朔望

奏鳴 Ⅵ

 §~聖ヨト暦331年ルカモの月緑みっつの日~§

「いったい、どういう事なんだ!」
いつもの毅然と見せる鍍金を繕おうともせず、ルーグゥ・ダィ・ラキオスは王座から腰を浮かせていた。
怒りを帯びた罵声が高い天井にまで響き渡り、報告をした兵士の肩がびくりと震える。
居並ぶ重臣がその機嫌を更に損ねる事を恐れるかのように物音一つ立てず口を噤む中、
レスティーナは一人冷厳な瞳でその光景を眺めていた。

(所詮帝国に踊らされていただけに過ぎないのに……)
ここに到るまで、自分の為した愚劣な行為がどんな結果を齎(もたら)すのかも考えない父。
「ええいっ! 情報部は何をしていたのだっ!」
血走った目で叫ぶ。戦争における情報の重大性。それを今更のように騒ぐ父が、哀れでもある。
レスティーナはファーレーンから得ていたサルドバルトの内情を、一切報告してはいなかった。
その活動を軽視しきっていた王を始めとするルーグゥ派が、今まで全く要求してこなかったからだ。
好都合ではあったが、だからといって大局を動かすような行動はまだ取れないし取らない。
レスティーナはただ、目の前で跪いている一人の青年に皇女として命令を下した。
「ユートよ、エトランジェとしてサルドバルトを陥落させよ……滅ぼすか、滅ぼされるか」
そこで一度言葉を区切り、自分に言い聞かせるように。
「……戦うのみ」
満足そうに髭をさする、王と呼ばれる老人を睨みつけて。

 ――――ちゃん

振り下ろす剣先に集中する。ぼんやりと動く空気の流れ。その境目。
僅かに崩れた断層のような温度差を、その筋に沿って辿る刃。
細かい粒子が駆け抜けた後に、やっと追いつく風切りの音(ね)。

 ――――えちゃん

ひゅん、という涼しい音に被さり、その更に先を行く感覚。
既に音も立てずに鞘に収められていた鍔元は、落ち着く間も無く再び滑り出していく。
と、視界の隅に少し埃色の白い羽織を纏った人影が掠めた。

「お・ね・え・ちゃんっ!」

がきんっ!ニ撃目を収めた鍔が激しい金属音を立てた。

「な、なに? ニム」
心の乱れを悟られまいと、何事も無かったかのように振り向く。
目の前に、膨れた頬を隠しもしないニムが両手を腰に当てたまま睨んでいた。
でもそのうしろ、少し離れた場所に、長身黒髪の人。その姿につい目が行ってしまう。
「お姉ちゃん、訓練時間、終わったってば……もう、何ぼんやりしてるの?」
「え? わたし、ぼんやりしてました?」
「……はぁ~~、自覚無いんだ。……とりあえず『月光』、仕舞ったら?」
「え、ええ……あら……」

……収めたはずの『月光』は、鞘の脇で水平に浮かんでいた。鍔を鞘口にぶつけたまま。

何だか変だった。
あの夜以来、訓練に身が入らない。
自分では集中しているつもりなのに、出来ていない。
目前に迫る新たな戦いの為にも、少しでも技を磨き備えなければならないのに。

迷いは、剣先を鈍くする。ヒミカやハリオン、セリアと手合わせすれば、それが良く判った。
歴戦を重ねた彼女達は、確実に強くなっていた。操る神剣魔法も少しづつだが増えてきている。
久し振りに合わせた剣は、以前とは比べ物にならない位の眩い鋭さを放っていた。
認めたくはないが、確実に自分は以前より、「相対的に」弱くなっていた。

 ――――さま
    
心に、潜り込む・・・・。『求め』の意識を探り、そこから更に深層に。
混ざり合う自分を抑え、自我を保ちながら、その力だけを引き出す。
気を緩めると、真っ白な闇。混沌と秩序の偏在に囚われてしまう心。

 ――――トさま

何かを掴み、それを引き上げる。鮫が咥えた鯱を、横取りに鷲掴む感覚。
反撃してくる顎(あぎと)。獲物だけを狙った牙を剥き出しの心で応え、避わす。
切り刻まれる裸の意識。ふいに、何も捉えていない筈の視界をロシアンブルーの髪が横切った。

「ユートさまっ!」

わあっ、と情けない声を上げながら、意識が現実に戻った。

「な、なんだ? エスペリア」
心の乱れを悟られまいと、何事も無かったかのように振り向く。
目の前に、不機嫌そうな表情を隠しもしないエスペリアが両手を腰に当てたまま睨んでいた。
だけどそのうしろ、少し離れた場所に、物腰の落ち着いた女の子。その姿につい目が行ってしまう。
「訓練終了です、ユートさま。……どこを見ていらっしゃるのですか?」
「え? お、俺、なんか見てたか?」
「…………なんでもありません。 とりあえず『求め』をお拾いになって下さい」
「あ」

……握っていたはずの『求め』は、訓練途中で落としてしまっていた。地面に斜めに突き刺したまま。

何だか変だった。
あの夜以来、訓練に身が入らない。
ファーレーンに悩みを打ち明けて幾分すっきりしたものの、今度は別の悩みが出来てしまった。

『求め』の力は、不思議なほど高まっている。強制の頭痛も最近はあまり起こらない。
特別何かをした訳でもないのに、自分でも上手く制御する事が出来るようになっていた。
それはいいのだが、心に余裕が出来たのか。今度はファーレーンが気になってしょうがない。

我ながら節操が無いな、と苦笑していると、変な目で見られてしまった。
「……何でもないからな」
「ええ、まだ何も申し上げていません。 それよりも、お急ぎ下さいませ。 国王陛下が御呼びです」
「え?」


 ――――その夜ラキオスは、サルドバルト領アキラィスに向けて進攻を開始した。