朔望

回旋 Ⅹ

 §~聖ヨト暦332年レユエの月緑ふたつの日~§

廊下の先、ユートさまとトキミさまという方が何かを話されながら歩かれている。
その後ろを、出来るだけ自然について行く。悟られたくは無いから。この、殆ど感覚の無い右足を。

シュン、という恐るべき敵。咄嗟に飛び込んだ際、彼の攻撃は当りもしないのにそこからマナを奪いつくしていた。
今のわたしにとって最大の武器。“速さ”はたったの一撃で失われてしまっている。
『月光』が欠乏したマナを求めて騒ぐ。石に躓くだけで脳天まで響く激痛。そのくせ歩いている感覚がまるでない浮遊感。
喉から今にも溢れ出しそうな飢餓感。あらゆる神経という神経を苛む神剣の強制。何より、その恩恵を今は受けられない。

「……お姉ちゃん、大丈夫?」
ふいに隣から声がかかる。ニムの哀しそうな気配が口調から伝わってきた。

  ――――隠さなければならない。

隠さなければ、結果的にユートさまは自分自身を責めてしまう。
それにもう、決して隣には居させて貰えないだろう。――――それだけは、耐えられなかった。

わたしは額に流れる脂汗を誤魔化すように、前を向いたまま出来るだけ平静を装って覆面越しに微笑んだ。
「わたしは平気だから……ニム、みんなには内緒ですよ」
「……でも」
「いいから。……お願い」
「ん? ファー、ニム、どうかしたか?」

「あ、いえ、その……」
間が悪いというか、ユートさまに振り向かれてしまった。どう誤魔化そうかと必死で考える。
だけど神剣の干渉が、わたしの思考を妨げていた。考えが纏まらない。
熱に浮かされるように、わたしは救いを求めてニムの手をそっと握った。
ところが次の瞬間、返ってきた返事にわたしの思考は今度こそ完全に静止してしまった。
「お姉ちゃん……ごめんね」
「え……、ニム、何言って……!?」
ニムは一度ぎゅっとわたしの手を強く握り返し、そして離れた。――――知っている?
前に歩いていく気配。まさかと思う暇も無い。全身の血液が凍りついた。
「うわ、ニム。……なんだ?」
狼狽しているようなユートさまの様子が伝わる。ニムが睨みつけているのだろう。
駄目、そう思っても足が思うように動かない。――――間違い無い。あの娘は知っている。
考えが殆ど戦慄ともいえる感覚を伴い、氷のような楔となって全身を貫いていく。

「ユート……もっとお姉ちゃんのコト、ちゃんと見なさいよ!」
「ま、待ってニムっ」
「ごめんねお姉ちゃん……でもニム、もう我慢出来ない」
「~~っ! やっぱり気づいて――」
「お姉ちゃんがずっと黙ってるからニムも騙されてるふりしてたけど……ユートが気づくって思ってたけど……」
「っニム! それ以上は止めなさいっ」
「だってユート、いつまでたっても助けてくれないじゃん! 気づいてもくれないじゃんっ!!」
「お願い……お願いニム……」
「お姉ちゃん、ホントにいいの? このまま、ずっと我慢したままで、ホントにっ!?」
「お、おいニム一体何を言って――」
「くっ……しっかりしてよ! ユートっ!!」
「駄目ぇっっ!!」

 ――――お姉ちゃん、もうずっと目が視えてない・・・・・のにっっ!!!

 ――――――――――

全てが、停止した。
「………………え?」
涙目で見上げてくるニムに、馬鹿みたいに口をぽかんと開けたままでいるしか出来なかった。
ひっそりとした石造りの冷たい廊下に、泣き叫ぶような声が木霊する。一瞬、何を言われているのか判らなかった。
“視えてない”。その単語の意味が、どうしても理解できなかった。首を振って無理矢理笑おうとする。

「冗談、だろ……」
意味もなく周囲を見渡す。一瞬目が合ったエスペリアが辛そうに顔を伏せた。頭を鈍器で殴られるような衝撃が襲う。 
思わずニムの両肩を掴んだが、キッと睨み返してくる瞳に、視線を返す勇気が無かった。
目を逸らしたその先。やや暗い廊下の隅に、立ち尽くす姿がぼんやりと映る。
両手を口に当て、ふるふると首を振り続けるファーの態度が嘘では無いことを物語っていた。

「いつ、から……」
情けなかった。そんな言葉しかかけてあげられない自分が。そうして言った後で後悔する。
脳裏に浮かぶ、サルドバルトの夜明け。治った、と言っていた、朝日に眩しい微笑み。
「まさか、あれから、ずっと……?」
ふらふらと歩き出す。おぼつかない視線が右に左にぶれた。次々と思い出される出来事。
そんな兆候は、どこにも無かった。目が視えない仕草など、どこにもなかったじゃないか――――

