朔望

夜想 Ⅷ

 §~聖ヨト暦330年スリハの月緑ふたつの日~§

ファーレーンの報告を黙って聞き終えたレスティーナは、ほぅと一つ溜息を付いたままじっと瞳を閉じていた。
事態は、最悪の方向に傾きつつある。そしてそれを半ば予感しながらも、微かに期待していた何かが切れた。
サルドバルトがイースペリアへ兵を向けた。それも、帝国のスピリットを擁して。
これで事実上、『龍の魂同盟』に準拠して、ラキオスはサルドバルトとも事を構えなければならなくなる。
北方五国は皆余す所無く戦場となってしまった。そしてそれが父の野望に与える影響も計り知れないだろう。
いや、そもそもこの事態は父の、つまりはラキオスの引いた引き鉄なのか。それともただの偶然なのか。
そしてファーレーンが遭遇したという、謎の敵。嫌な予感は膨らむばかりだった。
「……………………」
跪いたままのファーレーンが自分を見上げている。ロシアンブルーの瞳が指示を求めている。
決めなければ、ならなかった。既に動いている流れの中で、より厳しい激流に身を投じる覚悟を。
レスティーナはすっ、と細く目を開き、そして告げた。
「ご苦労様でした、ファーレーン。下がってください」
周囲に居並ぶ重臣達の前で、いつもの通りの冷厳な調子を懸命に保ちつつ。
はい、という小さな声を聞きながら、背中を向けて窓の方を見つめるふりをした。
ともかくも、行動を起こさなければならない。自分にだけ出来る、戦いの為にも。
二人のエトランジェの身につまされるような叫び声が、心の中で聞こえた様な気がした。
「……………………ごめん、なさい」
誰にも聞かれない呟きは、微かに震えていた。

月明かりが照らすヒエムナの未だ焦げ臭い崩壊した街並みを眺めながら、
悠人は半ば呆然として『求め』を握り締めていた。
大国、それも帝国の後ろ盾があるとは思えない、ダーツィの戦法。
それは、徹底した「焦土作戦」だった。常に敵を引き付けては、拠点を焼いて後退。
元々の戦力、特に勝敗を決するはずのスピリットの数が、
ラキオスに劣るとも思えないにもかかわらず、この国はその戦法を選んだ。
素人目に見ても、判る。そこに、事態を覆そう、との意志は無い。ただ、状況を引き伸ばすだけ。
それが何を意味するのか、悠人には犠牲の大きさばかりが目について、考える事も出来なかった。

サモドアを出発した悠人達は、途中でヒエムナ方面とケムセラウト方面に部隊を分けた。
それぞれに進撃を始めたのだが、ケムセラウトへ続く道に敵部隊が多数潜伏している事が判明。
急遽、全力でケムセラウトを陥とした。そして、とって返したヒエムナを制圧したのがつい先程。
それでもラキオスを出発してから既に8日。敵の思惑は少なくとも戦略レベルでは成功していた。

「くそっ!なんだってこんなことが出来るんだっ!!」
がっ、と足元の、元は建物の一部であったであろう、焦げた木材を蹴りつける。
本当は、わかっている。苛立ちは、非情な作戦を選択した敵に向けられたものでは無い。
それを承知で街を二つ、何の罪も無い市民ごと粉々にした自分達に対してだ、という事を。
かつん、と一つ小さな小石が『求め』に当たって転がり落ちた。
遠巻きに見つめている、小さな子供達。彼らの一人が投げつけてきたのだろう。
しかし、それを責める事は決して出来ない。やるせないのは、失ったのは彼らの方なのだから。

「ユートさま……」
後ろから、遠慮がちな声がかかる。振り向けば悲しげに顔を伏せる、緑の少女が立っているだろう。
「……エスペリア、俺達に、こんな事をする権利ってあるのかな」
「……………………」
前を見据えたまま、埒も無い事を呟く。崩れ落ちた建物。不自然に倒れた大木。
そしてまだ燻ぶっている、決してマナには戻らない人々。戦いとは何の関係の無い、罪も無い人達。
「…………なんだって、こんなことが出来るんだ…………」
悠人は、同じ言葉を繰り返した。もう一度、今度は自分自身に向かって。

「ユートさま、ご報告があります……情報部からサルドバルトの動きに注意をするように、との事です」
暫く悠人の様子を窺っていたエスペリアが、思い切ったような事務的な口調で告げた。
その淡々とした話し方は、しかし逆に悠人には、下手な慰めよりもありがたかった。
そう、ここでそんな疑問を口に出してはいけないのだ。少なくとも今血に汚れている自分達は。

