朔望

奏鳴 Ⅷ

 §~聖ヨト暦331年ルカモの月黒ひとつの日~§

窓の外、対岸の崖にせり出した木の枝に、見慣れた白い羽織が風に嬲られながらも引っかかっている。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
「落ち着きなさい、ニムントール!」
窓から乗り出すように暴れるニムントールを抑えながら、懸命に自分に言い聞かせた。
大丈夫。大丈夫。握った『献身』に伝わる震えを認めないように。仲間に動揺を与えないように。
『何があってもあきらめるなってことだ。約束できるね?』
心の中に、呼びかける声が聞こえる。嵐の飛沫が頬に当たり、今すべき事を思い出させる。
それでも皆に振り返り、絞り出した声は罅割れてしまっていた。

「これよりスピリット隊はユートさま及びファーレーンの捜索に向かいます!
 アセリアはネリー、シアーとヘリオンを連れて上空から、ただしアセリアは徐々に下流へ。
 ヒミカとナナルゥは念のため渓谷上流をお願いします。 わたくしとオルファはこの近辺。
 最も可能性の高い下流へは、ハリオン、セリア、それにニムントール…………出来ますか?」

全員が一斉に無言で頷き、次々と部屋を飛び出していく。
ぐっと悔しそうに唇を噛みながら、遅れてニムントールも頷いていた。
見送った後、漏れそうな嗚咽を噛み殺し、自分も部屋を出る。最後に振り向いた時、もう一度雷光が走った。

『隊長がどうしようもない場合、君たち自身で自分の身を守るんだ、いいね?』
「ラスクさま……ですが……ですが…………」
守るべきは、自分の身。それは頭では理解できた。だが、感情がそれを許さない。
エスペリアの呟きは、遅れてきた雷鳴の轟きに掻き消されていった。

  §~聖ヨト暦331年ルカモの月黒ふたつの日~§

 ―――――――――ん…………

頬に当たる重い砂の感覚。ぽんやりと遠く、水の流れる音。

 ――――ここは…………

薄っすらと目を開く。真っ暗な、闇。体中が痛い。降り注ぐ雨が、針のように全身を刺す。

 ――わたし…………

力の入らない腕。まだ目が慣れない夜。サルドバルト城に潜入して、それから…………

「…………っ! ユートさまっ!!」

悲鳴を上げる関節。構わずに立ち上がった。ふらふらと、揺れる体。容赦なく叩きつける雨。
さくっという足元の感触で、ここが砂浜だと判った。すると河口近くまで流されてきたのだろうか。

「……………………」
「!」
すぐ側に、気配。まだ視界は暗い。手探りで伸ばした指先が、微かに触れた。

「ユートさま! しっかりして下さい!」
ファーレーンは、夢中で縋りついた。暗闇の中、仰向けで倒れている悠人を覗き込む。
声に、反応が無い。ただ苦しげな気配だけが聞こえる。
胸に耳を当ててみる。とくん、と微弱ながらも鼓動が響く。
ほっと息をつき、思いついたように口元に顔を近づけたまま、ファーレーンの表情は凍りついた。
――――呼吸が、停止している。このままでは……そう考えるなり、体が勝手に動いた。

「…………ん」
唇を合わせ、空気を送り込む。その中に、自らのマナをも含めて。
一瞬離れ、小さくすみません、と囁く。そして少し躊躇った後、もう一度。前髪から雫が零れた。

「…………か、はっ!」
「!……ユートさま!」
こぽり、と悠人が水を吐き出す。
「はっ…………はっ…………」
「良かった……」
苦しげな、それでも悠人の呼吸音が繰り返される。ファーレーンはほっと胸を撫で下ろした。

「でもこのままでは……」
冷たい雨に、体温はどんどん奪われていく。意識がある自分でさえ身震いしている。
ファーレーンは悠人を支え、立ち上がった。腕を回した肩がずしり、と鉛のように重い。
それでも、倒れるわけにはいかなかった。どこか、暖を取れる場所を見つけ出すまでは。
ざっ。湿った砂の上を、一歩踏み出す。

