朔望

奏鳴 Ⅴ

 §~聖ヨト暦330年スリハの月黒いつつの日~§

いつの間にか側に来ていたファーレーンが、ゆっくりと悠人の隣で同じように幹に寄りかかる。
並んでみると、背はそう変わらない。やや視線を見下ろす辺り、すぐ横にファーレーンの顔がある。
改めてみると、美人、という形容が正に当てはまる顔だった。
彩度の低い独特の瞳と眉のせいか、きりっとした目鼻立ちには高貴ささえ感じてしまう。
それでいて全体の雰囲気は、決して冷たくない。時折ふと見せる幼い表情には、母性的な柔らかささえある。
ロシアンブルーの髪が風に流れ、微かに森の匂いが流れてきて悠人は少しどきりとした。
少しは期待していたのかもしれない。いつもこの樹の辺りに浮かぶ、彼女にまた会えるのではないか、と。
一人でいたい、そう思う気持ちは今はかなり薄れていた。

気になるのか、髪を横に掻き分けながらファーレーンが囁く。
「わたしも、同じですから。 辛い時は、独りになります…………今のユートさまのように」
「……ああ、そうだったのか。 だから…………」
その先を悠人は飲み込んだ。
『だから、同じだと思ったんだ』
恥ずかしくて、とてもそんなセリフは言えなかった。
代わりにぎゅっと拳を握り、思い切って聞いてみる。何故か喉がからからに渇ききっていた。
「ファーレーンはよく詩を唄ってたよな。 いつも寂しそうな歌声だった。 今みたいな顔で唄ってた」
「え……寂しそう、でしたか……?」
今度はファーレーンが目を丸くする番だった。

思わず覗き込んだ悠人の眸は、ファーレーンよりやや高めにある。
背の高さは、ダラムで助けられた時の大きな背中を思い出させた。
じっと覗き込まれて動揺したのか、逸らした横顔が優しい。
ファーレーンはくすっと小さく笑った。一人でいたい、そう思う気持ちは今はかなり薄れていた。
少しは期待していたのかもしれない。いつもこの樹から見ていた、この人に会えるかもしれない、と。

――そう思った時には声が漏れていた。
「ユートさま、もし宜しければ……少し、お話ししませんか……」

(きっとこの人は同じ思いを持ってくれている……)
そんな確信が、何故かどこかにあった。思えば、距離感を失った出会いの時から。
だから自分から誘う、そんな事を意識しないで済んだのかもしれない。
「……不思議だな。 俺も今、そう頼もうと思ってた」
そっぽを向いたまま、それでも精一杯優しい声で応えてくれる。
やっぱり、と少し嬉しかった。

じゃ、とそのまま腰を下ろす悠人。
「それでは、失礼致します」
ファーレーンも膝を揃えて隣に座った。
「………………」
「………………」
暫しの沈黙。悠人は何を話そうかともう一度空を見上げる。
相変わらずの見事な星空。ふと、何か肝心なものが欠けているような気がした。
「…………そうか、今日は新月だったんだな。 だからあんなに星が綺麗なのか」
今判った、といった感じの声に、きょとんとしたファーレーンが不思議そうに訊いてくる。
「シンゲツ、ですか?」
「ああ、月が日によって丸かったり欠けたりするだろ? 全部見えなくなるのを俺の世界では新月っていうんだ」
「なるほどそうなんですか…………すると全く欠けていない月にも名があるのですか?」
「うん、そういう時は満月っていうな」
「ではわたしは、マンゲツが好きです」
「? なんで?」
「だってマンゲツは、照らしてくれるから…………闇を紡いで映してくれるから…………」

そう言ったファーレーンは、また少し寂しそうに微笑んだ。俯き、合わせた爪先をじっと見つめながら。
折角弾みかけた話題が途切れそうになり、悠人は殊更に明るい調子で続けた。
「そういえばファーレーンと会う時はいつも満月だしな。 やっぱりその、影響とかあるのか?」
「え、ええ、月の加護を受けてますから。でも本当は、夜の妖精なんです、わたし達」
そう言った時には、もうファーレーンの表情は元通りに戻っていた。
あまつさえ、冗談っぽくぺろっと小さく舌を出し、ないしょですよ、と囁いたりする。
本当は夜の妖精、という意味が良く判らなかったが、悠人は取り合えず苦笑いをして見せた。
まるで子供同士が秘密を打ち明けあっているような、そんな妙な気恥ずかしさを誤魔化しながら。

