安息

Ⅲ-2

昼夜の気温の高低差が激しいのはもといた世界と同じなんだなと、悠人は変な所で感心せざるを得なかった。
日中あれだけ苦しめられた熱風は今はピタリと熄み、砂漠全体が澄んだ静寂に包まれている。
自らが踏みしめる足音だけが響く世界は不思議な幻想感に満ち、
肌に触れるヒンヤリとした空気はその存在自体がこの退屈な景色に静謐さを醸し出していた。

「ハリオン、起きて下さい。出発です。」
「……あ~、もう、そんな時間なんですか~?」
「全く凄い特技ですね、うたた寝しながら全員を守るシールドを展開するなんて……」
「そうですね~、凄いですねぇ~」
皮肉交じりのナナルゥに、寝ぼけながら答える。
横で見ていたヒミカは首をかしげるナナルゥと目線を合わし、溜息混じりに呟いた。
「アンタって昔からそうよね……。寝てるときでも全員を庇う様な感じで。人間の、『お母さん』って感じ?」
「はぁ~。お母さん、なんですか~? それはいいですねぇ~」
「ぷっ……。だから、アンタのことだってばっ」
何がいいのかぽやぽやと線になった目で答えるハリオンに、ヒミカは思わず吹きだしてしまう。
そしてそれにつられるかの様にナナルゥが。


―――――――くすっ…………


本当に、ささいな一瞬の微笑。瞬きの間に消えたそれは、それでもハリオンが待ち望んでいた兆候だった。


通称「ヘリアの道」。
道とは名ばかりのその荒れ果てた地面を、黙々と進む。
一つの丘を越えればまた新たな丘を。それを一体何度繰り返しただろう。
何時になったらスレギトに着くのか。疲労からか、詮の無い事を考えてしまう。
流れる汗を拭おうと『赤光』を持ち直したヒミカは、そこでふと違和感を感じた。
軽く周囲を見渡す。といっても相変わらず見慣れた景色には砂と空しか無かった。
(………………?)
モヤモヤした気持ちを抱えたまま目前の丘を越えたとき、先頭を行く悠人の背中に緊張が走る。
たまたますぐ後ろを歩いていたヒミカも、僅かの後それに従わざるを得なかった。

―――そこに、居た。漆黒の翼を持つ、最強のスピリットが。

呆然と立ちすくんだのは、しかし一瞬。無言のまま襲い掛かった一閃が、ヒミカを現実に引き戻した。

「みんなっ! 逃げてっ!!」

叫びざま、身を避わす。自分はそのまま悠人ごと倒れこんだ。
ヒミカの脇すぐ横を襲ったその一撃は、
疾風の様に切り込んできたウルカによって竜巻を巻き上げながら後方へと過ぎ去る。
もし神剣で受けていたらそれごと真っ二つだったであろうその威力。
驚きと共に湧き上がる恐怖を懸命に抑えて振り返る。
ウルカは自ら起こした砂塵の中央でゆっくりと立ち上がろうとしていた。
静かな殺気を宿すその双眸。背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、ヒミカは先程の違和感の正体を知った。


ウルカの周囲に忽然と現れる複数の影。いうまでもなく帝国の『妖精部隊』。
一目で強敵と判るそのスピリット達は、しかしいずれもその瞳に感情というものが感じられない。
敵に囲まれたと冷静に認識しつつ、もう一方で感じるデジャヴューにナナルゥは戸惑っていた。
なんだろう?彼女達に良く似た誰かを自分は知っている…………?
そんな考えが意識を掠めたが、すぐに戦闘に集中すべきだと思い直した。
緊張で汗ばんだ手で『消沈』をぎゅっと握る。
(え……?汗…………?)
こんな事は初めてだ。戦闘において、緊張は躯に硬さを生む。
それは当然隙となって状況を不利にさせる。
神剣に身を委ねていれば、精神は戦闘に集中し、雑念による緊張など発生しない。
ナナルゥは今までそうしてきた。いや、むしろ自然にそうなっていたと言うべきか。
しかし今、ナナルゥは自らの感情の起伏を認めざるを得なかった。
周囲を囲むスピリット達の視線に囚われ、『消沈』を持つ手が小刻みに震え始めているのである。
「こんな、事って…………」

