朔望

円舞 Ⅷ

 §~聖ヨト暦331年コサトの月青みっつの日~§

抜け殻のようにスレギトに進出し、そして敵の新兵器『マナ障壁』にその先を阻まれた悠人は、
一度ラキオスに戻ってきた。報告をエスペリアに任せ、ぼんやりと部屋に向かって歩き出す。
頭の中は、光陰と今日子で一杯だった。どうすればいい、そんな事ばかりを考えてしまう。

「あれ……?」
そうして、辿り着いたのはリクディウスの森。思わず周囲を見渡す。
静けさに包まれ、さやさやとその葉を揺らす木々。頭上には眩しい満天の星空。
ぽっかり浮かんだ雲が月だけを覆っている。輪郭が、隠れた雲の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
「いけね……ファーの癖がうつったかな……」
つい、来てしまったのか。目の前に、見慣れた巨木がある。
相変わらずどっしりと地面に根を張るそれに笑われた気がして、苦笑いをしながら踵を返そうとした。
「ヤサンケルイスルス……こんばんわ……ユート、さま…………」
「え?」
所在無さ気に立っているファーレーンが、落ち着かない瞳をこちらに向けていた。


二人は、揃って『陽溜まりの樹』の根元に腰掛けていた。

「…………」
「…………」
こうして会うのは久し振りなのに、言葉が出ない。悠人はその雰囲気に戸惑っていた。
肩が微かに触れるか触れないかの距離。それが酷く遠く感じ、何故だか焦燥が湧き上がる。
「あのさ、久し振り、だよな」
「……はい」
「俺はマロリガンに行ってたんだけどさ、暑いなんてもんじゃないなあれは」
「……そうです、ね」
「何だ、ファーも行った事あるのか? オルファは元気なんだけどさ、エスペリアなんかもうふらふらで……」
「……ええ」
「それで……えっと……」
暗い。いつもは軽く微笑みながら相槌を打ってくれるファーレーンが、じっと俯いたままだ。
無理矢理話を振ってみたものの、気乗りしない生返事だけ。そもそも話を聞いているのかも怪しい。
悠人はふぅ、と空を眺めた。憂鬱さを紛らわすように、星の数を数えてみる。
もう、誤魔化せなかった。二人とも、何か問題を抱えている。
自分はそうとして、ファーの様子がおかしいのも、先程から気づいてはいた。
そっと横を、盗み見る。ロシアンブルーの瞳が、地面を映して揺れていた。
待っている。そう判断して、思い切って切り出した。喉が、ごくりと鳴った。
「何が……あった?」
ぴくり、と一度だけファーレーンの肩が大きく揺れた。


 ――――――――

こうして隣にいるだけで、安らげた空間。だけど、今だけはそれも半減だった。
夜の、静けさに満ちた空。だけど雲に隠れた月は、今日は勇気を与えてくれない。
ファーレーンは、ぎゅっと『月光』を握りしめた。

今日まで、懸命に克服しようとした。狂ったように、訓練もした。
ニムには変な目で見られていたけど、構わなかった。
強さを、取り戻そうとした。守れるだけの強さを。ニムと、自分と、…………ユートさまを。
それでも、想いが膨らめば膨らむほど手が竦む。踏み込む足に力が入らない。剣が応えてくれない。

――戦えない。そんなスピリットに、存在価値があるとは思えない。

そう、怖かった。自分が、存在価値を失うことが。ニムや、ユートさまにとって。
どうすればいいか、判らない。打ち明ければ、拒絶されるかもしれない。嫌だ。そんなのは……嫌だ。

きゅっ。
「あ…………」
迷い込んだ思考に、ノイズが走る。そっと握られた手。顔を上げ、見つめる。
「何が……あった?」
先程の質問。もう一度発せられた問いかけは、とても優しくて。穏かな声に吸い寄せられるようで。
何も、変わってない。何も、変わらない。きっと、この人は。

