朔望

夜想 Ⅶ

 §~聖ヨト暦330年スリハの月赤ふたつの日~§

「逃げたぞ、追えっ!」
「平原の方だ、スピリットはまだかっ!」
サルドバルトに潜伏しつつ、敵の情報を集めていたファーレーンは追われていた。
怒声と喧騒が、周囲の状況を教えてくれる。彼らが訓練をろくに施されていない証拠だろう。
頭の片隅で兵士の質が決して高くはない、という情報を改めて確認しつつ、疾走する。
それでも恐るべきは、帝国のスピリット。その幾人かは自分を追ってきているはず。

――――簡単すぎる予想は、あっけなく的中してしまった。
やはりサルドバルトは帝国のスピリットを擁してイースペリアに攻め込んだのだ。
それがここ数日この国に潜り込んでいただけではっきりとした。
つまり、それ程大多数のスピリットが帝国から送り込まれてきている事になる。

ファーレーンはミスレ平原へと急いでいた。
殆ど月の光が届かない、丈の長い草原を掻き分ける。ハイロゥを使っての高速移動は出来ない。
頭の中で、現在位置を計算する。日は変わっている。自分の速度から距離を割り出す。
恐らく、あと半日もすれば一旦イースペリア領に入れる。
決して安全とはいえないが、そこまで行けば、ラセリオまでは僅か。北上してラキオスに戻る。今はそれだけだった。
(……………………!?)
違和感を、感じた。足を止め、周囲の様子を窺う。辺りに、スピリットの気配は無い。
だが、確かに空気の流れを感じた。普段なら、些細な動き。それでも、ファーレーンは予感に従った。
前方に大きく跳ね、急いでその場を離れるのが殆ど同時だった。飛来した物体が、地面を抉り取るのと。
ド、ド、ド、ド、ド!!!――虚空から、音より速く火の槍が突き刺さっていた。気配だけで悟る。
後ろを振り返りなどすれば、それが命取りの隙になる。そう判断して更に前方へと加速した。
『月光』を軽く握り、ウイングハイロゥを展開する。空気が分厚い、重い層へと変化する感覚。
しかし脅威は、もうその前方に廻りこんでいた。…………迂闊だった。
ちらっと確認すると、やはりウイングハイロゥの透過度が高い。
どうやら黒の加護が薄い場所に、まんまと誘い出されたようだった。
「―――――」
そして、そこで驚くべき事が起こった。

敵の姿が、見えた。いや、浮かび上がった。膨大な赫いマナを纏いつつ。
いや、錯覚だ。“ソレ”は、最初からそこに居る。そう、ただ浮いていた――――巨大な瞳だけを映し出して。
強烈というよりは、断定のプレッシャ。昏いだけの夜空に、敵の姿が拡大されて浮き上がっていた。
「な、に…………?」
純粋な殺意がチリチリと肌を焦がす。対峙しているだけで、根こそぎ奪われるマナ。
「…………はぁっ…………はぁっ…………くっ!」
ファーレーンの息は、完全に上がっていた。――――勝てない。この相手には。本能が、警鐘を鳴らした。

風の流れが堰き止められた、灼熱の海の底にでもいるような、息苦しさ。
それを破ったのは、“ソレ”でもファーレーン自身でもない、後ろから来た一団だった。
「なんだ、貴様っ?!」
先頭を走っていたブルースピリットが、「見えていない」のか、敵の気配に飛び掛りながら叫ぶ。
しかしあまりのプレッシャに圧殺(つぶ)されそうな問いかけが、彼女の残した最後の言葉になった。
近づこうとしたブルースピリットの首と胴は、相手に触れてもいないのに、何の前触れもなく「蒸発」した。
分かたれたまま焦げ付いた匂いだけを残して。サルドバルトのスピリット達の、動きが完全に止まった。

…………こんなに至近距離にいたのに、まるで何が起きたか、解らなかった。
まだ、考えが働かない。サルドバルト、いや、帝国でなければ、何者なのか。
そもそも“アレ”は、スピリットなのか。ただ浮き、それだけで圧倒的な死を連想させるモノ。
――――怪物。そんな単語が浮かびそうになり、慌てて首を振って、否定する。
かたかたと震えている『月光』を持つ手を握り締め、どうやってこの場を逃げ切るか、それだけを考える。
ようやく震えが収まった頃、痺れを切らしたスピリット達が動いた。
数の上での、有利さを計算した事だろう。なんて、愚かな。ファーレーンは、咄嗟に逆に跳ねた。

直後。気配が激減する。考えるまでもなく、サルドバルトのスピリットが「消滅」したのだろう。
幸いにして“敵”が追って来る気配は無い。ファーレーンは、無我夢中で逃げた。
悲鳴一つ届かない場所まで辿り着いても、荒い呼吸は当分収まる事は無かった。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月赤よっつの日~§

暗闇の中、両側から迫るような森の中を、歩く。
全ての気配が死に絶え、静謐な自然のみが支配する、純粋な夜の世界。
ただ想いに耽り、詩でも口ずさみながら歩ければ、それは心の安定を提供してくれる安らぎの場。
自分自身を照らし出してくれる鑑のような世界が、わたしは好きだ。…………でも、今は。
かちゃり、と小さく『月光』の鍔元が鳴る。
手元を確認すると、出発する時には鮮やかだったニ紫の鞘はすっかり汚れ、所々鋭く切り裂けていた。

