹の底に暗い情欲を込めて、ソーマはもう片方の戦場へと視線を移した。


その目が、驚愕に固まる。
「馬鹿な」
ヘリオンの剣は、ソーマズフェアリー二人の動きを見切り、受け流していた。
命令どおり、いまだ弄ぶように二人がかりで攻撃をかけているが、その全てが効果を上げていない。
いや、それどころか。
「いやあああぁっ!」
ヘリオンは気の抜けた攻撃の隙を見て反撃を繰り返していた。
体についた傷の具合では遥かにソーマズフェアリーが不利のようだった。
それでも、悠人の下へと急ごうとするヘリオンを止める事が第一の目的となっている
二人を退ける事は出来ていなかったのだが。
ソーマがそれを見て二人に罵声を交えて行動の変更を伝えた。
遊びを止めて動けないように痛めつけろ。要約するとそのような意味。
それを聞いてヘリオンは更に気を引き締める。同時に、『失望』に向かって意志を紡いだ。
「ぜったいに、ユートさまをお助けするんです、もっと力を貸して、『失望』っ!」
ヘリオンの視界の向こうには四人のスピリットに動きを封じられ、黒スピリットに一撃を加えられていく悠人の姿。
決意を込めると、更なる力が『失望』から流れ込んでくる。
ただ、自分からも流れ出ていこうとするものを感じて、ヘリオンはそれを繋ぎとめるのにも神経を使った。
「……っ。大丈夫、しばらくならこのまま戦えます」
相手は定石どおり、黒スピリットが防御を担当し、青スピリットが攻撃にあたろうとしている。
それなら、とヘリオンは剣を持つ手に力を込める。
定石を守る事なら『失望』に勝る物は無い。そして、それに対抗するやり方も自分に教えてくれる。
ウイングハイロゥを展開して飛び掛ってくる青スピリットを見据え、
ヘリオンは鞘に納めた剣を抜き放つ準備を整えた。


「くぁっ、はぁ、はぁ、は」
悠人は、新たに脚を傷つけられた。致命傷だけは避け続けているものの体力の消耗が激しい。
また、それ以上に気力がごっそりと削られていく。
どうしても、反撃を加える事ができても決定打を与える事が出来ない。
「グウゥゥ……」
戦闘を続けるにしたがいその間も精神を食われ続けているのだろう、もうその顔は苦悶と憎悪に歪むだけ。
だが、悠人が直接憎む相手はソーマだけだ。彼女たちをこうしたのも奴なのだから。
【何を迷う、何故戦わぬ。敵を殺せ、マナを奪え、我を振るえ契約者よ……】
「こんな時くらい黙ってろ、このバカ剣……!」
そしてまた、悠人の憎しみに反応してそれを全ての敵へと増幅させようとする『求め』にも抗わなければならなかった。
スピリットたちを振り切れないまま悠人が『求め』を構えなおした時、離れた場所で大きなマナの動きがあった。
何事かと意識を向けると、ヘリオンに向かった敵の様子も変わっているし、
それに反応するようにヘリオンの放つ気配が激しくなってしまっている。
どう考えても通常ではありえないほどのマナを剣に纏わせているのだ。
その動揺を突くように、悠人に向かいスピリット達が飛び込んでいく。
「くそっ、お前たちの相手をしてる場合じゃないんだ!」
気配の薄い一撃を警戒しながら、悠人は剣と槍の連携を打ち払った。
【契約者よ、何を迷う。この妖精たちは『誓い』の眷属。戦うのがこの場になったというだけではないか】
「言われなくても、そんな事は解ってる!」
ただ溢れる憎悪のままに剣を振り魔法を放つスピリットたちに囲まれながらも、悠人は静かにヘリオンに意識をやり続けた。


