朔望

奏鳴 D

 §~聖ヨト暦331年エハの月赤ふたつの日~§

取り戻した日常。佳織が朝起こしに来て、自分がむずかる。
そんな当たり前を取り戻した悠人は、ぼんやりと海を眺めていた。
まだ、元の世界に戻る方法は見つからない。でもとりあえず、戦いは終わった。
今はその平和を楽しもう、そう考えてぶらぶらと歩き、辿り着いた高台。
いい天気だった。さやさやと吹く風が汗で火照った体を冷やしてくれる。
海から流れてくる潮の香りが気持ちいい。そして隣には、ワッフルを頬張る謎の少女。

「……をい」
「ふぇ?」
食いついたままの間抜けな表情で、レムリアが振り向いた。謎でも何でも無かった。

確かにまた会えるかも、なんて考えてもいた。偶然というか、奇遇というか。
そんなものもあるのかもしれない。しかしレムリア曰く、「運命」とか「赤い糸」となると、どうだろう。
『赤は、熱い心の色。レッドスピリットも、情熱的な人が多いんだって』
言われたものの、オルファのあれは情熱、というのだろうか。ヒミカはそれっぽい所もあるけどナナルゥもか?
ってそんなことより。

「ん~、ゆーひょふん、ふぉんだ~?」
「食ってから喋れっ!」

まったく、とその場で大の字になる。顔を撫でる草の匂いが気持ちいい。
目を閉じていると、慌てて食べ終えたらしいレムリアが隣で同じようにぱふっと横になった。
「ふぃ~~」
「……食ってすぐ横になると、太るぞ」
「大丈夫。ヨフアルは別腹だから♪」
「…………そうですか」

「ん~風、気持ちいいねぇ」
ぼんやりと青空を眺めながら、そんな呟きを聞く。そうだな~などと間延びのした返事。
のどかな、普通の会話。とても異世界に来ているとは思えない、感じるのはそんな錯覚。

「そっか、ホントのユートくんは、コッチなんだ」
「は…………? 本当の、俺?」
どういう意味だろう。レムリアは笑って誤魔化していたが、やけに気になった。

ふと顔色を窺う様に、レムリアが静かに訊ねてくる。
深みを湛えた大きな紫色の瞳に覗き込まれて、悠人は少しどぎまぎした。

 ――――ねえユート君、この国、嫌い?


帰り際、指切りを交わした。運命とやらにやけに固執するレムリアに、押し切られるような形になった。
改めてなんか変な娘だな、とまだくすぐったい小指を見つめながら帰途に就いた。

 §~聖ヨト暦331年エハの月緑ふたつの日~§

「で、今日は大変だったよ」
「ふふ……。でも、エスペリアの言う事は、正しいですよ…………」

何となく、恒例になった待ち合わせ。夜の散歩代わりの、リクディウスの森。
月明かりの下、今日の話題は佳織とオルファリルに浴場で襲撃を受けた事だった。
苦笑いをしながら話す悠人にくすくす微笑んでいたファーレーンだが、
エスペリアがオルファリルを叱る場面でふと表情を曇らせた。『月光』をそっと握り締める。
「……ファー?」
「わたし達はスピリットですから。神剣と共に生き、人を守り、そして神剣と共に滅ぶ存在。それでも……」
さあー、と風が流れる。髪をそっと抑えながら、ファーレーンは悠人の顔を覗き込んだ。

 ――――ユートさま、ユートさまはわたしを紡いで下さいますか…………?

りぃぃぃぃん…………

「え…………」
突然の質問に、悠人は戸惑った。どう答えていいか、判らない。覗き込む鋼色の瞳の奥に、深く静かな意志。
目を逸らす事も出来ずに動揺している様子が伝わったのか、ファーレーンは目を細めて続けた。
「わたしがいつも口ずさんでいた詩、憶えていらっしゃいますか? ほら、この上で……」
「あ、ああ。ごめん、綺麗な唄だなとは思ったけど、意味は判らなかった。俺この世界の言葉がまだよく、さ」
「あ、あら? そうなんですか?」
悠人の言葉にビックリした様子のファーレーンが口元に手を当てる。
そうですよね、と半ば自分に言い聞かせるように呟く表情が少し残念そうだった。
「……ファー?」
「あ、いいえ、何でもないんです……それにわたしったら、ユートさまの前で」
最後まで唄ったことが無いのかもしれません、とぺろっと小さく舌を出す。
ぱたぱたと両手を振り、慌てた様子に悠人の方が思わず噴き出した。

