『失望』の道行

幕間

「キョーコさま、申し訳ありませんがただ今ユートさまはお部屋に居られません」
その声に、キョーコ、岬今日子は声の主に振り返った。その姿はエスペリア。
見つかった事を悔いるように、また恥じるように苦笑を浮かべる今日子を見て
エスペリアもまた、微笑みながら首をかしげた。

ラキオスがマロリガンを下した。その報せがラキオス中に広まったのはつい先日の事。
その報せの中で、国民には詳細に語られなかった事が有る。
マロリガンに与していた二人のエトランジェ、碧光陰と岬今日子がラキオスの軍門に下ったという事。
本人達の名も顔も知らされることなく、ただ新しく登用された者がいるという程度の認識が広がるだけだった。
王城内においても、本人達にラキオスと共に戦う意志がある事や、
現在ではラキオスの英雄として見られつつある悠人の願い、
戦力が増えるに越した事は無いという重鎮達の思惑とレスティーナの手腕によって、
諸々の処理は残るものの一応は表も裏も決着がついていた。
だが、それでも。岬今日子の心には、重く暗い想いが渦巻いていた。
『空虚』の今日子として神剣に意志を奪われたまま、高嶺悠人を傷つけ、苦しめた。
それだけではなく、『空虚』の言うままに数多くのスピリットや人間を屠ってきた。
苦悶に歪むスピリットの散り様を見る度に心が擦り切れ、そのまま自分の意志を封じ込めただ殺した。
その自分を彼は、悠人は助け、その罪を生きて償えと叫んだ。
彼もまた、意志とは裏腹に多くの敵を斬ってきたはずだ。にもかかわらず、
彼はその重みに耐えてきて、更には他人に助けの手をも差し伸べたのだ。
その強さは自分が持っていない物。そうでなければ剣に意志を飲み込まれる事も無かったはずだ。
それを背負う事も償いの一つなのだろうが、
償いの仕方も知らず、償いきれるかどうかも分からない事が怖い。
また、一番に償いをしなければならない相手が誰なのかも分かっているつもりだった。
しかしその相手の顔を思い浮かべる前に、この場所、悠人の部屋の前にやってきてしまった。


彼に対する償いだといって、さらに優しさに触れようとしただけなのか。
痛みが欲しいといって、その実彼を欲しているだけなのか。
疑問にせずとも、自分が卑怯者だという思いだけは膨らんでいく。
それを抱え込んだまま部屋に到着した。静かにノックをして、返事を待つ。
しかし、いつまでたっても反応が無い。もう一度、強めにドアを叩いた。
それでも悠人の声が返ってこない事を不審に思い、ドアノブを掴み回そうとした。
だが、ドアには鍵がかかり、部屋の主の不在を示していた。
今日子ははっとして、固く動かないドアノブを離す。
「なにしてんだろ、アタシ」
俯いて、少しだけ冷静になった頭で自分の行動を省みる。
安堵を感じている一方で、寂しさを覚えている事もまた事実だった。
また悠人に迷惑をかけてしまう所だったという後悔と、悠人を求めている思いが鬩ぎあって、
佇んだままでいた所にエスペリアが声をかけたのである。
それまでの今日子の思いつめた様子に察する物があったのか、エスペリアはそのまま今日子に続ける。
「もうしばらくすればお戻りになると思いますが、お待ちになりますか?
お茶くらいならお出しできますから」
今日子は自分がここに来た本当の理由を悟られるわけにもいかなかったし、
無碍に断る事もできなかったため、エスペリアの後について居間へと場所を移した。