ヘリオンは自分に向かって飛んでくる青スピリットを凝視する。
数ヶ月前の経験と先ほどからの攻防で剣も、自分も学ぶ事があった。
ソーマズフェアリーは確かに強い。
防御している者でも気付かない隙を的確に見つけ、そこを突くように教育され尽くしている。
けれども、実はそれだけだ。弱点をつくのを好むソーマのやり口か、
先ほどからもずっと、一番弱い所にしか狙いを定めなかった。
手を抜いた攻撃に対してわざと一ヶ所だけ隙を残すよう『失望』に言われ、その通りに構えた。
そこに合わせて反撃を試みると確かに凌ぎきれていた。
今度もきっとソーマによる命令であるからこそ、その通りの動きしか出来ないと確信し、
全ての神経を集中して敵の攻撃に備える。
まだ殺す気ではないというソーマの意志は明らかだ、だから隙を作るところは命に関わる頭部。
ヘリオンの狙いを相手が感じたのかは表情からは読み取れない。
しかし、頭を狙うという本能と、殺すなという命令に逆らえない体がぶつかり合い、
青スピリットが一瞬戸惑ったことをヘリオンは見逃さなかった。その一瞬を反撃を試みる時間に変える事は
黒スピリットである自分の得意技だ。狙いを定めきれないまま振り下ろされる剣を身を捻ってかわしながら、
その動きすら勢いに変えて『失望』を抜き放つ。ヘリオンが再び剣を納めたときには、
着地し損ねた青スピリットがだんだんとマナへと還るところだった。
「あと、もう一人……っ」
自分の命を囮にする事と、普段より遥かに威力の高い一撃を見舞う事。
思った以上に消耗が激しい事を自覚し、ヘリオンは黒スピリットに向かって剣を構える。
その後の事にも思いをめぐらせ、一つ息をついた。
(ユートさまに、嫌な思いなんかして欲しくないから、だから、わたしがやらないとっ)
もう一度『失望』に力を込めて、ヘリオンは相手に斬りかかっていった。


赤スピリットの魔法を跳んでかわし、悠人はまたスピリットたちとの距離をとる。
ヘリオンは先ほどから黒スピリットと切り結びを演じて、その趨勢も押し気味だ。
信じられない事に『失望』の力はソーマズフェアリーすら一時的にとはいえ圧倒しているようだ。
けれど、悠人にはヘリオンが無理をしているようにしか感じられない。
(なにせ、剣の力は増していても、ヘリオン自身があんなに苦しそうなんだ)
そこまでしてヘリオンが剣を振るう理由など、一つしかないのは分かっている。
自分がいつまでも情けない姿を見せてしまっているからだ。
あんなに黒スピリットとの決着を急いでいるのもきっと。
「俺に、こいつらにとどめを刺させるわけにはいかないってことだろ、ヘリオン」
でもそれは間違いだ。直接関係の無いヘリオンが手を下す事などしてはいけない。
直に感情をぶつけられている自分が、決着をつけるべきなのだ。
悠人の脳裏に、何時かのヘリオンの言葉が浮かんだ。
「敵を斬る痛みも全部自分の心、だったよな」
目の前のスピリットたちを斬るというやりきれなさとその後の悔いも、
彼女達を操るソーマに対する怒りと殺意も、神剣によってもたらされる物でなく、その負の感情も自らの中にあるものだ。
それを誤魔化して、ヘリオンに押し付ける事の方が耐えられそうに無い。
悠人は自分を睨み続けるスピリットたちを静かに見返した。
「確かに、お前たちから仲間を奪ったのは俺たちだ。
だけど、俺もここでヘリオンと離れる訳にはいかないんだ。
だから、お前たちの思いを全部ぶつけて来い。俺は、もう誤魔化さないで全部受け止めてやる」
伝わるかどうかは関係ない、宣言する事で自分に喝を入れたかっただけかもしれない。
けれども、言葉の中にヘリオンへの想いを込めると、不思議と力が湧いた。
悠人が『求め』を強く握り締める。
足元にオーラフォトンの魔方陣が浮かび上がった。
抑圧から解放された反動か、『求め』から立ち上るオーラは
殺意の塊となって悠人を取り込むかのようなの勢いで噴き出した。


