回帰

サレ・スニルもゼィギオスも陥ちた。後はユウソカを抑えれば秩序の壁を攻略出来る。
首領を失った妖精部隊の残党が森のあちこちに出没していたが、統一の無いその動きではラキオス軍に各個撃破されていくだけだった。
悠人は一部の部隊をゼィギオスから南下させ、残りの全部隊でユウソカを攻めるという方法を取った。
帝国攻略は着々と進んでいたのである。

さて、今悠人は最大の問題に直面している。
ヘリオンとの仲を、どうしたらアセリアに理解してもらえるか。
一夫一婦制などという概念すらなく単純に「好き」「嫌い」で考えているアセリアは、
事ここに到っても「三人仲良し」みたいな態度を崩さない。
そもそも、「事」事態を把握しているのかどうかすらも怪しい。
毎晩の様にヘリオンの部屋に泊まる悠人を見て、嫉妬を感じないどころか私も一緒に寝ると言い出す始末。
他のスピリットや光陰達は気を使ってかその話題に触れようともしなかったが、それは悠人にとって、ある意味孤立無援の状態だった。
「だからいいか、男と女っていうのは好き合っていないと一緒に寝たらだめなんだって」
まるで小学生かなんかに対する様なセリフにもアセリアは一向に頓着しない。それどころか無垢な瞳をまじまじとさせながら訊いて来る。
「だからなんでだ?わたしはユートもヘリオンも好きだ。問題ない」
つまりは、元はと言えばずるずると二股紛いの事を続けていた悠人が悪いのだが。
髪をわしゃわしゃと掻き毟って唸る。
「だからな、男と女が一緒に寝るっていうのは…………つまりあれだ………………ごにょごにょ」
肝心なところで詰まってしまう。それはそうだろう。恋愛に関して小学生以下のアセリアに直接的な表現は流石に出来ない。
どうしてもそこで赤面し、黙り込んでしまう。

「……?つまりユートは何が言いたい」
「だーー!!!だ・か・らっ!どう言えば判ってくれるんだーーー!!!」
「ユート、落ち着け」
思わず叫んでしまう悠人と冷静に嗜めるアセリア。
ところで、そんなやり取りに耳をそばだてている者達がいた。というか、全員。
そう、ここは第一詰め所の廊下であった。

ユウソカ攻略前の休息として、部隊は一度ラキオスに戻ってきていた。
もちろん、敵の反撃を見越して城の防御に抜かりは無い。正規軍を配置して、いざという時に備えている。
どうやら敵もユウソカに篭り、出て来る気配がここ数日窺えなかった。
そこでこうして全員で居間に集まり昼下がりの談笑を楽しんでいたのだが、
そうとも知らない悠人が壁一枚向こうの廊下でアセリアを捕まえて痴話喧嘩?を始めたのだ。
そして先ほどのやり取りである。他の仲間にとってこんなに面白い余興は無かった。
最初は全員息を殺して聞き入っていたのだが、途中から悠人の大声が筒抜けである。
さすがにいい気味だとまで言い切る者はいなかったが、それでも悠人にはいい薬、程度には考えている向きもある。
ましてや誰しも(光陰除く)が一度は憧れたり仄かな恋心を抱いた相手がいきなりヘリオンと肉体関係を持ってしまったのだ。
半分自分達で後押ししたのもどこへやら。やっかみも含み、各々の心中は意外と複雑だった。

そんな訳である者は苦笑し、またある者はおろおろと。そしてまたある者はもらい泣きし、そしてその全員が耐え忍んでいた。
「ちょっと光陰、アンタ笑いすぎよ…………くくく…………」
「だ……だって今日子よ…………く、苦しい…………」
「コーインさま、少しはユート様の身にもなって下さいませ」
エスペリアが眉を顰めて嗜める。がしかし目元に浮かんだ笑みは隠せない。横でハンカチを握っていたハリオンが加勢する。
「いけませんよコーインさま~、あまり大きな声で笑われては気付かれてしまいますぅ~」
「ってアンタ……泣き笑いだったの……」
微妙にぷるぷる震えているハリオンの肩をヒミカが小突く。そんな彼女も口許が耐え切れずに緩んでいた。
「皆さんそう笑われては……ぷっ」
「そうです、ユート殿はいたって真面目なのですから…………くっ」
珍しくポーカーフェイスを保てないナナルゥが吹きだす。ウルカに至っては小刀のこじりでぐりぐりと太腿を抉って耐えている様子。
「ニ、ニム…………可笑しくなんかないモン………………」
「ニムントール、我慢は体に良くないですよ」
うずくまって真っ赤になったニムントールの背中を優しくさすりながらも、ファーレーンは片手で必死にソファーを握り締めていた。

