明日への飛翔

第四幕

――帝国の"漆黒の翼"、ラキオス王国へ投降す。

 その一報は日を置かずして、ラキオスの若き女王"レスティーナ・ダイ・ラキオス"の元へと届けられ、
ラキオス首脳陣に大いなる衝撃を与えた。
 それは数ヶ月前、敵対するマロリガン共和国が二人のエトランジェを擁する事実が明らかになった事件
にも匹敵し、これにより対帝国戦略に大きな進展が見られるのではないかと期待された。
 女王レスティーナはこの事件について絶対の緘口令を布くと、報せをもたらしたエトランジェ<求め>
のユートに"漆黒の翼"ウルカの監視その他一切を委任したのであった・・・。

 同日深夜。ランサ仮詰所において、悠人は大量の事務仕事に追われていた。
(もっとも、悠人自身は決裁するのみで、真に忙殺されていたのは代行するエスペリアだったが。)
 明日からはウルカの監視の為、ランサ・ラキオス間を頻繁に往復しなければならない。
 その上オルファが一緒にラキオスに戻る事を強硬に主張して譲らなかった為に、王都防衛やランサ守備隊
の配置などを、急遽変更する必要に迫られたのだった。
 結局アセリアとオルファが王都防衛の任務に戻り、悠人とエスペリアが柔軟に両拠点を往復する。
 そして他の者達で、ランサ守備隊を回すという事に落ち着きそうだ。
 次々と運ばれる書類にサイン(自分の名前は悠人が筆記できる唯一の聖ヨト語である)をしながら、悠人は
先刻の出来事を思い返していた・・・。

 『あのお姉ちゃんを助けて!!』

 オルファが乱入して来た時、悠人は想像を絶するヘリオンの過去について知り、激しく動揺していた。
 混乱する頭で、更に支離滅裂なオルファの言葉を何とか整理すると、何とあの帝国の"漆黒の翼"ウルカ
が死にかけているので、助けて欲しいと言う。
 <求め>ですら感知できないその微弱な気配を、どうして彼女が察知できたのかは不思議だった。
 しかし罠を警戒するエスペリアを宥めながらも、オルファに導かれて砂漠を進んで行くと確かに、そこ
にはあの帝国のウルカが倒れていたのだった。
 半ば砂に埋もれかけた弱々しいその姿は、とてもあのイースペリアでアセリアと一騎討ちを演じ、また
王宮に襲来し佳織を攫って行った武人と同一人物だとは思えぬ程だった。
 エスペリアの治療により何とか一命は取り止めたが、これほど名の知れた相手の処遇を、悠人の一存で
決める訳にも行かない。
 まずはレスティーナに報告しなければと、ウルカを連れてラキオスへと飛んだのだが・・・。

 (・・・まさかそこで、ヘリオンにばったり出くわすとはなぁ。)
 ヘリオンはその時、たまたま第一詰所の掃除をしに来ていたのだそうだが、悠人はちょうど良かったと
言ってウルカの身柄を預けて行ったのだ。
 そして報告の結果、ウルカを監視付きでラキオスに留め置く事が決定すると、そのままなし崩し的に
監視役に決定してしまった。
 エスペリアなどは当然心配したが、悠人には、ウルカにはもう危険は無いだろうと言う確信があった。
 一応本人には建前として情報を得る為に救ったのだと言っておいたが、力無く答えるウルカの姿を見て
まるで、母親とはぐれてしまった迷子の子供と会話しているように感じたのだ。

 (明日から、また忙しくなりそうだな。)
 悠人は・・・この出会いが、ヘリオンにとって何か大きなきっかけとなる予感がしていたのだった。


 一方ラキオスでは・・・突如降って沸いた災難に、戦々恐々とするヘリオンの姿があった。 
 ウルカには第一詰所の空き部屋が与えられ、ヘリオンも監視役としてこちらに移る事となった。
 ヨーティアは当初難色を示したが、最後には悠人の説得により、今後も一日数時間、変わらず自分の下に
通う事を条件に異動を了承した。

