朔望

奏鳴 Ⅱ

 §~聖ヨト暦330年スリハの月黒みっつの日~§

こつ……こつ…………
城の一角で立ち尽くしていたファーレーンは、背後から来る足音に一瞬気がつかなかった。
(……!!)
反応したのは、体の方が先。背中に感じる尋常ではない存在感に、咄嗟に足が動いた。
ぶわっと襲い掛かる圧力に鳥肌が立ち、それから思考がようやく追いつく。
物陰に隠れて、その距離を測る。相手は一人。強敵なのは、間違いない。…………気付かれるだろうか?
(ハート…………モート…………)
気配が近づく。唇が乾いている。鼓動が重く響く。
(ラート…………スート…………)
足音が直ぐそこまで迫った。ぎゅっと『月光』を握り直す。
(…………ラロ!)
引き絞った弓から放たれた様な勢いで飛び出したファーレーンは、
その距離をあっという間に0(ラロ)にした。驚いた気配が相手の背中越しに伝わる。
振り返る前に腕を掴み、絞り上げた。同時に『月光』を喉元に突き立てる。
「…………静かにっ」
耳元で囁きながら、ファーレーンは奇妙な違和感を感じ始めていた。
先程感じた強烈なプレッシャはこうしている今も鋭利な刃となって伝わってくる。
それなのに、さっきとは別の不思議な穏かさを同時に感じる。
それは相反する感覚となってファーレーンを戸惑わせた。
あまつさえ、敵が両手に武器を持ってはいないことに今更気づく。
そして掴んだ腕から滴り落ちてくるのは…………血?
自分が斬り付けたものではない。それならば何故。
「貴女は、一体…………」
「ラキオスの…………妖精、ですか?」
考えあぐねていたファーレーンに殷々とした声が語りかける。
ファーレーンは、はっとなった。もしやと問いかける。
「アズマリア・セイラス・イースペリア女王……ですね」

「……ユート」
周囲を見回していた悠人の横にすっと立ち、珍しく緊張を帯びたアセリアが剣に手をかける。
その視線の先、いつの間にか一つの黒い人影があった。
「くっ、敵か……早いな」
身構えながら、その姿を凝視する。
鋭く光る赤い瞳。褐色の肌。纏う黒い装束の胸に彫られた三首蛇の紋章。
たなびく銀色の髪は無造作に束ねられ、握り締めている細身の黒い神剣からは無言の圧力。
それでいて、あくまで自然な佇まいからは古豪の剣士かなにかを連想させる。
少女は明らかに、今までのスピリットとは違う何かを秘めていた。
「ユート。 エスペリアを……お願い」
アセリアが、『存在』を構える。珍しく硬い口調が敵の恐ろしさを伝えてくる。
「お、おいアセリア」
そう声をかけ、近づこうとしたその時だった。

瞬間。
ゆらりと前傾姿勢になり、剣を鞘に収めた黒いスピリットが――――

ひゅん!

――――“見えない速度で”アセリアに殺到していた。

ぶわっと遅れてやってくる、一陣の風。その中で、二人は対峙していた。お互いの神剣を鍔合わせて。
受け止めるアセリアの、純白の衣装、銀色の『存在』、純白のウイングハイロゥ。
対して、正に対照的な姿がそこにあった。黒い衣装と神剣、褐色の肌、そして――漆黒の翼を擁して。
「…………ほぅ」
感心したような呟きを発するブラックスピリット。そう、彼女が広げたのは黒のウイングハイロゥだった。

壁に背をもたれさせたアズマリア女王は、荒い呼吸をようやく落ち着かせた。
剣に貫かれたかと思われる胸の傷は真っ赤に染まり、それはどうみても致命傷であるにもかかわらず、
ゆっくりとファーレーンを見つめる瞳には依然として強い光が宿っている。
白いドレスを身に纏い、凛とした誇りを失くしていないその態度が気品を放つ。
(なんて、気高き女性(ひと)なんだろう……)
滲み出る光芒。生まれついての女王。存在自体に圧倒され、思わず跪いてしまう。

「ご無礼をお許し下さいアズマリア女王。
 初めまして、ラキオスのスピリット、『月光』のファーレーンと申します」
声が、震える。ファーレーンは、「畏れ」というものを初めて感じていた。