殆ど全員何とか爆笑をこらえている耳年増組とは対称的に、話についていけない年少組の反応は様々だった。
「え~、え~?なんでみんな笑ってるの~?」
「シ、シアー判んないよ~」
「え~、パパがどうしたの?」
理解できずにおろおろするネリー、シアー、オルファ。
「コ、コーインさまが壊れました~~」
まだラキオススピリット達のノリに上手く乗り切れていないクォーリン。
そして。
「……………………」
ただ一人、つい先日年少組を「卒業」したヘリオンだけが、不安そうな顔をして入口の方を見つめていた。
「心配ですか、ヘリオン」
隣に座っていたファーレーンがそれに気付き、目尻の涙を拭いながら優しく声をかける。
しかしヘリオンは無言で少し笑いかけた後、ゆっくりと視線を戻した。

ヘリオンのそのちょっとした仕草に、ファーレーンは内心驚いていた。
先日までのヘリオンなら、このような状況でただおろおろと慌てるだけだったはず。
それがどうだろう、この落ち着きようは。いつの間にそんな表情が出来るようになったのだろう。
心が通じ合うというのはこれほどまでに変われるものなのか。
(少し羨ましいですね…………)
ファーレーンは小柄な少女の大人びた雰囲気に、多少の嫉妬を込めてそう思った。

場の抑制された喧騒の中、一人セリアだけが複雑な表情のまま淡々と神剣の手入れをしていた。
やがてそれも済ませると黙って立ち上がり、庭側の窓から外に出て行く。
別に悠人とアセリアに気を使った訳では無い。ただ聞いていられなくなっただけだ。
複雑である。自分はヘリオンを応援しているはずではなかったか。
それなのに、アセリアの動向が気になってしょうがない。

あのリレルラエルの件以来、不思議に悠人への特別な感情は無くなっていた。
もちろん敬意はあるが、最近誰かと一緒にいる悠人を見ても、思いつくのはただアセリアの鈍さだけ。
「はぁ…………もうそろそろね………………」
溜息交じりに呟いた時には、いつの間にか訓練場まで来ていた。
セリアは気晴らしに『熱病』で素振りを始めた。

詰め所の方からここからでも聞こえる位の歓声が起こった。
恐らく悠人とアセリアが皆に気付いたのだろう。セリアはもう一度、深く溜息をついた。

数日後。ラキオススピリット隊は、帝国軍と激しく衝突した。
ユウソカは、それほど大きな城ではない。ただその兵力だけは、並みの城より余程充実していた。
膨大すぎる部隊を収容しきれないのか作戦なのか、殆どが野戦部隊として前衛に布陣している。
地理に乏しいラキオス軍はそれを迂回する事も出来ず、真正面からぶつかっていた。

錐の様に中央を穿つというエスペリアが起草した作戦。その殆どは、戦い当初から頓挫しかけていた。
突破して敵の本営を突くも何も、前衛自体が本営そのものの重厚さなのである。
確かに突破出来れば城などは容易く陥ちるかもしれないが、それは机上の空論というものだ。
ここまで百戦錬磨のエスペリアにしては珍しい作戦ミス。だが、戦力を集中させていたのは不幸中の幸いだった。
じりじりと敵の主力を分断しつつ前進するのは、最も戦い自体の「正面」は少ない。
被害は最小限に。悠人の要望通り部隊にさほどの損害も無く、敵は徐々に勢力を失っていった。
ただ、進攻速度は確実に最初の衝力を失い、徐々に遅くなっていく。悠人は次第に焦り始めた。

消耗戦は出来るだけ避けたい。そんな考えが悠人の思考に余裕を失わせていた。
ここから一番近いサレ・スニルでも、戻っているまでに丸一日は掛かる。その間に敵が補強されるのは間違いない。
「くそっ、あと少しなのに…………」
目の前に、ユウソカの城がある。すぐそこにあるはずのその姿、大きさが、先程からなんの変化も無いように見えてしまう。
気のせいだ、少しずつだけど近づいている、そんな言葉を自分に言い聞かせても、一方では別の考えが浮かぶ。
ここまでぎりぎり抑えてきた『求め』。神剣の力をもっと開放すれば、何とかなるかも知れない。そんな甘く黒い囁きが響く。

