安息

「………………朝、ですね~」

自室のベッドの上、ぽやぽやと呟く。朝の日差しが柔らかい。今日も良い一日になりそうだ。
彼女にしてはだいぶ覚めてきた目をこすりながら窓際に向かう。窓を開くと気持ちの良い風が流れてきた。
窓の外、中空には雲一つない空。それに明るい太陽。訓練場の方からは皆の元気な掛け声が聞こえる。
「あらあら~~?」
のびをして、誰にとも無く呟く。天高く輝く太陽を眩しそうに見つめながら。っていうか。

「もうお昼でしたか~~~」

訓練場で、ヒミカが『赤光』を振り回しながらこちらを見て何か叫んでいた。


「まったく、居ないと思ったらこの時間まで寝ているなんて…………」
目の前で大げさに溜息をつきながら、ヒミカが心底呆れた、という風にハリオンを見ている。
ハリオンも、心底困った、というような顔でヒミカに反論してみた。
「え~でも~、あの後私はご飯を頂いてきましたから~、正確には今まで寝ていたのではなく~」
「アンタね!あれだけ大声で呼んだってのにのんびりご飯食べてきたっていうの?!」
間髪入れずにヒミカの鋭い突っ込みが入る。
「今日の朝ごはんは美味しかったですよ~。慌てて食べるのはもったいないです~」
「もう『朝』ごはんじゃない!ってはぁ~~~…………もういいわ、訓練に入って。」
こめかみを押さえ、頭痛に耐えるように溜息を漏らすヒミカ。
しかしハリオンは、わかりました~と言いながら森の中に歩いて行こうとしていた。
「…………ちょっと待ってハリオン。アンタどこに行こうとしてるの?」
「え~~?ですから訓練に~~」
「いやだから、訓練って…………そっちはナナルゥが…………」
微笑みながら去っていくハリオンに対して、ヒミカは何故か声を掛けることが出来なかった。


神経を集中し、『消沈』と意識を繋げる。同時に紡がれる詠唱。
それが暗示となり、躯の周りにスフィアハイロゥが展開される。
凝縮していくハイロゥはやがて一つの塊となり、そして矢が放たれるように開放された。
一瞬。轟音と共に遠くの岩がこなごなに砕け散る。それを見てナナルゥはほぅ、と体の力を抜く。
イグニッション。今ナナルゥが使える最大の技である。それ以上は何となくまだ覚える気は無かった。
ちら、と横に座る人物に目を向ける。
グリーン・スピリット、『大樹』のハリオン。相変わらずぼーっと視線が定まっていなかった。

神剣魔法の威力が大きくなるにつれ、集団の中ではかえって周囲に危険を及ぼすと、
ナナルゥはこの頃一人で訓練をすることが多くなっていた。
ひとつには、一人の方が意識を集中し易い、というのもある。それはむしろナナルゥ向きともいえた。
しかし最近、このハリオンがいつの間にか側でそれを見ているようになっていた。
最初は集中に支障をきたすと思い煩わしかったのだが、それもじきに慣れた。
それというのもハリオンは、いつも側で座っているだけで他になにをする訳でもないし、
話している時も果たして自分に話しかけているのかそれとも独り言なのか判断に困るものばかりだったのだ。
そんな訳で、今ではナナルゥはハリオンを半ば黙殺するようになっていた。
しかし今日は、そんなナナルゥも少なからず心に衝撃を受けざるを得なかった。それというのもハリオンが……

「く~~~………………」

寝ていた。
いや、寝ている事はさほどの問題でもない。
普段の彼女の行動を見ていれば、そんな事は驚くほどの事ではないだろう。
しかし今、ナナルゥは神剣魔法を放ったのだ。それも、今の彼女が放てるものの内でも最大級のヤツを。至近距離で。
その轟音や衝撃波や閃光の中で、こうも安らかに眠れるものだろうか?
しかもハリオンの頭上。そこにいつの間にか浮いている緑色のリング…………
そう、彼女はシールドハイロゥを展開させつつ居眠りをしているのである。
側では主を守るが如く、『大樹』が光を放っていた。
「……………………」
微笑みながら寝こけているハリオンを、ナナルゥは唖然としてただ見つめていた。


戦士であるスピリット達にももちろん休日はある。
ファンタズマゴリアでも珍しい程寛容なラキオスの政策により比較的自由な身分である彼女達は、
休みを利用して各々の趣味を楽しんでいる。