その様子にその場全ての者の動きが止まる。
スピリットたちはそのとてつもない圧力に巻き込まれて。
ソーマ自身は悠人から叩きつけられる殺気に恐怖して。
ヘリオンはその禍々しいオーラに既視感を覚えて。
「ユートさまっ、その力はダメですっ!また『求め』に飲み込まれちゃいますよぅ!」
悠人の耳にヘリオンの声が届く。静かにヘリオンに視線をやって、悠人は笑みを浮かべた。
ヘリオンは、はっきり見えたかどうかは分からないその笑みが、
その奥に哀しげな決意が込められているけれど、いつもの悠人の優しい笑みだと確信できた。
立ち上るオーラの中にいる悠人が『求め』を握り心を落ち着けてゆく。
(お前の殺意に俺が振り回されるんじゃない。俺が、お前の力を使って剣を振らなきゃいけないんだ!)
ゆっくりと、暴発していたオーラの奔流が『求め』の刀身に収束していく。
「そうか、ヘリオンがやってた事はこれだけの事なのか」
ヘリオンを想い、自身の心に真っ直ぐに向かい合う。それだけで、剣の力は完全に落ち着いていた。
嵐のようだった凄まじいオーラが静かに刀身に纏いついているのを自覚し、悠人はスピリットたちに剣を向けた。
ソーマが突撃を命じる。それに従い、攻撃をかけるスピリットたち。
その顔には、やはり憎しみしか残っていなかった。
既に連携を取ることも無く一斉に斬りつけてくる相手を、悠人は大きく横に薙ぎ払って吹き飛ばした。
オーラフォトンを直に乗せた攻撃は、傷ついた相手を動けなくするには十分で、
四人のスピリットは一所に固まり倒れ臥した。
最後に残った黒スピリットが静かに悠人に迫る。
迸るオーラはそれだけで障壁の役目を果たし、斬撃の殆どを弾き返した。
四人が霧を立ち上らせながら倒れているのも意に介さず、
攻撃を続けるそのスピリットに悠人は一撃を加えたが、傷に怯む事も無くさらに攻撃に力を込める。
その動きは完全にソーマズフェアリーと化していた。
最期まで剣を振り続け、糸が切れたように急速にマナへと還る、その散り際まで。


悠人が戦っていたスピリットたちが倒れるのを呆然と見ていたソーマは、
取り乱して地に倒れた四人のスピリットを悠人との間に挟むように回り込み、足元の彼女たちに罵声を浴びせる。
「やめろ、そいつらはもう戦える状態じゃないんだ!」
悠人はビタリと、ソーマに向けて『求め』の切っ先を向けた。
ソーマは恐怖に駆られたまま叫ぶ。
「何を、たかだか第九位にてこずっているのです!そのようなクズ剣、放っておいて私を守りなさい!
お前たちも、思い通り動かないのなら壁にでもなるのです!
誰が行き場の無いお前たちを拾ったと思っているのですか!」
その声に応え、傷ついた黒スピリットがソーマの元へと移動しようとウイングハイロゥを展開する。
その急激な行動の変化に生まれた隙を見逃すことなく間合いを詰めて、
ヘリオンは最後の一撃を加え、その勢いのまま悠人の元に飛んで戻った。
ふらつきながらも剣を構えたままソーマを見据えるヘリオンに気付き、ソーマは顔を引きつらせた。
「く……さあ、立ちなさい!逃げる時間くらい稼げないのですかクズ共が!
そんなだから、隊長も、仲間も、奪われるのですよ!」
怒鳴り声にスピリットたちがぴくりと反応を示し、徐々に起き上がろうとする。
悠人はその言葉に身を震わせて、歯ぎしりして剣を構えなおす。
そのハイロゥは、ついに漆黒に染まろうとしていた。
「あなたがっ、あなたがそんな事をいう資格、無いですっ」
「何とでも言うがいい。ほら、仲間などもうお前たちにはいないのですよ。
皆、お前たちが役立たずだから死んでしまったのです!」
四人が、ゆっくりと立ち上がった。瞳には光も無く、漆黒のハイロゥを浮かべて剣を静かに構えた。
「何て事を……」
ヘリオンが震える切っ先をソーマズフェアリーたちに向けた。
ソーマに向けて振るいたいという怒りはあったが、ラキオスのスピリットであるヘリオンには出来なかった。
その刀身を、峯に手を当てて悠人がゆっくりと下ろす。
そっと悠人を見上げるヘリオンに、静かに首を横に振って答えた。