「くっ…………佳織…………」
思わず呟いた一言。口に出してみて初めて気付く。そうだ、もう少しじゃないか。ユウソカは、目の前なのだ。
それは考えを迷いから決断へと一気に移行させた。少なくとも、悠人は自分自身で判断したと信じていた。
いつのまにか目的が、無意識に刷りかえられていることにも気付かずに。
このまま押し切るしかない。やっと敵部隊中央を分断した時、悠人は決断してしまっていた。

「左右に分かれてそれぞれを抑えてくれ。俺はユウソカに直接攻め入る!」
「ユートさま、それは危険です!もう少しでここは制圧出来ます、無理はおやめ下さいっ!」
「だめだっ!このままじゃこっちが先に力尽きるかもしれない…………!」
「ユートさま…………っ!?」
駆け出しかけた悠人の『求め』が鈍く光っているのを見てエスペリアは息を飲んだ。
(こんな時に…………)
もう少しで佳織を助けられる。そんな悠人の感情を飲み込んだ、『求め』の干渉が始まっていた。

『もう少しだ契約者よ、汝の大切なものはもうじき取り戻せるぞ…………』
頭の中に鳴り響く警鐘。悠人は痛みよりその甘美な誘いに乗ることを選んだ。
(大丈夫だ、城を陥とせば皆だって危険から早く解放されるんだから)
そんな言い訳じみた考えがふらふらと思いつく。それ自体がより戦場を危険なものにするとは思いもよらずに。
『そうだ、それこそ我と汝が求めていたものだ』
戦場という環境は、どんな人間でも少なからず高揚させる。そして悠人の感情に色々なものが混じりすぎた。
一度ならず干渉を退けてきたという自負。目前に迫ったサーギオス。囚われている佳織。それらが重なり合い、暴走する。
悠人の瞳から徐々に意志の色が削られていく。この機会を狙い続けた『求め』の周到さはこの期に及んで止めを刺した。
『そうすれば守れるだろう、あの黒き妖精も』
同時に頭に投影される幼い顔立ち。皮肉にも、ヘリオンの顔が思い出されたとたん、悠人の瞳は昏く落ちた。

ふらふらと最前線に立った悠人の前に、複数の敵が襲い掛かった。
無防備な悠人を格好の標的とでも勘違いしたのだろうか。
白刃を煌かせて踊りかかった小部隊は、一瞬でその存在を影も残さず吹き飛ばされた。
「…………じゃま、だ」
低くどすの利いた声を呟きながら、ゆらりと再び歩き始める。
悠人はたった一振り、『求め』を薙いだだけ。それでも周囲は、焦げ臭い匂いとぶすぶす焼けた地面に包まれていた。
エスペリアが何か叫んでいるが、ただ煩いだけだった。今は殺意さえ湧いてくる自分を抑えきれない。

『存在』の声に従って、『求め』の発動を察知したアセリアが駆け寄ってくる。
「アセリア危険です!今のユートさまは…………」
「ユート、いけないっ!」
混乱と喧騒のさ中。その中心に飛び込んだアセリアの蒼い瞳に、黒い霧に包まれている悠人の姿が映った。
かつての自分が思い出される。それは、これ程までに禍々しい存在だったのか。
身震いを抑えながら、アセリアは全力でそれを止めなくては、と『存在』にマナを籠めた。

もう良く思い出せないその少女に対して悠人は『求め』を大きく振り切った。驚きながらもアセリアが『存在』でそれを受ける。
がきぃぃぃん…………
甲高い金属音。弾かれたアセリアは逆らわず、そのまま真っ直ぐ後ろに飛ぶ。咄嗟の判断だったが正解だった。
着地して、初めて気付いた。『存在』を持つ手が痺れている。冷たい汗が背中を流れた。
(…………恐怖?わたしが……ユートに…………?)
アセリアは知らず、後ずさっていた。

悠人はアセリアが離れた事に何の関心も示さず、我慢できないという感じで天に向かって大きく吼えた。
「おおおおおおおおっっ!!!」
叫びと同時に起こった黒い巨大なオーラフォトンの竜巻が敵味方全ての動きを一時硬直させた。
びりびりと、震える大気。周囲のマナが中央に居る悠人ただ一点に集中していく。
アセリアは、一歩も動けなかった。足が、動かなかった。

