エスペリアの家出

28-38

食堂兼会議室に全員を集め、悠人は静かな口調で、告げた。
「エスペリアが、いなくなった。」

いち早く反応したのは今日子であった。
「こんの、ドあほう―――ッ」
喚声とともに今日子のハリセンが炸裂する。以前は3連発止まりだったのが
このところパワーアップして5連発だ。何でも「スペシャル・ハリセン・サンダー」
という必殺技らしい。
「―――支那虎か、お前は。」
薄れゆく意識の中、悠人は意味不明の言葉を遺し、ぶっ倒れる。

―――数分後。
体勢を立て直して悠人は席に着いた。頭から黒煙が立ち昇る。
「今は、いなくなった者の事を言っててもしょうがない。」
そう言って全員を見渡す。

「しょうがないって、あんた...本気で言ってんの?」
怒りでわなわなと体を震わせ、今日子がハリセンを握り直す。集まっていた
スピリット達は、いつでも逃げ出せるようにと、腰を浮かした。

「忘れるなよ、今日子。ここは戦場だ。」
悠人は今日子を真正面から見すえ、そう言った。
「だったらなおさら危ないじゃないの!早く追いかけて捜しなさいよ!」
「俺が戦列を離れるわけにはいかない。」

「じゃ、じゃあ、誰か別の...」
さらに何か言おうとする今日子をさえぎり、悠人は続けた。
「心配するな。エスペリアだって子供じゃないんだ。自分の事くらい
自分で何とかするさ。」

「そう...もう、どうなっても知らないからね。」今日子がふてくされて
ガタン、と席に座る。

「―――ウルカ、作戦についてはこれまで通り、概ね変更はない。さっき戻って
来た二人はどう言っていた?」偵察を終えて帰還したファーレーンとシアーには、
まずウルカに報告に行くように命じてあった。

「―――はい。サーギオスの軍隊は現在二手に分かれ、それぞれシーオス、
セレスセリスを越えて、我々のいるリレルラエルに向かっているとの事です。」
ウルカが席を立ち、食卓中央に拡げられた地図を指し示しながら
淀みなく説明する。「偵察隊の話をまとめると――おそらく明日の
午前中には、ほぼ同時にここに到達するものと思われます。」

「―――同時、か。イオは?」
「イオ殿も...ほとんど休まれずに頑張って頂いてはいるのですが...
明日の開戦には間に合いそうにない、との事。」
僅かに顔を曇らせてウルカが答えた。
「そうか。完成するまでにどれだけ持ちこたえられるかが勝負だな。
――ネリー!」
「な、なあに、ユート様?」
突然名指しされたネリーがあわてて顔を上げる。

「敵の火焔魔法や回復魔法はかなり強力らしい。対抗出来るかどうかはネリーの
アンチスキルに懸かっている。今夜はイオの手伝いはいいからゆっくり体を休めておけ。」
「だ、大丈夫よ。まとめてぜーんぶ氷結しちゃうんだから。」
気丈に答えるネリーもさすがに緊張の色は隠せない。口調にいつもの
軽さはなかった。

「それからアセリア、へリオン。」次いで悠人は二人に呼びかける。
「初っ端の斬り込みは二人に任せる。ただ、余り深入りはするな。ヤバいと思ったら
すぐに引き返せ。」
「はい、ユート様。」硬い表情でヘリオンが頷く。アセリアは、いつもの
ポーカーフェイスで悠人に視線を返しただけだった。

「―――ハリオン、そして、ニム。」悠人が二人のグリーンスピリットに顔を向けた。
「エスペリアの穴は二人に埋めてもらう事になる。きつい戦いになるかも知れないが、
今の二人なら充分やれるはずだ。なるべくニムは防御に、ハリオンは後方支援に
まわるようにしてくれ。」

「はいー、おまかせくださいー。」
例によって間延びした喋り口でハリオンがにっこりと頷く。この状況においてもなお、
動じていないとは、さすがと言うしかない。

「―――あのさぁ、ユート。」面倒くさがりやのニムが口を開いた。
「何だ、ニム?」
「これからは食事は全部ハリオンとあたしが準備するの?」ニムがぶっきらぼうに訊く。
「――いや、もうその必要はない。」
「どういう事?」ニムが驚いたように聞き返す。