「もう少し…………」
月の位置から、ラキオスの方向を再確認する。
だが、その為に立ち止まった足が、急に鉛のように重くなった。
ウイングハイロゥなど、とうの昔に展開出来なくなっている。
ミスレ平原で奪われたマナが予想以上に響いていた。
普段は心地いい霧の細かい水滴が、身体の芯まで冷たく凍みこんでくる。体力も、限界を超えていた。

正体不明の敵。その恐怖から逃れ、それでも追撃される懼れから逃げ続けた。
一度イースペリア領を通り、そこからラセリオへ。あとはひたすら北上した。その間、一睡もしていない。
「はぁ……はぁ……」
引き摺るように、足を引っ張る。もうじき、帰れる筈だった。
森の中でも一際目立つ、あの大きな一本の木を目指して歩いてさえいれば。
温かい、心許せる、自分で決めた、唯一の「居場所」。守りたい、たった一人の存在。

困ったような、むくれたような。
そんな顔で迎えてくれるであろう姿を想像して、ファーレーンは歯を食いしばった。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月赤いつつの日~§

ばたんっ、という物凄い音に、ニムントールは目を覚ました。
慌てて飛び起き、『曙光』を握って周囲を確認する。その目が部屋の入り口に向いた所で止まった。
扉に背をもたれ、力なく両手をだらん、と下げている影(シルエット)。
未だニムントールがその人物を見誤った事など一度も無い。
「お姉ちゃんっ!!!」
「ニ、ニム、ただいま…………」
ニムントールが悲鳴を上げて駆け寄るのと、ファーレーンがその場に沈み込むのは同時だった。

がらん、と『曙光』が音を立てて転がった。
倒れそうな所をなんとか支えた姉の身体は、信じられないほど冷たく冷え切っている。
「ど、どうしたの、これ…………ちょ、お姉ちゃんっ!」
一人、ラキオスに転属になったのが、ついこの間の事。あれから10日程しか経っていない。
もう少ししたらわたしも行くから、とは言われていたが、それでも月が変わる位は覚悟していた。
それが、こんなに早く、しかも夜中に。そしてなにより、こんなにぼろぼろになって。

ニムントールは姉の身に、もしくはランサに何かがあったのだ、と判断した。
「だ、大丈夫、ちょっと早くニムに会いたくて……無茶しちゃった…………」
「お姉ちゃん?お姉ちゃんっ?!」
気絶したらしい姉を揺さぶるも、反応が帰ってこない。
「と、とりあえずベッドに…………んっ」
力を抜いた人間は、意外と重い。
それでもニムントールは先程まで自分の使っていたベッドに何とか姉の身を担ぎこんだ。
「外傷は無い、よね…………マナが極端に…………一体どうして…………」
答えの返ってこない疑問を口にしながら、努めて冷静になろうと『曙光』を拾い上げる。
グリーンスピリットとして、必要最低限叩き込まれた知識を総動員して姉の症状を確認する。
命に別状は無い。ただ、甚だしく疲労しているようだ。回復魔法が、必要だった。
まだ回復魔法の使えないニムントールはくっ、と悔しそうに歯噛みをし、ハリオンの部屋へと急いだ。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月緑ひとつの日~§

「セィン、ウースィ…………あ、あれ…………」
懐かしい夢を、見た。奇妙に眩しい周囲のぼやけた様子が徐々にはっきりしてくる。
引き上げられるように浮上したファーレーンの意識が最初に視認したのは、
枕元で寝息を立てるニムントールのクロムグリーンの髪の色だった。
暗い部屋に窓明かりがかすかに毀れている。どうやらまる一昼夜も眠っていたようだ。
身体の異常を確かめる。起き上がってみたが、どこにも問題は無い。
ファーレーンはすうすうと眠っている妹を起こさないように、静かに立ち上がった。

窓に近づき、空を見上げる。報告しなければならない事が、たくさんあった。
イースペリアの考え、サルドバルトの胎動。それらを纏め、頭の中で文章化する。
今ラキオスが取るべき道。それを、レスティーナ皇女はどう判断するだろうか…………

ベッドの横で蹲っているニムントールに、振り返る。
きっと、ずっと看病してくれていたのだろう。…………いつも心配をかけてばかりだ。
ごめんね、と小さく呟いた。それでも、守りたい、そんな想いを込めながら。

そっとシーツを取り、ニムントールの肩にかける。ううん、と小さく囁く妹の寝顔を見て、くすっと微笑む。
穏かな、「今」。やっと、戻ってきた、と実感できる。なのにファーレーンの気分は晴れることは無かった。

「どうしてでしょうね…………」
もう一度、月を見上げて囁く。
「今頃は…………ダーツィ、でしょうか…………」
答えの出ないこの問いかけに、彼なら応えてくれるだろうかと、何故かふとそう思った。
殆ど言葉を交わしたことも無い、いや、それすら自分の思い込みに過ぎない筈の、あの少年なら、と。
いつかの夜のように。少し寂しそうな、それでいて強さを秘めた瞳と、通い合える事もあるのではないか、と。
無性に会いたくなっている自分に気づき、ファーレーンは微かに頬を染める。
詩。こういう時、いつも気持ちを洗ってくれる、あの詩を口ずさむことも忘れて。