『因果』が共鳴を起こした。と同時に光陰は状況を理解していた。横にいる今日子と一瞬目が合う。
二人は頷き、そして一斉に駆け出した。目の前で嵐の様に巻き起こる砂塵の中心。そこに向かって飛び込む。
「悠人っ!!」
光陰は叫びながら加護のオーラを全開にして、悠人を後ろから羽交い絞めにしていた。

抑えつけた光陰は異常に膨れ上がった悠人の筋肉に驚愕していた。
(コイツ、身体まで神剣に喰われてやがる…………っっ!!)
予想外の状態に歯噛みする。膨れ上がったマナが加護のオーラを“喰って”いた。このままでは自分も危険だと判断した光陰が叫ぶ。
「今日子、『求め』だ、『求め』を叩き落せっ!!」
「…………っ!!了解っ!!」
悠人の様子に呆然としていた今日子が我に返って弾かれたように飛び出す。『空虚』でピンポイントに『求め』を狙うつもりだった。
「っ!…………『因果』……この時を待ちわびたぞ」
「…………何?」
「ぐ、がぁぁぁぁっ!!」
「ぐぉっ!」
光陰がいぶかしんだのもつかの間、力任せに光陰の拘束を振りほどいた悠人がその勢いのままオーラフォトンを開放する。
辺りを闇と轟音が包んだ。無数に飛んでくる破片。とても目を開けてはいられない。
間に合わなかった今日子が必死で両腕で体を庇う。肉が焦げる匂いが充満した。
音が静まって恐る恐る目を開いた今日子が見たものは、消滅した敵右翼と焼け野原、大きく抉れた地面。
倒れているエスペリアとアセリア、…………そして、左手足を吹っ飛ばされて転がっている光陰だった。
「光陰っっ!!!」
左翼の敵が動揺してさざめく中、今日子の悲鳴が響き渡った。

やや離れた位置に居た他の仲間達は悠人の異常に気が付かなかった。
側にいたエスペリアやアセリア、高位神剣の持ち主である光陰や今日子とは違い、
彼女達は単純にオーラフォトンの威力が敵勢力を削いだ、と解釈した。
その技がオーラフォトンビームだった事も、それ自体が悠人の変調を示すという事も知らない。
ただ、目の前の敵が浮き足立っているのだけは明らかだった。
「みんな、今よっ!」
常に先陣に立っていたヒミカが駆け出す。それに習って全員がハイロゥを全力展開した。勝利は目前だった。

くんっ、と『失望』が反応した気がした。
なんだろう、と手元を確認しようとした時、微かに何かが匂った。
急に立ち止まったヘリオンに気付き、側にいたウルカが不思議そうに訊ねる。
「…………どうなされた、ヘリオン殿」
「…………ユートさん」
「は?」
ウルカが訊ね返した時、ヘリオンは既に消えていた。否、ウルカの目でも捉え切れなかった。
後には白い羽根が数枚舞っていただけだった。
「…………?!ヘリオン殿っ!」
驚いたウルカが直ぐに後を追いかける。予感に従い、『冥加』の力を最大にして。

「……ふぅ」
敵側面を突いて部隊を潰乱させたファーレーンは、『月光』を静かに鞘に収めた。
後方に控えているニムントールに振り返り、にっこりと笑って合図を送る。
この方面の戦いは終わったと、無言で伝えた時だった。
ひゅんっ。何かが視界の隅を横切った。黒、そして白。ファーレーンは咄嗟に身構えた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
駆け寄ってきたニムントールが不思議そうに尋ねる。しかしファーレーンはその体勢のまま、数瞬動かなかった。
「………………」
「お姉ちゃん?」
不審に思ったニムントールが肩を叩こうとした時、ざっ、とファーレーンは駆け出していた。
何時の間にか構えた『月光』が灰色の輝きを放っている。あっという間にその姿が小さくなり、見えなくなった。
ニムントールは、なにかがあったと悟りはしたが、しかし本気になった姉を追いかける手段など持ってはいなかった。