そんなある休日のこと。
ナナルゥは、郊外にある高台へと足を運んでいた。
頼んでいた散髪用の鋏を入手したついでに同じく洗髪用の薬草を取りに行こうと思ったのだ。
詰め所内で頼まれている内にいつの間にか趣味みたいなものになってしまった髪結い。
ナナルゥ自身は自覚してはいないが、そのこだわり方は既に本職を凌いでいた。
最近特に拘っているのは髪を柔らかくする為の薬草。
もともと凝り性なナナルゥの部屋には既に数十種類の薬草が並んでいる。
しかしそれらをどう調合しても、どうしても柔らかくならない髪の持ち主がいる。
「……あの方の髪は、一体どうなっているのだろう……」
エトランジェとは、ファンタズマゴリアの人々と髪の組成まで違うのだろうか。
針金の様な髪では、散髪も洗髪もし辛い。
そう考えたナナルゥは、今まで幾度となくこっそり調合した色々な薬草を使って
彼の髪を柔軟にしようと格闘してきた。…………もちろんその臨床実験を悠人に断ったことはなかったが。
だが今のところ、努力の成果は残念ながら現れてはいない。
何が足りないのだろう……と考えた所でナナルゥはふと足を止めた。

高台の広場。そこで悠人が見慣れない女の子と何かを話していた。


反射的に身を隠す。隠してから、何で隠れるんだろうと自問自答していた。
「何故隠れるのですか~?」
とたん、すぐ後ろから声を掛けられる。ナナルゥは思わず叫びそうになった。
「あらあら~?あれは、ユートさまですね~?」
相変わらずのんびりとした口調で話すハリオン。不覚にも全然気付かなかった。
「……どうしてここに?」
動悸を抑えつつ、冷静を努めて訊いてみる。
「なにか良い雰囲気ですねぇ~。ユートさま、楽しそうです~」
質問は全く無視された。ナナルゥは諦めて視線を悠人達の方に戻す。
「……………………」
確かに楽しそうだ。悠人は凄くリラックスしている様に見える。
相手の娘も嬉しそうだ。話しながら、ころころと笑っている。
ふと、なにかちくり、としたものを胸に感じた。
「………………?」
なんだろう、と胸にそっと手を当てる。動悸がまた少し早くなっていた。
さっきハリオンに不意を突かれた時とは明らかに違う異変。
胸の中がなにかざわめいている。これは…………不快感?
「あら~?話が、聞こえてきますね~」
その時風に乗って、二人の会話が流れてきた。
ハリオンの声に我に返ったナナルゥは、思わず耳を傾けてしまう。
かすかに聞こえてくる女の子と悠人の声。
「レッドスピリットも情熱的な人が多いんだって。」
「情熱的…………」
「…………情熱、的?」
期せずして悠人とナナルゥの呟きが被った。


そっと横にいるハリオンの様子を窺う。
案の定、ハリオンはにこにこと微笑みながらナナルゥの顔を見つめていた。
「…………なに?」
「いいえ~。何故隠れているのかなぁと思いまして~」
「……………………」
最初の質問に戻されてしまった。しかし逆に今度はその意味を考えてしまう。
何故私は隠れてしまったのだろう…………二人に見つかりたくなかった?私が?何故?
それはさっき感じたものとなにか関係があるのだろうか…………
「あらあら~。ユートさまったら、手なんて握ってますよ~?情熱的ですね~」
どくんっ!
再び遮られた思考。慌ててそちらを見てみると、確かに二人は手を合わせている。
よく見ると、指を絡めているようだ…………なにをしているのだろう?
…………気になる。他人の動向がこんなに気になるのは初めてだった。
更に大きくなった鼓動の中に、なにかもやもやしたものを感じる。
先程の不快感とは又少し違う感覚。なぜかもうこれ以上、ここに居たくない気がする。
きびすを返し、歩き始める。ハリオンが何か言っているが、聞こえなかった。
気になるのに見たくない。
そんな不思議な感情を持て余しながら、ナナルゥは足を早めた。

