エスペリアの家出

83-98

確かにそれは異様な光景であった。街外れの一角にある宿舎のような建物の前に、
悠人が探し求めていたエスペリアが「献身」を携え、佇んでいた。
ラキオスのスピリット達がそれを取り囲むように、しかし、エスペリアの放つ空気を前にして、
誰も近付けないままに輪になっていた。やって来たのが悠人だと分かると、
全員がホッとしたような顔をして一斉に駆け寄ってくる。

「どうした、みんな。」悠人は視線をエスペリアに向けたまま言った。
「ユート、エスペリアが、変だ。」
一番に口を開いたのは意外にもアセリアだった。
「あんなエスペリア見た事ないよ!」
「一言も喋ってくれないのぉ。」
ネリーが、シアーが、次々に訴える。
「ホントに、どうしたものでしょうねえ。」
ハリオンまでがその表情を曇らせている。

「やっぱり悠じゃないと話にならないんじゃない?」
今日子が溜息をついて、言った。

「――わかった、俺がまいたタネだ。俺が行こう。」

悠人はかつて経験した事のあるエスペリアの持つ空気の正体に気付いていた。
あるいはここに居る全員が気付いていたかも知れない。ただ、誰もがそれを認めたくないのだ。
「――ユート殿。」ウルカが不安げに言う。
「はは、何だよ、ウルカまでしょぼくれた顔して。」悠人は笑顔を作って見せる。
「心配するなって。――犬も食わないつがいのケンカだよ。」
「あ、あれはそういう意味で言ったのでは――」ウルカが困ったように言った。
悠人はポンと一つウルカの肩を叩いて、ゆっくりとエスペリアに向かって歩き出した。

「お、おう、エスペリア、元気だったか?」我ながら間抜けな挨拶だと思いつつ悠人は声をかけた。
しかし、返事はない。目を伏せたその顔からは表情も見てとれなかった。
「ソーマは、――死んだぞ。」悠人はエスペリアに告げた。
それでもエスペリアはピクリとも反応しない。あるいはエスペリアも、予期していた事だったのかもしれない。


「あ、あのさ、俺が悪かったよ。エスペリアの事も考えないで俺の考えばっかり押し付けちゃってさあ...」
「――ユート様。」エスペリアが顔を上げる。だが、そこにいつもの優しい微笑はなかった。
「この建物の中にまだ負傷者が残っています。もう、その者たちに戦意はありません。」
それはあくまで事務的な口調だった。それでも、久しぶりに聞くエスペリアの声に悠人は少し安堵した。
「そうか。うん、後から来る補給部隊にケガ人はゆっくり休ませるように言っておくよ。」
「お心遣い感謝いたします。」エスペリアは頭を下げた。しかし、依然その口調に感情はこもっていない。
「あの、それで、エスペリアは――帰って来てくれるんだろ?俺達のところに。」悠人は愛想笑いを浮かべながら言った。

「――私には、もうユート様のために出来る事は何ひとつありません。」
「だから、それは俺が悪かったって...」悠人は相変わらず表情一つ変えようとしないエスペリアに少し苛立ちを交えて言った。

「ユート様。私の体は汚れています。」

――突然のエスペリアの言葉が悠人の心を突き崩した。
エスペリアがソーマと行動を共にしている、という報告があってから、悠人が最も恐れ、
そして最も聴きたくなかった言葉だった。悠人の鼓動がはやまり、頭にカッと熱い血が逆流するのが自分でもわかった。
「な―――!」悠人の抑えきれない感情が爆発する。
「何でだよっ!エスペリア!なんでそんな馬鹿な事っ――!」エスペリアに嘘だと言って欲しかった。
しかし、スピリットは絶対に嘘や冗談を言わない事も、悠人は知っていた。

「ユート様のせいです!」
初めてエスペリアの口調に感情がこもった。それは、悠人に向けられた怒りだった。
「ユート様が、私を人間扱いしなければこんな事にはならなかったんです!」
「何だと!?エスペリア、自分が何言ってるか分かってんのか!」悠人も思わず逆上して言い返していた。

「エスペリアっ!あんたねえ、悠がどれだけあんたのこと心配してたか――」
ここに至って今日子が声を張り上げた。光陰が肩をつかんで制止する。
「よせ、今日子。これはあの二人の話し合いだ。」
悠人はかつて似たような状況から今日子を救い出した。あいつなら何とかするはずだ、光陰はそう信じていた。

「ここは悠人に任せようぜ。」

「分かったわよ、光陰。――分かったから放して。」
今日子はエスペリアを睨みつけながら押し黙った。
そんな今日子を一瞥してエスペリアは再び冷たい口調に戻る。
「私はもうユート様の顔を見たくないんです。」
エスペリアはそう言ってやおら「献身」を中段に構えた。
「―――消えて下さい、ユート様。」