文字通り飛んできたヘリオンが見たものは、まず左手足の無い光陰を抱き締めている今日子だった。
右手に辛うじて掴んでいる『因果』に力が感じられない。
側でクォーリンが泣きじゃくりながら治癒魔法を掛けている。
向こうの方、ようやくよろよろと起き上がってきたアセリアとエスペリアも視界の隅に見えた。
そして今日子達がいるすぐ側でゆらりと立っていた悠人がこちらを見たとき、ヘリオンはその場で速度を下げた。
『失望』から激しく伝わる警告の気配。瞳に光を失っている悠人。周囲の惨状。
それらがヘリオンの中で一つになる。
しかし理解した彼女を支配したのは、恐れではなく懼れ、そしてただ純粋な怒りだけだった。
ぎりっと歯軋りする。足を止め、ヘリオンはゆっくりと低い声で叫んでいた。

「…………『求め』、ユートさんを離しなさい!」

今まで誰も聞いたことのないヘリオンの命令口調に、アセリアもエスペリアも今日子も驚いた。
しかし一番驚いたのは悠人、いや『求め』だった。下位神剣の使い手に命令される。これほどの侮辱はかつて無かった。
「……妖精。そのような口を叩いて無事で済むと思わないことだ」
悠人の口を伝って『求め』の冷たい呪詛が紡がれる。あれほどの技を使った直後にもかかわらず、悠人の周囲に黒い光が集中した。
だがヘリオンにとっては、『求め』が悠人の口を使って喋った事自体が許せなかった。握った『失望』に自身の力を注ぎ込む。
「…………『失望』、行こう!!」
呼応した『失望』がたちまち黒く輝きだす。対称的に、純白のハイロゥは眩しく煌く。
急激すぎるマナの放出に吹き荒れる風が髪留めを吹き飛ばし、自由になった黒髪が各々のウェーキを引く。
「…………小賢しい」
呟いた『求め』へ収束したマナがオーラフォトンへと変化したその瞬間。死角から、別の影が飛び込んでいた。

「はぁっ!」
低く屈んだ姿勢のまま気配を消して、ウルカは悠人の左後方へ廻り込んだ。
悠人は右手に『求め』を握っている。この位置なら悠人自身が盾になり、『求め』に捕捉される事も無い。
踏み込んだ左足を軸に、身体全体を後ろに捻ると同時に一旦『冥加』を鞘に収める。
収まりきったかどうかの刹那、反動を利用して向き直った時にはすでに間合いの中だった。
「雲散霧消の太刀!」
移動した体重を乗せ、『冥加』を鞘から滑らせる。加速した剣が鞘と空気の摩擦からか、細かい粒子を巻き起こす。
抜き放たれた『冥加』が唸りを上げて、『求め』を狙った。

「…………しっ!」
同時にファーレーンは間合いの遥か外、空中から悠人に踊りかかっていた。
畳んだ膝をそのままに、空気抵抗を最小にしたまま『月光』を突きに構えて滑空する。
悠人の正面に、ヘリオンが見えた。悠人はそちらを見据えて立っている。こちらに注意を促す必要があった。
「……ユートさま!」
叫びながら、ファーレーンは展開していたウイングハイロゥを内に収めた。

同時に斬りかかってくる二つの影。後方と、上方と。
しかしその状況下、『求め』に半ば支配された悠人は落ち着き払っていた。
遅い。妖精にしては腕が立つのかも知れないが、「今の自分」なら対応できる。
二人の意図は理解できたが、それは奇襲と呼べる様なものではなかった。
後方から来た黒い妖精に、同じスピードでバックステップし、間合いを狂わせる。
「なっ!」
それだけで動揺した妖精の剣先が鈍った。最早スローモーションにしか見えないその鍔元を難なく抑える。
そのまま剣ごと妖精を放り投げ、もう一方の妖精が頭上から迫るのに合わせて首を僅かに捻った。
突いてきたその剣を皮一枚で避わし、着地した背中に『求め』の狙いを定める。
そこまでは、計算どおりだった。


投げ出されて辛うじて体勢を保ったウルカの目の前に、ロシアンブルーの髪がふわりと降り立った。
「…………!」
「…………!」
一瞬視線が交差する。お互いの意志を確認し、二人は全力で擦れ違った。四枚の白い翼を全開にして。
それは先程とは明らかに違う、「人の動体視力を遥かに越えた」、本来の動きだった。