静かに差し出されたカップを受け取り、今日子は中身を口に含んだ。
すうっと、頭が落ち着いていく香りが広がっていく。
言葉少なく半分ほどを飲み終えたところで、今日子はエスペリアに尋ねた。
「ところでエスペリア、悠は、っとと。悠人隊長はどこに行ったの」
形式上、彼女はスピリット隊の一員に過ぎないため、とりあえずは堅苦しい呼び方をせざるをえない。
けれども、エスペリアは微笑を浮かべて言った。
「今は誰もいませんから、お好きなように話されてかまいませんよ、キョーコさま」
ですが、とエスペリアは申し訳無さそうに続け、
「私用であるためにわたしの口からは申し上げられません」
とだけ言い頭を下げた。
今日子は、時間をおいて自分の行動を自覚した分冷静になったのか、
胸の中でもやもやとしていた暗い思考が少し落ち着き、
エスペリアの言葉に引っかかりを感じるほどには周りが見えるようになっていた。
「ねえエスペリア、知らないんじゃなくて、言えないってことなのあいつの用事って」
そう問われてエスペリアは一瞬、しまったという顔を浮かべてしまった。
悠人が不在の原因はもちろん恒例となったヘリオンとの特訓だ。
今日子の雷でボロボロになったにも関わらず、約束が有ると出て行った根性は認めたいが、
おかげで回復魔法を連発する羽目になったことが無意識に腹に据えかねていたのだろうか。
悠人からは、光陰と今日子から何を言われるか分かった物じゃないと、
出来る限りこの二人に内緒にしていてもらいたい旨を伝えられていたのだが、
とんだ不注意で勘付かれてしまった。その表情を見咎めた今日子が更に追求すると、
エスペリアは心の中で悠人に頭を下げて、ある考えを浮かべた。
「もうお帰りになられる頃ですから、宜しければユートさまからお確かめください」
それでは、出迎えに上がりますのでと今日子を残して玄関へと向かう。
事実、エスペリアは完全に傷が治っていないからと、早めに終わるよう忠告しておいたので
いつもよりは悠人の帰宅も早いはずだし、治療の続きをするために出迎えるとも言っておいた。
エスペリアの様子に疑問を抱きながらも、今日子はカップの中の残りに口をつけて時間をつぶした。


エスペリアの言葉どおりに、数分の後には悠人が第一詰所の扉を開いた。
「お帰りなさいませユートさま、お客さまが……あら?」
だが、その隣には一人の姿があった。悠人は扉を支えたまま、その人物を招き入れる。
「お、お邪魔しますっ」
エスペリアに向かってぺこりと頭を下げるのはヘリオンであった。
「え、あ、ようこそ、いらっしゃいませ」
予想外の事に、エスペリアも丁寧に頭を下げる。
その堅苦しい様子に悠人は溜め息をついて注意した。
「あのさ、二人とも。第一詰所も第二詰所もみんなの家なんだから、
そういうのは抜きで良いじゃないか。そんな言い方じゃ、ヘリオンがよその人みたいだ」
気分の問題だが、嫌な物は嫌だった。それを聞いてエスペリアは微笑んで頷き、
「そうですね、ええ、お帰りなさい、ヘリオン」
と改めて言い直した。ヘリオンは更に緊張して、
「ただいま、帰りました」
と小さく呟く。だがそこで、エスペリアははっとして悠人に向き直った。
「あの、ユートさま、どうしてお二人でお戻りに」
「ああ、言われたとおり早く上がりにして帰ってたんだけど、話してるうちに第二詰所を通り過ぎちまって。
今日は時間も早いしエスペリアもいるから、こっちでお茶でも飲もうって誘ったんだ」
照れて頬を掻きながら、悠人は答えた。エスペリアがヘリオンの顔をそっと覗くと、
こちらも頬を染めて俯いている。
普段なら、とエスペリアはあせって思考を巡らせる。普段なら喜んで迎える事は当然だ。
けれども何故今日、この時なのか。無意識に居間に視線を向けて、そこに居る人物を思い返す。
あそこまで思いつめた様子で夜に男性の部屋を訪れる。
それが何を意味するかは、知識の中に何となく有る。


