朔望

奏鳴 F

 §~聖ヨト暦331年エハの月黒よっつの日~§

「―――――」

重く圧し掛かるプレッシャー。
時間が経つにつれ増大していく力は、確実にそこから発せられているのに気配だけが感じられない。
それでも、「そこに居る」。それだけで、周囲から何もかも奪いつくすような存在感を研ぎ澄ませて。
窓からの死角のせいか、姿は見えない。いや、例え映し出されたとして、「捉えられたか」どうか。
対峙し、『月光』を握る手が震える。無言の圧力が気力を根こそぎ奪おうとしている。
硬い石畳の床が、蛇のようにうねる錯覚。自分が立っている方向が解らなくなる。
「――――」
ぎら、と何かが光った。ソレが持つ、巨大な鋼が黒光りする。同時に叩きつけられる、純粋な“無”。
沈黙する『月光』を確認するまでも無い。理屈も何も無く、絶対だった。
それは明らかに、今までに見たことも聞いた事もない位の神剣。自分が敵わない、遥かな高みに位置する剣。
「あ…………あ…………」
膝が、震える。自分を保てない。精神が退行する。原始の恐怖。恐慌、と言ってよかった。

「父様っ!」
ばたん、と激しく扉が開く。物音に、体がびくっと反応した。
視線は逸らせないが、次の間に続く扉の前で、レスティーナ皇女が立ち竦んでいるようだった。
「……母様っ! まさか本当に………」
皇女の叫びに、ふっと体中の力が抜けた。同時に消える、重圧感。
先程までの空気が、嘘のように緩みきっていた。撒き散らかされた殺意の塊も、すっかり消え去っている。
「レスティーナ皇女…………」
ファーレーンは、その場に座り込みたかった。それでも、壁に背中を押し付けるように姿勢を保つ。
爪先に力を込めて立ち、『月光』にマナを送る。まだ、脅威が去った訳ではなかった。

「レスティーナ様っ! 危険です、離れてくださいっ!」
両手を胸の前で合わせたままよろよろと王の方へ歩き出そうとしたレスティーナを、
ファーレーンの鋭い叫びが押し止めた。ぴく、とその細い肩が震える。
「本当に……? 父様……何故このような…………」
信じられない、といった風にふるふると首を振るわせるレスティーナには、先日の面影は微塵も無かった。
最悪を想定し、自分に暗殺の指示まで出した時の凛とした威厳も保てず、ただ年相応の反応を示している。

「せ、か、い…………」
「!」
ゆらっと動いた王が獰猛な攻撃の意志を放った所で、ファーレーンは飛び出した。
『月光』が激しい警告の痛みを送ってくる。「人」には逆らえない。そう教育されていた体が拒絶を示す。
「……くっ!」
一瞬考え、王と皇女の間を割るように『月光』を投げつける。
どすっ、と鈍い音を立て、赤い絨毯の上に突き刺さった神剣に、レスティーナの瞳が正気に戻った。
「あ…………わたくし…………」
「レスティーナさまっ!」
「あっ!」
駆け寄ったファーレーンは、剣を振りかぶった王の懐をすり抜けるようにレスティーナを突き飛ばしていた。

「ぬうんっ!」
「シッ!!」
無理に庇ったせいか体勢を崩すファーレーンを、王が無造作に斬りかけた。
その鍔元を、身を捻りつつ、蹴り上げる。刀身がぱきん、と音を立てて砕け、舞い上がった。
「…………そんな!」
ファーレーンは、驚愕した。折れるほどの衝撃で蹴り上げても、王は刀を「離さなかった」のだ。
“ただの人に”そのような力がある筈が無い。これが神剣の力。
「飲まれている」とはいえ、どこか侮っている部分があった。そしてそれが、一瞬の油断だった。
思いがけず俊敏な動きで、腕と胴を「鷲掴み」にされる。掴まれた部分を万力で潰されたような激痛が襲った。
「ぐぅっ!!」
「ふはぁははははっ!」
そしてそのまま持ち上げられ、信じられない力で振り回される。
千切れるように遠心力で引き離された身体が吹き飛ばされ、一瞬後には壁に激突していた。
「が、はっ!」
全身をばらばらにされたような衝撃が襲う。瞼の裏が一瞬昏くなった。鼻の奥がきな臭い。
頭を振って失いそうな気を懸命に取り戻し、前方に意識を集中しようとする。

