朔望

奏鳴 Ⅸ

 §~聖ヨト暦331年ルカモの月黒ふたつの日~§

掻き分けた鋭い木の枝が、肩に掠って痛みをもたらす。
「痛ぅっ!」
それでも構わずに、ニムントールは道を急いだ。
サルドバルトを発って、半日。
ようやく雨は上がったものの、右手に見える川は相変わらず濁流となって泥だらけの木や葉を運んでいる。
先程、ようやく姉の気配を察知した。微弱だが、この先にいる事は間違いない。
生きている。そんな思いがニムントールを逆に焦らせていた。

「気をつけなさい、ニムントール」
追いかけるセリアも、そんな後姿をあえて止めない。気持ちは痛いほど理解出来た。
自分だって一足先に飛んでいってしまいたい位なのだ。
しかし、この中では確実にニムントールがファーレーンの位置を正確に捕捉出来る。焦りは禁物だった。
「そうですよ~、急がば回れと言いますし~」
呑気そうに聞こえるハリオンの声も、どこか緊張は隠しきれない。
一番後ろを小走りに駆けながら常に周囲に注意を配り、『大樹』が薄く光っていた。

「もう少し…………あっ!」
突然開けた視界に、ニムントールは小さく叫び声を上げた。
眼前に、重く灰色に染まったバートバルト湾。
雨上がりの空が雲間から僅かな陽光で海面を照らし出していた。

「…………うう……」
柔らかな森の匂いに目が覚めた。ぼんやりと、薄暗い天井を見つめる。
「ここは……どこだ……」
自分で出した声が、何か違うもののように酷く潰れて聞こえる。喉が針で刺したように痛んだ。
「う、ん…………」
すぐ横で、息遣い。よく動かない首をぎぎぎ、と捻る。中に錆び付いた歯車が入っているような音がした。
続いて目に飛び込んでくる、ロシアンブルーの髪。閉じられている長い睫毛。軽く呼吸している小さな口。
柔らかな曲線を描く撫で肩。美しく透き通るような肌。浮かび上がる鎖骨。ゆっくりと上下する膨らみ。
「……………………」                              
何故隣に丸裸の妖精が寝ているのかは、判らない。しかし、いずれにせよ好都合・・・だった。

きぃぃぃぃん…………

『ウバエ……オカセ……』
自分の呟きが『求め』の囁きと一致する。荒々しく覆い被さる衝動を抑える意思は既に無かった。

「ん…………」
豊かな膨らみに手を伸ばす。乱暴に揉みしだくと、熱い充分な手ごたえが伝わってきた。
意志の強そうな太い眉毛がやや顰められ、くぐもった声が漏れる。“悠人”はぺろり、と舌なめずりした。
「いいマナを持っている…………」
呟き、細い首筋に噛み付く。ぴくっと反応した少女が薄っすらと目を開けた。髪と同色の、深みがかった蒼。
「目覚めたか、妖精」
「あ……ユート、さ、ま…………?」
まだぼんやりとしている目の焦点が合っていない。血の滲んだ歯型を舐めてやると、びくっと全身が跳ねた。
「え、あ…………や…………」
そしてようやく事態を把握したらしく、わたわたと見当違いな方向へ向けて両手を振る。仕草に不自然さを感じた。
「目が……見えないのか?」
大きく見開かれた瞳が何も、映していない。盲目の妖精とは驚いた。何故そのような者がここに居る…………
「良かった…………」
「なっ!」
見つけた、と言わんばかりに自ら抱き締めてくる妖精。その暖かさにかちり、と何かが頭の中で噛みあった。

りぃぃぃぃん…………

「ぐ、おお、おおおっ!」
途端、頭痛が走った。両手で掻き毟る頭の奥から乱暴に響く言葉が、妖精の悲鳴に被さる。
『何故迷う、啜れ、犯せ』
「ユートさま? まさか……神剣の干渉?!」
「があおぁああっ!」
意味の無い獣の様な声を漏らしながら、立ち上がる。ふと、視線を掠める一振りの剣。
ニ紫の鞘に収められたソレが、澄んだ高い波長の光を放出しながらこちらを睨みつけていた。
『……邪魔をするか、下位神剣の分際で』
「ああっ、ああっ!!」
ばきん、と酷く生々しい音が頭の中で炸裂した。苦痛でのたうち回る。壁にぶち当たり、背中が軋んだ。

『得られた代償を忘れるな……』
『求め』の声が木霊する。そうだ、佳織。佳織を助けなければ。その為に俺は何でもしなければ。

(守りたい大切なものは、ありますか……)
優しい声が、包み込む。引き波のように静けさを思わす言葉。俺は沢山ある、と答えたんだ。

【自らを信じることだ。それが心の剣となり、盾となろう……】
心の底まで響いてくる、いつか聞いた深く低い問いかけ。自ら? 自らって何だ? 俺は一体…………

(――――なら、大丈夫です。 わたしがユートさまをお守りしますから……)

