朔望

奏鳴 Ⅳ

 §~聖ヨト暦330年スリハの月黒いつつの日~§

王との謁見の後、レスティーナの私室に呼ばれたファーレーンは、イースペリアでの一部始終を伝えた。
終始無言のまま毅然としてその報告を聞いていたレスティーナだったが、
報告がアズマリア女王の最後に触れた所で俯き、何かに耐えるようにじっとそのまま動かなくなった。
「女王は『貴女なら、必ず出来ます』、と……きっと伝えるように、と…………」
皇女の肩が震えているのに気づいたファーレーンは最後まで上手く言えず、そのまま語尾が空中に漂う。
これ以上、何を告げれば良いのか言葉が見つからなかった。重い沈黙が流れた。

やがて少しだけ顔を上げた皇女が、絞り出されるようなひび割れた声を漏らす。
「よく無事に帰って来てくれました……ありがとう」
レスティーナはそう呟いたきり、その手を白くなるほど握り締めたまま、もう顔を上げることは無かった。
一人にさせて欲しい、そう聞こえたような気がしたファーレーンはそのまま黙って一礼し、部屋を出た。

扉を閉めるときに漏れ聞こえた彼女の嗚咽が耳に残って離れない。
レスティーナの心境は、今は痛いほど伝わる。暗鬱とした気持ちは、ファーレーンも同じだった。
人の死。それがこんなにも自分を揺さぶっている。ましてや皇女にとって、きっとかけがえの無い存在。
もしニムントールを失ったら、恐らく自分はあのように感情を抑えることなど出来ないだろう。

「あ…………」
いつのまにかリクディウスの森の入り口に立っていた。考え事をしているうちに辿り着いたのだろう。
森に風は無く、すっかり日が落ちた空気が紫を帯び、辺りに乾いた樹の香りを漂わせ始めている。
詰所の方を窺うと、暖かい灯りが零れていた。誰かの笑い声も聞こえてくる。
戦勝のお祝いでもしているのだろうか、そう思い、そちらに行きかけて、足が止まった。
「………………」
躊躇して、歩みを森へと変える。なんとなく、今の気持ちでその輪に入って行き辛かった。

やがて、『陽溜まりの樹』が見えてくる。
今夜は、月の姿が完全に隠れる日。ブラックスピリットにとって、その加護を殆ど受けられない日。
そのせいなのだろうか、この日は決まって気分が沈む。だからこそ、考えたかった。
これまでの事やこれからの事。それを闇の中で静かに一人、考えたかった。――――そのつもりだった。

(え…………)
そこには、先客がいた。
鬱蒼と繁る大樹に背もたれながらただ夜空をじっと見上げていた青年は、
やがて気配に気づいたのか、ゆっくりとその澄んだ黒い瞳をこちらに向けた。
どくん、と胸がひとつ弾んだ。

仲間内のささやかな宴を抜け出した悠人は、涼むつもりで外に出た。

昔から、苦手だった。
皆と楽しんでいても、周囲が盛り上がると、ふと冷静にそれを見つめるもう一人の自分を感じる。
参加しているはずなのに、自分だけが醒めていく。そうなると、無性に独りになりたくなる。
どうしようもない孤独癖。そう自己判断は出来ても、性分だけは今更変えようも無い。
素直に喜べない心のしこりも相まって、気がつけばここまで歩いてきていた。
覆い尽くすほどの枝葉が空の一部を切り取って生い茂る一本の大樹。悠人はゆっくりとその幹にもたれかかった。