悠人の視覚を介して外界を知覚している『求め』は咄嗟に何が起きたのか判らなかった。
予想外の方向に逃げ出した二人の動きは、再び加速はしたものの、まだ気配で追える。
そのまま追撃することもまた、今の契約者の肉体でも可能だった。
しかし、確かに今の今まで正面に立っていたはずの小柄な妖精の姿が見えない。
『求め』は理解出来なかった。それが、暗黙の了承により行われた意図的な錯覚なのだと。
本来黒スピリットというものは、スピードを身上にする。それをわざと殺した攻撃の後の速さの緩急。
その異常な横の加速度に気を取られていた悠人の目では、
別の移動体――例えば、一直線に突っ込んでくるヘリオンの姿を視認出来ない、という事が。
『求め』は一度左右に逸らした意識を、もう一度ヘリオンを追う為に前方に集中させた。
だがスピリットを相手にしてのそのタイムラグは、明らかに大きすぎた。

「…………ぬっ?」
瞬く間に懐に入られた『求め』は今度こそ動揺した。その焦りを、ヘリオンは見逃さなかった。
まさか悠人を斬り付ける訳にはいかないので、くるっと反転しつつスピードの乗った足払いをかける。
「悠人」はそれを避けつつ後ろに一回転しながら横殴りに『求め』を振り切った。
だが元よりフェイントだった足払いを放った直後、ヘリオンは既にその間合いから紙一重外に屈んでいた。
振り切り、動きの止まった『求め』の横を、滑る様に悠人の手元に飛び込む。

『求め』を叩き落そうとするその動きは、しかし完全に読まれていた。
「愚かなっ!」
『求め』の咆哮と共に弾かれる、悠人「本体」からのオーラフォトンビーム。
至近距離であえて集中させた闇の槍。その獰猛な一閃が的確にヘリオンの心臓を狙って放たれる。
爆音がヘリオンを消滅させた――――そう思った時、『求め』は悠人の手から“手刀”で叩き落されていた。


悠人の手元を離れる瞬間、『求め』は「見た」。
軌道を逸らしたオーラフォトンが離れた地面を深く削りつつ爆発するのを。
確かに、オーラフォトンビームはヘリオンを狙っていた。
しかし、またもや『求め』は目の前に気を取られすぎて、察知できなかった。
その隙を突いたウルカとファーレーンが左右に廻りこんでいた事も、
『冥加』と『月光』が気配を殺す為にマナすら纏わずにいた事も、
そしてその二人がただ単純に、「悠人」に体当たりをしたのだという事も。
計算外は、三つもあった。
覚醒した第五位に立ち向かう妖精が居た。
ファンタズマゴリアでも瞬速では屈指のブラックスピリット三人を、同時に相手にしていた。
そして、「自らの意志を保つどころか」、こんなにも神剣の力を引き出している、目の前の少女がいた。

地面に転がった『求め』は最後までその敗因が掴めずにいた。
がしゃっと乱暴に踏みつけられる。
『…………ぐおっ!』
ウルカが『求め』を踏んづけたまま、たった今自分を超えたかも知れない少女を眺めていた。
『な、なにを貴様…………『冥加』かっ!…………』
「少しは大人しくしなされ。馬に蹴られますぞ」
『ぐ、ぐぬぬぬぬ…………がっ!』
動けもしないのに抵抗の意志を見せる『求め』。その刀身を、もう一つの影がこちらは「少々」乱暴に踏みつけた。
「さっきの動き、わたし達にも捉え切れませんでしたね」
『ぐっ!がっ!……おのれ、六位の分際で…………はぅっ!』
ファーレーンが同じ方を優しく見つめたままウルカに話しかける。『求め』は完全にスルーだった。
ただし、爪先に入れた力はぐいぐいと籠めたままで。


立て続けに大技を連発して力尽きたのかそれともウルカとファーレーンの足責めが効いたのか、『求め』の輝きが失われていく。
それに伴い「干渉」から開放された悠人の目に、少しづつ光が戻っていった。
そうして悠人が最初に見たもの。それは涙を湛えてしがみ付く、最愛の少女の姿だった。

「ユートさんっ!」
暫く呆然と抱きつかれたままだった悠人が、やがてゆっくりと下を向く。
舞う白羽の中、束縛を解かれて舞い踊る長い黒髪が見えた。そっと頭に顔を寄せ、静かに息を吸い込む。
まだ霧がかかった頭の中が、風に吹き払われてクリアになっていく。優しい風は、心を次第に温めてくれた。
悠人はまだ上手く動かせない手を、ぎこちなくヘリオンの背中に回していた。