物言わぬ悠人にヘリオンが疑問をあげかけたその時、目の前から悠人の姿が消えた。
直前に、静かな怒りを秘めた瞳をヘリオンの目に焼き付けて。
「さあ、後は任せましたよ、残りの命を全てかけてでも二人を止めるのです!」
ソーマがスピリットたちを壁にして下がろうとした瞬間、四人の全身から金色に輝く霧が立ち上った。
「な……に」
見る見るうちに空中へと霧が融け、スピリットたちは消滅した。
ソーマの目の前に残る物は敵意をもって対峙する一対の瞳。
今度こそ自らを守るものを全て失い、信じられないといった表情で自分の剣を抜こうとするソーマに、
悠人は『求め』を横に振り切った勢いのまま腰溜めに構え詰め寄った。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」
ソーマの動きはエトランジェである悠人には遅すぎる物だった。
ずぶり、と肉に異物が突き込まれる音を立てて、悠人とソーマの体が交差する。
剣を抜く暇すら与えず、悠人はソーマの胴に『求め』を潜り込ませていた。
「ぐ、くく、今回は、敵には容赦はしない、ということですか。全く、都合のいい、ことです、ね」
急速に顔色をなくしながら、ソーマは唇を歪ませた。ピクリと悠人の体が震える。
ひゅうひゅうと血臭の漂う息を吐き、その反応を楽しむように呟き続ける。
「どの……な、言葉で繕おう、とも……なたの成し……人を……したと……」
びく、とソーマの全身が痙攣した。その喉に絡みつくもので言葉が止まる。
「が――は」
びじゃ、と躊躇い無く悠人の顔に血を吐きかける。
それを最期に、ソーマの体から力が抜けた。
『求め』を引き抜き、ソーマを地に下ろす。
嘲笑をはり付かせたまま、ソーマは息絶えていた。
従えていたスピリットは全て空に融けて、ただ一人骸を地上に残して。
呪詛のようにいつまでも融ける事の無い、血臭を身に纏いながらその様を見続け、
袖でとりあえず返り血を拭った後、悠人はゆっくりと背を向けてヘリオンの元へと戻った。


「大丈夫かヘリオン、かなり無理したみたいだけど」
ラキオスへのエーテルジャンプ施設までの帰り道、
常に数歩の距離をとったまま、悠人がヘリオンに話し掛けた。
平静であると見せようとしているのが、ヘリオンにはありありと見えてしまう。
その顔色を見て、静かに体を悠人に向ける。
「ちょっと、疲れちゃいました……でも、無理をしたのはユートさまの方だと思います」
『失望』の力を引き出して戦っていたのは悠人にも分かったが、
その威力は神剣の位を考えれば、やはり信じられない程のものだ。
それに比べれば、と悠人は思って、今の姿勢のまま軽い口調で言い返す。
「そうかな、あれ位なら『求め』の力のうちだと思うけど」
ヘリオンの表情は暗く、悠人の頭にも、ヘリオンの言う「無理」の内容は思い当たった。
口を閉ざしてしまった悠人にヘリオンは答える。
「違います。剣のことじゃなくって、あの人たちのことです。
だって、ユートさまは、戦ってる間もあんなに辛そうにしてました。
わたしは結局何もお手伝いできなくて、一緒にいた意味、無かったじゃないですか」
戦闘時にヘリオンのとろうとしていた行動が思ったとおりだった事を感じて、
悠人は真っ直ぐにヘリオンの目を見る。
「ヘリオンがいた意味がないなんて、絶対にない。
あれは、俺の手で決着をつけなきゃいけないことだったんだ。
その決心がついたのは、ヘリオンが居たからだって俺は思ってる」
顔を静かに上げて悠人に視線を返すヘリオンに悠人は言った。
「あんなに思いをぶつけてくる相手と仕方ないからって考えで戦うなんて出来なかった。
ちゃんと、自分の意志だけでぶつかり合って戦わないと意味がないんだって、ヘリオンを見てたら分かったんだ。
だから、その結果で生きるか死ぬかが分かれただけだ」
悠人が本心からそう言っている事はヘリオンにも理解できた。
最後まで、顔に陰がかかっていたが。


