§~聖ヨト暦330年スリハの月黒みっつの日~§
「……ニムン、トール」
「えっ?何だって?!」
「だから、ニムントール!『曙光』のニムントールよ、忘れたら承知しないからねっ!」
自分より二回りは小さい手に引かれながら、悠人はきっ、と振り返った少女の顔が真っ赤なのに気が付いた。
ようやく彼女が自分の名前を名乗っているのだとわかり、何となく苦笑する。
「お、おう。俺は高嶺悠人、“ユート”でいい、宜しくな、ニムントール」
「さっき聞いたわよ、バカ…………」
呟きながらそっぽを向いてしまったニムントールは、首筋まで赤く染まっていた。
面白い娘だな、と思いながら、改めて前で揺れている、短く纏められた後ろ髪を眺めてみる。
ぱたぱたと駆けている姿は、何処から見てもただの普通の少女にしか見えない。だが、それでも。
サラサラに流れるストレートのショートヘアーから浮いている、緑色に輝く光輪。それが「普通」を否定する。
この娘も、スピリット。幼い体で、戦いに身を晒しているスピリットなのだ。
何の為に、ではなく、ただこの世界で「存在」を許される、唯一の理由として。
ぎゅっ。
一瞬考え込んでいた悠人は、握られた手に強い力が籠められているのに、咄嗟に気づかなかった。
「ん?どうした?」
「…………お姉、ちゃん」
いつの間にか立ち止まった先に、少し開かれた広場がある。いや、「元広場」だった、と言うべきだろうか。
捲れ上がったまま焦げ付いた地面や所々に「生えた」黒い塊が、その異常性を知らせていた。
「これは…………敵、か?」
言うまでも無い。悠人は呆然としたまま一点を見つめて動かないニムントールの視線を辿り、そして――――
きぃぃぃぃぃん…………
腰の『求め』が鋭い音を発した。
「く…………はぁ…………」
このままでいれば、殺される。わかってはいても、指一本動かせない。
ちりちりと灼かれるような頭が必死になって活路を求める。
ハリオンの見様見真似で憶えていた形だけのシールドハイロゥは辛うじて敵の猛攻を防いでくれたが、
その代償として失ったウイングハイロゥは最早両翼とも展開できない。
どころか、失ったマナはその無茶な放出の為に著しく『月光』の干渉を活発にしていた。
りぃぃぃぃぃん…………
普段からその制御を求める神剣の強制力は、いつものファーレーンならば何ら問題なく抑えることが出来る。
しかし一刻も早い回復が必要なこの状況で、その干渉による集中力への障害は明らかに致命傷だった。
ざっ、と目の前の影がよぎる。
レッドスピリットが振りかぶった神剣が、ファーレーンの視界を掠めた。
どくん、と胸が一つ大きく鳴り、額に細く汗が流れる。暗い、死の予感が迫る。
りぃぃぃぃぃん…………
頭の中に響き渡る激痛がもう、熱の暴走なのか『月光』の干渉なのかすらわからなくなってきた。
余りにも煩い共鳴に思わず顔を背ける。と、その視線が、――――遠くに二人の人影を認めた。
まだ熱に浮かされた瞳は、正確な姿を捉える事が出来ない。
それでも縋りつくように、ファーレーンはその影を凝視する。背の高い方と、目が合った。
「あ……………………」
まるですぐそこにいるかのような、錯覚。いつかの既視感。不思議に胸の奥が静まっていく。
いつの間にか遠ざかっていく『月光』の声。――――ファーレーンは、微笑んでいた。
一人の、ニムントールと同年代に見える、幼い少女が立っている。
ぼんやりと揺れるような体には相応しくない、身長より長い棒のような神剣を手にして。
短く切りそろえられた赤い髪はニムントールに近い。持つ神剣はオルファリルに相似した双剣。
だがただ一点、たった一つだけ、今まで会ったスピリットとは違う。そう――――彼女の瞳には、意思が無い。
縛り付けられるような視線が、すっと下を向く。
追いかけるように吸い込まれたその先。そこにもう一人、少女が横たわっていた。
背中を向け、ぐったりとした体には既に生気を感じられない。
全身が引きちぎられたかのように傷だらけで、とくに煙を上げている右足が痛々しかった。
(死んで、いるのか?)
一瞬そんな考えがよぎったが、その時ふいにその顔が、弱々しくこちらを向いた。
ロシアンブルーの、やや外を向いている癖毛気味のショートカット。
その前髪から覗く、焦点を失いかけた瞳と視線が合う。その瞬間、二人の距離が急速に縮まる感覚。
そして力の無い、それでも安堵したかのように微笑んだ「彼女」の表情を間近に感じた時。
――――そこで、悠人の思考は焼き切れた。
きぃぃぃぃぃん…………
「うおおおおおっっ!!!」
闇の奥からどす黒い感情が湧き上がってくる。怒りで見えなくなる周囲。契約は、唯一つ。――「殺せ」。
悠人は獣の様な叫び声を上げ、右手に鈍く光る『求め』を振りかざし猛然とレッドスピリットに詰め寄った。
無意識に開放したマナが体中を駆け巡り、やがて『求め』一点に集中した光芒が空気中に飛散する。
「離れろぉぉぉ!」
「……………………む」
風を巻いて差を詰めた悠人の一撃を、しかしやや眉を顰めただけの少女はふわりと浮いて身軽く避わした。
がぎぃぃぃん!