こん、こん。
ユウソカが陥ちたその夜。
あてがわれた一室で、セリアはノックの音に目が覚めた。
「はぁ~~~、まさかこんなに早いとはね…………」
溜息混じりに呟きながら、静かに扉を開く。やはりというか、アセリアが立っていた。
両手で『存在』を握り締め、瞳をうるうるさせながらセリアを黙って見上げている。
「……ま、入りなよ」
そう言って背中を向けたセリアに、アセリアはただこくっと頷いた。

「はい、お茶…………で?」
「……………………」
椅子に座ったまま何も言わないアセリアにお茶を出しながら聞いてみる。予想通り答えは返ってこなかった。
「私、眠いんだけどな」
もちろん、嘘だ。ただ、こうでも言わないとアセリアは絶対に口を開かない。
長年の付き合いである。用件も、とっくに判っていた。

しかし、今回のアセリアはしぶとかった。下を向いたまま、一向に動く気配が無い。
問題が問題なだけにしょうが無い気もするが、セリアはうじうじしているアセリアに、だんだん腹が立ってきた。
元より気が長い方ではない。カップを口にしたまま、思わず少しきつい口調になってしまった。
「しょうがないでしょ、アンタがバカだったんだから」
切り出してからしまった、と思った。

既にアセリアの肩がぷるぷると震え出している。今にも泣き出しそうだった。
昔から、こうだった。怒られた、とでも思っているのだろう。そんな事は、全然無いのに。
何時からだったのだろう。こんなにも、この少女の考えている事が理解出来るようになったのは。
いつも純粋だったアセリア。それは今も変わらない。その無言の優しさは、誰にでも平等に、いつも注がれている。
幼い頃、困らせていたのはどちらかというと、自分の方が多かったように思える。
それでも常に、アセリアは自分の味方だった。守られているのは自分だったのだ。それが逆転したのは何時からだったのだろう…………

半ば俯瞰していたセリアの意識は、アセリアの呟きに引き戻された。
「…………怖かった」
搾り出すようにぼそっと口を突いた一言が切欠だったのだろう、普段無口なアセリアからは考え付かないほどの大量の言葉が飛び出す。
「分かってた。ユートが苦しんでると分かってた。それなのに、何も出来なかった」
「怖かった。今までユートをそんな風に見た事なんてないのに…………怖い、と思った自分がどうしても許せない」
セリアは黙って聞いていた。

「ヘリオンは凄い。とっても強い。でもセリア、なんでだ?なんでそれがこんなに悔しいんだ?」
声は途中で涙声に変わっていた。大粒の涙をぽろぽろと零しながら縋りついてくる。
寝巻きの裾を強く掴まれながら、セリアはただじっとアセリアの蒼い髪を眺め続けた。
そう、純粋だから。だから、アセリアはただ「守ろう」としてきた。
自分の大切な、存在の為に。居場所の為に。悠人の笑顔を、仲間の笑顔を。そして……ヘリオンの、笑顔までも。
自分の戦う意味。自分の生きる意味。サモドアで教わり、ハイペリアで望んだ。
その大切さを、ただ忠実に実践してきたアセリアは、しかし自分の笑顔だけは守れなかったのだ。
そして、初めてアセリアは気付いたのだろう。少し前に自分が初めて理解した感情――思慕というものに。

アセリアを優しく抱き締めて、セリアは落ち着かせる様に静かに伝えた。
「誰だって怖いよ……わたしだってあんたが神剣に『飲まれ』てた時、正直怖かった……」
「セリア…………?」
アセリアを抱く手に力がこもる。不思議そうに見上げたアセリアを、セリアの強い口調が抑え込んだ。
「いいから聞きなさい。……でもね……本当に大切なら、その人が辛い時には必ず側に居なきゃいけないんだ。
 私は悔しかったよ、ユートさまがアセリアの側に居てくれた時。自分が何も出来なかった時。後悔だって凄くした。
 ずっと友達だったのにって。いざという時、何も出来ないって…………でも…………
 でもね、アンタが戻ってきた時には、悔しいけど…………凄く嬉しかった。ユートさまに感謝した」
アセリアの頭をぎゅっと抱き締めたまま、セリアの声にも嗚咽が混じる。
「だからね……判るんだ…………誰でも側にはいられる。だけど、“ずっと”側に居られるのは一人だけなんだ。
 皆が苦しい時、皆が笑っている時には、“一番”居たい人の側に居る事を選ばなくちゃいけないんだ」
「…………っ!」
「それが“好き”ってことよ、アセリア……もう寝なさい、そうすれば分かるから」
まだぐずぐずと泣いているアセリアを諭しながら、セリアは天井を見て必死に涙を堪えていた。
今アセリアが感じている悔しさ。それは悠人がアセリアを戻してくれた時、セリア自身が感じたものと同じだったから。
嫉妬という、喪失感……それは、時間だけが癒せるものだと知っていたから。

