朔望

奏鳴 Ⅶ

 §~聖ヨト暦331年ルカモの月黒ひとつの日~§

昨夜からの激しい雨はただでさえ不毛なこの地を、風景まで単調な無彩色に染め上げていた。
右手に聳え立つ、一切を拒絶するようなソーンリームの山並み。背後に広がるバートバルト海。
ミミル湖からの渓流はすっかり水嵩が増え、決壊寸前のごうごうという音が深い谷から聞こえてくる。
そしてそんな無表情な灰色の景色をごっそり切り取ったような断崖絶壁の先。
昔小説で読んだ悪魔の居城そのままに、サルドバルト城が浮かび上がっていた。

ラキオスを発ってからたった4日。
それだけで、悠人達はアキラィスを経てバートバルトを抑え、サルドバルトの前線を壊滅させていた。
勝因は幾つか考えられる。
ラキオススピリット隊の力が、ここ暫くの連戦と訓練で飛躍的に高まった事。
そしてモジノセラ湿地帯の不安定なエーテルが、上手く味方に作用した事。
しかしそれらを加味しても、サルドバルトは弱かった。
帝国の後ろ盾がある国とは思えない、脆弱で薄い陣容。
それはイースペリアを攻め滅ぼしたあの軍勢と同じものとはとても思えなかった。
何より、大体ここまで一度も“帝国の”スピリットとは遭遇していないのだ――――

振り向くと、皆が一様に頷いた。どの顔も、降り続く雨に濡れそぼって瞳に暗い影を落として見える。
順調に思える進軍にどこか罠が潜んでいるような不安感を胸にしつつ、悠人は重たい門を広げた。
ギギィ……と錆び付いた音が雨中に響く。幽霊屋敷を思わせる、粘つく嫌な音がいつまでも耳に残った。

城は、完全な闇に包まれていた。
じっと見ていると黴臭い匂いが漂っているような錯覚がする上、
手を伸ばせばどこまでが自分なのか判らなくなる、そんな闇に。
こつ、と踏み出した自分の足音が、やけに大きな音を立てる。
誰も居ない。直感的に、そう思った。ここには、何の気配も無い。

ふいに、そっと手を握られた。
「ユートさま、神剣に力を。 『求め』を通して見るような感覚で」
傍に来ていたファーレーンが囁く。他の人に聞かれるのが恥ずかしいのか、声を殺している。
言われた通りにしてみると、少しづつ目が慣れてきた。俯くファーレーンの姿がぼんやりとだが見えてくる。
「……ありがとう。 お陰で躓かないで歩けそうだ」
軽口に、感謝の意を籠めた。見えなかった事を、言わなくても判ってくれていた事に。

「……ん?」
視線を感じた気がして振り向くと、みんながこちらを見て微笑んでいた。
周囲の空気が少し軽くなっている。……極一部を除いて。
「あの、ユートさま…………」
戸惑うような、消え入るようなか細い声。
「その……もう、手を離してもよろしいでしょうか…………」
「え?」
真っ赤になったファーレーンが見つめるその先。
しっかりと、彼女の手を握り返したままだった。それも、離さない程強く。

…………訂正。みんなはこちらを見てニヤニヤしていた。

「こほん……ユートさま、先を急ぎましょう」
エスペリアの指示はやけに薄っぺらい、表情の乏しい響きだった。

「なんだ……ここ」
王座の間は、大きく扉を開かれたままだった。
不自然なほど広い部屋には、死の気配が充満している。
冷たい石造りの壁には所々罅が入り、高い天井には蜘蛛の巣がびっしりと張っていた。
どこからかぎしぎしと軋んだ音が不気味に響き、まるでここ数年人の住んでいない廃墟のようだった。

「…………エトランジェか、遅かったな」
たった一つしかない窓。その向こうで、最早嵐に変わった雨粒が間断無く斜めに降り注いでいる。
低い呟きは、その窓の前の玉座で俯く人物が発したものだった。
「ダゥタス・ダイ・サルドバルトか……?」
ゆっくりと、顔を上げる気配。一瞬の雷がその姿を照らし出す。
深紅に染め上げたゆったりとした法衣を纏い、小柄な体に不釣合いな王冠を戴き。
げっそりと頬は削げ落ち、窪んだ眼窩から浮き出る血走った目。
まだ壮年と聞いていたが、その姿はむしろエジプトの砂の下に埋まる、干からびたミイラを連想させた。
そして突き出した棒切れのような腕から覗くもの。淡い光を放つそれは――――まさに永遠神剣だった。
「まさか……飲み込まれた・・・・・・のか……?」
控えていた皆がはっと息を飲むのが聞こえる。    
それを嘲笑うかのように、ダゥタス・ダイ・サルドバルトだった・・・男は幽鬼のようにふらりと立ち上がった。

