朔望

回旋 Ⅵ

 §~聖ヨト暦331年スリハの月黒みっつの日~§

からん。ドアベルが相変わらずの軽い音を立てる。
「いらっしゃい…………ん? 何だ、また兄ちゃんか……ふぐっ!」
そして相変わらずの親爺っぷりに、悠人は慌ててその口を塞いだ。

後ろでファーレーンが、背中を向けて落ち着かなさ気にきょろきょろとフロアを見回している。
どうやら聞こえていなかったらしいと、悠人はほっと胸を撫で下ろした。
後ろ暗いことは何もしていないのだし別に話しても構わないのだが、
なんとなくこの場でファーレーンにレムリアの事を知られるのはマズい気がしたのだ。
(……やるなぁ兄ちゃん。今回の娘も可愛いじゃねぇか)
「…………」
そんな事を考えていると、いつの間にか逆に肩を引き寄せた親爺が妙に感心したような口調で呟いていた。

前金を支払っている間中、親爺は顎に手を当てながら、ファーレーンを値踏みするように眺めていた。
「それにしても……ほ~ぅ」
「……あんまりジロジロ見るな」
「まぁまぁ。それにしてもありゃ、スピリットだな」
「……それが、どうかしたか?」
スピリットだというだけで、人と差別する習慣。この親爺もか、と思わず声が低くなる。
睨みつけるような迫力に押されたのか、親爺は慌てて両手を振った。
「おいおいそんな意味じゃねぇって。俺はそんな事で区別はしねえよ……この街もな」
そうして、少し真面目な表情を作る。
「この街も、変わり始めてるんだ。皆誤解していたと反省してる。許してくれとは言えねぇけど、よ」
「…………」
淡々と話す親爺の眼差しは、だんだんと優しいものへとなっていった。
向こうでこっそりと濡れた服をぱたぱた払っているファーレーンの仕草を可笑しそうに見つめる。
「……可愛いじゃねぇか。知らなかったとはいえ、俺達はあんな娘達に無茶をさせてきたんだ……ふがいねぇ」
ぐずっと鼻を鳴らし、丸太の様な腕で目元をかいなぐる。親爺の瞳にはいつの間にか熱い涙が光っていた。
「…………親爺」
「これでも感謝してるんだぜ、……エトランジェ。すまねえが、これからも頼む。俺達じゃどうしようもねぇ」

「っ! アンタ、俺のことを知って……」
いかつい頭を下げられて、悠人は驚いた。顔を上げた親爺がニヤッと人の良い笑みを浮かべる。
「どうかしましたか? ユートさま」
「うぉっ、ファー?! い、いやなんでもな」
「でも何だか声色が……大変、風邪を引かれたのかも!あ、汗を」
いつの間にかすぐ後ろにいたファーレーンが、おろおろと慌て始める。恥ずかしくてまともに顔を見れなかった。
「いやそうじゃ……って自分で拭けるって」
「いいですから動かないで下さい……」
取り出したハンカチで悠人の額を拭き始めたのを見て、親爺が喉の奥でくっくっと笑いを噛み殺していた。
「いい娘じゃねぇか。……大事にしてやれよ」
後ろから、冷やかすような、それでいて穏かな声。
「……ああ。任せてくれ」
それだけには、はっきりと頷く事が出来た。

  ――――――――

ぱらぱらと、まだ降り続けている雨の音を窓越しに聞きながら、今頃ニムはどうしているかとふと考えてしまう。
「ちゃんと部屋の窓、閉めているかしら……」
帰りが遅くなると、伝える事が出来ない。しょうがないとはいえ、心配していないだろうか。
「…………」
隣の部屋では、今ユートさまがお湯を使われている。その気配を感じるだけで苦しい位に心がざわめいた。
真っ暗で何も見えない外の風景。その闇に、自分の気持ちを浮かび上がらせてみる。
「素直に……」
自分の感情に。そっと呟いてみた。これから自分の身に、何が起こるのかは判らないけど。
正直、期待と不安が半々で頭の中は混乱しきっているけど。
何も考えられないのに、何かを考えなければと焦ってしまうけど……だから、自分に言い聞かせるように。
「そう決めたの、だから」
何も、考えないようにした。もう、届かないものに憧れ、守るだけの自分に戻る事は出来ないから。

