§~聖ヨト暦331年スリハの月黒みっつの日~§
「で?」
「う……」
ようやく着替えを終えたファーレーンは、ニムントールの詰問を受けていた。
「珍しいよね、お姉ちゃんが普段着を着るなんて」
とんとん、と『曙光』の先で機嫌悪そうに床をつつきながら、
「いつもは『いつ戦闘があるかわからないのですから』な~んて言って絶対着ないくせに、どういう心境の変化?」
「うう~……」
声色まで真似されてしまい、一言も返せない。この妹はこうなったら容赦が無いのは一番良く知っていた。
今は耐えるしかない。ファーレーンは極限まで首を竦めながら、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待っていた。
ところで何故自分は正座させられているのだろう、などと疑問に思いつつ。
「まあニムも着ないけどさ……大体変だよね、最近のお姉ちゃん。マロリガンから帰ってきた時くらいから」
「…………」
そわそわと、時間だけが気になる。そろそろ夕暮れ時。悠人との待ち合わせまで、後半刻ほどしかない。
「そりゃあさ、お姉ちゃんにだって色々あるだろうけど……ニムにも言えないことなの?」
「ふぇ?……え、あ、そ、そんなことは……ないです、けど」
飴と鞭にファーレーンは弱かった。ふいに哀しそうな顔をし、一転して懇願するような口調に心があっけなくぐらつく。
だがしかし、ここであっさり負けるわけにはいかない。姉の威厳を今こそ発揮すべき時だった。
未だ情報部に属している秘密が保たれている事を思い出し、自らを奮い立たせる。
そうして胸に手を当てあからさまに深呼吸する姿は、しかし表情を百面相のように変えてしまっていた。
じっと観察していたニムントールの目元が普段より一層細くなる。――――ばればれだった。
「ねえお姉ちゃん、ところでさ――――」
「あ、わ、わたし、そろそろ行かないと」
低くなった声色に、頭の中で警鐘が鳴り響く。思わず裏返った返事にしまった、と思う暇も無かった。
威厳も何もあったものではない。そそくさと立ち上がろうとしたファーレーンに、止めの一撃。
「――ユートと、なんかあった?」
がたんっ、がんっ!
「~~~~っ!」
「……あったんだ」
急に立ち上がろうとして机に強烈に膝をぶつけ無言で屈みこむファーレーンに、再びニムントールは深く溜息をついた。
「あ、逢引ぃっ?!」
「ちょ、ちょっとニム、そんな大声で言わないでぇ!」
涙ぐむのは痛いのか悲しいのか。よく判らないままファーレーンは飛び上がってニムントールの口を押さえつけた。
む~む~と唸るニムントールがこくり、とゼスチャーを送ってきたのを確認してようやく開放する。
「……ぷはぁ、びっくりしたぁ」
「びっくりしたのはわたしですっ!……もう」
「で、で? 誰と?」
「…………ふぇ?」
「だからぁ、誰に誘われたの?お姉ちゃんが自分から誘えるとも思えないし」
「え? え?」
何気に酷いことを言われているような気もするが、それよりもこう矢継ぎ早に聞かれると返事も間に合わない。
大体“誰”などと当たり前のことを聞かれるとは思ってもいなかった。
首を捻るニムントールを前に、妹とのコミュニケーション不足を痛感するファーレーンだった。
「最近は街の人達も何だか優しいし……あ、それでお姉ちゃん、くらっと来たんだ。押しに弱いからね」
好奇心まるだしのニムントールがずい、と詰め寄ってきて、ファーレーンはその分だけ後ずさった。
気づけばいつの間にか壁際まで追い詰められている。…………確かに押しに弱いのは認めざるを得ないのかも知れない。
――などと心中あっさり認めてる辺りが弱いのだが、今のテンパッているファーレーンにはもちろん判ろう筈も無かった。
「だ、誰って決まって……ごにょごにょ」
「あの優柔不断のユートが誘ってくる訳ないし。大体いっつもうじうじ悩んでてさ……冴えないヤツ」
かちん。
「ちょっとニム、ユートさまの悪口は許しませんよ! 今日だってちゃんとはっきり誘ってくださった…………あ゛」
気づけばにやにやと笑っている我が愛しの妹。
「ふ~んやっぱりユートとなんだ」
ファーレーンは口をぱくぱくさせながら、乗せられたと今更気づいていた。
結局一部始終を自白させられたファーレーンはようやく開放されて、廊下を駆け抜けていた。
動きにくい服なので、ウイングハイロゥを広げることが出来ない。恐らく空中でバランスを崩してしまう。
「もぅ、ニムったら……」
『ま、頑張って』。
さんざん根掘り葉掘り訊き出したあげく、返事はそれだけ。
急に醒めた目つきになり、ひらひらと手を振って見送るというよりは追い出すような態度。
なんだか途中から機嫌が悪くなってきていたが、一体どうしたというのだろう。後でしっかりと話さなくては。
そんな事を考えながら、ぱたぱたと走る。絡みつくスカートが時折ふわりと広がり、足運びの妨げになった。
自分の動きを阻害する、そんな単純な理由で今まで料理の時以外は着ることもなかった黒のワンピース。
「でも……喜んで頂けるかな……」
着飾った自分を男の人に見せたい。今までは、そんな事を考えた事も無かった。
そんな“女性としての当たり前”の少しくすぐったい感情を初めて意識したファーレーンは、
