朔望

夜想 Ⅴ

 §~聖ヨト暦330年スリハの月青ひとつの日~§

我ながら、生真面目過ぎる性格だとは思う。
どうして自ら進んでこんな役を引き受けてしまうのだろう。
木々をすり抜けながら、ファーレーンはそんな事を考えていた。
右手に流れていくソーンリームの峰々を視界の外に収めたまま月で自分の位置を把握する。
ラセリオを出発して一日半。アキラィスの横を通り過ぎたのはついさっき。
左前方遥かに窺えるのは、蒼く湛えたイースペリア領ミミル湖。ロンドはまだ遠い。
ふと、サモドアで必死に神剣を振るっているであろう、エトランジェの姿が脳裏を掠めた。
今頃どんな思いで戦っているのだろう。あの、おおよそ争いに向いていない顔を思い浮かべる。
まだはっきりと見た事も無いその瞳が哀しみに満ちている様な気がして、不思議に焦りを感じた。
「もう少し、急がないと…………」
気配を殺したまま、ファーレーンは翼に力を籠めた。

――――ラキオスは現在バーンライトとの交戦中である。
既にリーザリオ、リモドアは陥ち、ラキオス軍は首都サモドアに迫っている。
しかしサモドアは堅牢な上、内偵した所では膨大な数のスピリット達が篭っている。
今までの戦力では容易に陥とせはしないであろう。そう報告した3日前の事を思い出す。
「それではファーレーン、イースペリアの動向を探ってください」
レスティーナ皇女の命令はこれだけだった。それに軽く失望を覚えたのは何故だか解らない。
ただ、今度こそ自分にも出撃命令が下されるものだと思っていた。
もちろん戦闘ではなく、エトランジェ守護の内命を帯びた者として。
そんな時に、何故イースペリアなのか。第一、何を探ればいいのかも示されてはいない。
「おそらくラースにわたし達が配属されていた事と何か関係がある事なのでしょうけれど……」
釈然としないまま、それでもファーレーンは単身ロンドに向かって急いでいた。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月青みっつの日~§

「………………!」
風の流れが僅かに澱んだ。浅瀬を歩いていていきなり水温の異なる場所に踏み込んだ様な感覚。
ファーレーンは、音を立てないよう静かにその場に伏せた。
息を潜めて周りの様子を窺う。警戒の為、翼は消さずに身体を囲む様に撓ませる。
やがて近づいてくる足音。緊張が走る。木漏れ日に額の汗が浮かび上がった。
「………………はぁ…………はぁ………………」
(……なに?)
激しい息遣いが聞こえてくる。隠れようとしている者の呼吸では無い。
がさがさと草を掻き分ける音に必死さが感じられる。手負いの気配だった。

ファーレーンは思い切って立ち上がった。視線の先。傷つき金色に輝きだしている少女が居た。
警戒を解かないよう、『月光』の柄に手を添えたままゆっくりと歩み寄る。
その姿を確認して少女――幼いブルースピリットは一瞬瞳に絶望の色を浮かべた。
「………………殺、せ」
低い声が流れる。剣を杖代わりに辛うじて立っているその少女に敵対の意志は無かった。
ハイロゥすらもボロボロで、最早飛ぶ事すら敵わないだろう。ファーレーンはその場で逆に問いかけた。
「内乱、ですか?」
「………………」
一瞬目を見開いた少女は、しかし訝しげな表情のまま何も答えなかった。
ただ、ファーレーンの言葉の真意を測りかねているのだろう。
ファーレーンは素直に自らの所属を明らかにすることにした。
「わたしはラキオスのブラックスピリット、『月光』のファーレーン」
この少女自身の口から事情を聞き出さなければならない。
しかし瀕死の彼女に対して脅しや騙しすかしは通用しないと判断しての事だった。

ラキオス、という単語を聞いたとたん、少女の口許に皮肉めいた笑みが浮かんだ。
「…………はっ……ラキオス……か、我がイースペリアはこの戦に、助勢を頼んだか…………」
苦しげに吐く息に鮮血が混じる。その赫が金色に代わるのを少女は可笑しそうに見つめた。
「いく、さ?……………………」
今度はファーレーンが沈黙する番だった。顔がこわばるのが判る。戦争。瞬間的に考えが走った。

ダーツィなら位置的におかしい。第一北方の脅威でそれどころではないだろう。
南方の大国、マロリガンの可能性も否定できないが、大国ゆえに、
あの砂漠の国は「ヘリヤの道」を越えるだけでもその動きが大陸全土に知れてしまう。
イースペリアにロンドを経由して攻撃を仕掛けられる地理的条件に当てはまる唯一の国、それは……
「サルドバルト…………」
自分で口に出してみても現実感がなかった。あの鉱山と不毛な海に囲まれた弱小国が、
よりによってこのタイミングで他国に攻め入るであろうか。

