§~聖ヨト暦332年エハの月赤みっつの日~§
悠人達の足回りは、完全にその自由を奪われていた。
ヒミカやセリアが何とか身を捩って抜け出そうとしているが、氷はびくともしていない。
動けないでいる彼女達をざっと見回しながら、ソーマはゆっくりと手の杖を持ち上げた。
「おやおやこれは大変そうですねぇ。そのままじゃ風邪を引いてしまいます。私が楽にして差し上げましょう」
ざっ、とソーマの周囲で旋風が舞い上がる。
同時に動き出した妖精部隊は、しかし何故か悠人を除く残りの仲間達だけに殺到した。
「な……一体」
自分の脇を次々にすり抜けていく妖精部隊。悠人は一瞬何が起きたか判らなかった。
ソーマは依然としてにやにやと笑みを絶やさず、じっと蛇のように悠人を観察している。
その瞳に宿る狂気の意志を悟った時、悠人は叫んでいた。
「……っ止めろぉぉぉーーっっ!!」
ぴたり。
悲鳴に、満足そうなソーマの杖が再び上がり、同時に妖精部隊の剣がそれぞれラキオス隊の喉先で止まった。
「ソーマっ! 貴様……どういうつもりだっ!!」
「おやおや、口の利き方には気をつけた方がいいですよ……ほら」
ざくっ。
「ぐっ!!」
「ヒミカっ!!」
びびっと川面に張られた氷の上に、鮮血が飛び散る。
ソーマの顎がひょいと上がった途端、ヒミカは肩口を軽く引き裂かれていた。
「だから言ったでしょう?人の話は素直に聞くものです」
「ユートさま……私は、平気ですから」
顔を顰めながらも、気丈にも目配せしながら微笑みさえ見せる。
悠人はヒミカに頷き、そしてソーマをもう一度睨みつけた。
「ククッ、いい顔です。わざわざ足を運んだ甲斐があるというものですよ、勇者殿」
「……目的は、なんだ」
「目的……? そうですねぇ、あなた方に少々減らされすぎた“道具”の補充、それと……」
悠人の殺気を籠めた声にも、風を受け流すような涼しげな態度を崩さないソーマ。
品定めをするようにヒミカ達を順番に舐め回していた視線が、余裕の口ぶりと共に悠人に戻る。
「許せないのですよ、私は。エトランジェという存在が。永遠神剣を振るうだけでいとも容易く常人を越える力……」
だんっ!
「そんなものが世界を動かしている! この、スピリットという便利な道具を使ってね!」
興奮してきたのか杖を力強く地面に叩きつけ、ぐいっと傍らの虚ろに佇む顎を乱暴に摘み上げる。
悲鳴も上げず大人しくされるがままになっている少女に、悠人は歯軋りした。
「はぁ、はぁ……私はね、壊したいのですよそんな世界を……
そうそう、目的でしたね。そういう訳で、勇者殿。貴方を、是非私自身の手で殺したくなったのです」
かつんかつん、と氷を響かせながら、ゆっくりと近づいてくるソーマ。
下手に逆らえば仲間達が危ないと、悠人は吐き出すように呟いた。
「……頼む、仲間達は、見逃してくれないか?」
「……ふ、ふはははははっ!……言い忘れてました。私はそういう甘っちょろい考えが、一番嫌いなのですよ」
腰に下げていた剣を、振りかざす。
「ご安心ください。貴方を殺した後、彼女達にはたっぷりと差し上げますよ……快楽と、絶望をね」
そう告げる瞳は、すっかり恍惚に曇りきっていた。
「ユートっ!!」
ニムントールの合図に、ヒミカとナナルゥが同時に氷から飛び出す。
「……なっ!」
突然の事態に、ソーマは目を見開いた。
「長話もいいけど―――」
「―――時と場所は選ぶべきでした」
ヒミカとナナルゥが突き破った氷の壁。その奥で、未だヒートフロアが燻ぶっていた。
「手加減、無しですっ!」
真っ先に飛び出したヘリオンがウイングハイロゥを展開し、猛然と敵に突っ込む。
ラキオスでも屈指の速さを誇る彼女がたちまち一人を斬り伏せている間に、
ヒミカとナナルゥがニムントールやセリアを救い出していた。
「なっ!」
ソーマは、自分の迂闊さを呪う暇も無かった。
時間をかければ破られる事は、ある程度想定していた事態。しかし破られても、自分の“道具”が容易く殺す筈。
