エスペリアの家出

67-82

リレルラエルを出発してから数日が経過した。
悠人たちの部隊は、セレスセリス、次いでゼィギオスを瞬く間に制圧していた。
ウルカ達のスピリット部隊はサレ・スニルに到達していないものの、シーオスを拠点に、
順調に勝ち進んでいる、という報告であった。
「意外と、あっけなかったな。」悠人が笑いながら光陰に言った。
「そいつは俺のセリフだ、悠人。」光陰が苦笑いする。
「けど悠人、お前だいぶ神剣の扱いが上手くなったんじゃないか?」
「そうか?」
「迷いが消えてるよ、俺の目から見ても。」

――迷い、か。
確かに、神剣に呑み込まれてもいい、そう思った日から「求め」の干渉は途絶えていた。
――そして、スピリットを斬り倒した時の快感も、ほとんど感じなくなっていた。

――ひょっとしたら、あのバカ剣の声は、心の鏡に映った俺自身の声だったのかも知れない。
悠人はふと、そんな事を思った。自分の煩悩を公言してはばからない光陰は、
だからこそ、神剣に呑み込まれる事も無いのだろう、と。
「なんだ、悠人?俺の顔になんか付いてるか?」悠人の視線に気付いた光陰が言う。
「あ、いや。髭伸びてるぞ、光陰。」悠人は笑ってごまかす。
「そうよ、剃りなさいよ、光陰。」
「うーん、これかぁ、こいつは俺のトレードマークだからなあ。」顎をなでながら光陰が言った。

休養もそこそこに悠人達はゼィギオスの宿場を出立した。
「あーあ、もうちょっとゆっくりしたかったなあ。」トーン・シレタの森の中を行軍しながら、今日子が愚痴をこぼす。
「早く制圧したほうがもう一方を援軍に行く事になってただろ。文句言うなよ、今日子。」
悠人が軽く睨んだ。
「うわ、鬼軍曹。」今日子が首をすくめる。

――その頃。サレ・スニルの臨時詰め所の中、苛立ちを隠せずテーブルを叩くソーマがいた。
「いったい、どうなっているんですッ!」戦況は刻々と悪化していた。悠人達エトランジェが
全員ゼィギオス方面に向かったという情報を得た時は、ラキオスのスピリット部隊を撃破し、
リレルラエルを奪還するのも時間の問題と考えていたソーマにとって、この事態は信じられないものであった。
手練れのそろっている元ウルカ部隊のスピリットを戦わせて、ラキオスの主力のアセリアさえ倒してしまえば、
残りは腑抜けのように去って行ったウルカくらいしか戦力は残らない。それがソーマの描いた絵だった。
しかし入ってくる戦況報告は予想を覆すものであった。ウルカが完全に息を吹き返し、
ラキオス軍のスピリット部隊を率いて、自らもアセリアと同等以上の力を発揮している。
しかも、貧弱と考えられていたラキオスのブラックスピリット陣にもう一人、ウルカやアセリアに
勝るとも劣らぬ新戦力が出現し、次々とサーギオスのスピリット達を打ち破っているというではないか。
サーギオス帝国にとってこのサレ・スニルは心臓部とも言える重要な拠点である。
その防衛を任じられているソーマも簡単にここを放り出して逃げ出すわけにはいかない。

「――こうなったら、彼女を使うしかありませんね。」ソーマは暗い目で、そう言って立ち上がった。

「これから...どうなるのかしら。」ベッドに腰掛け、エスペリアはつぶやいた。
簡易ベッドを置いた臨時詰め所の厨房、それがエスペリアに与えられた部屋であった。
ソーマの下に身を寄せてからというもの、エスペリアはほとんど雑用に忙殺されていた。
だが、体を動かす事で気を紛らせる事は出来た。戦線に出る事はないエスペリアであったが、
ラキオスの部隊の風評は時折り耳に入っていた。自身がその中にいた時は余り気が付かなかったが
その強さは鬼神の域に達しているようだ。ソーマの苛立ちはエスペリアにも伝わっていた。
いずれこのサレ・スニルも陥落するであろう。

「エスペリア、入りますよ。」突然、ソーマが厨房に入って来た。
「あ、ソーマ様。」エスペリアは立ち上がった。
「――あなたも聞いていると思いますが、我が軍の状況は芳しくありません。」ソーマは単刀直入に切り出した。
「――はい。」
「あなたには慣れるまでの間は、と思って雑用のみを任せて来ましたが、いつまでも特別扱いは出来ない、という事です。」
「―――!」エスペリアは目を見開いてソーマを見つめた。
「もうじきこのサレ・スニルにもあなたがいた国のスピリット達が押し寄せてきます。
その時は――エスペリア、あなたにも戦ってもらいます。」