――信じよう。そう決心した時には、あれほど戸惑っていた口が、すんなりと言葉を紡ぎ出していた。

 ――――――――


「……怖いん、です」
「は?」
いきなり予想外の言葉を口にされ、俺は思わず間抜けな声で復唱していた。
「怖いって……何が?」
一瞬、夜だとかお化けだとか、女の子が怖がりそうなものを想像してしまった。
(ファーがそんなものに怖がるとも思えないしなぁ……)
例えば肝試しで、『きゃー! ユートさまぁ~!』とか飛びついてくるファー…………ありえない。
「…………違います。何を想像してるんですか」
「う……」
ぷっと頬を膨らませたまま睨まれた。何て鋭いんだ。……だけど、おかげで空気が少し軽くなった気がする。
やや呆れたように溜息をついて、ファーの表情がふっと緩んだ。
「ははっ、ごめん」
「もう……」
いつものように、本気では怒っていない。そしてすぐに、真面目な瞳が見つめてくる。
そうしてファーは、最初はゆっくりと話し始めた。
「ユートさま……ユートさまは、怖くなったことがありませんか? その……スピリットを、殺すこと、が……」
「な…………」
「怖いんです。怖く、なっちゃったんです。……自分が死ぬのも。……こんなの、変ですよね」
「お、おい」
「守りたいのに……。だけど、どうしてもダメなんです! 幾ら訓練しても、強くなれない……」
咄嗟に、言葉が出ない。次第に昂ぶってきたのか、ファーの口調がどんどん激しくなってくる。
その急激な変化に戸惑った。こんなファーは、初めてだった。こんな縋るような、子供のような。
「殺すのが、何だって? ちょっと落ち着けよファー」
掴んだ肩を、揺さぶった。それでも首を振りながら、
「スピリットなんです! それがスピリットの、わたし達の役目なのにっ!」
「なっ!」
――――ぱんっ。
その一言に、思わずファーの頬を引っ叩いていた。
「え……」
赤く染まった頬を押さえたファーが驚いたように目を丸くしてこちらを見ている。
一瞬しまった、と思ったが、もう遅い。俺は勢いに任せ、その細い肩を引き寄せていた。


「ユ、ユートさま?」
とくん、とくんと胸の鼓動が聞こえる。
「スピリットとか、人だとか、そんなの関係ない。俺だって……死ぬのは怖いよ」
それは、どちらの鼓動なのか。共鳴して響く音が、混ざり合っていく。
「戦いが嫌なのは、皆同じだ。ファーは全然変じゃないよ。それが普通の感情だと思う」
小刻みに震える体。それでもじっと身を預けてくれている、意外に小さな体。
「でも、それじゃ……このままじゃわたしは、必要ありません……ニムにも…………ユート、さまにも……」
抱き締めた体から伝わってくる、怯え。こんな小さな心に、一体どれだけのものを抱えていたのか。
「ばかだな……。ファーはいつも、支えになってくれているじゃないか。ニムにも、……俺にも。心で、さ」
「ここ、ろ……?」
苦しい時に、いつも見た姿。いつも思い出された声。
「だから俺たちは、戦える。そんなファーや世界が、守れる。だから……変えることが出来る」
「変え、る………ですか……?」
ゆっくりと上げる、涙に濡れた顔。そっと拭ってやる指先に、熱い湿った感覚。
「ああ、変えなきゃな。こんな、スピリットだけが戦わなきゃならない世界なんか」
それは、自分自身にも言い聞かせた言葉。口にして、初めて判る、戦いの意味。
「ファーは、そう思わないのか? スピリットは、戦う道具なのか?……違うだろ」
「わ、わたしは……はい…………」
「もう、考えるのはやめた。俺は戦うよ。……沢山敵を殺すかもしれないし死ぬかもしれないけど、でも」
「……でも?」
ぐっと口を結び、想いを口にする。踏み出すために。負けない為に。
「でも、背負う。その時まで。罪は、いつか償わなきゃならない。代償の無い奇跡なんてない……だろ?」
最後は、出来るだけ冗談っぽく。目一杯の、笑顔で。