朔望

夜想 B

 §~聖ヨト暦330年スリハの月黒みっつの日~§

傾いた塔が窓から見える古い家の一室。
ランサに到着した悠人は、エスペリアに「特別命令」を受けていた。
「イースペリアのエーテル変換施設を活動不能にせよ、との事です」
淡々と、それでいてどこか訝しげな表情で告げるエスペリア。悠人は最初その表情の変化に気づかなかった。
その内容は一見どこにも問題が無い、ただの救助の一環だと思えたからだ。
しかし続いた発言に、悠人は驚きを隠せなかった。座っていた椅子がぎっと嫌な音を立てて軋む。

――――最優先事項です。あらゆる救助活動は行うな、と。

「救援に行くんじゃないのか!」
反射的に、叫んでいた。これ以上、死ななくていい命が消えていくのに、悠人は耐え切れなかった。
「そんな命令が聞けるか!俺たちは保護を優先……」
「ユートさま!これは…………これは、王の命令なのです」
エスペリアの強い口調がそれを阻む。察して下さい、そう訴えるような哀しい瞳で。
「くっ……!」
ラキオス王の、下卑た笑い声が思い出される。同時に、「強制」に踊らされている自分の立場も。
逆らっちゃいけない。従わなくては佳織が、そしてエスペリア達スピリットが。様々な思考が交錯する。
「……ごめん」
悠人は歯噛みして謝るしかなかった。握った拳が自分の心を殺すのを感じながら。

ふと、服の裾を強く掴む感覚に気づく。
見ると、隣に座っていたアセリアが、手を伸ばしたまま不思議そうに呟いていた。
「ユート、……どうしてユートは迷う?……戦い、嫌なのか?」
嫌に決まってる、悠人はそう怒鳴ろうとして、聞こえた。何故かいつも、心に響いてくるあの言葉が。
『守りたいものは、ありますか?』
落ち着くようにと、大きく深呼吸する。そう、心を、殺すのではなく、活かす為に。
「…………もう大丈夫だ。行こう!」
犠牲の上に成り立っている願い。それでもそれを守る為に、悠人は『求め』を握り直した。

「もう、いつまで浮かれてるの、ニム。ここから先はもっと気をつけないと……」
「判ってるってば。もっとニムを信用してよ」
へへ~んと得意げに鼻を擦るニムントールを、ファーレーンは苦笑しながら眺めていた。
正直、神剣魔法を体得していたというのは、予想外の事で驚いてもいる。
しかしそれ以上に、それでニムントールが慢心する事の方が、ファーレーンは心配だった。
戦場では、一瞬の油断も死に繋がる。それを実践出来ていないニムントールは、「危うい」のだ。
だがそれを伝えようと気を引き締めても、どうしても妹の前だと甘くなる。
ファーレーンはダラムを目前にして、我ながらそんな自分に呆れていた。
でも、それもここまで。立ち止まった先からも一望できる程小さな街。
一見ひっそりと静まり返っている一帯に、どれだけの敵が潜んでいるか判らない。

ダラムという街は、そこから三方に街道を伸ばしている。
ファーレーン達から見て左手、東に伸びた道を辿れば一度南下してランサを経由、
そこから「∫」字に迂回するような形で“旧”ダーツィー領ヒエムナに繋がる。
右手、つまり西に向かえばダスカトロン大砂漠を遠望しつつ、イースペリア首都へと直結する。
そして今来た道、ラセリオへと続くこの道は、もしも自分達が破れるような事があればそのまま、
サルドバルトのスピリット達がここから北上してラキオスを蹂躙する時の補給線になるだろう。
つまり敵味方、どちらが進撃するにしても必ず通らなければならない交差点。
戦術上、いわゆる「衢地(くち)」と呼ばれる要害なのだ。
だが三方に開かれているという地形はその利便性と引き換えに、
攻めに易く守りに難いという難点をも併せ持っている。
それゆえ、敵の攻撃が予想される様な事態には、
その数倍をもって守りを固めるというのが戦術としての定石だった。

慎重に近づき、付近の草叢に潜り込んだファーレーンは
ニムントールに仕草だけで無言を指示し、息を潜めて辺りの様子を窺う。
溢れかえる数の敵が居れば、すぐに判るはずだった。
粗末な朽ちた木の門が見える。恐らくそれが街の入り口、ということだろう。

さやさやと、風が木々の葉を擦り抜けていく音だけが聞こえる。
しん、と静まり返った街並みは所々古びてはいるものの、どこか落ち着いた佇まいで、
そこだけ戦争という行為からは浮いているかのようにも見えた。
「……………………?」
「…………どうしたの、お姉ちゃん?」
隣のニムントールが姉の異変に気づいたのか、身を寄せ、ひそひそ声で訊ねる。
しかし当のファーレーンは、街から当然流れてくる気配がまるでしない事に戸惑っていた。
(サルドバルトのスピリットどころか、人の気配まで…………っ?!)
ざっ!
「わっ、ちょ、ちょっと待ってよお姉ちゃんっ!」
急に飛び出したファーレーンを追いかけて、慌ててニムントールもダラムの門をくぐった。
――――そこは、無人の街にされて(・・・)いた。