「そ、それは―――!」エスペリアは喘いだ。アセリアや、オルファ達と刃を交える。それだけは何としても避けたかった。
「出来ない、と言うのですか?」
「それだけは、――それだけはお許しください、ソーマ様。他の命令には何でも従います、
お願いです。」必死に懇願するエスペリアにソーマは冷たく言い放った。
「フン、どうやら私と離れている間にスピリットとして最も混じってはいけない
不純物が入り込んでしまったようですね、エスペリア。」
「申し訳ありません。でも――。」
「せっかくこの私が手塩にかけて育て上げた一級品のスピリットだったというのに。
――もう言い訳は無用です、服を脱いで、そこに寝なさい、エスペリア!」
ソーマはベッドに向かって顎をしゃくりあげた。「あなたを純粋なスピリットに戻してあげましょう。」
「――!!」エスペリアの全身が硬直する。
「それも出来ない、と言うのなら、もう用はありません。ここから――」
「わかりました。」エスペリアはソーマの言を最後まで待たず頷いた。
――これで、戦わずにすむ。
自分にそう言い聞かせて。そして、エスペリアは一切の思考を中断した。

―――数十分後。
ソーマが厨房を後にした。「初めて―――でしたか。」やや意外そうに言いながら。
エスペリアは全裸で、粗末なベッドにその身を横たえていた。その瞳からは一切の光が失われていた。
何も考えない事にしたエスペリアは、何も感じる事はなかった。――痛みも、快感も。

突然鍋が、シュ――ッ、と音を立てる。
「あ...シチュー...焦げちゃう。」
エスペリアはのろのろと身なりを整え、立ち上がった。
鍋の火を消して振り返ったエスペリアの目に、自身の破瓜の血と、ソーマの精液で汚れたベッドが映る。
「これも...洗濯しなきゃ。」
エスペリアはシーツを剥がし、丸めはじめた。その時、ふと悠人の顔が思い浮かんだ。
今の自分を見たら、悠人はどう思うだろうか。悲しむだろうか、それとも笑うだろうか、
――あるいは、哀れんでくれるだろうか。
「――い、痛っ。」その瞬間、途切れていた感覚がエスペリアによみがえった。
「どうして――?今さら――考える事なんてッ!」エスペリアは床にひざまずいた。
「もう、これで何も...何も考えなくていい筈じゃない!」しかし、流れ始めた思考にエスペリアは抗う事は出来なかった。
かつての師、ラスクはこの悲劇を避けるために、体を張ってくれたのではなかったのか。
そして、エスペリア自身が最も恐れていた事が、心と体を切り離し、人間に「献身」する事ではなかったのか。
感情を捨てたはずのエスペリアの瞳から涙が溢れ始めた。
「どうして――?どうして――、ぐっ、うぐっ!」

暗く、狭い厨房にいつまでもエスペリアの嗚咽が響いた。

「ありゃー、もう終わっちゃってるねー、これは。」今日子が言った。
翌日の夕方、わずか半日でサレ・スニルの制圧を終えたウルカに、悠人達は市街地で出迎えられた。
「――ウルカ、みんな無事だったか。」
「はい。ユート殿もご無事で何よりです。なんとかこの街から敵を掃討できました。
今、全員で手分けして今宵の宿場になりそうな施設を探していたところです。」ウルカが微笑んだ。
「あっ、ユート様!」目ざとく悠人達を見つけたヘリオンが舞い降りてくる。
「お、ヘリオンも怪我はなかったか?」
「ヘリオンには、ずいぶん助けられました。褒めてやってください、ユート殿。」
悠人はヘリオンに笑いかけた。
「見ればわかるよ、ヘリオン。ずいぶん...大きくなった。」
「えーっ、あんまり身長は伸びてないですよぉ。」期待していた褒め言葉ではなかったのか、ヘリオンが口を尖らせた。
「はは、そういう事じゃなくて、たくましくなったってことだよ。」
今やサーギオス軍にも、ラキオス屈指の攻撃要員として、ヘリオンの名は知れわたっていた。
「うぅ、それも何だか素直に喜べません、ユート様。」
「なかなか難しい年頃だな。」悠人は苦笑した。