「―――実はさっきラキオスに連絡を取った。今夜中には新しい食事係が到着するはずだ。
戻ったばかりのファーレーンとシアーには悪いが、ケムセラウトに迎えに行ってもらっている。」
「ちょっと待て、悠人。その食事係ってのは人間か?」
身を乗り出して尋ねる光陰に悠人は平然と答える。
「当たり前だろ、光陰、他に誰がいる?」
「え―――っ!?」その場にいたスピリット達が一斉に驚きの声を上げた。
「フム...そうか。」光陰はしばらく腕組みして考え込む。
「ま、当然といえば当然だな。」
しばらくして光陰は悠人にニヤリと笑みを向けた。

「よし、じゃ話はこれで全部だ。みんな、明日は気合い入れてけよ。」
パアンと一つ手を打って悠人が会議の終了を宣言した。

―――夜更け過ぎ。悠人は城のテラスに出て、城壁越しに真っ暗なトーン・シレタの森を
見下ろしていた。時折りイオの作業の音がかすかに聞こえる以外、全く何の物音もしなかった。

―――嵐の前の静けさってやつだな。
あと十時間もすれば悠人はここに指揮官として立っているはずだった。ただ、戦いを前に
緊張して眠れないのかといえば、そうでもない。

悠人がそろそろ部屋に戻ろうかと思ったとき、背後に人の気配がした。

「―――光陰か。」
光陰は無言のまま悠人の横に来て、一緒に静まり返った森を見下ろす。

「これで負けたらレスティーナにぶっ飛ばされるな。」悠人は言った。
普段からスピリット達の開放を目指している若き女王は、
さすがにエスペリアがいなくなった事を告げるとびっくりしていたが、
食事係については快く請け合ってくれたのだ。

「女王の腕の見せどころ、ってやつだな。」光陰が答える。
国のために戦っているとはいえ、スピリットの為に人間が食事を作るなどと言うことは
恐らく前代未聞の事であろう。しかし、逆に言えばそれくらいの命令が
レスティーナに出来なければ、スピリットの開放などはおぼつかない。

「なあ、光陰。俺の言ってる事はそんなに間違ってるのか?」
ややあって悠人が光陰に問いかけた。
「どうした、悠人。おまえにしちゃ、やけに弱気だな。」
「真面目に訊いてるんだ。」
「―――エスペリアの事か?」聞き返す光陰に、悠人は頷く。
「俺の道具としてじゃなく、自分の生き方を考えて欲しかったんだ、エスペリアには」
悠人はそう言って城壁に腕を乗せかけ、眼下の森に視線を移した。
悠人にとって、いつもスピリットと人間との違いを強調するエスペリアの態度は、
最近は腹立たしくさえあった。

光陰は少し考えて、言った。
「どうだろうな。――悠人、多分お前の言ってる事は間違ってないと思う。
ただ、俺たちは異世界から来たエトランジェだ。俺たちには当然と思えることでも
こっち側の連中には簡単に納得出来ることじゃないかもな。なにしろスピリットにとっちゃ
人間に逆らえば殺されても仕方ない、そんな世界だからな。」

―――人間もスピリットも違いはない。
かつてそう言ったのは他ならぬ悠人だ。しかし、特に光陰達がラキオスに来てから、
悠人はその違いをひしひしと感じずにはいられなくなっていた。とにかく、冗談が通じないのだ。
下手な冗談が人間の命令と受け取られたら、思わぬ結果を招くかも知れない、
そんな危うさを感じていた。

「さ、俺はもう寝るぞ。お前も風邪ひかないうちにさっさと引き上げろ。」
光陰はそう言って城内に向かって歩き出したが、「あ、そうそう」と立ち止まった。
「今日子が謝ってたぞ、さっきの事。」

「はは、味方としては頼もしい限りだ、って言っといてくれ。」
悠人はそう答え、もう一度森を見下ろした。

「―――エスペリア、死ぬなよ。」
まだエスペリアに言い足りないことがたくさんある。悠人のそんな思いを乗せた
祈るような言葉は、しかし、闇深い森の中に吸い込まれていった。

