§~聖ヨト暦330年スリハの月黒みっつの日~§
ぞくり、と一瞬背筋が凍るような感覚が襲った。
「みんな、ただちにイースペリアから撤退する!」
悠人は叫んでいた。一瞬きょとん、としたエスペリア達が、直ぐに反応して行動に移る。
『あの者が自らの死を選ぼうとしている……このままでは巻き込まれる。 急ぎ立ち去るのだ』
いつもらしくない切羽詰った求めの訴え。同時に「あの者」のイメージが強制的に頭の中へと流れ込む。
そこに映るのは先程まで見ていたイースペリアの巨大神剣の像だった。
悠人はなおも感じる背後からの冷たい感覚から逃れるように駆け出した。
既に城の姿も見えない場所。そこに広がる草原に、やがて悠人達は辿り着いた。
疲弊しきった者や傷ついた者達を、エスペリアやハリオンが看て回っている。
悠人は一人離れた所に腰を下ろし、首都の方角を見た。
城下では、まだイースペリアやサルドバルトのスピリット達が戦っているらしい。
それを考えると、自分達の行った『救助活動』とは一体なんだったのかと疑念が積もる。
『求め』の声に後押しされるように撤退してしまったが、やはりもう少し残るべきだったのでは。
そうすれば、戦いで失う命を、もう少しだけでも救うことが出来たのではないか。
「……くそっ」
悠人は無意識に爪を噛んだ。違う。そうではない。何となく、わかってしまったのだ。
あの場にあと少しでもいれば、“自分達も危なかった”という事が。
理由は判らなかったが、あの背中を襲う感覚が、結論だけを確実に教え込んだ。
判断したのは、“ただ自分達が助かる為だけ”の撤退だったのだ。
「これがエトランジェの力なのかよ……」
昔から憧れていた、“力”。理不尽な大人達にも立ち向かえるだけの力。佳織を守れるだけの力。
しかし実際に手に入れてみれば、何のことは無いものだった。
守りたいものは守れず、失うものばかりが増えていく。
そうして最後に、何が残るというのだろう。戦いに狩り出される、という以外に。
「これじゃあ、エスペリア達の事なんて言えないよな……」
自嘲気味に呟いた一言。認めたくは無いが、今の自分はスピリット達と同じ、単なる戦いの駒だった。
「ユートさま、お伝えしたいことがあります。…………お時間をよろしいでしょうか?」
「……ああ」
背後から、エスペリアの躊躇いがちな声に呼ばれる。悠人は物憂げに振り返った。
そうして手帳を開いたエスペリアが変換施設の処理に対しての疑問を口にした時。
どくんっ
背中に、真っ黒な闇のイメージが広がった。襲い来る悪寒は先程感じたものと全く同じ。
「っ!!!」
険しい表情にエスペリアが何かを言いかける。それに構わず悠人は立ち上がった。
ごごごごごご…………
最初は、軽い眩暈。続いて感じる、マナの乱れ。気持ちの悪い、車酔いのような感覚。
それらが全てイースペリアの方角からうねり、襲い掛かろうとしている。瞬間、眩い位の閃光が走った。
「エスペリアっ!」
叫んだと同時に、周囲が一気に暗くなる。物凄い勢いで空を覆いつくした昏い雲。
振り向いたエスペリアの表情が、翳って良く判らない。しかし声でその緊張だけは伝わった。
「やはり! あれは暴走の操作! ユートさま、守りをイースペリアの方角に集中して下さい!」
言われるまでも無く、既に構えている『求め』をイースペリアに向け、そちらを睨む。
エスペリアが背後で他の仲間にも指示を出していた。
「みんなも、全力で防御を!『マナ消失』が来ますっ!」
(……マナ消失?!)