しかし、彼女には悪いが目の前の二人の関係を知っているからこそ、
悠人と二人にはさせないように、自分が泥をかぶっても
出来る限り穏便に今日子にそれが伝わるように立ち回ろう、
と考えていたのだが、それも水の泡だ。
「ところでエスペリア、さっきお客さんがどうとかって言わなかったか」
「え、ええ、先ほどキョーコさまがお見えになりまして、居間でお待ちになっています」
聞いた瞬間、今度はヘリオンが表情を強張らせた。
無理もない、とエスペリアの胸中はさらにざわめく。
二人のエトランジェを助けた時から、今の今日子の行動まで。
今日子が悠人に好意を秘めているのは明らかだ。
「こんな時間に?なあ、もしかして俺がどこに居るとか、教えたのか」
「いえ、ですが絶対に尋ねられると思います。きちんとお答えになったほうが宜しいでしょう」
顔を引きつらせて苦笑いをしている悠人だが、きっと今どんな状況なのかは一番分かっていないだろう。
みんなの分のお茶を頼むと言い残して、ゆっくりと居間へと進んでいく。
その場に佇んでいるヘリオンの肩に両手を乗せて、エスペリアは静かに囁いた。
「ヘリオン、ここは正念場です。ずっと気を強く持ちなさい」
へ、とヘリオンは俯いていた顔をあげる。
「え、エスペリアさまっ、どうしてそんなこと」
きっと悠人と今日子は人間同士で、わたしたちはスピリットなのだからとか、
そういう風な事を言われてしまうのだとヘリオンは思っていた。
「ユートさまが望まないだろうからです。
それに、ユートさまだけではきちんとした説明にならないでしょう」
エスペリアはヘリオンの背をぽんと押した。
「わたしがお茶を用意しますから、座っていていいですよ。頑張りなさい」
ヘリオンはそれに礼をすると、悠人の後を追って居間へと入っていった。
さて、とエスペリアはいつもの癖で自分の腕を掴むポーズをとると、
こうなったら、ぶつかり合ったほうが上手くいくのかもしれないと希望を持って、
お茶を淹れるために台所へと進んでいった。


悠人がヘリオンと共に居間に現れた瞬間、今日子の目は大きく開かれた。
スピリットと会う事が用事だったというのか、しかも夜中に。
だが、今日子も自身の事を振り返り、首を横にふった。
あくまでも自然に見えるよう、悠人に尋ねる。
「お邪魔してるね、悠。ねえ、そっちの人は?」
「ああ、そっか、全員紹介する前に吹き飛ばされたんだった。この娘は……」
と、悠人がヘリオンを紹介しようと手を向けたとき、ヘリオンは先んじて一歩踏み出し、頭を下げた。
「ヘリオン・ブラックスピリットです。よろしくお願いします、キョーコさま」
だが、その声は緊張とはまた違った固さを含んでいた。
悠人が普段とかけ離れた雰囲気に硬直している間に、ヘリオンは頭をあげて悠人に着席を促す。
言われるままに座った席の隣にヘリオンが腰掛けた。今日子の視線が悠人に突き刺さる。
ヘリオンはヘリオンでじっと今日子を見て、時折悠人に視線をやっている。
一気にピリピリとした場に風穴を開けるように、エスペリアが入室してきた。しかし、
「お茶をお持ちしました。何かご用があれば、またお呼びください」
の言葉のままに、悠人がひそかに助けを求める念を送るのにも気付かないようにすぐに台所へ引っ込んでしまった。
仕方無しに悠人がお茶を口にした時に、今日子が口を開いた。
「あのさ、悠、ひょっとして何で自分が吹っ飛ばされたか覚えてないわけ」
かろうじて、悠人は口に含んだお茶を飲み下すとあわてて抗議する。


「だから、あれはアセリアが勝手にやった事で俺だって予想してなかったんだよ」
アセリアが悠人の頬についたクリームを舐め取った。
それに関しては、怪我をして稽古に現れた理由をヘリオンに尋ねられて、
吹き飛ばされた原因に話が及んだ時にも悠人は痛い目を見た。
仕上げの時に今までの何割増しかと思う勢いで斬撃を打ち込まれていたのだ。
そして今も、彼女はその雰囲気を振り撒いていると悠人は感じていた。
今日子はそのまま悠人の横で静かに座っているヘリオンを見やり言葉を続ける。
「じゃあ、今隣に座ってる娘の事はどういうつもりなの」
悠人は途端に言葉を詰まらせて、何とか顔が紅潮するのを押さえ込みながら答えた。
「へ、ヘリオンと会ってたのは、前からの約束で」
「キョーコさまやコウインさまの事が落ち着いた頃に、また剣の稽古をする約束だったんです」
しどろもどろになった悠人を助けるように、さっとヘリオンが言葉を続ける。
だが、悠人には肉食獣の前に背中を押されて突き出されたように感じられた。
その証拠に、更に目を鋭くさせた今日子が口を開く。
「またって、悠、どういう事」
今度こそ、赤くなる頬を止める事はできなくなって、悠人はヘリオンを見た。
ヘリオンはじっと悠人を見つめて言葉を促す。悠人は覚悟を決めて切り出した。