硬い金属音が石畳に突き刺さり、そしてそのまま衝撃が、がががっと前方を抉り取る。
無言のまま飛び跳ねた少女は少し離れた所に着地して、そして悠人と対峙した。
「お、お姉ちゃん……ひどい…………」
駆け寄ってきたニムントールは、抱き上げた姉の右足を見て息を飲んだ。
「くっ…………大丈夫、ニム……良かった」
急に動かされた反動で激痛の走る足を悟られないように、優しく微笑むファーレーン。
額に大量の汗を流しながら、それでも自分に笑いかけてくる姉に、ニムントールは感情を爆発させていた。
「お姉ちゃんっ、お姉ちゃんっ~~~!!」
「ちょ、ちょっとニム、痛いですよ…………」
泣きじゃくりながら抱きついてくるニムントールを宥めながら、
ファーレーンは今自分を庇って立っている大きな背中から視線を逸らす事が出来なかった。
まだ、夢の中にいるようだ。信じられない、そんな考えが次々と頭に浮かんでは消える。混乱していた。
「…………怪我は、大丈夫か?」
前を向いたままの声が、ややぶっきらぼうに、それでいて優しく問いかけていた。
ぼぅっとしていたファーレーンは最初それが現実の声とは思えず、上擦った声になってしまう。
「は、はいっ!…………あの、もう平気、です…………っ」
初対面の男性に対して、彼女にしては思いの外フランクな口調になってしまい、あっ、と小さく口を噤む。
語尾がだんだん縮こまり、真っ赤になってそのまま何も言えなくなってしまった。
煩いほど聞こえる、体中を流れる鼓動。押し黙ったまま、聞こえはしないかと心配になってくる。
小さくなってしまったファーレーンを、硬そうな黒い髪の影が、ちらっと振り向いた。
「……そっか。よかった」
たった一言呟いて、またすぐに前を向く。逆光に翳ったその顔が、にっと笑っていた。
「あ…………」
いつかと、同じ。胸の中に広がる、静かな暖かさ。
よく見えなかった筈なのに、ファーレーンはその表情を、昔から知っていたかのように感じた。
ファーレーンの無事な様子を確認した悠人の中で、あれ程暴れまくっていた感情がすっかり消えていた。
激しい頭痛――手に握る『求め』の干渉も、今は無い。残るのは、穏かな、純粋な、闘志。
悠人は左手を添えた『求め』を両手握りに構え直し、目の前の敵を睨みつけた。
「……………………」
何も映していない漆黒の瞳が、ガラス玉のように悠人の方を向く。
新たな脅威の出現にも動揺の様子を微塵も感じさせず、むしろ戦いの再開をひたすら待っているかのよう。
悠人には、敵の正体が判らない。ただ、尋常でないマナを纏うスピリットが、強敵である事だけは直感した。
先程のような突進は、このスピリットには通用しないだろう。
髪の色からも、ファーレーンの怪我の状態からも、神剣魔法を主体とした彼女に対抗する為には。
びょおっ、と風が吹き抜ける。それが合図だったかの様に、双方は詠唱を始めた。
「永遠神剣の主の名において命ずる……」
「マナの支配者である神剣の主として命じる……」
唱えると同時に二人は駆け出した。悠人は真っ直ぐ、少女は後方へと。
殺到する悠人と、距離を稼ぐレッドスピリット。二人の戦いは、時間が決する。
「精霊光よ、光の楯となれ!」
「渦巻く炎となりて敵を包み込め!」
詠唱は、少女の方が長い。先にレジストを完成させた悠人の体を薄緑のオーラが包む。迫る速度が加速する。
少女が翳した神剣が燃える鉄の様に赤くなるのを確認しながら、それでもあと一完歩まで迫った所で。
「インフェルノ!」
「なっ!」
初めて口元に笑みを浮かべた少女の足元――予想外の方向から、巨大な炎の大蛇がその牙を翻した。
「…………くくっ」
揺れた地面から、燃える感覚。それはすぐに体中へと広がり、悠人の全身を嘗め尽くす。
レッドスピリットは、自身の勝利を確信した。エトランジェを倒す、それが久しく忘れていた悦びとなる。
足を止め、振り向いた先で燃え盛る塊がマナに帰するのを確認しようとして――――笑みが、凍りついた。
「おおおおぉぉぉぉっ!」
陽炎揺らめく凝縮された熱の最中で。無骨な、巨大な剣が、そこだけ弾くように緑色に輝き、空に突き出て。
そして次の瞬間振り下ろされた鉈の刃は、僅かに身を捩じらした彼女の腕を肩口からもぎ取っていった。