朔望

minnesang Ⅳ

 §~聖ヨト暦332年アソクの月緑ふたつの日~§

今回のは、本当に危なかった。もう少し“自分”を取り戻すのが遅かったら、佳織を死なせるところだった。
アイツに止めを刺そうとした時、よぎったあの影。見たことも無い、陽炎のような動き。
くすんだ蒼緑のような髪の残像しか見えなかったが、確かにスピリットだった。
悠人を殺せなかったのは惜しかったが、別の意味で助かったのかも知れない。
まだ、こめかみの辺りがずきずきと傷む。肩の痛みは大分癒えたが、それでも震えは止まらなかった。

 ――――怖い。

こんな感情は初めてだった。傍らの『誓い』を覗き見る。力をある程度放出したせいか、今は沈黙している刀。
ぼんやりと赤い光を放つそれを見ても、もう心強さは感じられなかった。あるのは恐怖。……これが、恐怖。
失う。全てを手にしていたつもりで、たった一つ得られなかったモノは、こんな感情をも含まれていたのか。
肩を抱きすくめる。傷口に触れたが、その痛みは却ってしがみつく細い糸となった。
誰もいない王座。たった一人の王座。そんな寂しさにはもう慣れている。だが、しかし。
「佳織……佳織を、僕が殺すっていうのか……」
口に出すだけで戦慄するような現実。平気で『誓い』を振るっていた自分に身震いがする。
この先、『誓い』を使い続ければ、いずれ結末は一つ。そんな簡単な予想は覆えしようがない。
しかし今更引く訳にはいかなかった。引けばこの世界で、ただ一人生きていかなければならない。
力を失い、佳織を奪われ。元いた世界にも戻れずに、惨めったらしく足掻く。そんな事にはとても耐えられない。

キィィィィン…………

どこで間違えたのか、思い出すのが難しかった。かつて、自分のいた世界を振り返るのですら。
「誰でもいい……僕を止めてくれ…………」


渇望するものを「得る」事の無かった瞬は、当然「失う」事もまた無かった。
――――――そんな、求める以上は当たり前の怯え。
ひっそりと静まり返った部屋の空気が、そして『誓い』がそんな怯えを美味そうに吸い込んでいった。