  ――――神剣に力を。『求め』を通してみるような感覚で――――

「あ、あ……」
思い出した。サルドバルトで教えてくれたファーの一言。そう、神剣を通せば、ある程度は周囲が“視える”。
確かにそう言っていた。……だけどあの日。初めて結ばれた日。あの日彼女は『月光』を持ってはいなかった。
そう、夕日を見て喜んでたじゃないか。夕日を見て……夕、日を……

 ―――見て、ない。

ファーは、見てはいなかった。目を閉じて、ただ流れる風や森の匂いを。それだけを、楽しむように……

俯く仕草や闇の中の気配。ふと思い出す、輝きの失った瞳。感じた違和感。あれは、暗闇のせいだけじゃ無かった―――

「俺の……せい、なのか……?」
「っっ!! 違いますっ! 違うんですっ!!」
覆面を下ろし、兜越しに激しく首を振る。ファーは俯きながら、頑なに否定していた。
よく通る澄んだ声が、鋭く廊下に響き渡る。その中を、ただ歩いた。

気づくと、すぐ目の前にファーが立っていた。肩が微かに震えている。決して顔を上げようとはしない。
黙って手を伸ばした。震える手が、その表情を深く隠している兜に触れる。拒む気配は無い。腕が自然に持ち上がった。
小刻みに嗚咽を漏らしている唇。頬を伝う涙が見えた。そして見上げたロシアンブルーの瞳。
初めて出会った夜と何ら変わる事のない、感情を深く湛えた穏かな色彩。
しかしその美しい瞳は、目の前にいる俺も、仄かに灯された明かりの橙も……何も、映し出してはいなかった。

――親しくなるにつれ、次第に俯く事が多くなった。ただの彼女らしい羞恥心だと判ったつもりでいた自分に絶望する。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」
見上げたまま、ただひたすらに謝るファーの肩を、そっと抱き締めた。

「なんで……早く言わなかった……?」
訊くまでも無かった。ファーの性格を考えれば判る。原因は、俺だ。俺のせいで、こうなってしまった。
だけど、それを俺に打ち明けるような娘じゃない。むしろ、自分だけの心の中に背負って。

「だって……だって……」
目が見えないというハンデ。それは戦闘において、致命的だ。特に、スピリット同士の戦いでは。
それでもファーは、負担にならないようにとたった独りで戦ってきたのだ。俺を責める事もせずに、ただ隠して。
そんな娘だったじゃないか。もうちょっと注意深く見ていれば、判ることだった。

「…………だって……嫌われるから……」
生真面目で、意外と融通が利かなくて。本当は甘えたがりのくせに、普段はそんなそぶりを微塵も見せないで。
そのくせこんな時にまで、俺が負い目を持ってしまう事を気遣って。本当の理由を不器用に隠そうとして。

「わたしはスピリットです……戦えなくなったら……お役に立てなければ、きっと嫌われるから……」
俺は知っていた筈なのに。こんなにも優しい嘘を“本気で”つける、そんな娘なんだってことを。――――だから。

「馬鹿だな……そんな事で嫌いになる訳ないだろ。気づかなくて……ごめんな」
謝罪をぐっと押し殺し、懸命に囁いた。嘘を、嘘にしないために。優しさに、応えるために。

胸に顔を押し付けて泣いているファーの頬を両手で挟みこむように、そっと上を向かせる。
まだしゃくり上げている子供のような様子に、胸の底から愛おしさが込み上げてきていた。
「ユートさま……ユートさまぁ……」
見えてないであろうその瞳をしっかりと見つめながら、囁く。それは、今の俺の『誓い』だった。
「言っただろ、支えあおうって。一緒に背負おうって。…………それとも俺、そんなに頼りないか?」
少し、いじわるな質問。それでもやっぱり彼女は生真面目に、ふるふると激しく首を振る。
「すまない、こんな目に合わせて。でも俺、償いとかは考えない……こんな言い方、ファーに失礼かな?」
「あ……いいえ……いいえ……」
その仕草が、一層激しくなる。無理に笑おうとした顔が、くしゃっと崩れていた。
「そのかわり、支えるから……ずっとファーを支えるから……だから、俺の側にいてくれ。一緒に……戦おう?」
答えを聞く前に、そっとまだ震えている唇に自分のそれを重ねた。
「ん……ルゥ…………」
背中に腕を回してくる気配。一瞬強張ったファーの身体から、少しづつ力が抜けていった。

りぃぃぃぃん…………

静かに輝き出した『月光』が、再び眩い光を放っていた。


 ―――――――――――


「良かったね、お姉ちゃん。まったく、最初から素直になれば良かったのに」
「ニム……ええと、貴女いつから……?」
「もぅ、あんまりニムを舐めないでよね」
腰を手に当て、まだ赤い目のままニムントールは得意そうに言った。
「……本当は、お姉ちゃんが言わなきゃいけない事だったんだよ」
少し怒ったように、それでいて優しく諭すように。
「お姉ちゃんが言うと思ってたのに、いつまでもメソメソしてただけじゃない。
 だからニムが言ったの。それがニムの役目だから。そうでしょ?」
手に持つ神剣、『曙光』。その名に相応しく、どこまでも無垢で透明な光を放って。