「なんだよそれ。変なやつだな」
「あ…………」
くしゃっと咄嗟にファーレーンの髪を撫でる。それは悠人にはごく慣れた、自然の行為。
子供扱いされ、ファーレーンの頬はたちまち赤くなった。落ち着かなさそうに、もじもじと身を捩らせる。
「あ、あのユートさま……」
「ん?」
「…………なんでもありません」
自意識の無い悠人に半ば諦め、されるがままにしていると、やがてどこか安心感を覚えている事に気づく。
いつの間にか目を瞑っていたファーレーンは、気持ちよさそうに呟いていた。
「ユートさま、わたしは黒の妖精、月と夜の守護を受けるスピリットなんです」
「ああ、そんな事言ってたよな」
「……ええ。でも、月光は太陽の光を月が受け止めるもの。陽光が無ければ月も輝かないんです。だから……」
そう言って、ファーレーンは唄い出した。いつもの、澄み渡る歌声で。

 サクキーナム カイラ ラ コンレス ハエシュ
   ハテンサ スクテ ラ スレハウ ネクロランス
     ラストハイマンラス イクニスツケマ ワ ヨテト ラ ウースィ…………ルゥ………………

人とスピリットの共存。それを、この人なら真剣に考えてくれるのかもしれない。
そんな想いを篭めたファーレーンは、唄い終えてほう、と小さく溜息を漏らした。
目を閉じたままじっと聴き入っていた悠人に上手く伝わっただろうか、そんな事を考えつつ。
「……へぇ。いい唄だな…………」
「はい、好きなんです。辛い時に唄うとなんだか落ち着いて…………古い、ラキオスに伝わる詩なんです」

呟いたファーレーンは、まだ気づいてはいなかった。詩が、遠い愛想曲(セレナータ)だという事を。
小夜曲とも呼ばれ、元々思慕する女性が夕暮れに想いを篭めて演奏した音楽なのだという事を。

――――そしてそれを悠人を前にして唄いたくなった、その意味を。

戦いだけだった時の中で、この時間があまりにも穏かだったから。その心地良さをただ感じていたかったから。
そのまま暫く、二人は身を寄せ合って空を眺めていた。詩が月に吸い込まれていくまで。

 §~聖ヨト暦331年エハの月黒ひとつの日~§

「お兄ちゃーんっ、こっちこっちー!」
「そんなにはしゃぐと転ぶぞ佳織」
「大丈夫だよ~…………きゃっ、と、と」
「よっ……言ってるそばからこれだからな」
「あ、ありがとう……えへへ…………」

街を、佳織と歩く。
普段は訓練とかで忙しい上、佳織は佳織で他のスピリット達と仲良くやっているらしく、
こうして昼間に時間を取って二人で歩くのは初めてだった。
転びそうになった身体を支えてやると、はにかむようにその腕を絡めてくる。
「おいおい、甘えん坊だな佳織は」
「へへ、いいんだよ、久し振りにお兄ちゃんとお出かけなんだから…………いい、よね?」
自分でしがみついておきながら、不安そうにそう尋ねてくる。まるで何かを確かめるように。
「……ああ、本当に久し振りだもんな」
少し可笑しく思い、当然だ、と大きく頷いてやった。
ぱぁっと明るくなった表情を確認して、ゆっくりと歩き出す。
何をする訳でもない。ただ、こうして居られればいい。
「それでね、昨日、ニムちゃんがね…………」
最近佳織は、ニムと仲が良い。二人で出かけることもよくある。
空を見上げると、抜けるような青空。柔らかく照りつける太陽。


――――この瞬間が、もうすぐ壊れてしまうなんて想像も出来ずに。俺達は、一緒だった。