朔望

円舞 Ⅳ

 §~聖ヨト暦331年エクの月赤いつつの日~§

広大な砂と空が、天と地の境界線。ただそれだけの殺風景な光景が、ファーレーンの眼前に広がっていた。
「…………ふうっ」
覆面を軽く緩め、息をつく。ギラギラと照りつける太陽が、普段よりもその存在感を主張している。
ぴっしりと体中から噴き出す汗を拭う事も出来ず、気持ち悪い。
熱砂に揺らめく空気を吸い込んでも体力の消耗は防げないが、それでも息苦しさからはやや開放された。
マナが少ないせいか、『月光』に普段の力が感じられない。溜息を一つ漏らしてファーレーンは再び歩き出した。

ヘリヤの道。旧イースペリア領ランサとマロリガン共和国領スレギトを結ぶ、唯一の街道。
ファーレーンは途中から道をはずれ、何も無いダスカトロン砂漠の中央を横断するように南下した。
左手に旧ダーツィ領イノヤソキマが蜃気楼のように歪んで感じられたのは数刻前。
それ以来単調な砂の感触の他は遭遇するものも無い。越えた砂山の数は途中から数えるのを止めた。
乾いた、埃っぽい風が兜の隙間から入り込む。髪がごわごわして気持ち悪かった。
「本当に、こちら……ですよね」
太陽の熱さに大体の位置を掴むだけの心細い旅にファーレーンは小さく呟きながら、幾つか目の砂丘を越えた。


「ブラックスピリット……ラキオスの妖精か? 何故このような所に…………ふん、面白い」
その様子を窺う、一人の視線があった。


 §~聖ヨト暦331年アソクの月赤みっつの日~§

「じゃあやっぱり……戦い、なのか?」
マロリガン共和国の国境を越えながら、悠人は傍らのレスティーナに小声で囁いた。
「仕方がありません。国の体制が違いすぎるのです」
諦めたような口調で溜息を付く。少し翳のある表情が、疲れを表していた。
しかし悠人にはレスティーナの暗澹とした様子が、何か別の所から来ていると感じていた。

帰り際、僅かに会話を交わしただけの、クェドギンという男。沈毅、という表現が一番しっくりくる風貌。
謎かけのような物言いに首を傾げる所もあったが、しかし話せば判りそうな聡明な瞳をしていたが。
「俺は馬鹿だから良く判らないけど……良い奴っぽかったけどな」
「ユート、良い人が必ずしも良い指導者、という訳ではないのです」
ぴしゃり、と言い切ったレスティーナは、それ以上口を噤んで何も言わなかった。
言わんとしていることは理解できる。レスティーナの苦渋の表情も、恐らくはそこから来ているのだろうから。
悠人もそれ以上は口を挟まず、黙ってヘリヤの道を歩き出した。


 §~聖ヨト暦331年エクの月緑ひとつの日~§

日が沈み、急激に気温が下がってきた頃、遠くにようやく篝火のようなものが浮かんでいた。
『月光』の力を少しだけ解放して、警戒しつつ近づく。
「あれがデオドガン…………」
ほっと気を緩めるのも僅か、直ぐに気持ちを引き締め直す。
敵地までとは言わないまでも、ここはやはり異国には違いないのだ。

デオドガン商業組合。こじんまりとした名前からは想像出来ないが、
大陸の中央、広大な砂漠を斬り従えて出来た、帝国やマロリガンの脅威を幾度も退けている歴史古き大国だ。
地の利があるとはいえ、ロードザリア歴以前からの商業貿易に連なる仲介人達の末裔。
その誇りと武力は依然高いようだが、その実体は情報部にも殆ど知られていない。
ファーレーンは、出発前のレスティーナの言葉を思い出していた。
『彼らがこの情勢をどう捉えているか、たとえ僅かでも共有出来る意識があるかを内偵してきてください』

佳織が連れ去られた夜以来、ファーレーンは一度も悠人と話す機会が無かった。
悠人はレスティーナの外交に付き従う形で方々を飛び回っていたし、
ファーレーンはその内政上の問題で、ラキオス中を駆け回っていた。
「…………フッシ・ザレントール」
自然にマロリガンの方向に目がいく。
すれ違いが続いたせいか、あの夜の項垂れた悠人の姿がやけに目の奥に焼きついていた。
ファーレーンは反射的に、自分がもしニムントールを失えば、と考えてしまう。
境遇が、似すぎている。会えば、どう言葉を交わせばいいか、それだけに躊躇う部分もあった。
「デオドガンの、領袖…………」
スピリットとしては、考えるべきでは無い事。それを今のファーレーンは、素直に思えるようになっていた。


レスティーナの女王即位は、国民にはほぼ歓迎されていた。
戦乱が相次ぐ不安な時流の中、聡明で魅力的な指導者を求めるのは人々の殆ど本能ともいえるものだ。
なので形は単なる順当な王位継承だが、内実的にはクーデターに近い。裏では様々な歪みが渦巻いていた。
それをいちいち整理し、解決する為には、時には武力に訴えなければならないような時もある。
そういう「影」の部分をファーレーンは担当した。

ニムントールはもちろん、他のスピリット達も知らない。
レスティーナには、頼める相手が最早ファーレーンしか居なかった、というのもある。
最も、『月光』を振るう機会は一度も無かった。基本的に“人”に対してスピリットは剣を振るえないのである。
それでも、ちらつかせるだけで、大体が表面では平和的な?交渉で収まってきている。
二人の間には、理想と現実の折衝についての相談が、常にきめ細かに行われつつあった。
そうして政情が安定したと思われる先日、呼び出されて登城したファーレーンに今回の使命が下った。
ファーレーンはデオドガンとの接触を急ごうとした。

 ――――――――

「コウインさま、配置完了しました」
「よし、抵抗するヤツには遠慮するな。降伏を受け入れるヤツは……出来るだけ捕虜にしてやれ」
「…………わかりました。では」
「ああ。戦闘開始、だ」
同時刻。デオドガンを挟んだ反対側の大きな砂丘の上。二つの影が動いた。

 ――――――――


妙な予感と共に目が覚めたフッシ・ザレントールは夜警に就こうと廟を抜け出し、
冷えた砂を踏みしめたところで、周囲が俄かに騒がしい気配に囲まれているのに気がついた。
しかしそれも一瞬で、今度は不必要なほどに辺りがしん、と静まりかえる。誰も報告には来ない。
「…………」
懐の短刀をそっと確認し、神経を集中する。音で聞いた訳ではない。ただ、風の気配を感じた。
幾たびの戦いを重ねた練磨しきった本能が告げている。敵がいる。それも、相当数。

「…………!!」
がっ、と火花が散った。ふいに現れた背後からの気配。
応じて叩き付けた短刀が押され、逆らわずに自分から飛び退く。体勢を整え、――睨みつけた。
「……へぇ、受けきれるヤツもいるんだな」
「…………小僧、俺の妖精部隊はどうした?」

――身長をゆうに越える大刀を肩に不敵な笑みを浮かべ、悠々と佇む男を。

「あきらめな。もう、勝負はついてるんだ」

ぱっ、と背後で広がる炎。キャラバンが、燃えていた。