そこまで計算しての罠は、あっけなく食い破られてしまった。誤算は、ラキオススピリット隊の力を見誤った事。
動きを見せなった事に安心し、“命令する”のが間に合わなかった。彼女達を過小評価していた自分の油断だったのか。
木偶の坊のように倒されてしまった“駒”。そんな思考がただぐるぐると頭を回る中。
「どこを……見ているっ!」
「エ、エトランジェ……グフッ!」
どすっ。杖を振りかぶったままろくに抵抗も出来ず、ソーマは『求め』に深々と刺し貫かれていた。
吐き出した鮮血が宙へと迸る。苦痛に顔を歪めながら、紡ぐ呪詛。
「どこまでも……忌々しい……」
密着した頭の上で、弱々しい声が聴こえる。悠人は『求め』を突き出したままの体勢で、それを聞いていた。
「貴方のような『素人』に殺されるとは……クク……なんという、茶番、でしょうか……」
握った『求め』から、ソーマの感情がその過去と共に入ってくる。それが悠人に衝撃を与えていた。
エトランジェだった祖父。自らを鍛え、血の呪縛から逃れようと限界に挑戦し、もがき足掻く姿。
どんなに極めても、それを軽々と凌いでしまう、スピリットという存在。それらの矛盾、葛藤。
「ソーマ……」
やがて絶望し、憎むことで自らを慰める。そんなソーマにとって、エトランジェとは許される存在では無かった。
「私は認めない……勇者殿……龍の爪痕の向こうで……かはっ……お待ち、しておりますよ……」
最後に呪いのような言葉を吐き、ぐらり、とソーマの身体が揺らぐ。悠人は身を離した。
激しい水音を立てて、ソーマ・ル・ソーマは川へと飲み込まれていった。
「ユートさま……終わりました」
遠慮がちに、セリアが声をかけてくる。
「あ、……ああ」
気を取り直して振り返ると、既に川を渡りきった仲間達の背後で水面がきらきらと金色に輝き出していた。
混血の証。ただ一筋、ソーマの流した鮮血の赤だけを残して。
森を抜けながら、悠人はじっと自分の手の平を眺めていた。
本来剣というものは、その体得に膨大な時間と絶え間ない修練が必要になる。
純粋に高みを目指そうとすれば、ひたすらそれのみを考え、振り続けた先にようやくその本質が見えてくるもの。
元々ただの学生で、剣など授業で竹刀を触った程度の知識でもそれがどんなに険しいものかはおぼろげにだが判る。
「……ユート、どうかした?」
「あ、ああ……なんでもない」
隣を並んで走るニムントールが、あっそ、と興味無さそうに呟き前を向く。
悠人は適当に答えながら、更に手を見つめ続けた。
なんの変哲も無い、ただの手。豆一つ出来ていない、節々が鍛えられている訳でもない関節。
あの光陰でさえ、分厚い皮で覆われた無骨な手の平をしていた。
「素人」。言われなくても判る。訓練、と言われてもどこか『求め』だけに頼っていた自分。
自分自身の肉体を鍛える、その事に真面目に取り組んだ事があっただろうか。
強くなりたい、力が欲しい。本気で努力をして、それを得ようとしていただろうか。
「……黙っていられると気持ち悪い」
そんな様子に、ちらちらと横目で観察していたニムントールが堪らず前に飛び出した。
声に顔を上げた悠人は、ようやく通せんぼをするように腰に手を当てうーっと唸っているニムントールに気づく。
「うわ、何だよニム、どうかしたか?」
「……何考えてるのか知らないけどさ」
上目遣いで睨みつけてくる、クロムグリーンの瞳。その視線がどこか落ち着かない。
「そんな顔してちゃ、お姉ちゃんに嫌われるよ。……ニムはそれでも構わないけどね、全っ然」
“全然”の部分を強調し、すぐにぷいっと背中を向けて歩き出す。悠人は一瞬あっけに取られ、そして
「…………ぷっ」
軽く噴き出した。ファーレーンを引き合いに出す意味は不明だが、それでも励ましてくれている事は伝わっていた。
「ファーは関係無いんだけどな……さんきゅ」
小さく呟く。何も問題は解決していない。それでも、何故か重い心の何かが少し吹っ切れた気がした。