悠人がヘリオンとの剣の特訓をする事になったいきさつを説明している間、今日子はずっと無言だった。
時折混じる悠人のヘリオンへの感情をこめた言葉を敏感に感じ取り、そっとヘリオンに視線をやると、
彼女もまた、それに反応して表情を緩めていた。悠人の説明はたどたどしかったが、
その内容以上に、込められた思いは今日子の心の奥を刺激していた。
悠人の言葉が終わり、今日子の反応を静かに見ている。
それに対して今日子は深く頷き、悠がいなかった理由は良く分かったとだけ、答えた。
悠人があまりに今日子らしくない様子を不思議に感じたときに、
今日子は殊更明るく声を出した。
「じゃあ、今度はアタシがここに来た理由を言わなくちゃね。
ねえ、悠は何でアタシがここにきたか、分かる?」
今日子の言い方に、別の深い思いがあるような気がして、悠人はいくつかの可能性に考えが及んだが、
その中でもとりあえずは無難な、もっとも可能性がありそうなものを選んだ。
「何でって、自分で吹き飛ばしたんだから、責任もって見舞いにでも来ただけだろ」
ことさら軽く、今日子の持つ雰囲気を助けるように言う。
今日子はそれを聞いて、悠人らしい言葉だと思って苦笑を浮かべた。だが、
「そうだと、良かったんだろうけどね。確かに最初はそんな感じで、
まだ改めてお礼、言ってなかったし、謝ってもなかったなって思ったからなんだけど」
ぽつぽつと、急に普段とは全く違う態度で話し出す今日子に違和感を感じながらも、
悠人は思うままを伝える。
「お礼も謝るのも、俺はもういらないよ。光陰や今日子を助けるのに理由なんか要らないんだから」
「ううん、最初はって言ったでしょ。悠の部屋の前に着いたときにはね、全然違う事を考えてた。
あのね、悠とヘリオンにも聞きたいんだけど神剣で敵を斬った時、どんな気持ちになるの?」
すっと、今日子は二人から目をそらして問い掛けた。少しの間、二人が考える時間をとるように
間を空けていたが、答えが返ってくる前に再び今日子が話し始める。


「アタシは、『空虚』を振るうのが気持ちよかったの。終わったあとで、嫌な気持ちになるって
分かってるのに、剣から力が伝わってきて、何でも出来るような気になってた。
実際にできることなんて、相手を傷つけて、殺す事だけなのに」
だんだんと、今日子の声は震えていく。その告白は、懺悔の響きを持っていた。
「痛みを与える事が気持ちよくて、痛みを受ける事が嫌いな、こんなアタシが
生きて罪を償うなんて無理だって思えて、その前に、痛みが欲しかった。
本当に、悠に謝らなきゃいけないのはこの事。またアタシは、自分の都合だけで
悠の気持ちも考えないで取り返しのつかない事するところだった」
そこで今日子は言葉を切り、ヘリオンと悠人を静かに見る。
今日子の言う痛みが何を意味するのかは、二人にも察しがついてしまった。
けれど、それに言及する事は避け、それよりも言わなければならない事が有ると、
悠人もまた今日子に言葉をかけた。
「俺だって今日子たちに謝らなきゃいけない事、あるんだぞ」
ふっと、今日子とヘリオンが悠人のほうを向く。その視線を受けて、悠人は正直に心情を吐いた。
「今日子は、俺がスピリットたちを殺すのに耐えてきたとか、
神剣に逆らって助けてくれたって言うけど、俺はそんな出来たもんじゃない。
心のどこかで、スピリットを殺したからみんなを守れたんだって正当化してばっかりだし、
そう思うことで気分を良くしてる時まで有る。それも神剣の作用の一つなんじゃないかな。
そんなんだから俺だけの力じゃ神剣に逆らう事なんて出来なかった。
それに、二人を助けるのだって、俺だけじゃそんなの無理だって諦める所だったんだ」
そう言って悠人は静かにヘリオンに視線をやった。
今日子はその視線を追い、そこに含まれた感情を見て取ってしまった。
ヘリオンとの特訓を話す時にもひそかに浮かべていた喜び。
感謝の念だけではない、明らかな好意。彼が自分達や佳織、小鳥以外に
こんな表情を向けるときが来るとは予想さえしなかった。