がらん、と王冠が落ちた。
「ユートさまっ!」
「ユート!」
「パパッ!」
と同時に、悠人は走り出していた。正体不明の焦りが心を急かす。この男は危険だ。そう、本能が告げていた。
「うおおおおおっ!」
駆け寄りながら、『求め』の力を引き出す。流れ込むマナを、オーラフォトンに変える。
幸い、ここには溢れる程のマナがある。特に、奴の持つ神剣には、黒い、獰猛な、マナが。
「え…………」
ずぶっ。振り切った『求め』が、あっけなく王の体に吸い込まれた。

「あ、ああ…………」
「くくく……こちら側へようこそエトランジェ……」
人ならば、間違いなく絶命しているはずの深手。それを負いながら、平然と芝居がかった薄笑いを浮かべる王の声。
それは、先程までと同じ人物が漏らしたものとは思えないほど、酷くはっきりとした抑揚で心に入ってきた。
手に持つ神剣から、意識が流れ込んでくる。酷く暗い、粘液のような感情。そして。
「う、うう…………」
くぐもった悲鳴が漏れる。体が動かない。刺し貫いた『求め』が、抜けない。
止めを刺したとばかり思っているみんなが近づいてくるのが判る。悠人は搾り出すように叫んだ。
「みんな!来るなぁ!!」

突然、ふわりと体が浮かんだ。
侵食される意識の中、掴んだ『求め』に膨れる何かが爆発する。
「ははははははぁっ」

ばんっ!
弾けた。まるで風船のように膨らんだダゥタス・ダイ・サルドバルトは、今度こそその生を閉じた。
暴走に耐え切れなかった体を四散させて。その身を窓に放り投げながら。

落ちていく感覚の中。悠人はごうごうという、何か流れるような音を聞いた気がした。

周囲が一斉に悲鳴を上げる中、ファーレーンも同様に何が起きたか判らないまま駆け寄る。
悠人が止めを刺した、と思われた瞬間、眩しい光が辺りを包み、すぐに雷鳴のようなものが轟いた。
そして爆発。かろうじて見えたのは、窓に放りだされる白い羽織。
「…………っ!」
ファーレーンは咄嗟に窓枠に乗り出し、下を覗き込んだ。雨の飛沫があっという間に全身を濡らす。
暗闇の他には何一つ見えない。ごうごうという濁流の音だけが聞こえる。
「お姉ちゃん、まさか…………」
「……ニム、付いて来ちゃだめよ」
ちらっと見たニムントールの顔は、何かを悟ったのか泣き出しそうだった。
諭すように、目線だけそちらを向けて告げた言葉に、びくっと掴んでいた裾を離す。
それを確認して、ファーレーンは飛び出した。虚空の中、一瞬光った稲光がその姿を照らした。


迫り来る渓流。
沸騰した泥のように暴れるその水面に、ファーレーンはウイングハイロゥを閉じたままで飛び込んだ。
滑空の空気抵抗を少しでも減らす為だったが、おかげですぐに流される悠人の姿を見つけていた。
「くぅ…………っ!」
潜り込んだ川水は、様々な土砂を含み、乱流となって体を巻き上げる。
捻り込むように、絞り上げるように、翻弄される。それでもファーレーンは、必死になって泳いだ。
「っ!……ユートさまっ!」
掴んだ。伸ばした手が重い体を引き寄せる。意識を失っているらしい悠人は、伏せたまま動かなかった。
両手でしがみ付く様に背中から抱え込み、僅かに浮かんだ顔を上げて周囲を見渡す。
「これは…………」
川の両脇は、迫り来るような断崖だった。これでは、ウイングハイロゥで持ち上げるしかない。
「ユートさま、もう暫くの辛抱ですから……」
上を向き、意識を背中に集中させる。その時、視界に巨大な流木が跳ね上がり、飛び込んできた。
「っ…………!」
それがファーレーンが見た、最後の景色だった。