 帝国の"漆黒の翼"と言えば、"大陸の三傑"の筆頭にも上げられる、知らぬ者のない歴戦の兵である。
 その彼女が投降して来たと言うのだから、周囲の驚きは相当な物だっただろう。
 けれどもまさか、自分がその監視役を命じられるだなんて・・・。
 ヘリオンはその重責に戦慄したが、敬愛する悠人に直接「頼む」と言われたからには、逃げ出すと言う訳
には行かなかった。

 (お、落ち着かなきゃ、先ずは呼吸を整えて・・・・)

 緊張の為か恐怖の為か、その手に持ったお盆がカタカタと音を鳴らした。
 夕食にしても大分遅い刻限だったが、聞けばウルカはここ数日飲まず食わずの状態が続いて、救出当時
極度に消耗していたのだと言う。
 ここに担ぎ込まれる前に、一応水分の補給だけはしたそうだが、悠人による尋問が終わった後はまた、
すぐに深い眠りについてしまった。
 まだしっかりした食事を摂るのは無理かも知れないが、病人食でも少しは食べて貰わなければ。
 ・・・ウルカの看病も、ヘリオンの大事な仕事の一つだった。

 「あ、あの・・・ウルカさま、入りますよ~?」
 起きていても聞こえるかどうか微妙な声で呼びかけながら、戸を叩くヘリオン。
 果たして返事は無く、耳を澄ませてみても物音一つ聴こえなかった。

 (眠っているのかなぁ・・・?)

 それならば良いが、油断はできない。何と言っても、相手はあの"漆黒の翼"である。
 一応、窓から逃げられたりはしないように、警戒は怠らなかったつもりだ。 
 ユートさまはよっぽど彼女の事を信用しているのか、神剣を奪う事はしなかったけれど・・・。
 ・・・もしも彼女が戸口に立って、襲撃の機会を狙っていたとしたらどうしよう。
 腰に佩いた<失望>と、お盆の上で湯気を立てる粥を確認するヘリオン。
 うん、自分の力が通用するか解らないけど、その時はこれをぶつけてやって、精一杯抵抗してやろう。
 ヘリオンはそう覚悟を決めると、ドアノブを握る手に力を込めた。

――キィィ・・・。

 暗闇の中、ドアが開く音だけが不気味に響く。
 幸いにもヘリオンが危惧したような事は何も起きなかったが、ウルカは眠っていた訳でもなかった。
 ウルカは・・・灯りも点けず上半身だけを起こして、暗闇の中ただ、じっと窓の外を眺めていた。
 「・・・起きていらしたんですか?」
 問いかけるヘリオンに対し振り返りはせずに、ウルカは夜空を見つめながら答えた。
 「星を・・見ておりました。・・・そして手前は、何故こうしているのだろうと。」
 「星・・・?」
 それには答えず、再び静寂が闇を包む。
 これが本当にあの、帝国最強の遊撃隊長と恐れられた"漆黒の翼"の姿なのだろうか。
 ヘリオンには、彼女がまるでうちひしがれた詩人のように見えた。 
 知らず知らず、視線の先を追ってみる。

 ・・・そこには、雲ひとつ無い満天の星空が輝いていた。


 どれだけの時間そうしていただろうか。 
 止まっていた時は、ヘリオンが思わずお盆を取り落としそうになる事によって動き出した。
 「わわわ、危ない!」
 慌てて落下を防ぐヘリオン。少し器から零れてしまったようだが、最悪の事態は避けられたらしい。
 「ふぅ~、間一髪セーフ・・・かな?・・・あはははは。」
 笑って誤魔化そうとするが、その相手は、そこで初めてヘリオンの存在に気付いたようだった。
 「いつの間に・・・。」
 「え?」
 「あ、いや、これは失礼致しました。・・・手前はウルカと申す者。以後ご厄介になります。」
 「・・・あ、はい、初めまして!・・・・私はへリオンです。ウルカさまの・・・」
 ここで監視という言葉を使うのは拙いだろうか。
 「・・・看病などのお世話をさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします。」
 「それはかたじけない・・・しかしヘリオン殿、手前のような者に敬称は不要です。」
 言われて見れば、敵国の捕虜にさま付けするのもおかしな話だった。
 「そうですか・・・では、ウルカさん・・で、よろしいですか?」
 「お好きなように。」
 互いに自己紹介が終わった所で、ようやくここに来た本来の目的を思い出す。