その表情を見逃さずに、ヘリオンは悠人に近づこうとする。
悠人は一瞬、体を強張らせて下がろうとしたが、その動きを止めるようにヘリオンが声をかけた。
「ソーマに、何か言われたんですか」
「別に特別な事じゃない、わかりきってる事を言われただけだ。
生き残るためにあいつらを斬って、あいつらをそんな風にしたソーマが許せなくて斬った。
結局はいつも通りに敵を倒したってだけなんだから」
それ以上ヘリオンを近寄らせないようにと、悠人は声を荒げて身を引こうとする。
だがヘリオンは意に介さず、素早く悠人の元に跳びこみその手を掴んだ。
「だったら、どうしてこんなに震えてるんですか。顔色だってすごく悪くて……」
離れていれば気付かれないとでも思っていたのか。
自分がそんなことで悠人の変化がわからなくなる事など無いのに。
悠人の顔が苦渋に歪みヘリオンから背けられた。無言で悠人の返答を待つうちに、
ツンと、ヘリオンの嗅覚に刺激が伝わった。紛れもない、血の臭い。
「あ……」
ぽたり、と地面に水滴が落ちる。垂れ込めた雲から、ぽたぽたと雫が漏れ出していた。
そのまま、暫く無言の間が生じた後に、
「ああ、そうだよな、ヘリオンに隠し通せるはずなんか無かった」
深い息とともに悠人がぽつりと洩らした。
「でも、あいつらの事に関しては本当にもういいんだ。
覚悟の上で斬ったのに後悔してちゃ、あいつらにも申し訳が立たないから」
黙って頷くヘリオンに、天からの雫を浴びながら悠人は話し続ける。
「ソーマに対してだって、今でも許す事なんか出来なくて、斬った事にも後悔なんて無いのに。
血の臭いだって、今までに何度も嗅いできてるのに、何で、こんな」
顔から色をなくしたまま、ヘリオンを見ずに自分の衣服についた血に視線を置き続ける。
きっと、それが人を斬るという事なのだろう。
またしても、悠人が自分には体験し得ない苦しみを負うというのか。
人を斬れない自分には分かち合えない物なのだろうか。
恐らく、そうではない。いや、彼がいつも言っている通りなら、決してそんなことは無いのだ。


そっと背伸びをして、ヘリオンは悠人の頭を静かに自らの胸元に引き寄せる。
「何を――」
悠人の脚に力は無く、ヘリオンの体に体重がかかる。
そのままぎゅっと、自分がしてもらっていた時のように悠人をかき抱いた。
身をすくませて、悠人はヘリオンを押し返そうとした。
だが、思うように力が入らずにヘリオンの為すがままその腕に包み込まれる。
「よしてくれ、人もスピリットも同じだって言っといて、
全然感じてる事が違うのに、こんな風にされる資格、無いじゃないか」
悠人の耳にヘリオンの心音が響く。
「返り血だって、今までに何度も、浴びてるっていうのに」
鼻腔が柔らかい匂いにくすぐられ、纏った血臭を忘れそうになる。
「そんな俺がこんなに優しくされること、無い」
言葉とは裏腹に、体はあたたかい感触を求めていった。悠人の腕もヘリオンの背に回されて、すがり付いていく。
以前とは逆に、ヘリオンは何も言わずにただ悠人を抱きしめる。
悠人の言葉を受け止めて、自らを濡らす雨ではない雫を感じながら。