「――ところで、ウルカ、その、ウルカの元の部下達とは...」ウルカに向き直って悠人は言った。
「はい、この街に来るまで何度か、あいまみえました。」ウルカがいくぶん沈んだ声で答える。
「ですが、肝心のソーマと、その直属部隊とは、まだ出会っておりません。
このサレ・スニルのどこかに潜んでいるはずですが、その事でヘリオンが気になる事を少し――。」
ウルカはそう言ってチラリとヘリオンを見やった。
「気になる事?」悠人は視線をヘリオンに移した。
「はい、ユート様。――実は、今日の昼頃、黒いハイロゥのスピリットに囲まれているひょろ長い男を見たんです。
多分、ソーマっていう男と――」ヘリオンが少し言いにくそうに話し始める。
「――ソーマズフェアリー、か。」悠人もかつてラキオスに所属していたスピリット達の事は聞き及んでいた。
エスペリアの、先輩にあたるスピリット達。
「で、その中に...あの...多分、そうだと思うんですけど、エスペリアさんが...」
「な――!?」悠人は唖然とした。

「嘘だろ、ヘリオン!」思わず悠人はヘリオンの両肩を掴んでいた。
「いたた、痛いです、ユート様。」
「あ、ゴ、ゴメン。そ、それで、どうしたんだ?」我に返り、悠人は掴んでいた手を放す。
「それが、追いかけようと思ったんだけど、別の敵に阻まれて...」ヘリオンが申し訳なさそうに言う。
「――そうか。いや、でも深追いして返り討ちに遭うよりはその方が良かったよ。」
そう言いながらも悠人は落胆の色を隠せなかった。

――エスペリアが、生きていた。
待ち望んでいたそのニュースは、しかし、ソーマという男を知る悠人には到底心から喜べるものではなかった。
「捜しましょう、ユート殿!手前がお供いたします!」悠人の表情を読み取ったウルカが決然と言った。
「この街で...決着をつけましょう!」
「行けよ、悠人。」それまで黙ってやり取りを聞いていた光陰が言った。「ケリをつけろ、おまえ自身の手で。」
「悠ひとりじゃ手に負えないって言うんなら手伝うけどね。」今日子も後押しする。

悠人は力強く頷いた。「そうだな、よし!手分けして捜そう!ヘリオン、アセリア達と上空から見張っててくれ。
俺はウルカと神剣反応で探って見るよ。」
「はい!私が見たのはあっちの方です!」悠人はヘリオンの指し示した西の方角に駆け出した。

「エスペリア!ここから離れますよ!」追い詰められたソーマが、慌ただしくやって来て、
詰め所の中で負傷者の治療に当たっていたエスペリアに言った。
しかし、エスペリアは背中を向けたまま、傷を負ったスピリットの治療を続けた。
「エスペリア、聞こえないのですか!?」
「――お逃げになりたければどうぞお逃げください。私は――ここに残ります。」
振り返りもせずエスペリアは言った。多分、悠人ならば負傷者を見捨てて逃げるようなマネはしない、
そんな思いを噛みしめながら。
「クッ、――そういう事ですか。いいでしょう、今ここで口論しているヒマはありません。
――あなたは、やはりスピリットになりきれないようですね。」
ソーマはいまいましそうにそう言い捨てて、7体のソーマズフェアリーともに詰め所を立ち去った。

「どうだ、ウルカ、見付けられるか!?」悠人は「求め」に精神を同調させながら言った。
「いえ、まだです、ユート殿。」自らも神剣に耳を傾けながらウルカが答える。

「――契約者よ、気を付けろ。あの者は、妖精の扱い方を知り尽くしている。」
「へっ、久々に喋ってくれたと思ったらそんな事か。そんな事言ってるからお前はいつまでたってもバカなんだよ。」
悠人の毒舌にムッとしたように黙り込む「求め」。しかし、悠人にはわずかな神剣の気配が伝わってきた。
「――あっちか!ウルカ、行くぞ!」
ウルカの「冥加」も敵を察知したようだ。二人はほぼ同時に、木立に向かって走り出した。

森の小径に入ってしばらく進んだ所で、ウルカと悠人は立ち止まった。
姿はまだ見せていないが、いつの間にか複数のスピリットに囲まれていたのだ。

「これほど気配を消して近付いて来るとは――!」ウルカが舌を巻いた。
「1,2...3体ってとこか。」悠人が「求め」を抜く。
得意の居合いの構えを封じられたウルカは抜刀し、剣を八相に執った。
「ウルカ、下がれ。」悠人がウルカを制し、無造作に「求め」を一振りした。
飛竜のような光が奔り、木々が薙ぎ倒される。身を潜めていた3体のスピリットは一瞬にして消し飛んだ。
――まるで、最初からそこに存在していなかったかの如く。
「どうした、ウルカ?」悠人は横で目を丸くしているウルカに言った。
「あ、いえ...余りにも刃に迷いが見られないもので――」
「――今は感心してる場合じゃない。先に追ってくれ、近いぞ。」
「承知しました、ユート殿!」ウルカがハイロゥを展開して飛び立った。
「しまった、まだ――!」再び走り出そうとしたその時、油断していた悠人の後方から、もう1体のスピリットが斬りかかって来た。