 「あ、それで食事を持って来たんです。少し冷めちゃったかもですが・・・お腹、減ってましたか?」


 黙々と食事を続けるウルカと、それを見守るヘリオン。
 あれから口に出した言葉と言えば、灯りを点けますかとか、お口に合えば良いんですがとか、在り来り
の物ばかりだった。
 先程までの恐怖は薄れていたが、こういう雰囲気もなかなか耐え難い。
 「そうだ・・・ウルカさま。じゃなくて、ウルカさん。さっき星を見ていたって言ってましたけど、
何を考えていたんですか?」
 あの時のウルカの様子が、頭から離れなかった。
 そうした会話があった事すら忘れていたのか、少しだけ赤くなるウルカ。
 しかし独り言のように語りだしたその言葉は、暗い陰りを帯びていた。

 「手前が・・・今まで斬った者達の事を考えておりました。あの者達が、今の手前を見たならば何と思う
だろうかと・・・・剣の声が聞こえなくなり、敵を屠る事も出来ず、無様に足掻き続け・・・そうして今、
戦う事すら出来なくなった手前に、何の価値があるのだろうと・・・戦とはいえ、あの者達にも未来があった
筈なのに・・・手前一人、こうしておめおめと生き恥を晒しております。」
 哀しげに語るその姿を見てヘリオンは、自分の"漆黒の翼"へのイメージが崩れていくのを感じていた。

 そして奇しくも二人は・・・互いに違う場所、違う時に聞いた、一人の少女の言葉を思い返したのだ。
・・・そう、今も遠く離れた兄の無事を祈っているであろう、あのエトランジェの妹の言葉を。

 『私のいた世界・・・ハイペリアでは、人が死ぬとその魂は、お星様になって皆を見守るんだって言われてる
んです。もしかしたらスピリットさん達も・・・生まれ変わる為に再生の剣に還るんだとしても、その想いは
天に昇って、私達を見守ってくれているのかも知れませんね・・・。』


 明くる日から、ウルカは驚異的な回復を見せ、ヘリオンとも次第に打ち解けていった。
 悠人の後押しもあり、そんなウルカの様子を見て第一詰所の面々も彼女を歓迎した。
 今ではかつて敵対していた事も忘れ、以前からの家族のように接するようになっている程である。
 (実際には、元々警戒していたのはエスペリアだけだったのだが。)
 ヘリオンはすぐにウルカの看病からは開放されたが、名目上監視役として彼女の側を離れる事はできず
にいて、またヨーティアの下での仕事もある事から日々てんてこ舞いしていた。
 もっとも、必ず日に一度は悠人が訪れて彼女を激励してくれた為に、周りには却って以前よりも元気に
なったように見えていたが。

 そんなある日の事。
 ヘリオンは、鈍った体を鍛え直したいと言うウルカに連れ添って、王宮の訓練場までやって来ていた。
 神剣の力を失ったウルカの剣には、かつての鬼神ような鋭さこそない。
 しかしその流れるような無駄の無い動きは、彼女が依然、経験と不断の鍛錬に裏打ちされた凄腕の剣士
である事を物語っていた。

 「ウルカさんはいつだって、訓練を休もうとはしないんですね。」
 思わず見惚れていたヘリオンが、感心して呟く。
 「日々続ける事こそが、己を高める第一歩ですから。」
 「己を高める・・・ですか?」
 「はい。技術の低下を防ぐのは勿論ですが、そうする事によって自身の心を戒めるのです・・・現状に
満足する事なく、手前が常に前を向いていられるように。」
 ウルカはたまに、こういう不思議な事を言う。
 ヘリオンにとって、訓練とはいかに容易く相手を死に至らしめるか、もしくは自分が殺されない為には
どうするかという事を学ぶ為の物だった。
 今まで己を高める為に訓練をしろなどと言う教えは、受けた事がなかったのである。

 (そんな考え方もあるんだ・・・。)

