朔望

回旋 Ⅴ

 §~聖ヨト暦331年スリハの月黒みっつの日~§

「……そうか」
一通り話を聞いた悠人は、戸惑いながらもそんな風に呟いていた。
思い返せば、思い当たる節は幾らでもある。どこかで変に納得している自分がいた。
「じゃあサードガラハムの時助けてくれたのもファーだったんだ」
「…………はい。申し訳ありませんでした。その……あの時はまだ情報部の存在を公には出来ませんでしたから……」
「ああ、いいんだその事は。こっちこそお礼を言わなきゃいけないんだし。ありがとな。その、随分遅くなったけど」
「くす……はい。ありがとうございます」
「はは、そうか……そうだったんだ…………」
悠人は話しながら、湖の方へ向き直した。既に夕日は沈みかけ、辺りは薄紫に染まりつつある。
涼しい風の音が獏寂とした一日の終わりを穏かに奏でていた。
俯いていたファーレーンも何かを察したのか、黙って顔を上げ、そして静かに目を閉じる。
二人を包む穏かな空気。やがて、悠人は自然に呟いていた。
「なぁ、ファー。俺、あの詩、もう一度聴きたい」
「……はい」
ファーレーンも、自然に頷いていた。

  ――――サクキーナム カイラ ラ コンレス ハエシュ
        ハテンサ スクテ ラ スレハウ ネクロランス
          ラストハイマンラス イクニスツケマ ワ 
           ……ナイハムート セィン ヨテト ラ ウースィ……ルゥ………ソゥ、ユート……

ナイハムート、セィン、ヨテト。
ヨト語で、『私の愛しい人』。ファーレーンは、そうはっきりと囁いた。
ぎゅっと握った手から、緊張が伝わってくる。顔は空に向けたまま。
硬く瞑った睫毛の先が、軽く震えている。その先、月が中空に浮かんでいた。
同じように空を見つめながら、悠人は本当に心の中に染みとおってくるファーレーンの想いを受け止めていた。

「ありがとう……でもごめん、俺、ファーの太陽にはなれない」
「え…………」
意外な答えに、ファーレーンの肩が一瞬ぴくっと震える。
しかし悠人は穏かに微笑みながら、ファーレーンの方に向き直して続けた。
「ファーが辛い時は支えたい。どうしようもない辛さなら、抱き締めてあげたい。見守るだけなんて、出来ない」
「あ……」
「太陽は照らすだけだろ? それなら俺は、月影を選ぶ。……ファーと生きていきたいんだ」
「あ……あ…………」
「一緒だって言ってくれたろ? 俺だって背負いたいよ。一緒に背負うんだから、一緒に歩かないと、な」

それは、詩になぞらえた告白だった。
悠人は自分の想いを込めるようにファーレーンの髪を撫ぜ、まだ俯いたままの顎を取り、
「あ……」
「まだ、ちゃんと言ってなかったよな……好きだ、ファー。ナイハムート、セィン、ヨテト……ファーレーン」
そして優しくその唇を塞いでいた。
「…………ん…………」
ゆっくりと、ファーレーンの体から力が抜けていく。まだ閉じたままの瞳から、静かに涙が溢れた。

「いつも、思い出してた。辛い時なんか、特に。ファーの顔や言葉が、いつも頭に浮かんでくるんだ」
「はい……わたしも、です……」
「俺をいつも、見てくれているような気がしてた。それだけで、助けてもらってたんだ」
「はい……わたしも……わたしも……」
「光陰や今日子の事も、まだ引き摺ってる。割り切れなんか出来やしない……でも」
再び開こうとする「蓋」。じわじわと押し寄せてくる、身を引き裂くような後悔。
それら全てを受け止めて、そっと引き寄せる細い身体。その存在がしっかりと支えてくれているという安心感。

「許してくれるって言ってくれたよな……だから俺、もうちょっと頑張れるから。ファーとなら、頑張れるから」
「はい……はい……っ」
何を言われても悠人の胸に顔を押し当てたままで、ファーレーンはただ頷くしか出来ない。
いつの間にか小さく展開されたウイングハイロゥが、背中でぱたぱたと揺れている。
「罪を……一緒に、背負おう? 辛いのも、嬉しいのも……全部、一緒だ」
「嬉しいです……ユートさま……」
既に日は落ち、翳ったお互いの表情は闇に紛れる。太陽も、そして月光も見えない紫色の瞬間(とき)。
でもだからこそ、だんだんと近づく顔。二人の声が、少しづつ囁きへと変わっていく。
「あの、でも、ニムには……その」
「判ってる、内緒なんだろ?……二人だけの、秘密だ」
「あ……は、はい。二人、だけの……ですか?」
「ああ……二人だけ、だ」
「はい……あ…………」
そうして、優しく合わさる唇。黄昏た光景に、二人の重なった影が闇に溶け込んでいた。