「あ、れ…………」
そこでファーレーンは気がついた。――――自分の目が、視えなくなっている事に。

ひんやりとした硬い感触。手探りでなぞると、どうやら木製小屋らしい。
そっと悠人を地面に横たわらせ、ファーレーンはかちゃりと『月光』を構えた。
見えなくても、中に人の気配が無いこと位は判る。入り口を探している暇は無い。
「…………シッ!」
短く息が漏れた。と同時に、音も無く小屋の壁が太刀筋通りに切り裂かれる。
軽く肩で押すと、ごとん、と音を立てて薄い木の板が奥へと倒れ込んだ。
一応警戒しつつ、身を滑らせる。ひんやりと冷たい空気が流れた。
「……どうやら、整備小屋のようですね」
埃っぽい、油と錆びの臭いからファーレーンはそう判断した。
ラキオスは基本的に陸国なので詳しくは知らないが、海に浮かべる船というものがある。
戦時中の今はここは使われていないらしいが、それらの機材が収められているようだ。
「でもとりあえず、雨は凌げそうですね……」
ファーレーンは一旦外に戻り、悠人を抱え込んで再び狭い空間に潜り込んだ。

「ふう……あ、あら?」
一息つき、前髪から滴り落ちる水滴を拭おうとして、ファーレーンは兜をつけていないことに今更気がついた。
「一時的なものとは思いますけど……」
見えないとはこういうものか、と一人ごちる。それにしても、困った。暖を取る材料を探す事が出来ない。
見回してみるが、暗闇の中、感じられるのは鉄の重さと重厚な油の匂いだけ。それに、雨が天井を叩く音。
「……………………」
軽く、溜息を漏らす。暫く思案した後、きゅっと下唇を噛んだファーレーンは静かに立ち上がった。
「ユートさま……こちらを見ないで下さいね……」
意識の無い悠人にそれでも背中を向け、しずしずと胸元のファスナーに手をかける。
衣擦れの音が湿っぽく響いた。

絞った戦闘服を広げて地面に敷いた後、ファーレーンはもう一度悠人と向かい合った。
これからすることを考えると、どうしても躊躇してしまう。ふぅ、と一つ深呼吸をした。
「し、失礼します…………」
手探りでシャツを見つけ、ぷちぷちとボタンを外す。
指先は、震えっぱなしだった。決して寒さのせいではないのはさっきからうるさい心臓の鼓動が教えてくれる。
出来るだけ避けようとしていても、どうしても触れてしまう異性の裸。
硬い胸板の感触に、ファーレーンはいちいち体温の上がる思いがした。
ようやくシャツを脱がせ、水気を絞って悠人の体を拭く。この場合、目が見えないのは逆に好都合だった。
そうでなければ恥ずかしさで死んでしまうかもしれない、ファーレーンはそう思った。

「お……お邪魔、しますね…………」
悠人の体を自分の戦闘服の上に横たえ、その横にそっと潜り込む。
上からシャツをかけたところで悠人がぶるっと身震いした。
「う…………ふぅっ……はぁはぁ…………」
「…………ユートさま?!」
「はぁっ……はぁっ…………」
息が、荒い。乱れた呼吸から感じ取れる、苦悶の表情。
「~~~っ! 大丈夫…………わたしがお守りします…………!」
ファーレーンは、ぎゅっと強く悠人の全身を抱き締めた。それでも、大柄な悠人の全ては包めない。
背中に手を回し、全身を押し付けるように絡める。体中で感じる悠人の肌が、酷く熱を持っていた。
小刻みに震えているのは自分なのか悠人なのか、もうファーレーンには判らなかった。
「クフォエルラス……イサム、ハエシュ、ワ、モゥート……ヤァ、リレイランス、セィン、マナ…………」
ただ、必死だった。無我夢中で、しがみ付いた。助ける為に。失わない為に。