どんな城にも一番高い所というものはある。そしてそこに、やはりファーレーンはいた。
「よっ」
「あら、ユートさま。ヘリオンは宜しいのですか?」
「うん、今は疲れて眠ってるから…………」
「ああ…………」
合点がいったという表情のファーレーンに悠人は苦笑いを返した。
「そういう訳だから…………隣、いいか?」
「ええ、どうぞ」
了解を得て腰を下ろす。見上げると月の影が丸く夜空に溶けている。月の満ち欠けがあるのだと、悠人は今更ながらに気付いた。
「コーインさまのご容態はいかがですか?」
「え?あ、ああ、アレはご容態なんて大層なもんじゃないよ、もうピンピンしてる。さっき殴られたばっかりだ」
考え事をしてたのに気付かれたのだろうか、と思いながらなんとか冗談を返す。しかしファーレーンは予想に反して真剣な瞳をしていた。
「…………ファー?」
「ユートさま、アセリアは大丈夫です。ちゃんと“戦う以外の意味”を考えられる娘なのですから」
「………………」
「だから、そんなに辛そうな顔をしないで下さい」
「…………あ、あれ………………?」
ファーレーンがそっと悠人の頬に手を当てる。知らない間に悠人は涙を流していた。自覚したとたん、抑えていた気持ちが溢れ出す。
「俺、最低だ…………アセリアの気持ちを裏切っただけじゃなく、剣まで向けた…………」
「………………アセリアは良い娘です、きっともう、分かっています…………」
嗚咽を流し続ける悠人の背中をファーレーンは優しくさすっていた。

「なんかさ、あの時ヘリオンにしがみ付かれて…………なんていうか、包まれてる気がしたんだ……うん、今のファーみたいに」
落ち着いた悠人が目を真っ赤にしたまま恥ずかしげに告白する。
「あら…………ふふっ、じゃああの娘はきっと美人になりますね」
悪戯っぽく目を細めるファーレーン。いつもとは違う幼い表情に悠人は吹きだした。
「な、なんですか?」
ぷぅっと膨れるファーレーンを可笑しそうに見つめる。
「いや、今度はファーが前のヘリオンみたいだなって」
「え……まぁ…………」
「ははっ…………」
月の光が見守る中。二人はしばらく笑い合っていた。

 ――――――――

次の日。悠人はアセリアに呼び出されていた。
「………………」
「………………」
既に悠人が来ている事に、気付いているのだろう。
背中を向けたまま、微妙に揺れている肩や落ち着かなく爪先をとんとん地面に当てている事からでもそれが判る。
それでも悠人は自分から話しかけたりはしなかった。
「…………ユートは」
暫しの沈黙の後、ようやくアセリアが口を開いた。悠人は黙って頷く。見えないが、伝わると思った、アセリアになら。
「ユートは幸せ、か?」
「…………ああ」
短い質問。答えもまた一言だった。風が静かに流れる。
アセリアの髪が軽くなびくのを悠人は黙って眺めていた。その蒼が少しぼやけてくる。
「…………そうか」
アセリアが振り向いた。笑顔だった。目は赤く腫れ、少し引きつってはいたが、それでも笑顔だった。
だから。悠人も微笑みで応えた。零れそうな涙を必死になって我慢して。

 ―――――ごめん、な。

決して口にしてはいけない一言を飲み込んで。


戦いのつかの間。ある日ヘリオンはウルカに声をかけられていた。
「ヘリオン殿、帝国を無事倒したら手前に少し付き合っては貰えませぬか」
「ふぇ、ウルカさんが、わたしをですか?」
「はい、手前の部下が眠っている場所へ…………そこでお渡ししたいものが…………」

  
    ―――――それが何であるかをヘリオンが知るのはもう少し先の話である―――――