サモドアで、決心した。
仲間達を、決して死なせない。生きて、“戦い以外の生き方”を見つけさせるのだと。
その為にも、そして自分自身、ひいては佳織の為にも。戦いは、早く終わらせなければならないのだ。
それを今、エスペリアは無言で教えてくれていた。恐らく、懸命に自分を殺して。
握り締めていた拳を数回開き、気持ちを切り替える。悠人はなんとかいつもの表情に戻し、振り返った。

「ごめん、エスペリア。今のは聞かなかった事にしてくれ…………サルドバルト?」
確か、ラキオスの西に位置する小さな国だ。食料をラキオスに支援して貰っている、貧しい国。
「えっと俺、そんなイメージしか無いんだけど。どう注意すればいいんだ?」
「さ、さあ…………わたくしにも、ただ情報部からそのように、との報告があっただけですので…………」
話を振られたエスペリアが、首を捻って困った顔で答える。それでも彼女はもう本来の表情に戻っていた。
「なんだかなあ。まあいいさ、それよりまずは、休息だ。明日はいよいよキロノキロだからな」
「はい、了解しました、ユートさま」
位置的にも、今回の戦いに関係があるとも思えない。結局今の悠人には、判断する材料が乏しすぎた。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月緑よっつの日~§

レスティーナは王宮の廊下を歩いていた。

的中して欲しくない予感だけが当たる。ファーレーンの報告は、それを裏付けてしまった。
戦いは、紛れも無く大陸全土に広がるだろう。多大な人と、スピリットの犠牲の上に。
そして、何の関係も無いのはエトランジェユート――ユートくんも、同じ。
そんな彼ら、彼女らに戦いを強いて、自分は何を成し遂げようとしているのか。
スピリットとの共存。その上で、更に考えているあの事は、自分のエゴではないのか。
父の暴走は、自分では止められない。ならばと考えた上での、皇女としての自分なりの戦い。
しかし実際には自分の手は汚れず、一人高い位置から俯瞰している。
これからは、より激しい戦いが待ち受けているだろう。それでも血を流すのは自分では無いのだ……

何時の間にか、部屋の前まで来ていた。ノックをする手が持ち上がったまま動かなくなる。
これから伝えなくてはならない事を考えて、気が重くなった。
カオリは、どんな表情をするだろう。自分を責めるだろうか。胸が痛くなった。
それでも自分はこの扉を開かなくてはならない。自分で決めた、自分自身の戦いの為に。

きゅっと唇を噛みながら、レスティーナは佳織の部屋の扉を静かに叩いた。

 §~聖ヨト暦330年スリハの月緑いつつの日~§

サルドバルトからの帰還以来、ずっと厳しいニムントールの追及を逃れ、
ファーレーンはいつもの「陽溜まりの木」に来ていた。
冷たい木の肌が気持ち良い。そっと手を当てながら、先程のやりとりを思い出す。
“お姉ちゃん、ニムに何か隠してるでしょ”。“そんな事、ないですよ”。
ここ何日か、繰り返されている会話。ニムントールの言葉に答えられない自分が辛かった。
全てを話せてしまえば、どれだけ楽な事だろう。だが、それだけはしてはいけない事だった。
彼女だけは、こちらに踏み込んで来ては欲しくなかったから。
出来る事ならいつまでも、戦いなどという血生臭いものすら知って欲しくはなかったから。

「でも、それもいつまで続けられるのでしょうか…………」
自分で見、知ってしまった状況を冷静に判断すれば、「いつ」はもうすぐそこに迫っているのだろう。
ラキオスのスピリット隊は、質はともかく人数的に不足している。
バーンライトの捕虜がいるとはいえ、本来自分から戦いを仕掛けるには圧倒的に絶対数が足りないのだ。
ましてやこの上サルドバルトとも事を構えるとなれば、総力を挙げねば間に合わないだろう。
ニムントールが戦いに赴く。そんな事実が、すぐそこに迫って来ている。
考えれば考えるほどそれは想像ではなく、嫌な確信へと変わっていくようだった。

「ふぅ…………」
落ち込んでいく気持ちを抱えたまま、今はウイングハイロゥを開く気もせず、
縋るように見つめた先は、灯りの灯らない主が不在の部屋。
問いかけは、居ない筈の彼に聞いて欲しかったのか、
それとも何故そこを見てしまったのかという自問だったのか。
自分でもよく判らない囁きは、しかしいずれにしても答えが返ってくることは無かった。

今頃ダーツィで懸命に戦っているであろう、彼。
おそらくは心を傷つけながら、それでもカオリ様の為に、必死に剣を振るっているのだろう。
「怪我など、していませんよね…………」

遠い空の下、辛そうな瞳が見えた気がして、いつの間にかファーレーンは一心に祈っていた。