――同じ頃。
エスペリアは森の中で佇んでいた。もうどこをどれだけ歩いたのかも憶えていない。
飛び出しては来たものの行く当てがあるわけでもない。

「はあ、もう疲れた...。」
エスペリアは「献身」を地面に突き立て、倒木に腰を下ろした。
「―――ユート様、私には...わかりません。」
エスペリアは自分に生きる意味を考えろ、と言ったエトランジェの名を口にしていた。
悠人から離れれば、あるいは冷静に考えられるかとも思ったがその答えは見えてこない。
今まで、自分の感情を殺して、人間の期待に応えることばかり考えて生きてきたエスペリアにとって、
自分の為に生きる意味を考えるという事は困難だった。いったい自分が何をしたいのか、
何を望んでいるのかが、いつの間にか見えなくなっていたのだ。

悠人がラキオスに来た頃。今にして思えばその頃が一番楽しかったのかもしれない。
何をするにもエスペリアの助けが必要だった悠人。エスペリアの文字通り献身的な世話を
有り難がり、喜んでいた悠人。――今、自分を苦しめているのは悠人なのに、
エスペリアは悠人を憎む気にはなれなかった。
やがて、考えるのが馬鹿らしくなり、エスペリアは溜息をついた。


「――――!」
突然、「献身」が警告音を発する。
「敵?」エスペリアはやにわに立ち上がり、「献身」を構えた。
「か、囲まれてる?」敵は2人や3人のスピリットではなかった。次の瞬間、
強大な斬撃がエスペリアに襲いかかる。咄嗟に展開させたシールドで何とかしのいだものの、
敵が次々と間合いを詰めてきているのがわかった。

「大地の精霊よ、力を!」エスペリアはエレメンタルブラストを放った。しかし、
それはあっけなく封殺されてしまう。敵の魔法力も並々ならぬものがあった。
再び四方から刃が迫る。エスペリアにはそのスピリット達に、どこか見覚えがあった。

「待ちなさい!」
エスペリアめがけて何本もの剣が振り下ろされようとしたその時、男の声がかかった。
命令と同時に津波のような攻撃は嘘のように止み、スピリット達は剣を収め、
その男の下へと集まる。まさに一糸乱れぬ動きであった。

声の主がゆっくりと近付いて来る。エスペリアにとって忘れようもない、その男。

「ソーマ、様...」エスペリアは絶句した。

「こんな夜中に気配も消さずに、単独でウロウロしているスピリットがいるなどとは、
おかしいと思いましたが...これはとんだところで再会したものですね、エスペリア。」
ソーマはニヤつきながらエスペリアに歩み寄る。「あのエトランジェ殿はどうしました?
見当たらないようですが。」
エスペリアはその男の顔を直視できないでいた。

しばらくの沈黙を置いて、うつむいたままエスペリアが答える。
「―――私はもう、ユート様にお仕えする事は出来ません。」
その答えを聞いたソーマは会心の笑みを浮かべた。
「ほう、あなたもスピリットのあるべき姿がわかったようですね。私が言っていた事が
ようやく理解出来ましたか。―――よろしい、ならば私に付いてきなさい。
まだじゅうぶんやり直しはききますよ。」
エスペリアはスピリット達の後を重い足取りで歩き始めた。ひょっとしたら、この男のもとならば、
スピリットとして迷わず生きることが出来るかもしれない、そう思いながら。

――翌朝。
悠人は結局ほとんど眠れないまま夜を明かした。早めの朝食を終えた頃、敵襲を知らせる
鐘の音が城内に響き渡った。「――来たか。」
悠人達ラキオス戦士が続々とテラスに到着する。城壁越しに土煙を上げて向かって来る
サーギオスのスピリット部隊が見えた。「かなりの大軍です、ユート殿。」
ウルカが顔色も変えずに悠人に振り返る。
「敵さんも本気出してきたってことか。」悠人は軍勢に目をやって、言った。
翼を持ったスピリットが悠人達を見つけたようだ。狙いを定めて突っ込んでくる。
「へっ、秋月のヤツに、戦いは数じゃねえってこと、教えてやるさ。」光陰が不敵な笑みを
浮かべてうそぶいた。

「ほら、悠、ボーッとしてないで指示出しなさいよ。」
今日子もすっかり臨戦態勢に入っている。悠人は苦笑しながら、言った。

「全く...こんなところで命のやり取りか...馬鹿げてるけど仕方ない。
住職、もといっ、佳織のためだ、みんな、行くぞっ!!」

悠人のやや緊張感に欠けた合図の下、アセリアとヘリオンが飛び立った。