朔望

夜想 Ⅵ

 §~聖ヨト暦330年スリハの月青ひとつの日~§

虚ろに俺を見上げているアセリアの手をそっと握る。
ぴくっと震えたその手は籠手を通じて少し冷たく、そして小さかった。
人もスピリットも関係ない。彼女達だって、別の生きる理由がきっと見つかる。
死と隣り合わせな戦場。だけど、それは綿々と連なるべきものじゃない。
そんな事は、有ってはならないんだ。だから、スピリットだって。
決して命尽きるまで戦い続ける、そんなつまらない存在なんかじゃない。この温もりが、確かな証。
そう、もう判っていた。俺は、この少女達をもう他人とは思えない。――――それなら、きっと守ろう。
スピリットが等しく人と同じ、戦う以外の道を選べる時まで。
そしてその時こそ、佳織と帰るんだ。あの懐かしい世界へ。

だから。

「戦う事……それ以外にも、わたしが生きる必要がある?」
アセリアが、そう訊ねてきた。例え独善的と言われても、構わないから。
「ああ、きっと、きっと何かあるはずなんだ」
大きく潤む深蒼の瞳に力強く頷けた。
『守りたい大切なものは、ありますか?』――――そんな彼女の問いかけを思い出しながら。

「わたくし達は戦うためだけの存在です……それでもユートさまは、戦い以外に生きろ、と?」
エスペリアが、そう訊ねてきた。未だ『求め』を抑えきる自信なんかないけど、これだけは言えるから。
「わからない……だけど俺はみんなが戦うだけなんて、嫌なんだ」
静かに問いかける濃緑の瞳を見つめ返せた。
『それならば……きっと、大丈夫』――――そんな彼女の微笑みを思い出しながら。

「わたしは……生きてみる」
アセリアが手を重ねる。握り返してくる手の温もり――まだ、答えは見つからないけど。
エスペリアとオルファリルが微笑んでくれる――それでも、前向きに考える事は出来るから。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月青ふたつの日~§

ヴァーデド湖から吹く風が気持ち良い。悠人は手摺に身を預けたままのんびりと街を見下ろしていた。
バーンライトとの戦い。重苦しいしこりは残るが、とりあえず生き残れた。
妹の為とはいえ沢山の少女を手にかけた。それでも、守れたのだ。
佳織を。仲間を。そして最近、少しだけ気に入っていた、この街の風景を。
そう、戦争は終わったのだ。悠人は久し振りの休息を心行くまで味わっていた。
のんびりと流れる時間。『求め』の干渉も今日はまだ無い。そして隣には、ワッフルを頬張る謎の少女。
「…………をい」
「ふえっ?」
食いついたままの間抜けな表情で、レムリアが振り向いた。

「一人で良くそんなにワッフル食えるなぁ…………おかげで平和な気分が台無しだ」
「え~、こんな可愛い娘が隣にいるのに何か失礼~。それに、ワッフルじゃないよ、ヨフアルだよっ!」
「わかったわかった、どうでもいいけど食ったまま喋るなよ。ワッフルが飛んでくる」
「だ~か~ら~っ…………ふうっ、もうユート君、イジワルだよっ」
「ははは、ごめんごめん」
からかうと、面白い。ぷっと頬を膨らましてそっぽを向くレムリアに苦笑しながら謝る。
先程出遭ったばかりの少女に悠人は不思議な親しみを感じ始めていた。
ヤケクソ気味にワッフル……ヨフアルを頬張っている横顔を眺めていると、この街を守れてよかったと感じる。

「チチチ。約束なんて無粋だよ。遭えるときは遭えるもんだから」
そう言って大きく手を振るレムリアと別れながら、悠人はまた会えると良いな、と思っていた。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月~青みっつの日~§

ざざざ、と風が草木を揺らす。三方から放射状に迫る敵意。
脅威に、しかし気を散らす訳にはいかない。目の前に立ち塞がる少女の目が昏くこちらを見据えている。
スーハー……スーハー…………
呼吸を整えつつじりじりと間合いを詰める。既にお互いの殺傷圏内。それでもどちらも仕掛けない。
もっともファーレーンは自ら仕掛ける気は無かった。もとよりこちらのほうが初撃の遅い構え。
先に仕掛けても撃ち合いにはならない。待ちながら、距離を詰める。全身に汗を噴き出しながら。
スーハー……スー…………
呼吸が、止まった。音が静止する。瞬間、敵の少女が動いた。

ブラックスピリットの加速度は常人の理解では考えられない肉体移動を現出させる。
ぶれた、と思われる姿は蜃気楼に似て、既に懐深く潜り込んだ体勢から居合い抜きの様な斬撃は、
残像を残したままファーレーンの脇腹を撃ち抜いていた。……もちろんファーレーンも夜の妖精で無ければ、だが。
誘った部位に繰り出された剣をそのまま受けては意味が無い。上に逃げては格好の標的(まと)。
ファーレーンは一瞬速く、鞘を流れるその剣と逆方向に弾んでいた。一気に間合いが詰まる。
がしゅっと踏み込んだ足で勢い良く地面が抉れる。削られた土の塊が木の幹に当たって砕けた。
姿勢を確保したと同時に『月光』を振り下ろす。薙いだ切先のすぐ脇で、敵側面ががら空きだった。