言う事をきかない両手に力を込めようと必死になっているナナルゥに近づく一つの影。
肩を叩かれる感触に我に返ったナナルゥは急いで振り返る。
そこにはにこにこと微笑むハリオンがいた。
その甚だしく場違いな笑顔に思わずほっとする。
不思議に躯の震えが止まり、自然に言葉が出た。
「ありがとう。もう大丈夫。」
二人で背中合わせに警戒しつつ、中央で対峙する悠人とウルカを横目で見る。
何を話しているのかは良く聞こえないが、どうやら話は決裂したようだ。
二人の間に緊張が高まるのが判った。
(いよいよね…………)
もう一度剣を握り締めた時。周囲のスピリット達が、さっと引いた。


「…………またお会いできて恐悦です、ヒミカ殿。」
すっと目を細めたウルカは特に感情を込めずにそう言った。
「……ええ、出来れば会いたくはなかった、けど。」
気持ちで負けてはいけない、そう自分に言い聞かせながらヒミカは懸命に言葉を紡ぐ。
「しかし残念です。今日の手前の目的は、貴殿と戦う事ではありません。……そこをどいていただけませぬか。」
「……そう、残念ね。わたしはココが気に入っているの。貴女に譲る気は無いのよ。」
「……そうですか。ならば剣で道を拓くのみ。覚悟致されよ。」
ウルカは一度剣を鞘に収める。やや前かがみのその姿勢は獲物を狙う肉食獣を連想させた。
「……貴女こそ、この間みたいに逃げるんじゃないわよ。」
ただ対峙しているだけで神経をすり減らされるような威圧感に耐えながら、ヒミカは神剣魔法を詠唱しようとする。と。
「…………待ってくれ、ヒミカ。」
ヒミカは悠人に肩を掴まれていた。

「……ユートさま!危険です!」
思わず悲鳴の様な声が漏れる。実際今この瞬間にでもウルカが斬り込んでくるかもしれないのだ。
自分達の隊長を、ましてや密かに憧れている人をみすみす危険に晒す訳にはいかない。
心配そうなヒミカにしかし悠人は軽く苦笑いを浮かべて答えた。
「大丈夫だよ、少し話をするだけだ…………奴には訊きたい事がある。」
そう言ってウルカを睨む悠人の目は真剣そのものだった。
一方のウルカもそれを待っているのか、先程の姿勢からピクリとも動こうとしない。
ちらっと後ろに待機しているエスペリアの顔色を窺う。
やや曇っているその表情には、それでも悠人の言い分を通すようにとの意思が感じられた。
「…………判りました。どうか、お気をつけて。」
悠人の目をしっかりと見つめながらヒミカはそう言って少し離れた。
いつでもその「盾」になれる様にと心に留めて。


「それでも、許せないんだよっ!」
悠人の叫び声が一騎打ちの始まりだった。

先に動いたのは悠人だった。
オーラの一部を開放し、自らの攻撃力を高めるエトランジェ独特の神剣魔法を唱える。
その詠唱が終わるや否や、それを意に返す風もなく、ウルカが斬り込む。
目に映らないほどの四連撃。ヒミカが目で追えたのはそこまでだった。
烈風ともいえるその斬撃が通過した後。舞い上がる砂埃の中、悠人の影が動いた。
渾身の一撃。攻めの終わりの隙を突かれたウルカは、それを避わすことが出来なかった。
咄嗟に神剣で防ぐ。跳ねあがった無骨な剣がウルカの『拘束』をはじき飛ばしていた。

「…………くぅっ!」
たまらずウルカが膝を着く。勝負は一瞬で決まっていた。
負った傷ははるかに悠人の方が重傷だった。
しかし何故かやや動きに精彩を欠いたウルカは自ら負けを認めたように俯いて動かなかった。

………………………………
……………………
…………

去っていくウルカを、何故か悠人は追わなかった。
佳織から伝えられた言葉を手の中のお守りと共に握り締める。
「…………負けない、か…………」
そっと呟く悠人の横顔にヒミカは声をかけることが出来なかった。