「ふう…………」
月が見えない分、見事な星空が目に飛び込んでくる。
元いた世界では中々見られない神秘的な景色に包まれながらも、心は一向に晴れなかった。

ダーツィ大公国からイースペリアへの転戦。それは悠人の心中に、大きな変化を与えていた。
戦う為だけの道具として扱われているスピリット達。それに示唆を与えようとした自分に気づいた。
戦いを自身の存在理由だと決めてかかる彼女達に、違う「生きる意味」を見つけてもらいたかった。
しかしそれらが既に「人としての」エゴだと。自分にそんな資格はないのだと。
状況に甘んじ、佳織の為だと逃げ、戦争の道具としての自分を認めたがらなかった自分が、
ただ苦しんだふりをしているだけで、正に「自分自身の生きる意味」を持っていない事を思い知らされた。

『自らが求めることに純粋であれ』
サードガラハムの言葉が、ここにきて痛烈に心に突き刺さる。
佳織の為、それは本当に、自分の願いだったはず。両親を失った佳織を守ると決めた時から、ずっと。
そのためになら、なんでもやる。たとえ自分を犠牲にしても。そう決心して生きてきた。
「でも、それを言い訳にしちゃ、だめなんだ。それは『自分で求めている』ものとは違うんだ……」
自己犠牲からは、何も生まれない。そんな陳腐な言葉の本当の大切さを、悠人は今更実感していた。

「なら、どうすればいいんだろうな……」
呟き、空を見上げる。
こんな時、光陰なら腕を組んだままうんうんとやけに説教臭く
『そうやってすぐ思い詰めるのがお前の悪い癖だな』
とか言うんだろうな、と少し可笑しくなった。
『馬鹿な考え休みに似たり、ってね。 悠はバカなんだから、無理して悩むより行動あるのみ、よっ!』
そう言って、背中を力任せに平手打ちする今日子の姿が思い浮かぶ。

 ――――懐かしかった。

 二人とも、もういない。いつも一緒にいた幼馴染。
 迷った時、困った時。頼りになる、背中を押してくれたかけがえのない親友――――

「自分でなんとかしろ、ってことか…………」
押し寄せてくる寂しさ。改めて、ここが違う世界なのだと思った。

かさっ、と草を踏みしめる音に、悠人は我に返った。
視線を下ろし、そこに立っている影に気づく。
振り返った拍子に溜めていた涙が零れ落ちて頬を伝った。
ややぼやけた視界に映るのは、ロシアンブルーの髪とニ紫の鞘に納まった神剣。
いつもこんな情けない所ばかり見られちまうな、そんな事を考えていた。

「あ……ユート、さま……その…………」
ファーレーンは何かを言いかけて、そのまま俯いた。
まるで見てはいけないものを見てしまったかのように。
その様子を察した悠人は慌ててぐいっと顔を拭う。気まずい雰囲気が少しだけ流れた。
「ああ、その……ファーレーンもここに?」
「え、ええ。 ユートさまはどうして……」
きまりの悪そうな顔で話しかける悠人にややほっとしたのか、ファーレーンが顔を上げる。
何だか噛合っていない会話だが、それでもお互い緊張がほぐれた。
悠人は頭を掻きながら、ファーレーンが今来た道の方を見つめてみた。
暗い闇の向こうにみえる、仄かな人の温かみ。しかしそれはどこか余所余所しくも感じられた。
「そうだなぁ……居辛かったから、かな」
「居辛かったから……ですか?」
「うん。 なんていうか……そういうの、無いか? 無性に一人になりたい時、とか」
「え? あの……」
わざと軽い調子で明るく言う悠人に、深刻に考え込んでしまうファーレーン。
口元に手を当て、う~んと少し傾けた顔がなんとなく幼く見える。その仕草に悠人は噴き出しかけた。
「いや、そんな真剣に考えなくても」
「…………そうですね、そういう時もあります」
「え?」
「わたしもよく、この上に昇りますから」
「上……あ、そうか」
そう言ってファーレーンが見上げた先を、悠人も目で追ってみる。
大樹の陰が覆う中。枝の隙間から、いつもより少しだけ強い星の光が零れていた。
「そっか……そうだったっけ」
「…………ええ」
二人はほぼ同時に思い出していた。初めて出会った、あの夜の事を。