悠人はゆっくりと今日子に向かって続ける。
「今日子は充分強いと思うよ、だって一番最後にしっかり神剣を追い払えたじゃないか、自分の力で」
「でも、それは悠が言葉を届けてくれたからでしょ」
今日子は自分に向けられた視線を読み取ろうと試みたが、その中に含まれる好意は、
友人に向ける以上のものでは無いように感じられた。
「いや、それなら、礼は光陰に言うべきだぞ。
今日子の意志が全部持っていかれないようにずっと見守ってたんだから。
そうでなけりゃ、『空虚』が遊びでも今日子を表に出す事自体なかったんだ」
それを悟って、今日子はすっと、強張っていた力を抜いた。
自分が言った痛みを受ける事はできないし、もうしたくない。
けれど、彼は確かに痛みをくれた。自分には、まだ痛みを感じる心がある。
「そうだね、たまにはアイツにも良いとこあるんだから。うん、そうする」
まだ、笑いに力はなかったが苦笑を浮かべる事くらいは出来た。
悠人の様子を見ても、とりあえずは安堵の表情を浮かべてくれたようだ。
今日子はこの後に自分がしなければならない事を心の中に思い浮かべて実行に移す。
「ね、悠」
「なんだよ」
「お茶、おかわり持ってきて」
「エスペリアを呼んだら持ってきてくれるぞ、そんなの」
すらりと、今日子はどこからともなく取り出したハリセンの柄を見せつけて、
「悠の淹れたのが飲みたいの!たっぷり時間をかけて味を出した奴をささっと淹れてくる!」
と命令し、ぱりぱりと静電気がハリセンに流れ始めた所で、
悠人はポットとカップを手にとり、居間から姿を消した。


そして、居間には今日子とヘリオンの二人が残った。
エスペリアの言葉を胸に、ヘリオンが静かに息を吸って身構えた所に、今日子が大きく頭を下げた。
「キョ、キョーコさまっ?」
そのまま肩を震わせて無言でいる今日子に驚き、ヘリオンは立ち上がって今日子の横に駆け寄った。
今日子は体をヘリオンのほうに向けて、頭を下げ続けている。
その場に跪いて、ヘリオンは今日子の肩に手を置いて、顔をあげてもらえるように頼んだ。
ヘリオンがさらに言葉を出す前に、今日子は謝罪を繰り返す。
それに対してヘリオンは首を横に振った。
「キョーコさまが謝る事なんて、ないです。だって実際には何もしてないじゃないですか。
わたしだって、キョーコさまがいないときに、ユートさまと出会って……」
「アタシは、別に悠とは何もなかったもの。
ほんとに、自分のためだけに悠を使おうとしただけで、
その後の悠の気持ちも、他のみんなの気持ちも考えないで我儘に巻き込む所だったから。
きっと、二人が出てなかったらアタシはそのまま我儘を通しちゃってた」
ヘリオンの言葉を遮り言葉を発するうちに声は震えて、
今日子の目に涙が浮かび始めた。揺れる雫を無視して、今日子は続ける。
「それにね、さっきまでの悠を見てたら分かるもの。あんなふうに嬉しそうにしてるの、
佳織くらいにしかなかったのに、ヘリオンのこと、それ以上に大切に想ってる目、してた。
だから、そんなことヘリオンが気にすることないよ」
今日子の言葉とは違う所に彼女の気持ちが有る。
でなければ、どうしてそんな細かい悠人の変化に気がつき、涙を浮かべる事があるだろうか。
だがヘリオンはそれを声には出せずに、
彼女の言葉を聞いたときに湧きあがった感情のままに今日子を見つめる。
今日子が見返したヘリオンの目からも、涙が溢れていた。