 何故かウルカの言葉は、抵抗なく受け入れる事が出来た。 
 今まで戦いという物に向き合う事を避けてきたヘリオンだったが、ウルカと出会ってからのこの数日間
の内に、確実にその影響を受け始めていたのだ。
 ・・・それはまだ、自覚もできない程に小さな変化だったけれども。

 ヘリオンがそうして新鮮な驚きに浸っていると、ふいにウルカが向き直り、こう告げてきた。
 「ふむ・・・やはり一人ではいまいち勘が戻りませぬ・・・ヘリオン殿、よろしければ一手お手合わせ
願えないでしょうか?」
 ウルカの申し出に、その意味する所を図りかねて硬直するヘリオン。
 「え?・・・え・・え、え~~~~!!?」
 そして絶叫。あまりの声の大きさに、自分の耳がおかしくなりそうだった。
 「お、お手合わせって、わ・・・私と、ウルカさんがですか?」
 「はい。」
 「そ、そんなの無理に決まってます!・・・私なんかとウルカさんじゃ、全然勝負になんて!」
 「確かに今の手前の力では、ヘリオン殿には及びもつかぬでしょうが・・・丁度良い事にここには鋼の
武器も用意されています。互いに得物を持ち替えれば、それ程退屈はさせずに済むかと思われますが。」
 ヘリオンの言葉の意味を逆に取ったらしいウルカが、そう言って傍らの訓練用の武器を示す。

 「す、すみません、そういう意味じゃなくて・・・。」
 訂正し、何とか逃れようとするが、ウルカは既に自分用の剣を選び取ってしまっていた。
 「では手前はこれを・・・ヘリオン殿、どうぞお好きな剣をお使い下さい。」
 事ここに至っては、押しの弱いヘリオンがその申し出を拒否する事など、出来る筈もなかった。


 「う、うぅ~・・・よろしくお願いします・・・。」
 泣く泣く剣を取るヘリオン。いつも誰かが模擬戦をしようと言う時には、逃げ回っていたと言うのに。
 何の因果で、あの"漆黒の翼"と手合わせするなどと言う事になってしまったのだろうか。
 「それでは・・・いざ!」
 始まってしまったからには仕方がない。出来るだけ怪我をしないように・・・。
 「わわ!?」
 そんな事を考えている内に、ウルカはもう目の前まで接近して来ていた。
 「わとと、ひ・・・うそ、あうぅ・・・・。」
 「・・・見事な受け流し・・・ではこれでは如何でしょう。」
 更に剣速を上げ続けるウルカの斬撃。
 しかしヘリオンは悲鳴を上げながらも、防戦一方ではあるがそれを受け切って見せた。
 誰も見る者のいない訓練場に、二人が剣を打ち合わせる音だけが響いていく。
 「・・・やはり手前の目に狂いはなかった。これ程の胸の高鳴り、あの"ラキオスの蒼い牙"と死合って
以来の事です・・・さぁヘリオン殿、全力をぶつけ合いましょうぞ!」
 「そ、そんな・・・きゃぁ!」

 最早それは、模擬戦などという次元の戦いではなかった。
 ウルカの剣には殺気こそない物の、篭められているのは紛れもない全力である。
 そしてヘリオンは・・・その全力の剣を受けながら、そこに一片の憎しみも、虚栄すらも無い事を感じ
取っていた。ウルカはただ、こうして自分と剣を交える事その物に悦びを見出しているかのようだ。

 (どうして、こんな表情が出来るんだろう・・・。)

 ・・・いつしか恐怖は消え去っていた。
 そしてヘリオンはこの相手に、自分の技の全てを試してみたいという欲求に駆られていたのだった。   
 それを感じ取ったのだろう。距離を取り、油断無く構えるウルカ。
 張り詰めた空気の中、互いの呼吸音だけがかすかに耳を震わせた。

 やがて沈黙の時は去り、二つの影が交差する・・・!!