ファーレーンの心の葛藤を見透かしたのか、ブルースピリットがうわ言の様に続ける。
「我が女王は、裏切りを許さない。たとえ我が国が滅びようと、な……はは……ラキオスとて……」
「っ!滅びる、とはどういう事ですか?!」
初めてファーレーンの口調が荒くなった。自制しようとする心が『月光』を握る手に力を加える。
国が滅びる。今の時点でそれはサルドバルトがイースペリアを制圧するという意味だろう。
しかしファーレーンにはそれが信じられなかった。
どう国勢を分析しても、誰でもこう思うだろう。「イースペリアの勝ちだ」と。
だが実際に、イースペリアは――少なくともこの少女は――戦いに自滅をも辞さないでいる。
ラキオスのスピリットと遭遇した今でも淡々として笑っていられる少女の悲壮感は、
少なくとも勝勢にある国のスピリットとは思えない。
何かある。ファーレーンは直感でそう思った。

「サルドバルトは……いえ、イースペリア女王は一体何を…………」
言いかけて、ファーレーンは口を噤んだ。ひゅーひゅーと既に息も絶え絶えの少女が何かを口にしたのだ。
ぐらっと身体を傾けて仰向けに倒れようとした彼女を、ファーレーンはすんでの所で支えた。
驚くほど軽くなってしまった少女の口許に耳を傾ける。掠れた声が最後の一言を告げていた。
「…………さー……ていこ、く………………」
事切れて、ずしっと力の抜けた体が重くなる。
足元の神剣が細かい霧になると共に、少女の体温も消えた。やがて重みも失い、その姿さえも保たなくなる。
ファーレーンはそのまま全てが無に還るまで、じっと少女を抱き締めていた。
今更、胸が痛む。名も知れないイースペリアのスピリットに、慰めの一言も掛けられなかったという事に。

「帝国……サーギオス、ですか…………ありがとう」
誰も居ない空間にそう呟きながら、静かに目を閉じる。
レスティーナ皇女が自分をイースペリアに送ったのは、この不穏な気配を探らせたかったからなのだろう。
サルドバルトの背後に神聖サーギオス帝国の翳。それは確かに衝撃的な事実だった。
既にロンドに赴く必要も無い。あの強大な帝国が後ろ盾ではイースペリアでも苦戦を免れない。
だがそれだけに、少女の「許さない」という言葉の真意を測りかねた。
頭の中でさまざまな情報が錯綜する。
ルーグゥ派の策謀、帝国とサルドバルト。そしてイースペリア女王の固い意志…………

きぃぃぃぃーーーん………………

『月光』が、激しい警告を発した。はっと我に返って周囲の状況を確認する。五人、既に囲まれていた。
軽く舌打ちが漏れる。迂闊だった。自らの気配を隠す事も怠っていた。ここは自陣ではない。
敵地とまでは想定していなかったが、それでも気を緩めていい場所ではなかったのだ。
敵は確実に自分を捕捉している。一番薄い所を突破するしかない。…………北。
ファーレーンは最早隠す必要も無いウイングハイロゥを大きく広げ、同時に『月光』を鞘から抜いた。

抜き放った白い刀身の峰を右肩に掛け、やや屈んだ姿勢からぎゅっと地面を踏みだす。
ファーレーンの細い体躯がいっきに弾けた。未だ見えない敵の気配に猛然と殺到する。
敵の姿を確認した刹那(とき)。両手で『月光』の柄を握った時。振り下ろした刻。それらが全て同時だった。
「ハァッ!」
日本刀に酷似したその神剣の一撃は、激しく空を切り裂いた。

殺気を感知したのは敵――ブラックスピリットも同じ。どんなに速くても、向かってくる方向は判る。
それを承知で仕掛けたかつぎ面からの斬撃は避わされた。しかしそれでも良かった。
そのまま駆け抜けてしまえば包囲は突破出来る。欲を言えば敵の正体を確かめたかったが。
「シッッッ!!!」
しかし、少なくとも体勢を崩していたはずの相手は逆方向への応力を利用して、その神剣を薙いできた。
遠心力で身体を捻り、鋭い一撃に変えて脇腹へと迫ってくる。そのまま駆ければ背中を割られるだけ。
止むを得ず、横っ飛びでそれを回避した。地面を軸に添えた手を跳ね上げ、体勢を整える。
双方の動きが止まった。もう真正面から戦うしかなかった。

黒い妖精同士のぶつかり合いは瞬速と駆け引きの応酬だった。だが決定的に違う点が一つ。
先に仕掛けた敵の少女には余裕があった。もちろん、時間が経過すれば味方の援護を期待出来るからだ。
対するファーレーンには条件が酷過ぎた。慣れない土地。支援は無い。時間も今は敵だった。
額からつー、と汗が流れる。軽く唇を舌で湿らせながら、ファーレーンは“覚悟”を決めた。
「ふ~っ………………」
大きく息を入れ、身体の力を抜く。右片手構えを正面から上段にゆっくりと変化させた。
敵の間合いの中、横腹を全て晒した大上段は、もちろん敵を誘う為のものだった。
「マナの導きがあなたの道を照らしますように……」
呟いて、ふと、ニムントールの幼い笑顔が思い出される。兜に隠れた口許に、そっと決意が浮かんだ。