狙いすました一撃が悠人を捉えたかと思われた時、耳をつんざくような轟音とともにヘリオンが降り立った。
背後から袈裟がけに斬られたそのスピリットは声もなく斃れる。
「ユート様、背中がガラ空きでしたよ?」ヘリオンが微笑む。
「さんきゅ。助かったよ、ヘリオン。」悠人は苦笑を浮かべた。
「ウルカが先に行っているんだ、追いかけてくれ。」
「了解です。」ヘリオンは軽く頷くと翼を拡げた。

「――たくましくなったよ、か。」羽ばたきながら、ヘリオンは悠人に聞こえぬ程度の低い声で、言った。
何とか悠人に気にかけてもらおうと、剣の腕を磨いてきたヘリオンだったが、
逆に剣が上達すればするほど悠人との隔たりが大きくなるような気がする。

「もう、強い女には見向きもしないんだから、ユート様って。」

「――追い詰めたか。」前方の木々の合間に男の姿が見えた。顔面蒼白のその男には、
1体のスピリットが付き添っているだけだった。
「お前が、ソーマか。」少し離れた場所から悠人は声を掛けた。ソーマがびっくりしたように振り向く。
悠人は歩調を緩め、ゆっくりとその男に近付いていった。間に真っ黒なハイロゥのレッドスピリットが割り込む。
悠人が間合いに入ったと見るや、無言で斬りかかって来た。悠人は斬撃をシールドで受け止め、
「求め」を一閃させた。レッドスピリットの躯体が真っ二つになる。

「あ、あなたが、勇者殿ですか...」側近達をあっという間に失ったソーマが泣き笑いの顔で立ち尽くす。
後方ではウルカとヘリオンがそれぞれの敵スピリットを斬り倒したところだった。
「エスペリアがお前の所にいた筈だが。」悠人は表情も変えずに尋ねた。ここに来るまでそれらしい気配は、無かった。

「エ、エトランジェ殿もエスペリアの事がお気に入りですか。」
ソーマがせわしなく視線を泳がせながら答える。
「エスペリアを、どこへやった?まさか――」
「エスペリアは無事ですよ、エトランジェ殿!」ソーマがぶんぶんと首を振って応える。
ここでエスペリアを犯した事がバレれば逆上したエトランジェに何をされるか分からない。
「ど、どうでしょう、エトランジェ殿。ここは一つ妖精を愛するもの同士、手を組みませんか?」
媚びるような笑いを浮かべて、ソーマが言った。何とかこの場を逃れられれば、という一縷の希望にすがって。
「当然、エスペリアは勇者殿にお譲りします。私なら妖精を何十倍も魅力的にする術をお教えできますよ。
同じ妖精趣味として、勇者殿のご満足は保証いたします。」必死に命乞いするソーマを前に、思わず悠人の頬が緩んだ。

「そうだな、エスペリアがスピリットである以上、俺もお前と同類の妖精趣味だよ。」
後方からウルカとヘリオンが歩み寄ってくる。
「そうでしょう、そうでしょう。エトランジェ殿は話の分かる方だ。」最大級の愛想笑いでソーマが繰り返し頷く。
悠人の顔から笑みが引いてゆく。
「だが、――あいにくだな、ソーマ。俺はスピリットを家畜のように飼い馴らすつもりはない。
例え転んで糞にまみれようが、行き倒れて飢え死にしようが、自分で選んだ道を自分で歩いてもらう。」
ソーマの表情が凍りついた。
「――そういうのを、俺たちの世界じゃ『自由』って言うんだ。」
「ジ、ジユウ...?」ソーマが喘ぐように言う。悠人は神剣を大上段に振りかぶり、一気に振り下ろした。
ソーマが防ごうとして抜いた剣を「求め」がへし折り、そのまま頭蓋を両断する。
ゆっくりと膝を付き、倒れるソーマを見下ろしながら悠人は言った。
「――お前の最期の言葉には、もったいなかったな。」


市街に戻った悠人達を待っていたのは今日子と取り乱したオルファであった。
「パパ!エスペリアお姉ちゃんがいたよ!」
「それが――様子が変なのよ。」オルファの肩を抱いた今日子が言った。