朔望

奏鳴 B

 §~聖ヨト暦331年ルカモの月黒ふたつの日~§

「す、すみませんわたし、咄嗟とはいえあんな……その、失礼なこと……」
「え? あ、いや失礼というか、実に結構な……じゃなかった、そっちじゃなくて、いやそっちもなんだが」
思わぬ反応に自分も思い出して狼狽してしまう。既に何を言っているのか判らなかった。
「だから……ええいっ! 俺、ファーのお陰でバカ剣から抜け出せたっ! それを言いたかったんだっ!」
悠人はがばっと身を乗り出し、シーツを剥がしつつファーレーンの顔を見つめた。
最初はきょとん、としていたその瞳が驚き、え?え?と口をぱくぱくさせている。
「あ、あのわたし…………」
ぱちくり、と大きく瞬きを繰り返すファーレーンから目を離さないように、悠人は続けた。
「だから、本当にファーには感謝してる……助けてくれて、ありがとう」
「は、はい…………あの…………」
「?」
「あの、それではわたし……ユートさまを、お守り出来ましたか?」
「……ああ、律儀だよな、ファーは。あんな言葉、守ることないのにさ……」
よかった、と胸に手を当てて微笑むファーレーンに、悠人は言葉を重ねた。
「だからさ、今度は俺がファーを守るよ。取り合えずは看病だな」
「そ、そんなっ! ユートさまにそんなこと、させられませんっ!」
「いいからいいから……ほら、ファーは大人しく寝てろって。風邪には安静が一番だ」
慌てるファーレーンを無理矢理ベッドに寝かしつける。しぶしぶ従ったファーレーンが、
「もう……強引、なんですね……」
口を可愛く尖らせながら少し嬉しそうに囁いていた。

「はぁ~~。まったく何でニムがこんな……」
水を汲みに来た厨房で、ニムントールは一人溜息をついていた。
桶の水に映る自分の顔が、酷くつまらなそうにしているのが判る。

原因は、はっきりしていた。
先程の、姉の顔。あんな無防備な表情は、見たことが無かった。
初めて会った時からずっと側にいた自分にさえ見せた事のない、幼い笑顔。

「お姉ちゃん、あんな顔も出来るんだ……」
妹の目からしても、はっとする程可愛い笑顔だった。
凛、とした表情もかっこいいけど、それでもそれは「スピリット」としてのかっこよさだ。
今までは、それで良かった。そんな姉が誇りでもあり、自慢でもあり、憧れでもあった。
ようやく戦いに参加出来て、その凄さはもっと判った気がする。
でもさっきのは、違う。上手くいえないけど、どきっとした。可愛かった。
だから、気がついた。羨ましいけど。悔しいけど。あれは、ユートのお陰なんだ。
認めたくないけど。ユートが、あんなお姉ちゃんの笑顔を引き出したんだ…………

ちゃぽん、と水滴が桶に落ち、水面に波紋が広がる。映った自分の顔も、くしゃくしゃになった。
「何でニムがこんな……気を遣わなきゃなんないのよ」
面倒臭いけど。取り合えずお姉ちゃんにふさわしいかどうか、ニムが見極めてあげる。
まだ認めたわけじゃないからね、ユート。でも……お姉ちゃんをファーって呼ぶのだけは許してあげる。

そこまで考えて、急にイライラしてきた。
がちゃん、と少し乱暴に桶を持ち上げる。とたん、入れた水が多すぎて、体がよろけた。
一旦下ろし、はぁ~と長めの溜息をつく。
「しょうがない、少し減らそ……」
言い訳をしながら、腰を下ろす。ニムントールはそのまま暫く水も抜かずに、ぼんやりと時間を潰した。

ゆっくりと上下する胸元の膨らみが、呼吸の安定を示している。
悠人はほっと胸を撫で下ろし、ぼんやりとファーレーンの寝顔を眺めていた。
先程失礼しますね、と目を閉じたファーレーンは、すぐに穏かな寝息を立て始めた。
すっきりと整った顔立ちや優しい目元が、寝顔のせいか、やけにあどけない。
普段の柔らかい表情に半開きの唇から白い歯が覗き見えて、子供っぽさを印象として与えていた。

「ん…………」
微かに身じろぎした拍子に顔に掛かった前髪を、そっと払ってやる。
「心配、掛けさせちまったんだよな…………」
意外にさらさらと指の間を抜けていく髪の毛を軽く掬ったついでに、悠人はそっと頬をつついてみた。
「ル……ルゥ…………」
ちょっと困ったように、眠っている筈のファーレーンが太い眉を顰める仕草が可愛い。
「こうしてると、まるで子供みたいだな…………」
ぷにぷにとした弾力が、少し強めに圧してやると、同じだけの力で押し返してくる。
昔の佳織のような表情が可笑しくて、悠人は調子に乗って繰り返そうとした。
その時。ふいに、ファーレーンが何かを探すかの様に、軽く顎を上げた。
気づいた悠人が慌てて指を引っ込めようとするが間に合わない。
「……………………ぁん」
ぱく。
「~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!」
吸い込まれたのか、求めたのか。
悠人の指は、すっかりファーレーンの唇に「咥えられて」しまっていた。