「な、何でヘリオンが泣く事あるのよ、悪いのはアタシ……」
驚いて声をあげかけた今日子に向かって、ヘリオンはふるふると首を振って、
「キョーコさまごめんなさい、わたしは、その言葉を嬉しいって、思っちゃいました。
他の人にもわかるくらい、ユートさまが、わたしの事を想ってくれてる事に、
嬉しいって、思っちゃったんです」
そのまま俯いてしまった。今日子はヘリオンの態度を受けて衝動的にヘリオンの肩に手をかけ、
「いいの、そんな風に思って謝る事なんて、ない。
ちゃんと自分の気持ちを言わなきゃ、アタシみたいなのには伝わらないんだからさ」
静かに引き寄せた。ヘリオンは一度頷き、そっと囁くように話した。
「わたしは、ユートさまが、好きです。だから、ユートさまもわたしを想ってくれることが、
すごく嬉しいんです。キョーコさまが、言った事がほんとにならなくてほっとしてます。
何もしなくて、ありがとう思ってます。だから、ごめんなさい」
しかし、言葉を発しながらぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていく。
今日子も、自らの頬を伝うものを隠さずに、何度も頷いた。
「いいんだよ、ちゃんと、二人は想い合ってるんじゃない。だから、いいの。
アタシはきちんと悠の親友で、二人にしっかり、おめでとうって言えるから」
今日子は自分からヘリオンの背に手を回し、抱きとめる。
「だから、ね。ヘリオンも、もう謝らなくていいよ。アタシがバカな事するの、
止めてくれたんだから、アタシからはありがとうと、おめでとう。もうそれだけ」
ヘリオンも、ゆっくりと今日子に抱きつきなおして、途切れ途切れに感謝を言い続けた。


二人の涙が出尽くした頃に、今日子がヘリオンに腫れた目で頼む。
「あのねヘリオン、そのキョーコさまっていうの、止めにして欲しいの。
親友の悠の彼女なんだから、アタシにとっても、友だちになれたらいいからさ。
それに、やっぱりそんな風に呼ばれて気分良くする趣味、アタシには分かんないから。いいかな」
悠の彼女、という言葉に反応して慌てつつ、確認を求めた。
「え、ええ、それじゃ、キョーコさんって呼んでも良いんでしょうか」
「うん、もちろん。悠の事でなんかあったら、じゃんじゃん言ってきなさい。
バカな事しでかしたら、速攻で吹っ飛ばしてやるから」
「だ、ダメですっ、キョーコさまのあれは強力すぎます。ユートさまがかわいそうですっ」
目を丸くして怒ってみせるヘリオンに、今日子は苦笑を浮かべて謝った。
二人がもう一度席についた頃に、エスペリアに促されて悠人がお茶を運んでいく。
あの中に入っていける度胸は元からなかったが、
再び入るタイミングも掴みかねていた悠人にはありがたかった。
「悠、お茶入れるのにどれだけかかってるのよ」
「キョーコさんですよ、時間をかけて淹れてくれって言ったの」
「ああ、しっかり淹れてきたから、ちゃんと味わって飲めよ。
何の葉を使ったのか当てられるようになったら一人前だ」
その雰囲気を陰から覗き見て、エスペリアもほっと、安堵の息を洩らしたのだった。


もう一人のエトランジェ、碧光陰が城で執り行われた聴取から戻ってきたのはその日の明け方。
自分の部屋の前に佇む人影を見つけて、ゆっくりと近寄っていった。
「どうした、今日子」
その声にすっと振り向き、今日子は光陰に向かって頬を掻き、力なく笑いかけた。
「別に、ちょっとお疲れさんって言いに来ただけ」
その様子に、少し違和感を感じながらも光陰はそのまま続けた。
「そうなのか?……部屋には入れんぞ、寝込みでも襲われたら敵わんからな」
「するかぁっ!」
稲妻を纏わぬハリセンで思い切り光陰の頭がはたかれる。
だが、光陰にはその感触にも軽さを感じて疑問を浮かべる。
「む、やっぱり何かあっただろ今日子。何だ今の甘いツッコミは。
ツッコミはいつでも全力で、がお前のモットーだろう、そんなんでどうするんだ。
雷撃の今日子の名が泣くぞ。もっとビシーッとやってくれなきゃこっちも拍子抜けだ」
「アンタ、本気でやったほうがいいって、そんな趣味でもあったの」
ジト目で光陰をにらんでいると、
「いや、いつもの怪力が発揮されない事が判明すれば、それはそれでいいがな。
そうなれば、ツッコミを恐れることなくスピリットの皆にしっかりと挨拶が出来そうだ」
光陰は神妙に頷き、頭に数人のスピリットたちの顔を思い浮かべにやけ出した。
「…………」
「あ、いや、待ってくれ、冗談、冗談に決まってるじゃないか、なあ、きょう」
瞳から色を消し、今度こそ雷撃を乗せて、今日子は光陰の後頭部にハリセンをフルスイングした。
轟音と共に、光陰の体が床に沈む。
ひくひくと痙攣する光陰を見下ろし、今日子は溜め息をつく。
「聞こえてるかどうかわかんないけど、一度しか言わないからよく聞いときなさい」
息を吸い込み、言葉をためて今日子は光陰に向けて言葉をかけた。
「アタシが『空虚』に乗っ取られてる間、色々面倒かけたみたいだから、一応言うわよ。
……ありがと。それだけだから、後は自分で何とかしなさい」
それじゃ、と今日子は光陰に見向きもせずに自室へと帰っていった。