「ひどい…………」
ダラムに一歩踏み込んだファーレーンは立ち込める異臭に眉を顰め、
目の前の凄惨な光景に立ち尽くしていた。
「はぁはぁ、もう…………うっ!」
追いついたニムントールが息を飲んで口に手を当てる。目を背けたくても体が動かない。

石造りの建物は、何も壊れてはいなかった。
燻ぶってはいるが、木造の家も街路樹も枝一つ折れてはいない。

穏かな、田園風の街並みは。

ただ、「地面に接触している部分だけが炭化」していただけで。
ただ、石畳の道も芝生も何もかもが焦げてぶすぶすと音を立てているだけで。
――そしてただ、そこからあちこちに「人だったもの」の黒く不恰好な塊が生えているだけで。

完全に、死の街に“されて”いた。

そんなオブジェだけが屹立する中、たった一人生身の少女が立っている。
一見幼く小柄な体に余りにも不似合いな、自分の身長を大きく越える双剣の様なものを携えて。
短く無造作に切り分けられた赤い髪は風に弄られるまま、その双眸はあらぬ方角を眺めたまま。
何をする訳でもなく、まるでただ偶然そこにいただけ、とでも思わせるようなその佇まいからは、
とても、敵ならば当然放つ筈の「威圧」といったものがまるで感じられなかった。

眼前の少女を間違いなく敵と認識しながらも、その殺意が全く感じられない事が逆に不気味さを増大させる。
焦りを感じたファーレーンはニムントールを背後に庇いながら、静かに喉を鳴らした。
「…………貴女が」
「…………?」
「……っ!」
この街を、という質問は、最後まで発する事が出来なかった。
声に、初めて他者がいたと認識したように、ゆっくりとこちらを向くレッドスピリット。
彼女の沈んだ深く昏い瞳は、一切を拒絶していた。どこも見ていない。周囲は勿論、敵である自分達すらも。
知らず、冷たい汗が背中を流れる。“ひっきりなし”に頭の中が、警報を鳴らす。――逃げろ、と。
「お、お姉ちゃん…………」
ニムントールがぎゅっと掴む服の裾が、微かに震えているのが判る。
しかし今のファーレーンには、それが妹の怯えなのか、それとも自分の緊張なのかが判らなかった。

どちらにせよ、「サルドバルト」のスピリットではない。この敵は、決してそんなに(・・・・)弱くはない。
(ニム、合図をしたら、後ろに飛んで)
(う、うん、判った)
判断し、すばやく敵の少女に見えない死角から、ニムントールにサインを送る。
嫌な予感は膨れ上がる一方で、必死に検索する思考が弾き出した答えはたった一つしかない。
ファーレーンは、怖れていた。かつてはラキオスにいたという、浮かび上がる訓練士の名前。
情報部は、正確にその後跡を辿っていた。追われ、帝国に流れ着いた彼が造り出した部隊、その名は――――

「……マナの支配者である神剣の主として命じる…………」
まるで今気が付いたかの様に、気怠るそうに持ち上げられた神剣が地面に突き刺さる。
忌まわしい、「妖精部隊(ソーマズフェアリー)」の名を冠する少女。
抑揚の無い詠唱は、ファーレーンが初めて耳にするものだった。

「渦巻く炎となりて――」
あくまで無機質な、淡々とした詠唱。
しかしそれがこの街を滅ぼした神剣魔法だ、とファーレーンは悟った。
熱風が彼女を包み、そして周囲が蜃気楼で歪む。巻き上がった熱砂がお互いの姿を霞ませ、詠唱を掻き消す。
今、はっきりとファーレーンは理解した。先程から探っているにもかかわらず、この街に他者の気配がしない事。
地形的に、絶対に大隊規模な防御力が必要なのにもかかわらず、一人のレッドスピリットだけしか存在しない事。
必要が、無かったのだ。何故なら目の前の小柄な少女が、それだけで「大隊規模」の脅威に匹敵するのだから。

「ニムっ!」
「うんっ!」
合図と共に遠ざかる気配を背中に感じながら、ファーレーンはだっ、と左に飛んだ。
敵の側面に回りこみながら、ウイングハイロゥを捻り、体を斜めに沈ませる。
「――敵を包み込め」
「…………なっ!」
地面に、異変が起こった。硬い筈の石が、踏み込んだ足で減り込む。足場が、失われた。
バランスを崩したファーレーンの頭上で、淡々とした、それでいて殺意だけが純粋な詠唱が終わった。

「――――インフェルノ!!」
宣言と共に高々と上げた少女の神剣が、赫く燃え上がる。
同時に目の錯覚か、彼女の足元に赤く巨大な魔法陣が膨れ上がった。
と、それは一瞬で津波のようになり、一斉にその周囲へと破壊の波動を放射する。
轟、という響きは地中で起きた。
うねるような巨大なマナ暴走は地面を一気に駆け抜け、
顎(あぎと)を開いた大蛇のようにファーレーンに迫った。

りぃぃぃぃぃん…………

刹那、『月光』の焦りが自分に伝わったのか、自分が感じた悪寒に『月光』が共鳴したのか。
「お姉ちゃんっ!」
叫ぶニムントールの悲鳴だけが、遅くファーレーンの耳に届いた。