「……………………」
ただそこにいるだけなのに、突き刺さるような視線と重い沈黙がその存在感を増大させる。
どこまでも間延びしたような時間が過ぎ、やがてふいに空気が和らいだ。
「ではファーレーン、必ずや戻って主に伝えてください。 レスティーナ……貴女なら、必ずできます、と」
ファーレーンは思わず顔を上げた。女王は、いつの間にか微笑んでいた。
慈愛の表情が、周囲の空気を一変させる。ファーレーンは息を飲んでその姿に見とれてしまっていた。

その視線をファーレーンから外し、ゆっくりと廊下の先の暗闇を見つめる女王。
「誤たれた“龍の魂同盟”……その先に続く、新しい“絆”…………」
どこか遠くに話しかけているような、そんな呟き。一瞬見せた悲しみの表情は、
しかしもう一度ファーレーンに向き合った時にはもう元の威厳を取り戻していた。
「そなたの主…………レスティーナ皇女に。 新しい秩序に、マナの導きがあらんことを…………」
ファーレーンは、そこでようやく我に返った。
新しい絆、そして秩序。もしや女王は、レスティーナ皇女の志を知っているのだろうか。

「アズマリア女王…………!!」
「わたくしも…………共に、見てみたかった…………」
そう言って静かに眸を閉じた滅び逝く国の気高き女王は、もう二度と口を開くことはなかった。

力を使い果たし、肩で息をしているアセリアを、エスペリアが支えている。
それを庇うように立ち塞がる悠人を伏せ目がちにじっと見つめ、『漆黒の翼』ウルカは口を開いた。
「…………エトランジェか?」
「だったらどうする」
悠人は声に動揺が現れないよう、ゆっくりと呟いた。
先程のアセリアとウルカとの戦い。悠人にはほとんどなす術も無く、目で追うのも精一杯だった戦い。
その激戦にもかかわらず、呼吸一つ乱れていない、目の前に立つ帝国最強のスピリット。
今この戦力では、とても逃がしてはもらえないだろう。だけど、せめて二人だけは。
緊張して『求め』を握り直した悠人に返ってきたのは、しかし意外にも感心したような言葉だった。
「まだ荒削り……しかし、良い腕をしている」
「……な、に?」
「手前の役目はすでに終わりました。 これ以上、戦うつもりはありませぬ」
まるで剣術の師匠のような口ぶりには、薄っすらと笑みまで漏らしながら。
その赤い双眸に柔らかいものが宿るのを見て取って、悠人は少し混乱した。
すっと目を伏せ、剣を鞘に収め、再び平坦な口調に戻るウルカ。
「手前どもの任務は攪乱。 首尾は良く……戦う理由も消えました」
その視線が部下のいた辺りに注がれ、再び悠人に向き合う。
「貴殿の名と、先程の剣士の名を聞かせてはいただけませぬか」
「……俺の名は悠人、あいつはアセリアだ」
「感謝いたします……では、また戦場で」
「俺は……ゴメンだ」
「ふっ……残念です」

ウルカが走り去った後、悠人は不思議な印象を感じていた。
確かに、今までのスピリットとは違う。強さとかそういう事では無くて、もっと別の所で。
「戦う、理由……」
悠人が呟いた時、後方でぶうん、と機械音が変化した。恐らくエスペリアの操作が完了したのだろう。

女王の遺体を床に横たわらせ、その腕を胸の上に静かに揃える。
暫くファーレーンは、そのまま女王の手を握り締めていた。
もちろん「絆」の意味を、はっきりと言われたわけではない。
それでもレスティーナの世界観を説かれ、理解していたファーレーンには確信出来た。

 ――――『人とスピリットの共存』――――

その理想に共感してくれていた「人」。そんな、信じられる人間が、ここにも居たと。
胸に、何か熱いものがこみ上げてくる。そんな彼女から託されたものが、とても重く感じる。
自然に涙が毀れた。
死に接しての感情なのか、一時でも触れ合った心の為か。ないまぜになった感情が抑えきれない。
『必ずや戻って』
その言葉にはレスティーナ皇女と同じ、相手を気遣う柔らかさがあった。
『わたくしも…………共に、見てみたかった…………』
スピリットを、人と同じように捉えてくれる想い。それに心から共感してくれた。
そんな今までずっと信じられなかった現実が、ここにもあった――――応えなくては、ならない。

ずぅぅぅぅ…………ん………………

その時、一際大きな振動と炸裂音が聞こえた。ぱらぱらと天井から落ちてくる、細かい塵。
ぐいっと頬の涙を拭い、ファーレーンは立ち上がった。
一度だけ、女王に振り向く。
「必ずや、お伝えいたします…………」

駆け出すファーレーンの背後で、崩れる城と共にアズマリア・セイラス・イースペリアは沈んでいった。