「俺さ……前の世界じゃよく『疫病神』って呼ばれてたんだ」
「ヤクビョウ、ガミ、ですか……?」
「ああ、なんていうのかな、災いを呼び込む元凶って意味。 いつも俺がいると佳織が悲しんでたから」
「……………………」
「最初は、両親が死んだ。 で、ばあちゃんに預けられてた後、叔父さん達に引き取ってもらった。
 佳織はその叔父さん達の子供でさ、初めは俺を怖がってたっけ…………。
 叔父さん達が飛行機事故で死んだ時、佳織は俺と同じ、一人ぼっちになって泣いてた。
 だから思ったんだ、コイツは俺が守らなきゃって。 でも親戚連中は皆言ったよ、お前は疫病神だって」

取りとめも無い告白。ファーレーンにはハイペリア語の半分も理解できない。
しかしファーレーンは黙ってそれを聞いていた。じっと目を閉じながら、一言一句聞き漏らさないように。
「そんな大人達に反発する気持ちもあったんだろうな。 ムキになってたって今なら判る。
 それでも俺は俺なりに頑張ったつもりだった。 でも結局、こうして佳織をまた一人にさせちまってる」

肉親という者の感覚は、ファーレーンには良く判らない。
それでも悠人が、大切なものを次々と失ってきた悲しみは伝わる。
レスティーナ皇女の哀しみに直面した時に想起した感情と同じものが胸の奥から突いてきた。
「……本当は、戦いたくなんかないんだ。 人を殺すなんて、誰が好きでやるもんか。
 でも、そうしないと佳織を守れない。 それに、この世界で出会った大切な仲間も守れない。
 だから、戦うよ。 格好つけるようだけど、それできっと上手く行くと思うんだ。
 戦いを終わらせれば、佳織の事も、この世界の事も、それに……みんなの生きる意味も」

ふう、と一息ついて悠人は空を見上げた。
「…………でも、俺が戦えば戦うほど、争いは増えていくんだ。
 沢山の人が不幸になる。 そして今度は、国一個丸々だ。……これじゃ本当に疫病神だろ?
 はは……どうしてだろうな。 ただ守ろうとしているだけなのに、何でこんなに上手くいかないんだろう」

話している間に気持ちが昂じてきた悠人は気がつかなかった。
ファーレーンが、いつの間にかその鋼色の瞳を大きく見開いて悠人を見つめている事に。
(この人は……ううん、この人“も”…………)
ファーレーンは、驚いていた。悠人が自分達を「人」と言った事に。「仲間」と呼んだ事に。
それはとても自然で。あまりにも当たり前だという風に、とても自然で。
だからこそ、ファーレーンの心の中に、悠人に対する違う感情を湧き上がらせるのに充分だった。


  ユートさま、守りたいものはありますか――――?


「あ…………」
ファーレーンは、静かに悠人の頬に手を当てた。涙の跡をなぞる指はやがて頬全体をそっと包み込む。
大きな澄んだ瞳がじっと黒い眸を映し出す。悠人は暫く見つめ返し、やがて強く頷いた。
いつか無言で交わした、全く同じ問いかけ。今は少し違う答えで。
「……ああ、ある。 たくさんあるよ、今はそれが判る」
「…………なら、大丈夫です。 わたしが、ユートさまをお守りしますから」
「え、ファーレーン……?」
にっこりと微笑んだファーレーンは、黙ってもう一つの手を悠人のそれに重ねた。
「ユートさまはヤクビョウガミなんかではありません。だって……」
もう一度悪戯っぽく舌を出すファーレーンの瞳は、しっかりと悠人を見つめたまま離さなかった。


 ――――こんなにも、失ったものを大切に想われているじゃありませんか…………