りぃぃぃぃぃん…………

置いてきた『月光』が、どこか遠い所で謳うように鳴いている。
そっと目を閉じると、後ろでユートさまが出てくる気配。耳に飛び込んでくる、優しい現実。
「ああ、さっぱりした……ファー?」
そうしてわたしの心の乱れをすぐに察してくれる、優しい人。……愛しい、人。
「ううん……なんでもありません、ユートさま」
振り向いた時には、自然に浮かび上がる笑顔。満たされていく気持ち。
だからただ、信じよう。それだけで、わたしはもっと“強く”なれる。
これから起こる事全てをユートさまに委ね、わたしはそれを支えればいい。
「わたしの生きる意味」。それはきっと、そう望んだ先にあるのだから。

――――そうしてわたしは、強く抱き締められていた。……新しい、運命・・に。


  ――――――――

仄かに照らされた部屋の中で、ファーレーンは窓際にぼんやりと立っていた。
何かあったのだろうか、と少し不安になるほどに真剣な後姿に、つい怪訝そうな声を掛けてしまう。
「ああ、さっぱりした……ファー?」
「ううん……なんでもありません、ユートさま」
かぶりを振ったファーレーンは振り返り、そして微笑む。
拍子に灯りが揺らめき、ふとその瞳に昏い翳りが浮かんでいるような錯覚。
薄暗い部屋の中で、その影が薄く消えてしまうような感覚に囚われてしまう。
そう思った瞬間、悠人は置いていかれる子供のように、慌ててきつく抱き締めていた。

「……ユートさま?」
少し身を捩るように慌てる気配。だけどすぐ、腕の中で、そのままじっと大人しくなる。
「ごめん……ちょっと、ファーがいなくなるような気がして……」
悠人は、まだ濡れているロシアンブルーの髪に鼻を押し当てながら、謝った。
いつもの、ファーレーンの森の匂い。軽く吸い込むと、落ち着いていく。
「くす……まるで子供、ですね。ニムも夜中にたまにそうなりますよ……」
静かに洗ったばかりの髪を掬う感触。ファーレーンは優しく悠人の髪を撫でていた。
「……ひどいな。ファーだって、たまに子供みたいじゃないか」
「ふふ、そうですね。ユートさまの前では、……そうかも知れません」
「ああ、俺も、ファーにだけだよ。こんなに不安になるのは」
「……わたしも時々不安になります。こんなに幸せで……ねぇユートさま、わたし、本当にいいのでしょうか?」
ゆっくりと顔を上げる瞳は、色々な感情が混ざり合って不安定に揺れていた。
いつもの光が感じられない虚ろなその瞳がよけいに存在の儚さを強調しているようで、悠人はまた不安になった。

「ですから、教えてくださいユートさま。わたしが……ここにいてもいいと。どこにももう、行かなくてもいいと」
ファーレーンが、甘えるように、求めるように囁いてくる。
いつも、不意にいなくなる姿。消えるときに、いつもその寂しさを味わっていたのだろうかと悠人はふと感じた。
妹のような存在を守る。ただそれだけの為に生きてきたのだ。望まぬ戦場に、自らを投じて。
ようやく見えてきた本質。それは、誰かに甘えたい、守ってもらいたい、そんな願望の筈なのに。
そうして辿り着いた、たった一つの拠り所。自分らしくいられる、唯一の場所。
それに自分を選んでくれたのかもしれないと思うだけで、頭の奥が痺れるほどにいとおしくなる。
「ああ……ファーには俺の側にいて欲しい。それだけでも、きっと俺は強くなれるから」
悠人は出来るだけ優しく囁いた。壊れないように、そっと華奢な背中をさすりながら。


ベッドに横たえ、そっと身を包むバスタオルに手を伸ばそうとしている間、ファーレーンは一言も口をきかなかった。
「…………」
ただじっと目を閉じ、まるで怯える小動物のように身を縮こまらせながら。
「……なぁ、ファー?」
「…………え、え?」
「いや……その、黙ってられるとやりづらいんだけど」
そう言うと、ちょっと困った顔で、首を傾げられる。拗ねたように横を向き、
「ですが、これから何をするのかまだ教えていただいてませんし……」
それでいて甘えた声。教えてください、と懇願するような横顔。悠人はうっ、と思わず声を詰まらせた。
(そんなこと、言われてもなぁ……)
これから“する”という時に、その行為を説明するなんて事を出来る訳がない。
以前からは考えられない程の、仔犬のようなある意味年下のようなファーレーンの仕草にやや追い詰められつつ、
「……判った。だけど、文句はいうなよ。何も知らないファーがいけないんだからな」
「え、え……あ、あの、ユートさま?!」
「これから教えるから……動いたらだめだぞ」
そんな理不尽な事を叫びながら、やや自棄気味に悠人はファーレーンのバスタオルを脱がした。