朔望

夜想 F

 §~聖ヨト暦330年スリハの月黒みっつの日~§

「…………」
「…………」
霧になっていく敵を前に、悠人とファーレーンは暫く呆然としてそれを見つめていた。
やがてその姿がすっかり見えなくなった時、二人はやっとお互いの顔を見合わせ、
「…………っ!」
「う、うわっ!ごめんっ!」
互いの顔が息がかかる程に接近していることに気づく。
いつの間にか悠人はファーレーンの背中に手を回し、抱き合うような格好になっていた。
しかしファーレーンは事態を把握していないのか、ぱちくりと瞬き、そのまま体重を預けたままである。
「い、いえ…………」
「あ、ああ…………」
「……………………」
「……………………」
お互いの瞳に、お互いの顔が映っている。二人はなんとなくそのまま無言で見つめ合った。

羽のように軽いファーレーンを抱きかかえながら、
悠人は何故か恥ずかしさよりも先に、奇妙な穏かさを感じていた。

あの夜感じた、孤独で、それでいてとても優しげな瞳。
哀しみと温もりを同時に思わせ、それが不思議と共感出来る感覚。
動悸が、激しく鳴り響く。敵に遭遇した時とはまた違う、逃げたいような焦燥感。
(…………なのに)
なのに、酷く心が落ち着く。
常に理不尽な大人達に囲まれ、いつしか佳織の前でさえ解けなくなった警戒、緊張。
それらがどうしても保つ事が出来ない。ゆっくりと、融けていく。
そしてそれが、とても心地良い。凄く、暖かい。もう少しだけ、こうしていたかった。

あれ程うるさかった『求め』の声が、いつの間にか聞こえなくなっている事にも気づかなかった。

初めて至近距離で異性というものを見つめたファーレーンは、
何故か恥ずかしさよりも先に、奇妙な暖かさを感じていた。

あの夜感じた、儚げで、それでいてとても力強い瞳。
押し殺したような意志が、不思議に心の一部に通じ合うような感覚。
心臓が、うるさい程鳴り響く。敵に遭遇した時とはまた違う、逃げたいような焦燥感。
(…………なのに)
なのに、酷く心が落ち着く。
常に戦いに身を置き、ニムントールの前でさえ解いた事のない警戒、緊張。
それらがどうしても保つ事が出来ない。ゆっくりと、融かされていく。
そしてそれが、とても心地良い。凄く、暖かい。もう少しだけ、こうしていたかった。

あれ程うるさかった『月光』の声が、いつの間にか聞こえなくなっている事にも気づかなかった。

「ちょっと!いつまでお姉ちゃんにくっついてんのよ!」
「きゃっ!」
「うわわ、ち、違うんだ、これはっ!」
突然後ろからニムントールに声をかけられ、悠人とファーレーンは、ぱっと離れた。
悠人は諸手を上げて降参の体勢を作りながら、慌ててぶんぶんと手を振る。
背中を向けたままのファーレーンはもじもじと手を合わせて俯いていた。
そして二人とも、耳まで真っ赤だった。
「ん~~~?……ちょっとユート、お姉ちゃんになんか変なことしなかったでしょうね?」
ちゃきっと『曙光』を構えながら、ニムントールが睨みつけてくる。
「ばっ、ち、違うって!…………え?」
必死に弁解しようとして、はたと悠人は気がついた。
「お姉ちゃん?……って、ファーレーンが?」
「そうよっ!お姉ちゃんに手を出したら……ってなんでユート、お姉ちゃんの名前知ってるのよ?」
「え、あ…………まあ、その…………」
「ん~~~~?」
咄嗟に上手い嘘もつけず、口籠もる悠人。
ちらっとそちらを見たファーレーンはくすっと小さく笑い、それからニムントールの方を向いた。
「ニム、ユートさまを困らせてはダメですよ。わたし達の事ならエスペリア辺りから報告があったのでしょう?」
そう言って、悠人ににっこりと合図を送るファーレーン。助かった、と目線で返しながら、悠人は捲くし立てた。
「そう、そうなんだ。実は二人がここにいるって聞いて駆けつけてみたんだけど、無事でよかった」
「はい、改めて初めまして、『月光』のファーレーンと申します。助かりました、ユートさま」
両手を膝にそろえ、深々と頭を下げるファーレーン。悠人もそれに倣い、自己紹介をする。
「うん、こちらこそ宜しくな、ファーレーン。それにニム」
「ん~~~~?」
やや芝居がかったぎこちないやり取りの反応が早すぎたのか、胡散臭そうなニムントールの視線。
「なんか納得いかないけど…………って、なんでユートがニムの事ニムって呼ぶのよ!」
「え?いやファーレーンがそう呼んでるから、つい。……駄目か?」
「駄目ったら駄目!!」
「こらニム、ユートさまに失礼でしょ」
「一体お姉ちゃんはどっちの味方なのよ~~~!」
だー、と喚くニムントールは、すっかり話題を逸らされた事に気づいていなかった。

「ユートさま、ご無事でしたかっ!」
「パパ~!大丈夫~?」
向こうから、追いついたエスペリア達が駆けて来る。
悠人は手を振りながら駆け出そうとして、隣のファーレーンがふらついているのに気がついた。
「あ…………」
「とっ…………大丈夫か、ファーレーン」
咄嗟に支える悠人に、少しはにかみながらファーレーンは体を離した。怪我を悟られたくは無かった。
「……すみません、ちょっと足がもつれてしまって……っ!」
しかし離れた拍子に力がかかり、思わず顔を顰めてしまう。悠人は驚いて膝を着き、その細い脛に触れた。
「ユ、ユートさま?!」
急に触られて、思わず上擦る声。
狼狽するファーレーンに構わず怪我の様子を見ていた悠人の顔つきが、みるみる厳しいものに変わった。
「馬鹿ッ!こんなになってるのに無茶するなっ!」
「だ、だって…………」
「だってじゃないっ!痛いなら、我慢することは無いんだっ!エスペリア、来てくれ!」
「え…………」

我慢することは無い。今までそんな事は、誰にも言われた事が無かった。
ニムントールを守る為。その為に、いつも自分を押し殺してきた。
その全てを否定するような、ぶっきらぼうな悠人の言葉が、不思議にファーレーンに入ってくる。
それともやはりその言葉を、心のどこかでは待ち望んでいたのかもしれない。そう言ってくれる、誰かを。
「…………は、い」
ファーレーンは小さな声で、素直に頷いていた。


こうして、悠人達はダラムに辿り着いた。