後の先。人同士の戦いとは少し異なるが、妖精同士でもそれは一応可能である。
絶体絶命のこの状況で、ファーレーンはあえてこの戦法を選択した。
刹那に活を求める。それ以外、敵の増援が来る前に決着を付ける手段を選べなかった。
そして、ファーレーンは賭けに勝った。少女の一撃はファーレーンを捉えなかったのだから。
『月光』の斬撃が少女の脳天を捉える。――――しかしその一瞬、ファーレーンに僅かな油断が生じた。

薙いだ体勢から少女が予想外の方向に動いた。
独楽鼠の様に勢いを殺さず、そのまま身体全体を軸にしてくるっと回転する。
軸自体に向かってくる『月光』を避けもせずに。同時に足元にくる衝撃。あっという間も無かった。
ファーレーンは自分から体勢を崩した。いや、少女の足払いによって、崩されていた。
力点と支点のバランスが取れなくては斬撃の軌道も衝撃もありはしない。
『月光』は振りかぶってきた籠手によってあっけなく防がれていた。
翳した左手の隙間から少女の濁った瞳が覗き込む。背筋にぞっと嫌な予感が走った。

思わず仰け反ったのは剣を弾かれた反動か、それとも恐怖か。
体(たい)が浮いたファーレーンを少女の剣が追いかける。それが彼女にとって、最後の勝機だった。
踵が浮いたその状態で、ファーレーンは辛くも必殺の一撃を凌いだ。切先が目の前をかすっていった。

摺り上げた切先が兜を跳ね上げる。衝撃に逆らわず、ファーレーンは後方に跳ねた。
二転、三転。空中で勢いを殺しつつ、木の幹に屈んで着地する。
つかの間静止したその体勢で、ファーレーンは左掌に眩い光球を生み出した。
そしてそのまま逆手に構えた『月光』に叩きつける。
ぱんっと風船が割れるような音がして光球が弾けた。マナを吸収した『月光』の刀身に光彩が煌く。
同時にファーレーンの躯が跳躍する。木を踏み台に加速したその動きは正に瞬速。
未だ斬りつけたままの体勢の敵が驚愕の表情を浮かべる。
その絶望の視界一杯に殺到するファーレーンの姿が映った。

マナに還る敵を確認した後、ふぅっと軽く溜息をついたファーレーンが静かに振り返った。
淡い、蒼鋼色の瞳。同じロシアンブルーの髪が微かに揺れ、森の匂いを運んできた。
「ごめんなさい…………」
“殺す覚悟”は先程したばかりなのに。それでもファーレーンは謝っていた。
三首蛇の紋章を胸に刻んでいた、名も知れぬ黒の少女に。

追っ手の気配が強まってくる。これ以上ここに留まるのは危険だった。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月青よっつの日~§

「ばかなっ!!」
エスペリアが伝えた次の戦いという指示に、悠人は思わず椅子を蹴り上げていた。
力任せに机を叩きつけ、それでも何も言わずに俯く少女を睨みつける。
怒りとやるせなさが支配していた。震える拳を抑える術を、今の悠人は知らなかった。
敵とはいえ、自分と同世代とも思える少女達の断末魔が今も聞こえてくる。
頭の中は常に理不尽な『求め』の意志に苛まれている。殺意と理性と欲望とが鬩ぎ合う。
それらは決して自ら望んだものなどではない。妹が人質に囚われているから。仲間を失いたくないから。
ただそれだけだ。ラキオス王の都合などどうでもいい。守る為には戦わなくてはならない。だから。
そんな思いで必死に自分を支え、ようやくバーンライトという国を一つ滅ぼしたばかりなのに。
「このままダーツィに向かえ、だって?!まだ殺さなくちゃいけないのかよっっ!!!」
悠人は搾り出される様に叫んでいた。

身を乗り出した事で、俯くエスペリアが間近に見えた。
彼女はじっと下を向いたまま、決して悠人と視線を合わせようとはしない。
ぎゅっと唇を噛み締めたまま、細い肩を細かく震わせているのが判った。そこでようやく悠人は気付いた。
彼女も苦しんでいるのだと。それでも罵倒を甘んじて耐えているのだと。他でもない、自分の為に。
それに対して自分はどうか。ただ命令を伝えただけの彼女に当り散らした態度が恥ずかしい。
頭に昇った血が急速に冷えていく。腰から力が抜け、悠人はぺたん、と椅子に座り直した。
「…………ごめん。エスペリアが悪い訳じゃないよな」
素直に謝る悠人に、顔を上げるエスペリア。しかしその表情には深い哀しみが湛えられていた。
「いいえ、そんなこと……ユートさま…………あまりご自分を責めないで下さい…………」
「………………ごめん」
部屋に重苦しい沈黙が走る。エスペリアの優しさが、今の悠人には辛かった。