薬草を取り忘れた事に気付いたのは、詰め所に着いたあとだった。


ナナルゥは第一詰め所に来ていた。訓練の成果を悠人に報告する為だ。
いつもはヒミカが行っているのだが、たまにナナルゥが頼まれる事がある。
なんでもキャクホンのシメキリが迫っているのだそうだ。
よく判らないが忙しそうなので、ナナルゥは黙ってそれを引き受けた。
悠人の部屋に行ってみたが不在だったので、廊下を歩きつつ探してみる。
大浴場の前まで来た時、中から声が聞こえてきた。
「ぶっはぁっ!」
聞き覚えが有る声。なるほど、入浴中ですか…………
戻ろうとしたナナルゥの耳に、明るい大声が飛び込んでくる。
「えへへ~、パパの負けぇ!」
ぴたりと足が止まる。……オルファリル?
「お、お兄ちゃん、大丈夫!?」
続いて止めを刺すような佳織の声。
ナナルゥは大浴場の入り口を見つめたまま動けなくなった。
(一体何故カオリさままで………………)
疑問が頭の中を忙しく巡る。
男性と女性が一緒に……という事の意味はナナルゥもある程度知っているつもりだった。
もちろんナナルゥも何回か悠人と大浴場に入ったことはある。
しかしそれは洗髪の為であって、一緒に入浴する、という訳ではない。
ナナルゥにそんな意識はもちろん無かったし、悠人にもそれがあったとは思えない。
しかし今、悠人はオルファリルと一緒に大浴場にいる。
つまりはそういう事なんだろう、と思うのだが、そこにカオリさまがいるのが解せない。
よく知らないけど、そういうのは男女一対のことなんじゃないだろうか?
考えていると、また胸の辺りがちくり、と痛んだ。何故だろう、いたたまれなくなってくる。
「ラキオスでは、大切な人の背中をお風呂で洗うってことはすごい良いことなんだよ~?」
オルファリルの楽しそうな声を背に、ナナルゥはとぼとぼと大浴場を後にしていた。
…………大切な人………………最後に聞こえたその意味が足どりを更に重くしている。
直後、後ろの方からなにか騒ぎ声が聞こえてきたが、ナナルゥには届いていなかった。


『消沈』に神経を集中する。体を構成しているマナを視覚化出来るようにイメージする。
展開するスフィアハイロゥ。神剣魔法を詠唱しようとして、そこでナナルゥは諦めた。
ふぅっと溜息をついて剣を下ろす。やはり集中できそうにも無かった。
横で座っているハリオンに目を移す。
ナナルゥが振り向いたのに気付き、にっこりと微笑を返してくる。
それを確認してその側に座る。それを待っていたかの様に、ハリオンは話し始めた。
「わたしがいると、お邪魔ですか~?」
先程自分が詠唱を中断した事を言っているのだろう。
さほどすまなそうにもないその口調に思わず苦笑が漏れる。
めったに見せないその僅かな変化にハリオンは目を細めて微笑んだ。
「そういえば昨日、ユートさまがお風呂で~」
いきなり飛び込んできた悠人の名前に、ナナルゥの顔が強張る。
そもそも何故かそれが原因で今日の訓練が上手くいかないのだ。
今はその話題に触れたくなかった。
しかしそれを知ってか知らずかハリオンは話を続けている。
「オルファさんに襲撃されたそうですよ~」
「…………襲撃?」
あまり風呂に相応しくない単語が飛び出した。
「ええ~。それでエスペリアさんがそれはもう大変なことに~」
なにが大変なのかよく判らなかったが、その疑問とは別の事が口から突いて出た。
「……カオリさまも、居らっしゃいました。」
「あら~?なぜしっているのですか~?」
「…………そんな事より、何故三人は一緒に入浴を?」
「あ~、それはですね~…………」
元々気乗りしないはずの話題に自分から参加している。
ナナルゥはそんな自分をどこか不思議に感じていた。


腰の『大樹』を壁に立てかけ、そのままベッドに潜り込む。
目を閉じると緩やかな眠りに包まれていく。
心地いいその感覚に身を委ねながら、ハリオンは今日の出来事を振り返っていた。

「それでは……」
「ええ~、別にユ~トさまが望んだ事じゃないと思いますよ~」
「そ、そうなのですか……」
「……ナナルゥ、なんだか嬉しそうですぅ~」
「そんなことは……ありません。」

そう言って訓練に戻ったナナルゥは、隠してたけど首筋がほんのり赤かった。
あんなに素直に表情を出した彼女を見たのは何時以来だろう。
あれは雨の日。そう、初めてナナルゥと出会ったあの日…………
思い出に浸りながら、ハリオンはそのまま夢の世界に溶け込んでいった。