 「・・・い、痛い・・・でも、ちょっとだけ気分良いかも・・・。」

 脇腹を押さえ、うずくまるヘリオン。
 二人の対決は、やはり数多くの戦場を往来し、修羅場を潜り抜けてきたウルカに軍配が上がった。
 しかし、それを見下ろすウルカの表情は冴えない。
 とても手加減をしている余裕などはなく、ヘリオンの突進を止めるには、峰打ちとは言え全力で振り
抜かねばならなかった。
 ・・・これが人間相手ならば、肋骨を砕き、内臓が破裂していたとしてもおかしくはない。

 「申し訳ありませぬ・・・しかし手前には、やはりヘリオン殿がこのような後方に配置される理由が
解りませぬ。これだけの力があれば、戦場でも数多の功績を挙げられるでしょうに。」
 「い、いやですそんな・・けほっ・・私なんて自分の神剣も使いこなせないで、ろくに止めも刺せずに
皆の足手まといになってばっかりなんですから・・・。」
 「ふむ・・・。」
 尚も何か言いたそうに思案するウルカに対し、ようやく立ち上がる事が出来たヘリオンが言う。
 「それよりもウルカさん、そろそろ詰所に戻って、夕食の支度をしないと。」
 そうなのだ。昨日何か手伝いたいと言うウルカと料理をした時には、目の前で繰り広げられる光景に
目が点になっていて、気が付いた時にはとんでもない物体を生産してしまったが・・・。
 「今日はユートさまもいらっしゃるそうですし、腕によりを掛けてお持てなしをしなきゃ♪」
 「そうでありました・・・ご教授賜ります、ヘリオン殿。手前では未熟も未熟、とても調理の用は成さ
ないと思い知りました故に。」
 今しがた受けたダメージもよそに、足取りも軽く帰りを急ぐヘリオンに対し、神妙な顔付きで後を追う
ウルカであった。


 第一詰所のリビングで、食卓を囲む悠人とスピリット達。
 「今日のご飯ってヘリオンお姉ちゃんと、ウルカお姉ちゃんが作ったんだよね?・・・へ~、美味しそう
に出来てるね♪」
 昨日の惨状を知っている為か、はしゃぎながらも確認するように呟くオルファ。
 「うん・・・美味しそう。」
 アセリアも同じ思いのようだ。昨日はいなかったエスペリアと悠人だけは、素直に感想を口にする。
 「本当に・・・二人とも頑張ったわね。」
 「そうだな・・・それじゃせっかくのご馳走だから、温かい内にいただくとしようか。」
 「「「「いただきま~す♪」」」」

 ハイペリア由来の挨拶を合図に、食べ始める面々。
 しかしヘリオンだけは、緊張した面持ちでそれをじっと見つめている。
 ・・・実は、悠人に手料理を食べて貰うのは、これが初めてなのだ。
 「うん、美味い!・・・すっごく美味しいよ。手間暇かけてあって、心の篭った料理って感じだな。」
 「そ、そんな・・・。」
 手放しの賞賛に、天にも昇る心地のヘリオン。知らず知らず、顔がにやけてしまいそうだ。
 「・・けれどヘリオンはともかく、ウルカが料理なんて出来たとはなぁ。」
 (え?)
 ウルカさんは材料を切っただけで、料理はほとんど私が一人でやったのだけれど・・・。
 ヘリオンは何故かもやもやする胸を押さえ、舞い上がった気持ちが萎んでいくのを感じていた。

 「いえ、手前は何も・・・ヘリオン殿がいなければ、とても形にもならなかったでしょう。」
 「そうなのか、やるなぁヘリオン・・・イオの下で修行でも積んだのか?」
 「は?・・・ははは、はい!・・・イオさまは料理の腕も素晴らしいので、勉強させて頂きました!」
 「なるほどな~。ヨーティアの奴、いつもこんな美味い物食ってんのか・・・。」
 それを聞いて少しむっとするエスペリアに、慌てて弁解する悠人。
 しかしヘリオンは、そんな様子も目に入らず、先程のもやもやも忘れてぼぅっとしていたのだった。

 (・・・ユートさまに褒められちゃった・・・わぁ~~~~♪)

 思わず頬が紅潮するのを感じる。こんなに幸せな気分になるのはどうしてだろう。
 さっき少しくらいウルカが褒められたからと言って、もやもやしていたのが嘘のようだった。
 自分が食べるのも忘れて、ヘリオンはただひたすらその幸福を噛み締めていた。