「おれには全然わかんないよ、エスペリアの言ってる事。」
今日子の怒りで少し冷静さを取り戻した悠人は首を振った。
だが、エスペリアが先刻から途切れることなく放っていたのは、紛れもなく殺気であった。

「――本気で俺とやりあうつもりか?」
「私は、ユート様を殺します。」
悠人の問いにエスペリアは微笑を浮かべて答えた。

槍を構えるエスペリアが悠人に向けた言葉は、初めて聞くものではなかった。
悠人の胸にあの日の光景が去来する。
それは、かつて、この世界に召喚された悠人が初めてラキオス王の前に引き出された時に
心に焼き付けられたものであった。まるで見世物のごとく戦わされたエスペリアと悠人。
普段のエスペリアからは想像もつかない愚風のような殺気。それはエトランジェとして
悠人が使えるかどうかを品定めするための戦いだった。当時の、剣すら握った事のない素人同然の悠人と、
数多の戦闘を経験していたエスペリアとでは、その力量差は天と地ほども開きがあった。
あの時、レスティーナが止めに入っていなければ今ここに、悠人がこうして立っている事もなかったであろう。
悠人が生まれて初めて直面した死の恐怖は、その後どれだけの戦いをくぐり抜けても拭えるものではなかった。

―――まさか、またエスペリアと戦うハメになるなんてな。
だが、今回は状況が違う。戦闘力の差は、二人の間にはほとんどなく、もし戦えば、文字通り殺し合いになる。
しかも、これは命令を受けて無理やり戦わせられるわけではない。エスペリアは自らの意思で悠人に刃を向けているのだ。
ただ、悠人にとってみても、ソーマとの事を知ってしまった今、
これから先、従来と同じようにエスペリアに接するのは難しいかも知れない。エスペリアにとっては、
それがどれだけ苦痛であるか、想像するに余りあった。

―――俺の顔はもう見たくない、か。
エスペリアの言葉を反芻して、悠人はある事に気が付く。
「――そういうことかよ。」

エスペリアが悠人の顔を見ずにすむ最も簡単な方法。それはエスペリア自身がこの世から消えてしまう事だ。
つまり、悠人に殺してくれ、と言っているのだ。
暗澹たる思いを胸に悠人は「求め」の柄に手をかけた。後方で見守るスピリット達のざわつきが悠人の耳に届いた。

――それで良いのだ、契約者よ。我もこのところ凡百のマナばかりで、いささか飽き飽きしていたのでな。
「――黙れよ、バカ剣。今は集中しろ。舐めてかかって行ける相手じゃないぞ。」
エスペリアは間違いなく悠人と戦うことで命を絶とうとしている。恐らく、ここで悠人が戦いを避けたとしても、
自ら死を選ぶつもりなのだろう。しかし、そうだとしてもなぜ、わざわざ悠人と殺し合いを演じる必要があるのか――?
悠人のもう一つの、その疑問は、「求め」の言葉によって氷解した。

エスペリアは、もう悠人のために出来ることは何一つ残っていない、と言ったが、それは違う、と言う事に悠人は思い当たった。
人知れずこっそり命を絶ったならば、エスペリアのマナは塵となって四散するだけである。
だが、その身を神剣の糧に変えるのならば――。

――結局俺の声は、何一つエスペリアに届かなかったってことかよ。
スピリットとは、人間のため、戦いに生き、戦いに死ぬものだ、かつて悠人にそう言ったのは、エスペリアであった。
その一点では、最後まで悠人と、お互いの意見を相容れる事はなかったのだ。悠人はゆっくりと「求め」を振りかぶった。
後方のざわつきがピタリと止まった。エスペリアの口が動いたが、小声で何を言っているのかはっきりしない。
「ウレーシェイソース、ソウ・ユート」――悠人にはエスペリアがそう言ったように見えた。

エスペリアが重心を落とし、体を沈みこませる。

「来いっ!エスペリアっ!!」
「はぁぁぁぁ―――っ!!」

静寂が支配する夕暮れのサレ・スニルの街角に、二人の咆哮が響きわたった。

エスペリアが悠人に向かって突進しながら一直線に突きを繰り出した。
エスペリアらしい、クセのない真っ直ぐな突きであった。

「エスペリア殿――?」だが、ウルカ達の目にはそれが自殺行為に映った。
エスペリアの「献身」は槍と長刀を組み合わせたような形状をしている。
対して悠人の「求め」は剣である。必然的に、いかに自分の間合いに持ち込むかがこの両者の勝負の分かれ目となる。
「献身」が長刀としてのその威力を最大に発揮する「薙ぎ」の間合いは槍と剣の中間程度である。
当然エスペリアもそんな事は百も承知の筈であった。
――にも関わらず、エスペリアは直線的な突きで距離を削りながら、あえて悠人に接近戦を挑んでいる。