新鮮な感覚に戸惑いながらも期待と不安で微かに頬を染めながら詰所を出た。
夕日の温かさをこんなに感じられたのは初めてだった。
「逢引ですか……ユートさま……」
そんな言葉を呟く。途中から聞こえていなかったのでよく判らないが、なんだか特別な響きのように感じた。
誘われて、心が躍った。だから、それが正しいことなのだろう。そう、素直に思えた。
「……ところで、逢引って結局何をするのでしょう?」
うっとりと、口にしてみる。意味は判らないが、それだけで期待感が膨れ上がった。
待ち合わせの場所に向かう足が、自然に早くなる。
「ちゃんと今日はユートさまにお聞きしないと……」
そうしてくすくすと、一人笑う。楽しい。ファーレーンは、生まれて初めての開放感で一杯だった。
――ファーレーンが飛び出すように部屋を出て行った後。
閉じられた扉を頬杖しながらぼんやりと眺め、ニムントールは時々つまらなそうに溜息をついていた。
「あのお姉ちゃんが、ねぇ……」
恋愛感情というものが、いま一つニムントールにはぴんとこない。
憧れや尊敬、親愛ならば対象がいるのでぼんやりと理解出来るが、それも上手く説明出来そうにも無かった。
スピリットなのだから戦い以外のものに興味がないのは当然といえばそうなのだが。
ネリーやシアー、オルファ達にしても、特にユートを男性扱いしている所を見た事が無い。
どちらかといえば年上に甘えているような態度。そう、自分がファーレーンを姉として慕っているように。
ヘリオン……は少し様子が違うようだが、それも憧憬の域から大きくはずれてはいないだろう。それが。
「赤面症、治ったのかな……」
どちらかといえば人見知りの激しい姉の、この変わりっぷりはどうだろう。
少し前まで男の人どころか自分以外の人の前で覆面も外せなかった位の恥ずかしがり屋が、あの普段着を着た。
自分でさえめったに見られないその姿を、自発的に見せたがっているのだ。よほどの勇気が必要だろう。
そしてその意味するところは――――ユートを、信頼しているのだ。それこそ、信じ切って頼っている。
“人”を信頼する事。それがスピリットにとってはどんなに難しい事か。それが“あたりまえ”の筈なのに。
「嬉しそう、だったな……」
最近のファーレーンの仕草、態度をニムントールは思い出す。
以前の凛、とした厳しさが戦闘中以外は影を潜め、普段は感情を豊かに表すようになってきている。
今まで見た事の無い物腰の柔らかさ、そして喜怒哀楽に従う行動。そう、まるで“人”の女性のように。
どれも、戦いには必要の無いもの。なのにそんなのはスピリットとしてはおかしい、とは言えない自分がいる。
――――そんな姉を、以前より好きになっているから。
「ユートと、逢引かぁ…………ってお姉ちゃん?!」
そこまで考えて、がたっとニムントールは立ち上がった。
かなりの時間が経っている。当然、そこに姉の姿は見当たらない。動揺した拍子に『曙光』を蹴ってしまう。
いけない、と拾い上げながら、ニムントールは考え続けていた。
自分も詳しく知っている訳では無いが、逢引とは男女の絆をより深める為の行為、と聞いた事がある。
以前オルファがしつこく訊ねるのをエスペリアが困った顔で説明していた。
なんとなく恥ずかしくなったので憶えている。自分でさえ、その程度なのだ。具体的には何も知らない。
それを、あの姉は知っているのだろうか。あの、ある意味自分より世間知らずな、“あの姉”が。
いつもの、「陽溜まりの樹」。悠人はそこで、そわそわと落ち着かなさ気に詰所の方を見ていた。
別に、普段と変わらない。ただ、会って話をするだけ。そう思い込もうとしても、気が急いてくる。
「……何だ俺。待ち合わせしただけで」
思わず自分に苦笑する。振り返ってみれば、最初の出会いから印象的だった。
「女神……みたいだなんて、思ったんだよな」
大きく沈みかけた夕日に、あの頃のファーレーンの姿を思い出し、重ねる。
祈るように、朗々と謳う白翼の妖精。幻想的な光景の中、どことなく寂しげな姿に自分の境遇を思い合わせた。
「それから、何度も助けたり助けられたり……」
ダラムでの出会い。イースペリアの崩壊。バートバルトの雨。そしてマロリガン。それらが次々と思い出される。
「色々あった、んだよな」
一瞬、懐かしい顔が思い出されそうになり、慌てて感情を遮断する。胸の波をやり過ごし、想いを戻した。
この世界に来てから起こった様々な事。その瞬間瞬間に、いつもふと頭を掠める姿。
気づけば、いつも側にいた。必ずしも一緒にいた訳では無いのに、確かに棲んでいた。――心の中に。
「だからはっきりと聞かなくちゃ、な」
まだ終わっていない事が多い。瞬の事、佳織の事、スピリットの事。そして――――
だからこそ今、聞きたかった。自分が感じている気持ちを彼女も感じてくれているのか、という事を。
「お、お待たせしました、ユートさま」
背後で、声が掛けられる。息遣いが少し荒い。急いでくれたのだろうか。そう考えるだけで、嬉しかった。
「ああ、そんな事ないよ。ちょっと考えたかったこともある、し……って……」
振り向き、微笑みかけて悠人の動きはピタリと止まった。