ファーレーンが壁に叩きつけられる前に、レスティーナは飛び出していた。
「父様っ!」
王の背後から、懐刀を手に迫る。止めなければ、もうレスティーナにはそれしか考える事が出来なかった。

「レスティーナさまっ!」
絞り出された悲鳴の様なファーレーンの声が背後から追いかける。しかしレスティーナにはもう何も聞こえなかった。
神剣に飲まれ、人足りえない力を暴走しているルーグゥ王が、突き刺さっていた『月光』を握る。
レスティーナの声に振り返り、血走った目が翳した剣に鈍く光った。明らかに王の方が速い。
勢い良く振り下ろした剣がレスティーナの頭上に迫る。その剣先が―――

「!…………ぬぅっ」

――ぴたり、と止まった。レスティーナの亜麻色の髪を、一房撫で斬った処で。

 ――――どす、ん。

鈍い音が響く。縺れるように、倒れ込む二人。
レスティーナの懐剣は、柄までルーグゥ・ダィ・ラキオスの心臓深くを貫いていた。
信じられないというように、今更大きくかぶりを振るレスティーナの口から呟きが漏れる。
「な、何故……父様…………?」
「レ、レスティーナ…………」
ぶるぶると震える血塗れの手が、ゆっくりとレスティーナの頬に伸びる。触れた部分が赤く染まった。
「余は……余は一体……ご、ふっ」
「っ! 話さないで下さいっ! すぐに医者を……」
「そうか……もうよい」
立ち上がりかけたレスティーナを、そっと押さえる。
王は自分に突き刺さった銀色に光る刃を見て、小さくふぅ、と息を吐いた。
医者のような冷静な目に、先程の狂気はすでにない。口元に泡立つ粘液が、致命傷を証明だてていた。
「よく止めてくれた……立派に、育ってくれたな…………」
まるで憑き物が落ちたかのように、穏かな瞳。くしゃっと歪んだレスティーナの顔が映る。
「望みは…………代償無しでは……得られぬ…………余も、取り込まれたか…………」
「…………え?」
「力が……必要だった…………お前が……の、ぞむ世界、……の為…………」
「あ…………あ…………」
「…………聡明な我が、娘よ……その理想に……マ、ナの導きが…………」
ずるっと力無く落ちていく腕。レスティーナは必死にその手を掴んだ。
「父様…………父様っ?!」
「すまな、かった……」
一瞬目を細め、娘の姿を焼き付けた後、ルーグゥ・ダィ・ラキオスの瞳は静かに閉じた。

「うっ…………くっ…………」
むせび泣くレスティーナの背後によろよろと近づいたファーレーンは、静かに『月光』を鞘に収めた。
最後の一瞬。その斬撃を止めたのは、紛れも無く「ラキオスの王」だったのだろう。
それでも尚、こうならざるを得なかった結末が、辛かった。
スピリットを道具と捉え、駒のように使い、戦禍を広げていたのは一体どこまでが王の意志だったのか。
今となってはそれすらも判らない。しかしそこには、確実に何らかの「別の意志」も働いている。
先程の影も含め、神剣、そして自分達。この世界全体が、何か得体の知れない他の意識に。
そうでも思わなければ、辻褄の合わない事ばかりだった。

ずぅぅぅぅぅん…………

「っ!」
外で、何か大きな爆発音がした。まだ戦いは終わってはいない。ファーレーンは声をかけねばならなかった。
「レスティーナ皇……いえ、陛下」
「……わかっています。ファーレーン、ラキオスの王として命じます、スピリット隊は迅速に敵を排除せよ」
ぐいっ、と一度拭い、再び上げたレスティーナの顔は、もう泣いてはいなかった。
強い意志が、まだ少し潤む瞳に篭められている。頬に残った赤い血と同じ色に腫れた瞳に。
「…………はっ!」
ファーレーンは一度跪き、そして部屋を飛び出した。もう、ここには敵は居ない。
しかし、戦いは始まったばかりだった。たった今生まれた王の、そして……自分自身の理想の為に。