ずるずると這いずりながら光陰は自分の寝台に到着し、かろうじて這い上がった。
そこで、光陰は部屋を覗いている気配を感じて聞こえるように呟いた。
「やれやれ、らしくねぇなあ今日子。
俺が今日子の面倒見るなんざ朝飯前なんだから礼なんかいらねぇっての」
「……いや、俺だけど。何でそう怒らせるんだよお前は」
光陰が視線を向けると、そこには悠人と、その隣にヘリオンがいた。
「お前の差し金か、悠人。わざわざ見せ付けてくれやがって」
「見せ付けるって、俺たちはそんなつもりは」
「何言ってんだ、俺とやり合ってる最中もずーっと見守っててもらっておいて」
寝台から身を起こし、悠人を軽くにらむ。
「それとも何か、譲ったようなつもりにでもなってやがるのか、おい」
「ば、馬鹿な事言うな、そんなことあるわけないだろ」
「ああ、分かってるよ、んなこと。
お前がそんな気を利かせることなんか思いつくはずねぇからな」
「だったら、何で」
それを聞いて光陰は盛大に溜め息を吐いた。それすらも分からないほど鈍いのか。
「お前なぁ、あの様子じゃあどう考えてもお前がふった直後じゃないか。
それなら余計に、んな時に泣きつかれたからって話に乗りゃあ俺の立場もなくなるだろうが」
「でも、キョーコさんほんとに怒ってますよ」
その呼び方に一瞬間が開いたが、光陰は気にせずにへらへらと笑いかける。
「いーのいーの。ヘリオンちゃんはそんなこと気にしないで」
それに言葉を返しかけたヘリオンを遮り、光陰は急に真面目な顔を作って呟いた。
「今日子は、こんな時に甘やかしたらすぐ腑抜けちまう。
ちょっと間をおいて落ち着いてから改めて、俺に惚れさせりゃ万事解決だ」


ぽかんと、悠人とヘリオンが顔を見合わせた。
よくもまあ、あれだけ今日子の神経を逆なでしておいて吐けた台詞だと、言葉も出ない。
「おいおい悠人、ここは『お前なら出来るさ、光陰』とか、
ヘリオンちゃんは『コウインさま素敵です』とか言ってくれるもんじゃないのか?」
律儀に光陰のほうに向き、口を開きかけたヘリオンを手で制し、悠人が呆れて言った。
「言わなくていいぞ、ヘリオン。光陰も、お前のノリにまだ慣れてない奴が多いんだから
皆を困らせるんじゃない。それこそ今日子のツッコミが飛んでくる」
そもそも、稲妻部隊を鍛え上げた『因果』のコウインの普段の姿がこんな物だと知った方が驚くだろう。
「もう大丈夫そうだから行くぞ、夕べから休み無しなんだからゆっくりしてろ」
「コウインさま、お大事に」
いともあっさりと、二人は部屋を出て行ってしまった。
仕方無しに目を閉じていると、さすがに徹夜で取調べを受けていた疲れが出たのか、
すぐに光陰に眠気が訪れた。落ちていく意識を繋ぎとめながら、
「ったく、これでやっとこさ一からスタートって所か」
そう呟き、今日子の姿を思い浮かべながら、耐え切れずそのまま深い眠りについていく。
その眠りの間に一度だけ、ずれた毛布を直した人影があった事を光陰は知らないままであった。