悠人の目にスローモーションのようにエスペリアの姿が入って来た。
戦士とは思えないその華奢な体。しばらく洗っていなかったのかやや汚れた、それでも、
この戦場でこれ以上似合う者がいないであろうメイド服。少しウェーブのかかった栗色の髪。
うっすらと紅を差したような白い頬。そして、吸い込まれそうな深緑色の瞳。
悠人がファンタズマゴリアに来てから片時も、そう、リレルラエルで別れるまで、ほんの片時も離れることなく、
悠人の影の様に、寄り添っていたその姿が近付いてくる。

――俺と、「求め」に献身するつもりか、エスペリア。

「ははっ」悠人の口から思わず嘲笑が漏れた。この、ラキオス城での対峙よりも道化じみている戦いに。
「献身」の穂先が悠人の鳩尾に吸い込まれる。そして、それはあっという間に悠人の体を貫いた。

――だが、悠人の「求め」は上段に振り上げられたまま、微動だにしなかった。

「そんな―――?」目の前で起こった事に、一番驚いていたのは当のエスペリアであった。
「嘘、嘘です、ユート様。そんなの――嘘ですッ!」眼前にある悠人の顔に向かって首を振る。
しかし、エスペリアの両腕に残った感触は消えることはない。充分過ぎるほどの手応え、
それが何を意味するかエスペリアには分かりすぎるほど分かっている。

ガシャリ、と音を立てて「求め」が地面に落ちた。
「帰って、来いよ。」悠人の口が弱々しく動いた。「みんな、待ってるんだ、エスペリアのこと。」

エスペリアが慌てて槍を悠人の体から引き抜き、投げ捨てた。傷口から脈打つように鮮血が噴き出し始める。
エスペリアに、抱え込まれるように、悠人は倒れた。後方から押し寄せるような足音が聴こえる。

「こんなの――こんなのってないよ!!光陰っ!何とかしてよお!!」
今日子の、悲鳴に近い絶叫がこだまする。
「やってるよっ!!」いち早く悠人に駆け寄って加護のオーラを展開していた光陰が、今日子に怒鳴り返す。
しかし光陰の、グリーンスピリットをもしのぐ回復魔法をもってしても、悠人の傷は一向にふさがる様子はない。
悠人の体から溢れた鮮血はすでに金色のマナへと還り始めていた。
「光陰、佳織のこと...頼むぞ...エスペリアのことも...」悠人が光陰に笑いかけ、
少しだけ首を上げ、集まってきたスピリット達を見回す。
「俺がいなくても...成長したこいつらなら、充分、勝てる。スピリット達を...自由にしてやってくれ...」
「馬鹿野郎、ふざけるなよ、悠人。こんな所でお前がいなくなったら、佳織ちゃんがどんな顔すると思ってるんだよ!」
光陰の震える声も、もう悠人には届かない。悠人はゆっくりと目を閉じた。

――契約者よ...なんと愚かなことを――。
悠人の薄れてゆく意識に「求め」が語りかけた。
――悪かったな、バカ剣。――でも、最後まで、いい相棒だったよ、お前は。

「求め」の言葉がなければ悠人は、今ごろ「献身」を叩き落し、エスペリアを斬っていたかも知れない。
悠人の死に顔にうっすらと微笑が刷かれた。

―――― パシン!
小さな破裂音とともに、悠人の体と、「求め」が一瞬強い光を放ったかと思うと、その姿が消えた。
エスペリアの服にべっとりと付いた血のりも、夕日に照らされ、オレンジ色に輝きながら上空へと立ち昇り、飛散してゆく。

「――くそっ!!」光陰が力の限り地面を殴りつけた。
普段その感情をめったに表に出す事のないハリオンやナナルゥまでもが、流れ落ちる涙を隠そうともしなかった。
ある者は立ち尽くしたまま、ある者はくずおれ、またある者は抱き合って、泣いた。
誰よりもスピリットを愛し、スピリットの新しい生き方を追い求めて戦い続けた人間のために。

消えゆくマナを呆然と見つめていたエスペリアがふらふらと夢遊病者のように立ち上がった。
「ユート様一人で...行かせません。」そうつぶやいて傍らに落ちていた「献身」を拾い上げ、自らの胸にその穂先を向ける。
「やめてっ!!」そう叫んで赤い妖精がエスペリアに抱きついた。
「献身」に衣服を裂かれ、背中から真っ赤な血が流れ落ちるのも気にせずに。