 ――その時である。
 アセリアがふと手を止めると、じっと悠人の顔を見つめていた。
 「ん?・・どうしたアセリア。」
 奇妙な間が空き、全員の視線が悠人に集中する。
 そして、同じく忘我の世界から舞い戻り悠人を見つめていたヘリオンの目の前で、在ろう事かアセリア
が悠人の頬に口づけしたのだった。
 (!!!!!)
 瞬間、心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃に襲われる。
 胸がズキンと痛み、心がざわめいた。

 「な、何するんだいきなり!?」
 「ん・・・ユートの頬に、ごはんが付いてた。」
 アセリアとしては、何の気なしにした行為なのだろう。
 悠人も解ってはいたが、このような不意打ちをされれば狼狽するのも無理は無かった。
 ガタンと席を立つヘリオン。
 「あれ?・・・まだ全然食べてないじゃないか、どうした?」
 「すみません、ちょっと食欲がないので・・・後で片付けはしますので、少し失礼します!」
 そう言って部屋に駆け戻るヘリオンを、呆然と見送るだけの一同であった。


 その晩・・・ヘリオンは、眠れぬ夜を過ごした。
 ・・・私は一体、どうしてしまったのだろう。
 せっかくユートさまが褒めて下さったのに、あんな失礼をしてしまうなんて・・・。
 しばらくして片付けに戻ったヘリオンに悠人は労わりの言葉を掛けたが、ヘリオンはそんな悠人の顔を
見ることもできず、ほとんど無言のまま戻って来てしまったのだった。
 あの瞬間を思い出す度に、胸が張り裂けそうになる。こんな事は生まれて初めての経験だった。
 そうして悩み続けたまま、空が白んで来ても、ヘリオンの心は晴れることがなかったのである。

 「い、急がなきゃ急がなきゃ・・・ヨーティアさまに、またお仕置きされちゃうよ~・・・。」
 朝と呼ぶには少しばかり遅い頃。ヘリオンは、ラキオスの街道をひた走っていた。
 寝不足に加えて、朝食を摂る時間すら無く目が回りそうだったが、何としても遅れる訳には行かない。
 前に一度何かの器具を割ってしまった時には、『飲むとエヒグゥの耳が生える薬』の実験台にされて、
あのまま元に戻らなかったらどうしようかと一日中悩まされたものだ。
 ただでさえ最近研究所で働く時間が短くなり、少しいじりたりないと言われたばかりである。
 今遅刻したら、何をされるか解った物ではなかった。  

 「あの角を曲がれば、研究所まではあと少し・・・・って、わきゃう!?」
 ドォンという衝撃と共に、弾き飛ばされるヘリオン。いや、こっちが弾き飛ばした方か。
 全力で走っていた為に、目の前に突然現れた少女に気付いても、止まることが出来なかったのだった。
 「あ痛たたぁ・・・ちょっと、気を付けなさいよ!・・・って、ああああ!?」
 見れば四つん這いになったお団子頭の少女が、半泣きになりながら喚いている。
 幸い怪我はないようだが、取り落とした袋の中身が、散乱してしまったのが原因のようだ。  

 「私のヨフアル・・・どうしてくれるのよっ!」


 どうしてこうなったのだろう・・・。
 ヘリオンは途方に暮れながら、その少女の後をついて歩いていた。最早遅刻は確定である。

 『ふぅ~ん、貴女・・・その様子じゃお金は持ってなさそうね・・・それじゃ、はい。これでヨフアル
を買ってきて・・・買えるだけよ。早くっ!」
 しきりに詫びるヘリオンだったが、すごい剣幕で言われて、一も二も無くその指示に従う。
 さんざん待たされて、やっとヨフアルを買ってきたのは良いが、お団子頭の少女はヘリオンがそのまま
研究所に向かう事を許さなかった。
 『全く、まさかまた似た様な事が起きるとはねぇ。貴女達って、ホントにおっちょこちょいなのね。』
 『はい?』
 『あぁ、いや、こっちの話こっちの話・・・ところで貴女、お名前は?』
 『あ、はい・・・私の名前は、ヘリオンと言います。』   
 『なるほどなるほど~・・・ではヘリオン君。このまま私について来たまえ。』
 『え?え?え?・・・で、でも私、これから用事があるんですが・・・。』
 『だーめ!・・・私にぶつかってヨフアルを買ってきた人は、それを一緒に処分しなきゃ行けないって
言う決まりがあるの・・・ああそうそう、私の名前はレムリア。よろしくね♪』