ぽつ。
「…………ん?」
「あら……雨?」
頬に落ちてきた感覚に、同時に声が出た。
そっと離れ、空を見上げる。いつの間にか夜空に雲が満ちていた。
手を翳すと、ぽっぽっと手に冷たい水滴が降り落ちてくる。
「さっきまであんなに晴れていたのに……どうかしましたか?ユートさま」
上を向きながら何だか複雑な表情を浮かべて黙り込む悠人に、ファーレーンは不思議そうに訊ねていた。
「ああ、いや…………それよりファー、急いで帰ろう」
「? え、ええ」
戸惑うファーレーンを強引に促して歩き出す悠人。なんだかイヤな予感がしていた。

ぱらぱらぱら……どざぁぁぁぁっ!
「と…………うわわっ!」
「きゃあ!」
そして予想通りというか、激しく降り出す夕立。悠人は慌ててファーレーンを近くの軒下に誘った。
避難先に駆け込んだ時には、既にお互いずぶ濡れである。

向こうの世界と違い、まだ照明器具の未発達なこの土地では、星が翳ると周囲はたちまち真っ暗闇になる。
伸ばした手の先が見えないような状況で、雲の存在にもっと早く気付くべきだったと悠人は後悔した。
「はぁはぁ……またか……」
「はぁはぁはぁ……え? また、ですか?」
「ん、いやそれより、大丈夫かファー……と、と」
ファーレーンの方を向きかけた悠人は、首を120°ほど曲げてそっぽを向いた。
濡れた服が水を含んでぴったりとそのラインを浮かび上がらせている。
見下ろすような格好になった悠人には、薄っすらと透き通る胸の形や下着がはっきりと見えてしまった。
そこだけ背にした家から零れた灯によってオレンジ色に照らされ、妙に艶かしい。
「? どうか、しましたか?」
表情は見えないが、髪の水滴をハンカチで拭いている様子のファーレーンの声が窺うように訊ねてきて、
「な、なんでもないよ……はは……」
「???」
赤くなりながら、誤魔化すように鼻の頭を掻く悠人だった。

「それより困ったな……あれ?あの看板……」
そっぽを向いた先。どこかで見たことのある看板に照明が灯っている。
それが何かを思い出したとたん、悠人は硬直した。何故か跳ね上がる心臓の鼓動。
「くちゅんっ!」
ファーレーンの小さな可愛らしいくしゃみに、一瞬うっ、と竦み上がる。
漠然とした気持ちを後押しするような状況に、悠人はいけない、と思いながらファーレーンに声をかけた。
「大丈夫か?」
「え、ええ……く、ちゅんっ!……ごめんなさい、少し、寒いです……」
先程告白された、自分に素直になろうとする決心。ファーレーンは、それに実に忠実だった。
戸惑いがちに、そっと悠人に身を寄せてくる。寒さなのか緊張なのか、身体が小刻みに震えていた。
ファーレーンの体温を直に感じて頭がくらくらしてくる。悠人はその肩を少し強張った腕で引き寄せながら、
「そういえば、バートバルトの時は、こうしてファーが温めてくれたんだよな」
そんな事を思い出して、変な期待みたいなものを振り払おうとした。
「あの時は俺が伝染したんだけど……くそ、またファーに風邪引かしちまう」
「…………」
しかし逆にその朝の恥ずかしさを思い出したのか、急速に上がってしまうファーレーンの体温。
「あ……えっと……」
「…………」
しまった、と思った時には遅かった。話題が続かず、沈黙が訪れる。同時にファーレーンの存在だけが感じられた。
(落ち着け……落ち着け……)
意識しまい、とすればするほど敏感になってくる。ファーレーンの、綺麗なロシアンブルーの髪が濡れていた。
蒸すような空気の中、悠人の脳を刺激する森のような匂い。きらきらと反射する水滴にさえ、魅入られる。
そして俯いたままぴったりと密着した身体から伝わってくる、柔らかさと熱さ、そして鼓動。
どっ、どっ、とどちらからとも激しく刻む音が、共鳴してお互いの想いを高めているような気さえしてくる。
(やべ……俺もう、だめだ……)
腕の中でじっと大人しくしている少女へと込み上げてくる愛おしさに耐え切れず、悠人は耳元でそっと囁いていた。
「なぁ、ファー。その……もっと温まりたく、ないか……?」
ぴくっ、と一瞬震える肩。無言のまま、ファーレーンの髪がこくりと微かに上下へ揺れた。