「パパが...パパが、死んで...エスペリアお姉ちゃんまでいなくなっちゃうなんて、そんなの、やだっ!!」
「放しなさい、オルファ...放して。」エスペリアが弱々しく振りほどこうとする。

光陰が立ち上がり、「献身」の柄を握りしめた。
「いいかげんにしろよ、エスペリア。」
「お願いです、コーイン様。行かせてください。」
「――悠人はな...あいつは、どうしようもない馬鹿だったが、馬鹿なりに真剣に、お前達の事を考えてたんだ。
自由な生き方をさせるってな。――エスペリア、俺はお前が死のうがどうしようと知ったこっちゃない。
だが、お前も、少しでも悠人のために何かしようと思うんなら、この戦争が終わるまで戦い続けるべきじゃないのか?
――悠人の言ってた世界を実現させるために。」

感情を押し殺した光陰の声に、エスペリアの「献身」を握る手から徐々に力が抜けていった。
エスペリアは両の手でオルファを抱きしめ、その赤い髪に顔をうずめて泣き始めた。

「――エスペリア殿。」ウルカが突然口を開く。
「確か、グリーンスピリットの神剣魔法の一つに蘇生の秘術があると聞き及んでおりますが...
エスペリア殿ならご存知なのでは?」
「本当か、ウルカ?」光陰が勢いこむ。「どうなんだ、エスペリア?」
居並ぶスピリット達の視線が一斉にエスペリアに集中した。
「も...申し訳ありません、コーイン様。私も、その魔法だけは...存じ上げておりません。」
エスペリアはうつむいて唇を噛んだ。
「く...そうだ、ハリオン!ハリオンなら出来るんじゃないのか!?」
光陰はエスペリアと互角の魔法力を誇るグリーンスピリットに振り向いた。
「いえ...私もその魔法だけは、どうしてもマスターできないんです。」

ハリオンが無念そうに答え、かぶりを振った、―――その時。

「大地の精霊たちよ、ここに集え!!」
張り詰めたような声が響きわたる。誰もがその光景に目を疑った。
エメラルドグリーンの紋様が幾重にも連なって、地面に輝き始めていた。
その魔方陣の中心にいるのは、誰もが見慣れている筈の幼い妖精だった。
しかし、今そこに、いつもの、神剣魔法を不得手とする、面倒くさがり屋の面影を見つける事は出来なかった。

「ニム...知ってるの?」オルファが驚きの表情でその姿を見つめる。

魔方陣から放たれる無数の光条が放射状に、夕焼けの空へと伸びてゆく。
その場にいる者全てが息を殺してニムントールを見守る。一度始まった神剣魔法を中断させる訳にはいかない。
こうしている間にもどんどん悠人のマナは拡散しているのだ。今は、この幼いスピリットにすべてを委ねるほかなかった。
ニムントールが、その小さな両腕を一杯に広げ、詠唱に入った。

「神剣の主が命ずる。天空に散りしマナよ、その流れをたがえ、この曙光のもとへ収束せよ!」
空に向かって放たれた光線が「曙光」に集中して、その刀身を光り輝かせる。
やがて、広げられたニムントールの両腕に抱きかかえられるように、金色のマナの光球が出現した。

「マナよ...マナよ、地に斃れし者に、今一度立ち上がり、戦う力を与えよ!」
ニムントールが嗚咽をこらえてそう言うと、光球がウソのように消え去った。
そして、ニムントールの胸の前に、透明な液体が、ふわふわとシャボン玉のように浮かび上がった。

「あれがエーテルか...」光陰が言った。
集束したマナが「曙光」を媒体にして次々とエーテルに変換され、そのエーテル球に吸い込まれてゆく。
最初ビー玉程度だったエーテルが、次第にその大きさを増し、ニムントールの腕一杯に抱きかかえられる。
数本の光輪がエーテルの周囲に現れ、やがてその光輪もエーテルの中へと取り込まれた。
無色透明のエーテルが徐々に人間の形をなしてゆく。
――やがて、エーテルが色づきはじめ、一人の、神剣を握った人間の姿へと、変わっていった。

「あ...?何で、俺は、ここに...。あれ、ニムか?どうした...なんで泣いてる...?」
悠人が、しがみついている小さなグリーンスピリットの頭に手をのせて言った。
「ユート...ユートぉ、良かった...間に合ったよぉっ!」
再び目の前に現れた悠人が、もうどこへも行ってしまわないように、
ニムが泣きじゃくりながら、悠人の体を、力の限り抱きしめていた。