色々な光景が浮かび上がり、沈んでいく。激流に揉みくちゃにされながら、最後に残ったのは、穏かな笑顔。
月に浮かび上がる、一つの影。白い、眩しい翼。脳裏に浮かんだ微笑と旋律。――自然と浮かぶその名。
「ファー…………」
「! ここに居ます……ユートさま……」
最後まで呼ぶ前に、ふわりと森の匂いに包まれる。潮が引くように消えていく頭痛。体中から力が抜けていく。
『…………ふん』
悠人の理性の中で、つまらなそうな『求め』の声がゆっくりと遠ざかっていった。

「………………」
「………………」
二人は暫くそのまま抱き合っていた。互いの心音が聞こえる。静寂の中、それだけが実感できた。
悠人はまだ手放しそうな意識を懸命に保ちながら、腕の中にすっぽり納まっている少女を見つめた。
思ったより華奢な細い肩をかすかに震わせ、ぎゅっと手を握り締めたまま。
どうしていいか判らない、という風に悠人の胸に顔を埋めたままじっと動かない。
いつも凛としているファーレーンのそんな仔犬のような仕草が、ふいにとてもいとおしく感じた。
そっとその髪を撫でてみる。一瞬ぴくり、と身じろぎしたファーレーンだが、すぐに大人しく力を抜いた。
意外なほどの柔らかさに、指がさらさらと抜けていく。悠人は暫くそのまま髪を撫で続けた。
ファーレーンもじっと気持ちよさそうにそのまま悠人にもたれていた。もう震えてはいなかった。
「あ…………」
「?」
ふと冷静に返った悠人の声に、ファーレーンが不思議そうに見上げてくる。
その拍子に見える胸元の谷間から、悠人は必死で目を逸らした。
「あ、あのさファー、その、えっと……」
「???」
首を傾げながら更に迫るファーレーンの無邪気な顔に、益々悠人の顔は赤くなっていった。
しかし見えていないファーレーンには、その意味する所も当然判ってはいない。
「だ、だから、その……服を」
「ふ、く?…………」
鸚鵡返しに答えが返ってくる。直後そのぼんやりした瞳に、突然じわっと涙が浮かび上がった。
“女の子”にそんな反応を返されたことの無かった悠人は、かつてないほど動揺した。
「な、どどどどうしたファー?!」
声が裏返る。この状況で泣かれたら。どう取り繕えばいいものかと慌てて、訳の判らない問い掛け。
だがファーレーンは焦る悠人に取り合わず、そっと両手で悠人の胸板を押し返すと、のろのろと背中を向けた。
そして俯いたまま、蚊の鳴くようなか細い一言。
「…………見ました、よね?」
「見てない見てない見てない見てないっ! ちょっとだけだっ!!」
ぶんぶんっと擬音が聞こえそうな勢いで猛烈に首を振る悠人は、慌てて自爆気味な言葉を繰り返した。
「………………嘘つき」
その気配を、顔だけこちらを向けてじっと見つめていたファーレーンが、ようやくくすっと小さく笑っていた。

「お姉ちゃんっ! いるのっ?!」
「うわっ! ……ニムか?!」
ばたんっ。突然扉が勢い良く開かれる。急に眩しい日差しが差し込んできて、悠人は目を細めた。
戸口に、逆光になったニムントールが立っている。全身に葉っぱをつけ、頭には木の枝まで刺さっていた。

「ニム? ニムなの?」
背中越しに妹の声を聞いたファーレーンが、驚いて振り向く。その姿を確認したニムントールはほっと膝をつき、
「はぁはぁ……良かった無事だった……って…………」
そのまま口をパクパクさせて硬直したまま動かなくなった。
「ん……? ニム、探しに来てくれたんだろ、さんきゅな」
一瞬不審に思ったものの、悠人は立ち上がりながらニムントールに笑いかけていた。

ぱらり。

拍子に背にかけていたシャツが悠人の肩からずり落ちる。
途端、真っ赤になったニムントールの絶叫がバートバルト湾に響き渡った。
「きゃああぁああぁっっ! バカァッ! ユユユユート、お姉ちゃんと一体何をしてたのよーーーーっ!!!」
「うわっ、何って……ぐはっ!!」
ごきん。頭上で物凄い音がした。一瞬遅れて鼻の奥が猛烈にきな臭くなる。
(そうか……今のは『曙光』がめり込んだ音か……)
遠くなりかける意識の中で、悠人はようやく事態を飲み込んでいた。