 そうしてヘリオンは、お団子頭の少女・・・レムリアに強制連行される事となったのだが。
 (ヨーティアさま、今度は何を用意してるかなぁ・・・。)
 ・・・できるだけ早く、レムリアさんに満足して貰って、開放して貰おう。
 ヘリオンがそう考えていると、やっと到着したらしく、振り返ったレムリアが宣言する。

 「ようこそ、私の取って置きの場所へ!」

 「わぁ・・・・。」

 確かにそこは、取って置きと言うのに相応しい場所だった。
 青く煌く湖を望めるその場所は、頬に当る風も心地良く・・・・街の雑踏からも切り離されて、まるで
別世界に迷い込んだかのようだった。

 ヘリオンの様子に満足したのか、レムリアがふふりと笑みを漏らす。
 「気に入って貰えたようね・・・そしてここで食べるヨフアルは、もう最っ高なんだから。」
 そう言って差し出されたお菓子を見て、自分が朝食を抜いて来た事を思い出す。
 「美味しい・・・です。うん、とっても!」
 「でしょでしょ!?・・何てったって、『ヨフアルは恋の味』だからね♪」
 「恋の、味・・・」
 「そうよ。私にとって、ヨフアルは恋の味なの・・・・この、口にした途端に広がる、甘~い温かさ。
そして身を包む優しい幸福感・・・更には、もう残りわずかしかないと言う事に気付いた時の、身を切ら
れる様な切なさ・・・ねね、巧い事言うと思わない?」

 「わ、私には何とも・・・でも、それが『恋』なんですか?」
 戸惑うヘリオンに対し、いつの間にか真剣な表情になって、諭すように呟くレムリア。
 「・・・そっか、そうよね・・・でも、あなた達にも解るはずよ。いつかきっと・・・。」
 (この人は、私の正体に気付いている?)
 ・・・勿論今も、スピリット服に身を包み、神剣を携えてはいたのだけれど。
 外見が普通の人間とさほど変わらないヘリオンは、それと気付かれずにやり過せる事も多いのだ。
 レムリアの親しげな態度も、そのせいだと思っていたのだが・・・。

 「私もね、恋をしているの・・・決して、許されない恋だと解ってはいるけれど・・・うぅん、だから
こそ、こうして思い出の場所に足を運ぶのかな・・・。」  
 そう言って風に身を委ねるレムリアの姿は、ヘリオンの目にはひどく大人びて見えたのだった。


 そしてその夜・・・。
 ヘリオンは、あの不思議な少女との出会いを思い返していた。
 スピリットである自分にも、昔からの親友のように気さくに話しかけて笑う少女。
 あの後二人で食べたヨフアルは、確かにレムリアの言う通り、温かく幸せな気持ちにしてくれた。
 けれどそれは、天真爛漫なレムリアが隣にいたからこそ、そう感じさせたのかも知れない。
 そして、それと良く似た・・・いやそれ以上の温かさを、彼女は感じた事があった筈なのだ。
 悠人の寂しそうな、けれどとても温かい笑顔が、ヘリオンの胸に浮かんでは消えていく。

 (私は・・・もしかして、ユートさまを・・・?)

 許されない恋。レムリアが口にしたその言葉が、胸に突き刺さる。
 しかし一度そう自覚してしまった今、以前の自分に戻ることはもう出来なかった。
 知っていた筈の感覚が、その何倍にも増幅されて、ヘリオンの心を満たしていく。

 (ユートさま・・・・。)


 ヘリオンがそうして、自分の想いの正体に初めて気付いた夜。
 同じラキオスの空の下で、禍々しい意識が脈動を続けていた事は、まだ、誰も知らない。

 『・・・"使命"を・・・・"使命"を果たさなければ・・・・。
         ・・・・・我に力を・・・そして、あの者に・・・・"死"を・・・・。』