時間が経つにつれ、強張っていた悠人の体から力が抜けて、ヘリオンの腕に包まれたまま息を落ち着かせていく。
最後に一つ大きく息をつくと、静かにヘリオンの肩に手を置いて緩く押し返した。
ヘリオンがその顔を覗くと、色をなくしていた状態から血の気を取り戻していた。
「落ち着きましたか、ユートさま」
それよりは、少しばかり血が上りすぎているようでもあったが、悠人は静かに頷いた。
「もう、大丈夫だと思う。でも」
視線を今まで顔をうずめていた所にやると、ちょうど顔に残っていた血がそこに移ってしまっていた。
さらには、髪の毛についていた血もその頬に。
「ヘリオンがソーマの血で汚れる事になっちまったな。そんなのは絶対に嫌だったのに」
それに対して、ヘリオンは目を閉じて首を振り、
「人もスピリットも同じなんでしょう、ユートさま。この血が誰のものかなんて関係ありません」
続けてしっかりと悠人の目を至近距離から潤んだ瞳で見つめ返した。
「それに、消えない血の臭いをユートさまだけが一人で背負う事、ないです。
わたしだって、ほんとうは血に塗れてるんですから。わたしもユートさまと一緒にそれを背負います。
だからわたしにも、その臭いを下さい」
自分の言葉に、だんだんとヘリオンは頬を染め出した。
その言葉の奥にある意味に、かあっとさらに悠人の顔に血が上り、ヘリオンの肩に置いた手に力がこもる。
生まれでた衝動に抗いながらも、そのままヘリオンを抱き寄せ、頭を自らの胸にうずめさせた。
血と雨の臭い、そして何より悠人の匂いを感じながらも、ヘリオンは身をよじらせる。
「わた、わたし、本気なんですっ。これくらいじゃ、足りませんっ」
そっと、悠人はヘリオンの耳元に口を寄せる。
「駄目だ、そんな理由でなんて嫌だから。ヘリオンの気持ちは良く分かったけど、
血の臭いなんて、さっきまでのと今とで充分移ってる。だから」
ゆっくりとヘリオンを解放して、顔をあげさせる。


不思議そうに視線を返すヘリオンの頬についている血を
手を当てて親指で拭い、頬に手を添えたままその目を正面に見据えた。
「この先は、血なまぐさいこと抜きで、ヘリオンの温かさを感じたい」
今まで以上に顔に血が集まっていき、互いを見ているうちに鼓動は際限なく高まっていく。
返事をする代わりというように、もう一度ヘリオンは悠人の胸に飛び込んだ。
「ほんとに、ですか」
「ああ、本当だ。これも、もう血とかそんなのは関係ない」
徐々に勢いを増していく雨を受けながら、体を寄せ合う。
一度、緩やかに体を離してヘリオンが目を閉じ、少しだけつま先を上げ、
悠人もまた、ヘリオンの頬に手を添え軽く身を屈ませ唇を合わせた。
遥かに長く口付けを交わして、二人は静かに顔を離す。
「さ、帰ろう、ここに居たままじゃ、風邪ひいちまう」
呆とした頭を働かせ、ヘリオンが頷く。体を寄せたまま歩き出しながら一度、その体を見下ろした。
そこから漂う臭いは確かに望んだとおりに。だが、それ以上に感じられるものがある。
「ユート、さま」
「ん?」
「わたしも、もっとユートさまのぬくもりを感じたいです」
「……うん」
静かに、悠人がヘリオンの肩を抱き歩を進める。
「ユートさまにも、わたしをもっと感じて欲しいです。
そうしたら、ぜったいに苦しい事に押しつぶされる事なんか無くなります」
「俺だってそう思ってる。あのさ、だから」
「ですから、その」
互いの鼓動を敏感に感じ取りながら、同時に赤い顔を見合わせる。
言葉は要らずに、ゆっくりと頷き合って、二人は帰途についていった。