りぃぃぃぃん……………………

『月光』の共振が静かな部屋に響き渡る。
からかう様なその音色を確かに聞いた気もするが、今はそれどころでは無かった。
咄嗟に叫び声を出すのは耐え切ったものの、未だ甘えるようなファーレーンの唇は悠人の指を離そうとしない。
離れまいとしているのか、むしろより強く、夢中になっているかの様に吸い付いてくる。
「ん…………ん…………ちゅ…………」
だらだらと、背中を滝のような汗が流れる。心臓が、信じられないスピードで体中に血液を送り込んでいた。
妹扱いしたばちが当たったのだろうか。そんな後悔が頭を掠めたのも一瞬だけ。顔と指だけが、やたらと熱い。
運動神経ごと鷲掴みにされた体がぎしぎしと錆び付いた音をたてる。
一歩も動けない。それでいて、あらゆる神経が指先に集中しているような錯覚を覚えた。
「あ……ん……………………」
生暖かい腔内が緩やかに蠢き、指全体を包み込む。舌で優しく嘗め上げられる度、悠人はぞくりと慄えた。
ちゅ、ちゅ、と湿っぽい音がファーレーンの口元から吐息の様に漏れ、その度深く悠人の指が吸いこまれる。
「……………………ん」
「~~~~っ!」
そして遂に、奥歯で甘噛までされてしまう。軽い痛みが何故か恐ろしい程の快感を与えてきた。
すべすべとした歯の固い滑らかな凹凸がリアルに感じられて、強引に引き抜くという考えが奪われる。
その行為に安堵でも覚えているのか、指を咥えたままのその表情が、嬉しいような、幸せそうなものに見えてくる。
「……………………やば、い」
このままでは、おかしくなってしまいそうだった。必死に別の事を考えようとする。
スピリットって虫歯とかないのかなとか何とか。――――無駄な抵抗だった。
「お、おい、ファ、ファー…………」
「ぁ…………」
「おっ」
もう起こすしかない。どうこの事態を説明するかが問題だが、そんな事も言っていられない。
そう決心して悠人が呼びかけようとした時、ふとファーレーンが口の力を抜いた。
隙を逃さず、必死になって指を抜く。ファーレーンの唇に、名残惜しそうな透明の糸が引いた。
「んむ…………ん…………」
「ふぅ……やれやれ…………」
悠人はまだどきどきする胸を抑えながら、そっとその口元を拭ってやった。

 §~聖ヨト暦331年ルカモの月黒いつつの日~§

ファーレーンの風邪は、次の日にはすっかり熱も下がり、回復した。
バートバルトを出発したラキオススピリット隊は、2日の行程を経てラキオス王都に帰還する。
悠人達を迎えたのは、北方五国を統一した国の、沸き返るような人々の姿だった。
しかし、その賞賛は決してスピリット達には向けられない。判ってはいたものの、悠人はその冷たさにうんざりした。

だが、嬉しい事もあった。それも意外な、そしてとてつもなく大きな。
「どうでしょう、その者の妹を、返してやっては」
レスティーナの一言。それが認められ、佳織が悠人の元へと帰ってくる事になったのだ。
悠人は、小躍りした。戻ってくるその日が待ち遠しかった。

「おめでとうございます、良かったですね、ユートさま」
その夜。真っ先に報告に行った『陽溜まりの樹』の下で、ファーレーンは胸に手を当て、心から喜んでくれた。
「わたしにも『妹』はいますから……」
にっこりと、そう囁く。その一言だけで、充分だった。
「ああ、ありがとう。今度ファーにもちゃんと紹介するよ。俺には出来すぎた妹なんだ」
「ふふっ……ユートさま、本当にカオリさまの事を想っていらっしゃるんですね」
少しからかうような、上目遣いで覗き込む仕草。ふわり、と森の匂いが広がる。
かちゃり、と小さく鳴る『月光』。軽くくせのある前髪がかかる距離まで接近されて、悠人は動揺した。
「なっ……ただ、佳織は俺の居ない所で泣く癖があるからさ。心配なだけだよ」
ぷいっと拗ねたように子供っぽく横を向いてみせる。あらあら、と横でファーレーンの含み笑いが聞こえた。
「……なんだよ。ファーだってシスコンじゃないか。ニムの可愛がりようは聞いてるぞ」
「? シス、コンってなんですか?」
「いや、シスコンっていうのは――――」
言いかけて、言葉に詰まる。光陰の影響なのか、変な言葉を口走ってしまった。
こほん、と一つ咳払い。空を見上げると、綺麗な夜空。なんだか平和だな、とのんびりした考えが浮かぶ。
「…………俺みたいな奴、の事だよ」
悠人は、可笑しそうに呟いた。首を傾げるファーレーンの瞳から、照れて目線を逸らせつつ。