聞きなれない言葉が悠人の中で引っかかるが、思考を遮るかのように『求め』の声が響く。
『心せよ、汝の力が試される。……妖精たちと力を合わせよ、そうでなければ、消滅する』
「なっ、どういう…………っ!!」
ずしん、という衝撃と共に、悠人の疑問は掻き消された。
「ぐっ……ぐっ…………!!」
無限の膨張と限りない喪失感。それらが同時に襲い掛かる。
頭の中か身体の外か、どちらを掻き回されているのかも判らない。
津波に圧し潰されるような、竜巻に引き千切られるような感覚。
あらん限りの集中力で、『求め』の力を引き出す。先程までの躊躇など、微塵も無い。
荒れ狂うマナの奔流の中で、守る、悠人はただ一点、それしか考えられなくなっていた。
暴力的に襲い掛かるマナの圧力が、一瞬でプラスからマイナスに変化する。
大地から、大気から、周囲のマナが根こそぎ吸い込まれていく。そう、あの巨大な神剣に。
イメージは、ブラックホール。自らの圧力で潰されていく、断末魔の叫び声が頭の中に反響する。
「……バカ剣っ! もっと力を引き出せっっ!!」
今出来るだけの魔法陣を最大限に紡ぎ出しても、なお足りない。
無理矢理にでも広げなければ、“後にいるみんなを助けられない”。
「くっ……おおおおおっ!」
こめかみに血管が浮かび上がるのが判る。ばさばさと暴風に巻き上がる前髪が目に入り鬱陶しい。
嫌な汗が張り付いたシャツの気持ち悪さ。心臓の鼓動がずしんずしんと五体に響く。
「…………ユート!」
背後から、声。誰の物かは判らない。ただ、僅か。ほんの僅かだけ、周囲の圧力に変化があった。
前に向かって流れていく緑色のマナ。グリーンスピリットの誰かが加護の魔法を掛けてくれた。
「……助かったっ!」
振り向かず、感謝だけを伝える。それも届いたかどうかは判らないが。
そうして一瞬の余裕の内に、更に魔法陣を広げようとした時。視界に大木が飛び込んできた。
「……くそっ!」
森から飛ばされてきたのか。ぶうん、と唸りを上げ、間違いなくこちらに向かってくる。
避わす事は容易い。しかし今、イースペリアの方角に集中している体勢を、自ら崩すわけにはいかない。
かといって無防備なまま受ければ、ダメージは無くても、それでも集中は崩れてしまう。
「……だめかっ!」
迫る大木を前に、思わず絶望的な叫びが零れたその瞬間だった。
――ざんっ
樹は真っ二つに裂け、悠人の隣には白いウイングハイロゥを羽ばたかせた少女が立っていた。
「ユートさま! もう少しですっ!」
「…………ファーレーンっ?!」
「前方に集中して下さいっ! わたくしがお守りしますっ!」
「……頼むっ! く、おおおおおっっ!!」
風の中、ファーレーンの声だけが、何故か良く通って耳に飛び込んできた。
残りの力を全て『求め』に注ぎ込もうと手に力を入れる。
と、ふいにその手に暖かい物が添えられた。そっと流れ込む透明なマナ。
ファーレーンが手を握ってくれていた。自らのマナを、分け与えながら。
不思議に勇気づけられて、心の中の恐怖心が拭き流される。代わりに満たされる、安心感。
――――さんきゅ、な。
――――きっと、大丈夫ですから。
それは、伝わったのか。伝わってきたのか。
もう大丈夫。どうしてだろう、そう、感じた。
そうしてどれくらいの時間が経過したのか。
一陣の嵐が過ぎ去った後。焼け野原のような中、ラキオススピリット隊は九死に一生を得ていた。
「………………」
「………………」
力の解放を終えた悠人とファーレーンは、並んで立ち尽くしていた。
マナの不足による、あの神経を蝕むような飢餓感も起こらない。それぞれの神剣は何故か沈黙していた。
そよそよと、風が流れていく。声を出す者は誰一人としていない。草がひらひらと舞い上がっている。
抜け落ちた大地に、皆は無言でイースペリアを見つめ、そこから動く事が出来ない。
各々がたった今消滅した国に、様々な思いを抱えながら視線を送っていた。
悠人は頭が真っ白になり、何も考えられなかった。先程まで頭の内外で荒れ狂っていた嵐が嘘の様な静けさ。
やがてさざ波のように、後の方から溜息とも安堵ともとれる声が聞こえ始める。
それでも悠人とファーレーンは、暫くの間、ただじっと同じ方角を見つめ続けていた。
「…………あ」
「は、はは…………」
どちらとも無く声が漏れる。神剣を握る手が、今更ながら震え始めている。
それを確認して、見上げた視線が偶然ぶつかり合った。
「………………」
「………………」
一瞬ぱちくりとお互いの顔を見つめた二人は軽く微笑み合い、
そして申し合わせたようにぺたり、と同時に腰を落として座り込んでいた。
…………生きてる。ただそれだけ。だけど、それをここまで実感出来た事は初めてだった。
とくんとくん、という大分落ち着いた心臓の鼓動が、小気味良く聞こえてくる。悠人はそっと目を閉じようとして
「いつまでお姉ちゃんの手、握ってるのよユート」
後から、とても冷たい声を浴びせられていた。
「うおっ!」
「きゃあ! ……ニム?」
「……二人とも、失礼」
「ち、違うのよニム…………きゃっ!」
「いきなり声をかけるなよ…………うわっ! ごめんっ!」
悠人は反論しようとして、自分が酷くぎゅっとファーレーンの手を握ったままだった事にやっと気づいた。
先程感じていた鼓動がファーレーンのものだったと判り、急速に顔が赤くなる。
慌てて離した手を後に回しながら見てみると、少し離れた所でファーレーンが背中を向けていた。
隠してはいるが、両手をぎゅっと胸元で握り、兜の隙間から覗く首筋が今は真っ赤に染まっている。
「ふんだ、失礼っ! 大体さっきニムが神剣魔法掛けてあげたから……ってちょっとユート、聞いてる?」
悠人はニムントールの声を聞き流しながら、ファーレーンの後姿をぼーっと見ていた。
――――そうか、「守れた」のかもな……
この戦いを通じて、初めてただその事だけを純粋に嬉しいと思いながら。